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22. ロシアと黒海・地中海世界 人と文化の交流史 ~ 領土から奴隷が取れる国があるらしい

友のためには金や銀を惜しまず、その者を買い受け、神より百倍もの報酬を授かるようにせよ


――義人エノク

 ロシア、あるいはモスクワ大公国。それは眠れる獅子であり、近世を通じてタタール人とヨーロッパ人の支配から抜け出した強国であった。だが、他民族による(くびき)から逃れるまで、欧州やエジプトにおける奴隷とは即ちロシア人を指していたのも事実である。



「ロシアと黒海・地中海世界 人と文化の交流史」著:松木栄三

http://www.fuko.co.jp/catalog/books_data/fuko_books_3121.html


 ロシアが統一された国で無かった頃、それらの地域はルーシの諸公国という名称で括られていた。かつてルーシの頂点にあったのはキエフ大公国であり、モンゴルの遊牧民が襲来する13世紀までロシアと言えばキエフ大公国だった。しかし、キエフ大公国がモンゴルによる侵略を受けて崩壊すると、その立場は他のルーシ国家が引き継ぐことになっていく。


 本書ではモスクワ大公国がどのように強国となっていったのかという点について、黒海および地中海地域との交流を主に据えて解説している。確かにモスクワ大公国は経済的に豊かになって中央集権化に成功しているが、その裏では奴隷貿易が影を落としていた。



 15世紀、ルーシ国家の中で目立ったのはノヴゴロドとモスクワだった。彼らはロシアから離れた地域と交易を結んで国力を増強し、タタールの軛から脱していく。ノヴゴロドはドイツ人商人たち、ハンザ同盟と交流があり、彼らはバルド海貿易の果実を独占した。一方でモスクワと交易を結んでいたのは黒海周辺を拠点としたイタリア人、ヴェネツィア共和国やローマ教皇庁だった。


 モスクワはバルト海沿岸地域をノヴゴロドによって抑えられており、北方の海路を利用することができなかった。そこで、ドン河を南下して黒海周辺地域と貿易せざるを得ない状況があった。そこで出会ったのがイタリア人たちだったのである。


 ノヴゴロドとモスクワの交易品はどちらも似通っている。ロシア地域から毛皮と蝋が輸出される一方で、彼らはハンザ同盟やイタリア人商人から塩、ミョウバン、ガラスなどを輸入していた。二つのロシアは同じ貿易構造を持っており、それ故にお互いに常にライバル関係だった。


 だが、モスクワにおける交易はコンスタンティノープルの陥落によって大きくバランスが変化する。トルコがコンスタンティノープルやクリミアを奪取すると、黒海周辺の交易路を失ったモスクワとノヴゴロドの対立はいよいよ鮮明になり、その戦いはイヴァン大帝(イヴァン三世)の時代に決着することになる。



 イヴァン大帝は43年に及ぶ統治の間にモスクワをロシア随一の国家にした。1478年にノヴゴロド、1485年にトヴェリを併合し、1487年にはカザン・ハン国を隷属させることに成功した。戦争の成功により、モスクワ大公国はタタールの軛を完全に脱する。


 大帝の遠征には常に一人のイタリア人技術者が参加していた。アリストテリとまで呼ばれたイタリア人の名はアルベルト・フィオラヴァンティ。クレムリンの大聖堂を設計した建築家でもあり、そして強力な青銅砲の鋳造師、砲術家だった。彼の技術は戦争において遺憾無く発揮された。また、それまで用いられていた果肉状火薬が粒状火薬に変わり、モスクワ市内で鉄製大砲に代わって青銅砲が量産されるようになった。


 こうしたイタリア由来の技術的優位により、モスクワは大国への道を歩んでいくことになった。



 しかし、それでもモスクワですら奴隷貿易から逃れることができなかった。14~15世紀のロシア地域の奴隷はタタール人、ロシア人、カフカース人、ブルガリア人、モンゴル人など多種多様であった。コンスタンティノープル陥落以前、ジェノヴァ人やマムルーク朝で優遇されていたヴェネツィア人は、ロシアから多数の奴隷をエジプトへと運んだ。


 マムルーク朝では奴隷から成り上がった将軍たちが競って白人少年奴隷を買ったので、エジプトでの奴隷需要は常に増え続けた。また、イタリア諸地域にも白人奴隷は運ばれた。ヨーロッパでは貴族の間に家内奴隷や妾の女奴隷の需要があった。特にチェルケス人の女奴隷は美貌で知られ、西でも東でも引く手数多であったという。


 また、中世から長期にわたってロシアを支配してきたキプチャク・ハン国が16世紀初頭に消滅すると、その後継としてカザン・ハン国、アストラ・ハン国、クリミア・ハン国が生まれた。それらのうちクリミア・ハン国はモスクワの支配から逃れていた。クリミア・ハン国はチンギス・ハン以来の後継者として、モスクワに対して「ポミンキ」と呼ばれる貢納を要求し、モスクワはこれに従うことになった。


 貢納を要求する一方で、タタール人はモスクワ国内への襲撃を繰り返し、ロシア人を奴隷として売買した。タタール人にとって略奪は「経済行為」であり、モスクワでは略奪に対処することが殆どできなかった。モスクワは仕方なく奴隷を買い戻すための身代金を「捕虜買い戻し税」として16世紀半ばから徴収することを決定している。



 タタールの軛から脱したように見えて、キプチャク・ハン国の後継国家との外交に貢納や奴隷という社会問題が持ち込まれたことはモスクワを悩ませ続けた。だが、こうした問題があったにも関わらず、モスクワはクリミアとの外交を続け、その関係を重視した。それは最終的に軍事力の問題であり、モスクワがクリミア、ひいてはトルコのオスマン帝国を敵に回す余力が無かったためであった。


 最終的に、エカテリーナ二世によってクリミア半島の併合に成功したのは1783年だった。

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