23. 遊楽としての近世天皇即位式 庶民が見物した皇室儀式の世界 ~ 令和スタート
御即位私記は当家の学頭平興胤か撰る處なり。庭上装儀の作法悉く載とてもつて明白なり。
殊に此道を学人者の一助ならん。
――神祇頭平興胤『御即位見聞私記』
三十年余り続いた平成の時代が終わり、令和の時代が始まった。おめでとうございます。令和最初の一冊ということで、折角なので天皇の即位式に関する一冊をご紹介させていただきたい。
「遊楽としての近世天皇即位式 庶民が見物した皇室儀式の世界」著:森田登代子
https://www.minervashobo.co.jp/book/b190331.html
現代において一般庶民が天皇の即位式に参列し、直接これを拝見することはありえない。その理由としては明治二十二年(1889年)に制定された旧皇室典範および即位の礼に関して取り決めた「登極令」が挙げられるだろう。登極令では政府高官や外国の来賓といった一部の要人のみが即位式を拝見可能であると定めている。
これに対して江戸時代までの即位式では、一般庶民でも儀式を拝見することが可能だった。また、即位式の翌日には儀式で使用された調度品を見物することもできたという。寛永七年(1630年)に即位した明正天皇の「御即位行幸図屏風」においては、京都御所の南庭に大勢の庶民が即位式を見物している様子が描かれている。
現代に生きる我々は現行の皇室典範およびそれに対する旧皇室典範に則って天皇制を見ている。だが、さらに時代を遡ってみると、古くから伝わる公家社会の儀式や法令は、皇室典範の定める内容とは違ったものであったようである。
そもそも近世以前、天皇の皇位継承は「受禅」と「践祚」の二パターンがあった。受禅とは前の天皇が譲位して次の天皇が皇位を継承することを指し、践祚は前の天皇の崩御に伴って次の天皇が即位することを指している。明治以降に施行された旧皇室典範では受禅が否定されており、明治から平成までは践祚のみで天皇の皇位継承が行われてきた。
古来より伝統的に用いられてきた「受禅」という用語が見られなくなり、代わりに「生前退位」という謎の造語が出てきたが、本稿では受禅という用語を使っていく。
受禅でも践祚でも、まずは皇位の象徴である神器の委譲が行われる。いわゆる「剣璽渡御の儀」と呼ばれる儀式である。剣璽とは宝剣(天叢雲剣)と神璽(八尺瓊曲玉)のことで、これらを先帝から新帝へと譲ることで、皇位が正統に継承されたことを示す。
践祚では空位期間を避けるため、崩御後直ちに剣璽渡御の儀が行われる。その後、「諒闇」と呼ばれる前の天皇への服喪期間に入る。諒闇が終わるまで、次の天皇の即位式は行われない。
江戸時代に即位式を行った天皇の大半は受禅で皇位を継承しており、践祚は主たる形式ではなかったと察せられる。
また、新たな天皇の即位後に一回だけ、秋の収穫期に「大嘗祭」と呼ばれる儀式が執り行われる。大嘗祭は即位式から一年以内に行われるのが通例であったが、時期によっては即位式から数年経ってから行われることもあった。
即位式は庶民の見物が許され、新たな天皇の即位を民草に知らせる儀式であるのに対して、剣璽渡御の儀、大嘗祭は限られた公家のみが参加できる儀式であった。これらの儀式は夜半に行われていた。特に大嘗祭は秘儀としての性格が強く、非公開とされてきた。
しかし、応仁の乱以降、大嘗祭は執り行われない期間が続いた。大嘗祭が復活したのは享保二十年(1735年)になってからで、時の将軍、徳川吉宗の命により、今後の考証のために大嘗祭の記録が行われた。しかし、大嘗祭の様子を記した「大嘗祭便蒙」という書物が元文四年(1739年)に公刊されたものの、すぐに絶版とされている。
「大嘗祭便蒙」以降、朝廷儀式に関する出版はご法度とされており、写本のみが細々と残されてきた。
さて、本稿で最初に名前を挙げた明正天皇であるが、彼女は当時七歳だった。あまりにも突然の受禅で、しかも平安時代以来800年余りぶりの女帝誕生に、幕府も対応に追われた。「幼女帝」なんて言うとなかなかの響きである。
明正天皇の前の天皇である後水尾天皇の時代、元和元年(1615年)には「禁中並公家諸法度」が制定され、幕府による朝廷に対する締め付けが強化されている。禁中並公家諸法度によって、天皇は紫衣の勅許が禁じられた。紫衣を下賜した高僧たちが流罪になったことに怒った後水尾天皇は、譲位という形で幕府への反抗の姿勢を示したのではないかと考えられる。
後水尾天皇は徳川家から嫁いだ正室の間に生まれた男児ではなく、あえて明正天皇に受禅させた。女帝の結婚は認められない故に、徳川家の血筋は明正天皇で終わることになる。後水尾天皇は自ら帝位を捨てるように身を引き、そして明正天皇を誕生させることで、徳川家への意趣返しを図ったのかも知れない。
とはいえ、女帝は記録にあっても、それが幼女というのは前代未聞だった。装束類は古物を修理して使い回してきたものであるから、幼女帝に合わせて新調することになったと記録されている。
未来のことは分からないものである。令和の時代、そして天皇、皇室がどうなっていくのかも分からない。変化していくこともあるだろう。しかし、その変化をどのようにつくり、受け入れていくのかは、その時代を生きる人々にかかっているのである。