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20. 図説スペイン無敵艦隊 エリザベス海軍とアルマダの戦い ~ 国際宗教戦争の始まり (下) 接舷戦術VS砲撃戦術

最初に艦隊から帰された4隻のガレー船を除いて、126隻のうちまだ112隻がおり、従って作戦は失敗に終わりましたが、惨事でなかったことは確かです。


――メディナ=シドニア公からフェリペ二世に宛てた手紙より

 英西戦争の背景を軽く解説したところで、スペインとイングランドの両軍について詳細を見ていく。この戦争に参加した艦船は西130隻、英192隻。数ではイングランドもスペインに引けを取らない艦隊だったが、その中身は果たしていかなるものだったのか。



「図説スペイン無敵艦隊 エリザベス海軍とアルマダの戦い」著:アンガス・コンスタム 訳:大森洋子

http://www.harashobo.co.jp/book/b368726.html


 スペインの作戦は陸海軍による上陸侵攻作戦だった。ネーデルラントにはパルマ公爵軍1万7千がいる。だが、あまりにも大規模な軍隊の運用は容易に存在を察知され、秘密裏の上陸は困難だった。とはいえ、百戦錬磨のスペイン陸軍がひと度上陸すればイングランドの本土防衛は不可能であることも明白である。イギリスは市民軍による脆弱な沿岸の防衛網だけでスペインを迎え撃たざるを得なかった。



 スペイン無敵艦隊に属する艦は総じてガレオンと呼ばれていた。しかし、スペイン艦隊は巨大なガレオンばかりで構成されているわけではなかった。型も建造場所も異なる艦が同じ艦隊に編制され、戦闘に参加していた。


 主力は確かに大型ガレオン22隻だったが、それはポルトガル併合時に徴用したもので、大きさも装備もばらばらだった。

 その他に、櫂漕ぎのガレー4隻。ただしガレーはすぐに撤退した。

 櫂漕ぎと横帆を組み合わせたガレアス4隻。

 商船から徴用されたナオ(カラック)42隻。

 補給・輸送任務に就いたハルク(ウルカ)26隻。

 100トン未満の小型偵察船、命令中継船として用いられたパタチェ(サブラ)12隻。

 そしてカラベル10隻、さらに小型船が艦隊に編制されていた。


 スペイン無敵艦隊は確かに欧州最大の艦隊ではあったが大型ガレオンはわずかで、各地から徴用した武装商船によって補強されていたのだった。これらを指揮するのに艦長は陸軍出身者が多く、不運なことに艦隊司令長官になったメディナ=シドニア公爵も海軍の経験が無かった。


 この大艦隊を編制した時、スペイン人は艦載兵器の潜在能力に気付いていなかった。艦載兵器は接舷攻撃までの支援武装であり主力武装ではなかった。彼らの戦法はサンミゲル島での湾内での戦闘のように、砲撃で敵の士気を挫き、接舷して敵を拿捕するという一点に絞り込まれていた。2万9千453人の人員のうち1万8千人が兵士だったのである。


 また、大砲を乗せる砲車(キャリッジ)もなく、2輪式で取り回しが悪い台車を使っており、再装填に時間のかかるという弱点があった。結局、スペイン艦隊は砲撃を重視せず、せっかく導入できた新型の青銅砲も殆ど使用しなかった。むしろ、小型艦の弾薬消費量のほうが多かったほどである。


 アルマダの海戦での敗北を受けてから、スペインは戦術を見直し、水兵に砲術を学ばせることになった。そして、洋上輸送と兼任する大型ガレオンではなく、より砲撃に適した小型ガレオンを配備するようになっていくのである。



 イングランドもスペイン同様に大型ガレオンは少なかった。王室艦34隻のうち13隻のみが大型ガレオンだった。彼らもまた戦力補強のため武装商船を徴用して192隻を準備、人員1万5千925名が乗り込んだ。しかし、これだけではスペインの接舷戦術に対して打ち勝つことはできない。


 そこで艦隊監督官に任命されたホーキンズは大型ガレオンを改造し、快速船へと変更した。彼は砲撃戦の拠点としてガレオンを運用することにしたのである。


 この他、操船と速度に優れる大型の王室カラック。

 小型の補助船であるピンネース、シャラップ、ホイ。

 オランダの「海の乞食団」が利用していた小型の私掠船クロムスター。


 スペイン艦隊が陸軍兵士を乗せて荷重した一方、イングランド艦隊は艦載兵器に割くことにした。イングランドでは砲車と滑車を導入して大砲の再装填を容易にしており、それが砲撃戦術重視の戦闘を可能にしていた。砲術優位と兵士不足から導かれる戦術は唯一つ、ひたすら相手の射程外から砲を浴びせる砲撃戦術だった。


 それでも艦隊の40%を占める44隻は150~250トンの私有商船であり、志願した私掠船だった。彼らの組織統制は緩く、スペインの大艦隊に対しても上手く機動作戦を実行できるかどうかが勝負の分かれ目であった。水兵たちは給料の少ない王室艦よりも、略奪に目を向ける私掠船に乗船したがった。艦隊司令長官チャールズ・ハワード卿にとって、自分勝手に行動しがちなドレイクら私掠船出身者は頭痛の種でもあったのである。だが、結果的にハワード卿は幸運を手にすることになったのだった。


 本書ではさらに各軍の艦隊の人員構成や人数、ガレオンの造船、設計についても記載がある。



 さて、アルマダの海戦はプリマス沖(7月30日)、ダートマス沖(8月1日)、ポートランド沖(8月2日)、ワイト島沖(8月3日)、カレー沖(8月7日)、最終的なグラヴリーヌ沖(8月8日)まで継続して行われた。イングランド艦隊はひたすら西から東にスペイン艦隊を追い、ネーデルラントのパルマ公爵軍との合流を妨害し続けた。


 結果、スペイン無敵艦隊による上陸侵攻作戦は失敗に終わった。彼らは北海へと逃れ、スコットランドを経由して帰投する準備にかかった。しかし、その途上で自然の猛威に襲われ45隻が失われた。スペインに帰ったのは65隻のみだった。



 その後も戦争は続いた。1596~1597年に再軍備を行ったフェリペ二世は上陸侵攻作戦を再度実行しようとしたが、悪天候に見舞われたため作戦を断念せざるを得なかった。1598年にフェリペ二世が崩御し、1603年にエリザベス一世も他界すると、戦争は和平へと向かっていった。


 アルマダの海戦が戦局を決することはなかった。スペイン、イングランドの双方はお互いに妥協を引き出し、和平を結ぶことになったのだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんにちは、はじめまして アルマダ戦争には関心がありネットの情報や小説を探しています。 両艦隊の船の総数に触れた文献はありますが、その艦種について詳しく推測した話題はあまり見かけません…
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