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14. ヨーロッパのテキスタイル史 ~ 「王様、これは馬鹿には理解できない染織知識で書いた文章でございます」

リヨンが勝っているのは、趣味の良さと価格の安さとこの街だけの特徴、つまりモードがある事である。

モードは毎年変わる。今年流行の30種の布も来年には20か15しか残らない。

そこで外国に送られるがそこでは最新品として通用するのだ。


――カサノヴァ「我が生涯の物語」

 異なる文化圏または階級層に溶け込むことが困難であることを示す一つのファクターとして、服飾の違いが挙げられる。異世界でも住民は何かしらの服や装飾品を身に着ている。しかし、言語だけで服飾の視覚的要素を表現することはできない。

 服飾に関する作者と読者の間のイメージの乖離を防ぐにはどうすべきだろう。今回はそのヒントとなる書籍を紹介しよう。



「ヨーロッパのテキスタイル史」著:辻ますみ

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002565765-00


 テキスタイルとは服飾または刺繍などのインテリア全般の布地や織物を指す。染織家テキスタイル・デザイナーは染色と紡織という二つのテキスタイル技術を総合し、芸術的なテキスタイルを生み出してきた。日本では京都の西陣織、群馬の桐生織など先染め絹織物が有名であるが、これらの職人も染織家である。


 本書ではヨーロッパのテキスタイルの文化、技術の歴史を解説する。青銅器時代の素朴な毛織物の出土品から産業革命時代の複雑なジャカード織までを扱うが、資料としては交易によって絹や綿がもたらされた中世や近世における変遷、近代の機械化や工場化が目立つ構成となっている。


 テキスタイルを巡る歴史はあらゆる文化と技術に繋がるという点で魅力的である。滑らかで美しい布は権力者を惹き付け、染織の独占は権力を象徴した。そのために布地や染料の産出地を制圧する者、家畜の育成に精を出す者、染料の化学実験を繰り返す者、紡ぎ方や織り方を試行錯誤する者、上から下まで多くの人々が欲望や好奇心とともにテキスタイルと関わってきた。



 ヨーロッパのテキスタイルは毛織物から始まる。織機の歴史は古いが、縦糸が床に対して水平に張られる高機、水平織機は中国で発明された。これで椅子に座って踏木で綜絖(ヘドル)を操作できるようになった。水平織機の伝来以後、欧州で男性が織機を扱う資料が見つかっていることから、13世紀には織工ギルドが設立されたと考えられている。


 それでも糸を紡ぐのは女性の仕事だった。織機の導入で糸の消費量が増えたことから、手作業の紡錘に代わって糸車が導入され、こちらも少しだけ機械化した。


 毛織物は後染めであり、織り上げ後の仕上げが品質を左右する重要な要素だった。そのため、仕上工と染色工は他の職人より大きな勢力を誇った。まず毛を洗浄するためアンモニア水に布を漬ける。況や原料は人尿である。人尿である。大事なことなので2回言いました。


 次に布を水に浸して布を踏み付けたり木槌で叩いたりして縮絨(しゅくじゅう)する。フリングと呼ばれる縮絨の作業は重労働だったが、14世紀には水車を使った水力式に変わった。その後は布を乾かして鋏で毛羽を刈る。この段階で布は3割ほど縮む。完成品は厚手の毛織物となるが、この羅紗(クロス)こそが19世紀まで織物の主流だった。


 本連載「2. 西洋事物起源」で挙げた職人によって黙殺された発明、それは改良された織機だった。織物は日用品、交易品、軍需品であり常に経済の要だったが、織工は布地ごとにギルドを作って権益を確保し、新たな織物や織機に対抗した。18世紀後半になって紡績機の発明や工場生産が始まると安価な織物が生まれたが、それ以前から新しいテキスタイルや発明品は職人から抵抗を受け、産業の発展は阻害された。



 中世において養蚕技術が定着しなかった欧州では生糸は貴重品だった。イタリア商人によってアラビアから生糸が輸入されるようになり、欧州の絹織物は独自の発展を遂げた。ヴェネツィアのローブに代表されるように、北イタリアでは近世初期から大きな植物紋が織られている。15世紀のイタリア・シルクは豪華なベルベットに用いられた。


 スペインやフランスも北イタリアから絹織物を輸入したが、貴族は長いローブを好まず身体にフィットする服を好むと、ヴェネツィア大使は本国に報告している。貴族は細かな刺繍によって衣装を飾った。そのためベルベットは専ら壁や椅子用の屋内装飾に利用された。


 絹織物の支出を抑えるべくフランス王アンリ4世は策を講じた。16世紀にはリヨンなどの都市で絹織物の誘致が計画されたが、生産されたのは無地の薄いタフタやサテンばかりだった。17世紀初頭には養蚕技術の書籍が発行され、生糸を国内生産できるようになったが、ベルベットを織ることはできなかった。


 コルベールの重商主義政策により、織物産業は少しずつ成長する。あらゆる織物の品質が規定され、巨額の関税によって外国産織物が輸入禁止同然となって初めてフランス・シルクは発展した。しかし、宗教改革によって17世紀末にユグノーの織工が国外に逃れた結果、その技術はイギリスやオランダへと流出した。


 18世紀にはリヨンの絹織物は欧州各地に輸出され、毎年新しいデザインを取り入れることで流行(モード)を生み出した。しかし、国家財政の破綻が明らかになると王室からの注文は途絶え、さらに木綿産業の興隆によってリヨンの絹織物は危機に瀕した。これを救ったのがナポレオンだった。


 ナポレオンは家具調度官を置いて宮殿用の絹織物を注文して国内経済を支えつつ、1810年には大陸封鎖で高値が続くインディゴに代わる青色染料の研究に対して賞金を出すことを決定した。染色法の研究が促進された結果、その成果は19世紀前半の化学理論の進展にも貢献した。



 この他、17世紀にイギリスやオランダが取り入れた木綿や綿プリントが、新大陸の植民地を巻き込んで巨大な産業を形成していく歴史や手芸品、刺繍、編物についても解説がある。媒染と防染の両技法を駆使してアカネとインディゴで染色されたインドの綿織物もまた、染色技術が未熟な欧州を魅了した。


 ……染色後には布を牛糞に浸して地を漂白しないとならなかったのだが、綿織物の輸出先だったフランス人が詳しい工程を知ったのは18世紀前半のようである。染織においても、やはり糞尿は重要な資源だった。

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