19. 近世日本の農耕景観 ~ まずは水田一毛作から内政チートを始めたい
古より言い伝へにも、冬田に水をかこへといふハ、水あれハ下の土氷らざる為也。
――『農業時の栞』
稲作。それは日本人にとって無くてはならない農業知識あるいはスキルである。しかし、実際のところ我々はどれだけ稲作について知っているのだろうか。また、他の農作物の畑作はいかなるものだったのだろうか。
賢明な読者諸君であれば、ヨーロッパにかまけるようなことなく、地元の農林水産業に関する知識を披露してくれるものだろうと、私は勝手に信じている。
「近世日本の農耕景観」著:有薗正一郎
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現代では早稲を育てる場合、4月に播種し、5月に田植え、そして9月に刈り取るといった流れになる。現代の機械化された灌漑用水システムからすれば上記のような耕作暦で良いのであろうが、農耕技術が未熟な時代には同じ耕作暦では通用しない可能性もある。では、近世の農業の実態は果たしてどのようなものだったのか。
本書では近世に記された「農書」と呼ばれる営農指導書に基づいて、日本の各地域における農耕技術について明らかにしていく。また、各地の耕作暦や農具の特徴も紹介している。ただし、本書自体が現時点で非常に新しい書籍なので、内容の評価は未知数である。
高校程度の歴史知識として、鎌倉時代には農耕技術として二毛作が取り入れられていたという記述がある。水田を使った裏作で大小麦を育て、飢饉に備えたり、商品作物として売ったりしていた、と。
だが、明治十七年(1884年)の統計では全国で75%の水田が一毛作だった。近世の頃から大半の水田は一毛作で使われており、農書に記述されるような二毛作はほとんど発展しなかったと考えられる。稲を刈った後、冬期には水田を湛水しておいた。これにより、雑草の除去などの労力を惜しみながら、地力を維持することができたのである。
各地に伝わる農書でも、水田では一毛作を行うことが奨励されていた。一部の地域や条件において、米の収穫量が少ないと予想される場合にのみ、麦の裏作を行うことが記されていた。近世日本において水田は一毛作で使うものであり、それ以上の作付けを望むものではなかった。
水田で二毛作が行われるようになるのは、水を抜いた田に馬によって犂を入れる「乾田馬耕」が普及する二十世紀に入ってからであった。灌漑用水の整備や乾田化の普及が始まってから、水田二毛作は見られるようになったのである。
灌漑用水の制約は、近世における二毛作という農耕技術の発展に対して、一毛作を前提とした農耕を基礎づけたのであった。
一方で、畑では多毛作が行われていた。梅雨のある日本では夏期には雑草が繁茂しやすいため、夏場の作付けは必須であった。また、畑の作物として代表的な麦や大根は冬作物であり、特段の理由がなければ冬期にも作付けしていた。上記の理由から畑は二毛作または三毛作で扱われることになった。畑では夏場に多彩な作物が育てられた。綿、キビ、粟、大豆などが、雑草の生育を抑えるために植えられていたことが記録されている。
愛知県の浄慈院では、十九世紀中頃には穀物ではウルチイネ、モチイネ、トウモロコシ、ソバ、ヒエ。芋類では里芋、サツマイモ、えご芋。豆類では茶豆、小豆、ササゲ、ツルマメ。その他にもキュウリ、カボチャ、カブ、タケノコ、ゴボウ、生姜、レンコン。さらには果物ではミカン、ぶどう、びわ、梅、ヤマモモなど……。
寺院の持つ畑は、単調な二毛作の作付けだけではなく、実に多種多様な作物が育てられていたことが記録されている。
上述のように寺院は様々な作物を作って消費し、また商品としても売っていた。しかし、一口に商品作物といっても、その様相は寺院と薩摩藩ではまるで違っていた。薩摩藩では商品作物を藩が強制的に導入していた。ロウソクの原料となるハゼやサトウキビなどを農家に強制して作付けさせ、藩が専売する形で収益を横奪していたのである。
ハゼは実を摘み取る時期が稲やサツマイモの収穫期と重複するため、農民にとって利益の無い作物だった。また、サトウキビ栽培や黒糖作りはヨーロッパ人が黒人奴隷に投げっぱなしにした通り過酷で、農民に多大な負担をかけることになった。
さて、最後はやはり肥料の話で締め括りたい。近世初期の農民は柴草山から取れる草肥と厩肥を耕作に使用していた。しかし、近世中期には過開発により柴草山の減少や土壌侵食が目立つようになってきた。そこで収穫量を押し戻すため、下肥……要するに人糞尿を腐熟させて施用することが盛んになり始めた。
人糞尿が不足する場合には都市部から汲み取り、買い取っていた。人糞と農作物の交換によって、農村と都市は結びついていたのである。





