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21. 黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー ~ 寵臣は国王の威信と国家の覇権を求める

この王室の没落はスピノラの当地到着から始まった。


――オリバーレス公伯爵

 三十年戦争について書籍を紹介したいと思ったのだが、簡潔な専門書が無いので周辺国から外堀を埋めていきたい。

 オリバーレスとリシュリュー。一方はスペイン、他方はフランスの首席大臣として辣腕を振るった二人。三十年戦争に至る二人の政治家の思惑は、絶対王政の樹立に向けた政治構造の変化と巨大権力の熾烈な衝突となって歴史に刻まれることとなった。


「黄昏のスペイン帝国 オリバーレスとリシュリュー」著:色摩力夫

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002521117-00


 二人が活躍した時代は1618~1648年の三十年戦争とほぼ同時期に渡っている。三十年戦争によってオランダの公式な独立が確認され、スペインはその延長戦であるフランス・スペイン戦争にもつれ込んだ。対外戦争の失敗により、スペインの衰退は決定的なものとなる。


 オリバーレスはフェリペ四世に仕え、スペイン黄金時代の末期に政務を取り仕切った大貴族である。国王の前でも着帽を許された一部の貴族として、国王から真の寵愛を得ていた一人だった。


 オリバーレスとリシュリューを扱った書籍は岩波書店と中央公論社とで二冊ある。本書ではオリバーレスとリシュリュー両者の出自から始まり、彼らが直面した当時の国家的課題を概ね歴史の時系列に沿って叙述している。


 本書を読むと、マントヴァ継承戦争からフランス・スペイン戦争までの歴史はオリバーレスとリシュリューという二人を介した、フランスとスペインの一騎打ちにも見えてくる。しかし、時代はオリバーレスには味方しなかった。



 十七世紀のスペインは疑いなく先進国であった。マドリードは清潔で壮麗な国際都市であり、セルバンテスを始めとする文学の黄金時代にあった。領土はカスティーリャ、アラゴンおよびバレンシアとカタルーニャ、ポルトガル、シチリア、フランドル(ベルギー、オランダ)、ナポリの諸王国、そして南北アメリカを支配する太陽の沈まない国がそこにあった。


 誰がスペイン王国の衰退を信じただろうか。それは明らかに王室の財政破綻が証拠となっていた。新たな租税の導入や統合軍の構想は王国各地の反乱によって後退し、スペイン統一を遠のかせた。そしてアメリカの銀が減少し始めた時、スペインの放漫経営と覇権は幕を閉じることになったのである。


 一方、フランスは後進国であった。パリは臭気に塗れ、野暮な民衆はスペインの風俗への憧れを抱いていた。そのフランスが欧州に覇を唱えるとは誰が想像できただろうか。いや、粗野な一地方の国に過ぎなかったからこそ、フランスは王権を通じて単一国家による一元的な政治が可能になったのである。



 フランスにとって、カトリックとプロテスタントの宗教対立を政治的問題にすり替える事は容易だった。リシュリューは国益を至上として、国内では新教徒のユグノーを排除しつつ、政治的利益のためならドイツのプロテスタント諸侯を支援することも厭わなかった。この姿勢はリシュリューの一貫した政治戦略となっている。


 一方で、スペインはあくまでもヴァチカンをカトリックの頂点とした。その上で、同じカトリックであり神聖ローマ帝国を治めるオーストリアのハプスブルク家と歩調を合わせることを目指していた。封建的な政治連合を維持しつつ、スペインの一体性をも図るオリバーレスの大構想は、各地の反乱や政治情勢に阻まれ続けた。


 スペインの統治機構は巨大で複雑な官僚制だったが、常に諸王国の議会という国内の圧力に晒されていた。統治機構の最上位は「国務院コンセホ・デ・エスタード」で、その下には「枢密院(コンセホ・レアル)」、「宮廷院」、「インディアス院」、「騎士団院」、「財政院」、「十字軍院」といった組織があった。さらに諸王国個別の「アラゴン院」、「フランドル院」、「ポルトガル院」、「イタリア院」、そして「異端審問院」が存在した。


 これらの院は合議体で、フェリペ二世の時代には強力な君主を頂く諮問機関に過ぎなかった。しかし、君主が凡庸な者に変わった時、その能率は極端に低下することになる。


 なお、財政院は当初から機能していなかった。フェリペ二世の頃から王室は「破綻」を宣言していたからである。財政を健全化するには、全国から租税や拠出金を徴収するより他になかった。しかし、諸王国や各地域には封建的な「議会(コルテス)」があり、当然のように特権を盾に課税に反発した。


 オリバーレスもリシュリューも塩の専売による税制改革を実施したが、両者とも挫折することになった。特権を持っていなかったのはアメリカの副王領のみで、彼らの財宝がスペイン財政の1/4から1/5を占めていた。



 また、軍備についても大半がスペイン王国本体がその責務を負った。諸王国は統合軍の構想に消極的で、その軍費のわずかを負担することだけで責任を回避していた。しかし、スペインの問題はそれだけではなかった。フランス・スペイン戦争の最中、カタルーニャは軍隊の宿営に関して食糧を供給しないと決定したのであった。


 このため、慣習的に宿営地の農村で補給を行うはずだった兵士と農民の間で争いが発生した。1640年4月から瞬く間に動乱がカタルーニャ全土に広がり、戦う前に集結した軍団によって紛争が勃発した時、スペインの運命は決した。


 これを抑え込むため、オリバーレスはポルトガルの貴族階級を動員しようとする。だが、同時に1640年12月、ポルトガルでクーデターが発生する。スペインは対外戦争を目前にしながら、国内問題で大きな痛手を負ったのだった。


 しかし、フランスも同時に反乱軍を抱えていた。オリバーレスの苦肉の策だったが、反リシュリュー分子を焚きつけることに成功し、「ラ・マルフェの会戦」で反乱軍が圧倒的勝利を収めた。だが、それも首謀者が死去したことで散り散りになってしまった。



 状況を好転させるため、フェリペ四世の親征軍が組織され、カタルーニャを目指した。フランス軍も同じくカタルーニャに進軍する。1642年10月7日、「イェイダの会戦」によって両軍は激突した。その死闘を征したのはフランス軍だった。


 他の政治家の名前が殆ど出てこないように、国内外の喫緊の課題に取り組む上でオリバーレスは常に孤独だったと思われる。そして何度も失望に打ちのめされていた。だが、それでも不屈の精神で起き上がり、君主の威信を高めんと奮起し続けたことは間違いないだろう。

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