表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/45

15. 帳簿の世界史 ~ マネー・イズ・パワー! 成功者たちのファイナンシャル・マネジメント

借方を左に、貸方を右に


――『商業の寓意』

 今や女騎士も経理になる時代である。いや、会計の父と呼ばれた男すらも奴隷ダークエルフ(♀)のモデルになる時代である!


 「女騎士、経理になる。」著:Rootport

 http://denshi-birz.com/onnakishi/


 さあ、読者諸君も会計チートによって異世界で成功を勝ち取ろうではないか。あ、半沢直樹さんとスルガ銀行さんは呼んでないんで……。



「帳簿の世界史」著:ジェイコブ・ソール 訳:村井章子

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163902463


 経済的成功に浴した人々の影では、概ね健全な財務管理が機能していた。本連載「2. 西洋事物起源」で最初に紹介する発明が複式簿記(イタリア式簿記)であるように、近世西洋における最初にして最高の発明が簿記であったことは疑いようのない事実だった。数少ない成功者を支えた人々こそが会計士だったのである。



 まず、西洋事物起源で言及されている、複式簿記に関する最初の論文を発表した修道士ルカについて本書から補足しよう。彼の名はルカ・パチョーリ、会計の父とも呼ばれる。彼を描いた絵画ではパチョーリが中央におり、君主のウルビーノ公が背後にいる。後に日本で奴隷ダークエルフのモデルになるとは思えない衝撃的構図だ。彼は君主を上回るほどの能力と実績があったと容易に推測される。


 パチョーリが1494年に発行した論文『算術、幾何、比及び比例全書』は会計の教科書として、今も『スムマ』の名で知られている。ルネサンス期のイタリアでは盛んに複式簿記が実践され、他国の商人も『スムマ』から会計を学び、自己勘定を行った。パチョーリはその方法を体系的にまとめた最初の人物である。帳簿は羊皮紙からWebインターフェースを持つデータベースに変わったが、会計の基本は今も変わっていない。



 会計のプロセスは1日の取引の記録から始まる。現金、手形、為替などの出入りを記録するのは日記帳と呼ばれた。日記帳には食事や観劇など日常生活の出金まで細々と記載された。次にこれらの雑多な情報を勘定科目に応じて仕訳し、時系列に並べ替えた仕訳帳に記録し直す。そして、最後に複式簿記で総勘定帳、即ち元帳に転記するのである。


 筆者も仕事柄、担当する案件の予算管理を行っており、勘定科目を諳んじる程度には実務を知っている。だが現代の元帳と異なり、近世の元帳の1ページ目には必ず「父と子と聖霊とすべての聖人、天使の名において」といった宗教的な決まり文句が記された。


 現代の気楽なPC操作に比べて、近世の記帳は精神的な労働の側面を持っていた。大商人は在庫台帳や給与記録も把握しなければならず、帳簿を手書きすることもあって多くの困難が伴った。パチョーリは膨大なデータを管理する会計係に対して「常に規律正しく」「神の名において公正」という厳格な鉄の意志を求めた。


 だが、パチョーリの願いは叶わず、ヴェネツィアを除くイタリアでは新プラトン主義が広まっており、貴族主義的なエリート社会が形成されつつあった。商人の会計文化や会計責任は蔑ろにされ、銀行経営で栄華を誇ったメディチ家もフィレンツェを追放された。奇しくも『スムマ』が発行された1494年のことだった。



 『スムマ』の知識を受け継いだのはオランダだった。バルト海貿易の黎明期にスペイン支配下のネーデルラント州は海洋貿易の基礎を築く。16世紀前半にアントワープは、ポルトガルの香辛料やスペインの銀を積んだ船が行き交う国際貿易の中心地として発展した。その過程で『スムマ』は翻訳、引用され、フランス語で書かれたオランダ税法を学ぶための会計学校「フレンチスクール」で、教科書として利用された。


 だが、1567年当時、オランダはスペイン本国からの重税に苦しんでいた。スペインも会計改革を進めてはいたが、赤字が白日の下に晒されることを恐れた国王の側近はあらゆる手段で財務長官を妨害していた。「増税すりゃいいじゃん」がスペインの解決策だったが、1568年、ついに本店のノルマにブチ切れたオランダは反旗を翻す。八十年戦争の勃発である。戦争でアントワープが陥落すると、オランダ人はアムステルダムに逃れ、ここが次なる会計の中心地となった。


 1609年にはアムステルダム銀行が設立され、為替取引の決済が円滑化された。16世紀以降は会計学校も急増し、国際貿易に伴う会計需要に応えることになった。政治的混乱、スペインとの戦争の最中でもオランダは急速に経済的成長を遂げた。オランダ人同士の過当競争を防ぐため国家資本と民間資本を混成し、他国に打ち勝つ企業連合として設立された東インド会社は成長を支えた大黒柱である。


 オランダ東インド会社の定款にはオランダ市民が会社の株を売買でき、配当を受け取れることも記されている。そう、資本主義史上初の株式会社は、オランダにおいて誕生したのだった。



 この他、会計を利用した偉人としてルイ14世の会計顧問(後の財務総監)コルベール、ルイ16世の財務長官ネッケル、英国首相ウォルポール、英国の実業家ジョサイア・ウェッジウッド、米国のベンジャミン・フランクリンらが紹介される。


 「帳簿の数字が合わないだと……?」

 「くっ、殺せ……!!」


 どころではない帳簿の歴史。会計責任の放棄は国家の崩壊すら招きかねない。会計士の数字はまさしく血と金からできていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ