18. マイセン 秘法に憑かれた男たち ~ 逃亡錬金術師は土塊を黄金に変える
そうだ、この者たちは神が創りたもうた作品のようではないか。
言うなれば磁器の粘土でこしらえた人間、
だからこそこれだけ気高い姿をしているのだ。
――ジョン・ドライデン『ポルトガル王ドン・セバスチャン』第一幕第一場
錬金術師、それは遍く物質を秘法によって変成せしめる理想を追い求めた者たち。彼らの情熱は概ね二つの物質に傾けられた。一つは賢者の石と呼ばれる不死の象徴。そしてもう一つは磁器という白い黄金である。
「マイセン 秘法に憑かれた男たち」著:ジャネット・グリーソン 訳:南條竹則
https://books.google.co.jp/books/about/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3.html?id=Ulq9PQAACAAJ&redir_esc=y
人工知能のようなブラックボックス化した技術が蔓延る中で、先端技術の鍵を握る専門家がヘッドハンティングされる事は珍しい事態ではない。しかし、一産業が国家の栄枯盛衰を占うような時代には、彼らの囲い込みも熾烈を極めた。
本書では、欧州で初めて硬質磁器の焼成に成功した錬金術師ヨハン・フリードリヒ・ベトガー、野心家の絵付け師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト、そして天才造形師ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの三人にスポットを当てる。
彼ら三人の秘法師は政情不安が続くザクセン選帝侯の支配下で、白磁の秘密を握る人物として、マイセン磁器製造の大役を担った。
ベトガーは当初、ベルリンにて黄金を生み出せると吹聴し、プロイセン王フリードリヒ一世から出頭命令を受けた。しかし、ベトガーはプロイセン王の前で黄金を作ろうとはしなかった。イカサマがばれると思ったのであろう。ベルリンから逃亡するとザクセン選帝侯領へと遁走する。
ベトガーはザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト二世に慈悲を乞いたが、アウグスト二世もまた金の卵を生む鶏を逃がそうとは思わなかった。その後、ベトガーは厳重な警護の下、1701年にドレスデンへと移送され、拘禁状態で黄金を生み出す実験に没頭するように命じられたのだった。
だが、実験は失敗が続いた。設備や材料を与えているのに一向に上がらない成果に対してアウグスト二世の我慢が限界に達しかけていた時、ベトガーは磁器の開発を命じられていた宮廷顧問官エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスに協力を求められる。
当時、磁器は垂涎の逸品だった。欧州では透明感があって硬質で滑らかな白い器を作り出す技術が無かった。白磁の秘密はカオリンと長石、二つの材料を混合して高温で焼成するという部分にあった。これまで磁器に挑んだ錬金術師と同様に、チルンハウスも粘土とガラスに注目したが、既にフランスで作られていた軟質磁器しか生み出すことができなかった。
ベトガーは磁器の研究でアウグスト二世の興味を逸らす事にした。注文に合わせて、彼が幽閉されたマイセンのアルブレヒト城に大量の材料が用意された。材料を組み合わせていくうちに、ついに彼は赤色炻器の製造に成功する。実験は続き、ベトガーは磁器の素土として、ついにカオリンに行き着く。1708年、彼はカオリンと雪花石膏を混合し、ついに白いサンプルを焼成する事に成功したのだった。
ベトガーは磁器の焼成にはこぎ着けたものの、磁器を芸術品として昇華させるには問題が山積していた。この頑丈な素材に絵付けする絵具はなく、素材を活かすモチーフを作る造形技術も無かった。磁器の成功が百の問題を生み出した。
錬金術の秘法を象徴するため、赤と白の磁器は大々的に宣伝された。赤色炻器は断熱効果も高く、コーヒー、紅茶などのポットとして実用価値があった。しかし、これらに絵付けすることはできなかった。残された道は白磁の絵付けである。
絵付けの場合、施釉の後、絵付けして低温で焼成する必要があったが、顔料はすぐに剥げてしまった。しかも色ごとに材料が溶ける温度が異なるため、問題は簡単には解決できなかった。もし定着力を極めるのであれば、釉薬を施釉する前に絵付けを行い、焼き上げる方法もある。これならば上から釉薬が繊細な絵付けを守ってくれる。しかし、窯の激しい熱に耐えうる絵具が必要だった。
こうした技術の改善にはさらにヘロルトやケンドラーの活躍を待たねばならなかった。一方で、磁器を発見したベトガーは黄金という見果てぬ夢を抱えたまま、37歳の若さで早逝した。
これらの問題を解決する上で、マイセン工場の経営は効率的とは言えなかった。むしろ、問題を生み出す伏魔殿こそが工場だった。工場は磁器の秘法を守るために厳重な警備が敷かれ、職人たちは外出も制限された。自由を制限された職人たちの不満は高まり、多くの人材流出を招いた。
しかも、工場の経営陣は多くの汚職にまみれていた。売上を着服したり、色付け前の白磁を外に持ち出し、勝手に色付けして売却する者なども現れた。それは絵付けの技法を守ろうとしたヘロルトへの反発として生まれたものでもあった。下級の職人には給料の未払いに嫌気が差し、内職に手を染める者も多かった。
しかし、そのような無法な経営下で、ウィーンを始めとするドイツ各地に秘法が漏洩しようとも、マイセンは着実に技術を改善していった。現在もマイセンは白磁器の別称として名を馳せている。
現在では日用品として白磁器も量産化されて低価格になった。しかし、磁器が、秘法に纏わる職人の卓越した手業が生み出す白い黄金だった時代も、三百年前は確かにあったのである。