17. 銃と十字架 ~ 天正遣欧少年使節、そしてペドロ岐部と殉教者たち
もし、この基督の宗門に於て、たしかなる後生の助りを見付けたるにおいては、この僅かなる現世には代ることあるべからず……
面向きにばかり転ぶ切支丹とても、御法に大いなる恥辱を懸け、イエスの貴き御名を汚したてまつる重罪は更に遁れがたきなり
――『殉教の勧め』
日本におけるキリスト教の宣教は、長崎県の面する有明海の穏やかな姿とは異なり、波乱の連続だった。弾圧された殉教者は、己の流した血によって、最期まで陰惨な日本の地に繋がれた。そのおびただしい血は今日も我々に問いかけるのである。
「銃と十字架」著:遠藤周作
https://www.shogakukan.co.jp/books/09352240
今回は一般の文芸書籍から、日本におけるキリスト教の布教と弾圧の通史を紹介したい。ペドロ岐部とは誰か? と問われて、すぐに答えの出てくる人は少ないと思われる。
ペドロ岐部は江戸時代初期の殉教者である。彼と共に1603~1639年の間に殉教した187人が、2008年にベネディクト16世によって列福されている。ペドロ岐部は天正遣欧少年使節が学んだ有馬の神学校の卒業生の一人である。1614年にマカオに追放された後に、ローマを目指して旅に出た。
彼はインド、アラビア、エルサレムを経てローマに独力で辿り着き、イエズス会士となって神父の叙階を受けた。さらに神父となった後にはリスボンからマカオ、シャム、マニラを経由して、日本へと舞い戻る。それから潜伏神父として活動し、島原の乱でキリシタン弾圧が強化された後、仙台藩まで逃れたが逮捕され、拷問の末に殉教している。
本書はペドロ岐部の旅路と、彼が学んだ有馬の神学校の来歴について大きくページを割いている。それは日本の為政者によるキリスト教の弾圧の歴史であり、植民地化を暗黙の了解としてきたカトリック本国との矛盾に苦しめられた聖職者たちの苦悩の記録である。
本書で語られる有馬の神学校は現・南島原市にあった。当時の領主であり、日野江藩初代藩主となる有馬晴信は、家督を継いだ頃にはキリスト教の迫害も検討していた。しかし、予てより龍造寺隆信からの侵略に悩まされていた折、宣教師が糧食や火薬などの軍事的支援を約束したため、晴信はキリシタン保護を約束している。
晴信が南蛮貿易を重視し、その手腕で幕府の利益に繋げた事から、徳川家康も当初は厳しい弾圧には及ばなかったとされる。このような事から、有馬領は長らくキリシタン王国となり、島原の乱まで抵抗を続けるほどの勢力を持つ事になる。
天正七年(1579年)、イエズス会の巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父が有馬を訪れる。彼の任務は日本における宣教の状況の巡察と報告だった。
それまでに日本で活動していた神父たちの一部は、日本の領主たちが打算的にキリスト教を利用しているとして、日本人蔑視論を持っていた。曰く、日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で偽装的な国民は見たことがない、と。
ヴァリニャーノはこうした考えに真っ向から反対した。領主に強制されて改宗したものの、民衆は教えを良く理解しており、教育すれば立派なキリスト教徒になると、ヴァリニャーノは記している。彼は自らの考えを実現するため、神学校の設立と天正遣欧少年使節を計画することになる。
天正八年(1580年)、彼は日本人の信徒にもラテン語を学ばせ、善きキリシタンとすべく神学校を設立した。さらに彼は畿内を巡り、織田信長とも謁見している。この後、ヴァリニャーノは入学した子供の中から四名を選抜し、ヨーロッパへと遣わせる事にした。天正遣欧少年使節である。
天正十年。伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノ、そして中浦ジュリアンら四名の少年はそれぞれキリシタン大名の名代として、ヴァリニャーノと共にマカオへ向かった。少年たちはゴアでヴァリニャーノと別れ、一方では神の栄光と、そして一方で植民地の真実を、その目で見ることになるのであった。
慶長五年(1600年)、十六世紀最後の年は日本とオランダ、そしてポルトガルにとって一つの節目となった年であろう。オランダ東インド会社のリーフデ号が大分に漂着し、航海士のウィリアム・アダムス――三浦按針が貿易政策の顧問として徳川家康に仕える事となった。
按針の登用は、北蛮と南蛮の貿易戦争において、プロテスタント諸国、即ちオランダがリードするきっかけとなった。按針はカトリックの領土的野心を強調し、日本における対外貿易からポルトガルを排除するように家康に働きかけた。
また、関ヶ原の戦いによって、日本の政治の中心も江戸へと移り変わった。この最中にもキリシタンの弾圧は激しさを増すことになった。慶長十五年(1610年)には、すべてのキリシタンをマカオまたはマニラに追放する事が決定した。マニラ行きのジャンク船には高山右近のような大名も含まれていた。
この時、ペドロ岐部もマカオに追放されることになった。その後、彼は神父になるまで日本を見捨てる事になる。その旅路はほとんど記録に残っていないが、険しかった事だけは間違いない。彼はヨーロッパ到着後も、日本国内の状況をイエズス会士の通信文で知っていた。
そして、彼は帰国を決意する。ただ、信徒のためだけに、殉教する日のためだけに、日本へと帰国する。彼ら潜伏神父が戦ったのは、死の恐怖だけではなかった。彼らは教義の矛盾によって死んだのではなかった。
カトリック国の植民地支配という政策と、自分たちの教義との矛盾が、彼らの政治的立場を危うくさせ、殉教させたのだった。





