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12. 図説 英国の帆船軍艦 ~ 「暁の水平線に勝利を刻みなさい」とか「これが君の望んでいる海戦」とか「キミはまだ本物の海戦を知らない」とか言って、ポタクらの艦は200年も遅れてるんですけど?

英国は各員がその義務を尽くすことを期待する。


――ホレーショ・ネルソン

 兵器を語るに刀剣や銃火器は既にやり尽くされた感がある。戦術論も戦記モノで既知であるという読者も多いだろう。そこで、全く手垢の付いていない処女地として、18世紀の帆船軍艦について真面目に長く語る。5000文字くらい。


 これがポタクの! まだ知らない! 暁の水平線に! 勝利を刻む! 本物の! 海戦(ロマン)だ! マジ卍!


 ……帆船軍艦のなろう小説は既出? 今回の主題にした戦列艦も出てる? や、これは造船の話です。いきなり海戦なんて物騒でいけません。


 余談だが、17世紀当時の戦列艦による海戦については、オランダ海軍提督ミヒエル・デ・ロイテルを描いた映画「提督の艦隊」を御覧いただくことをお薦めする。

https://www.youtube.com/watch?v=Wxo8rmnmH60



「図説 英国の帆船軍艦」著:ジェイムズ・ドッズ、ジェイムズ・ムーア 訳:渡辺修治

https://honto.jp/netstore/pd-book_03440806.html


 本書では18世紀当時に各国海軍の主力となった、砲74門の戦列艦シップ・オブ・ザ・ラインについて解説する。材木の調達から始まり、精密な設計工程や兵装の装着に至るまで、造船の全工程が美しい図とともに詳細に解説されており、DASH島でそのまま造船できそうな内容である。ただし、専門用語も多いので一読しただけで理解するのは辛い。


 逆に、これ一冊あれば戦列艦の設計思想や造船について一気に知識を得ることができるとも言える。戦列艦は帆船に砲を大量に搭載した艦種であるので、砲門を減らせば砲24~40門の駆逐艦(フリゲート)や砲12~32門の奴隷船にもその知識を応用可能である。

 ……時には奴隷船が駆逐艦(6等艦)よりも重武装という事実に気をとられてはいけない。いいね?



 艦名のルーツを辿ると、異なる設計の級(Class)または型(Type)あるいは異なる艦種でも、同じ艦名の艦艇が複数出てくることがある。要するに艦名の使い回しである。そんな中で初代の名誉に与った戦列艦が今回の主人公となる。ハーキュリーズ級3等戦列艦2番艦、初代サンダラー(HMS Thunderer(1760))である。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%BC_(%E6%88%A6%E5%88%97%E8%89%A6%E3%83%BB%E5%88%9D%E4%BB%A3)


 どの言語のWikipediaにも目ぼしい情報がない。最後は難破。……まあ、大船に乗ったつもりでいてくださいよ、皆さん。



 18世紀初頭、英国は船大工の熟達した造船能力に対して、技術者の設計能力が劣っていた。船型が古く他国艦よりも兵装がショボかった。そこで、最初に砲74門を設計した仏国の艦艇を襲い、英国は1747年に砲74門4隻を拿捕して即リスペクトした。それまで発注された砲70門は急遽、砲74門に設計変更。1760年の英国海軍の軍艦397隻のうち75隻は3等の砲74門となった。


 こうした経緯で、修羅の海で次代の艦隊と殴り合うため、サンダラーは設計された。


 建造、帆装、整備に約4万ポンド(現在の300万ポンド)の費用を要したが、これは当時の海軍予算500万ポンド/年の0.8%に匹敵する。また、最良の樫材を育てるためには80~150年という時間を要する。16世紀から植林への投資は行われていたが、食糧危機が訪れると地主は森を小麦畑へ切り替える決断に迫られた。それでも樫材の需要は伸び、結果、材木の妥協によって多くの船の寿命が縮まった。


 植林は愛国心が無ければやっていけない事業だった。オークの森を守るのは、エルフ……ではなくエルムの森を守るよりも難しかったのである。カラ松、お前が早く出てこなかったから……。



 サンダラーはウールウイッチ王立造船所で建造された。5基のスリップ・ドックと2基のグレーピンク・ドックがあり、最大で7隻の艦艇が同時に修繕や建造されていた。当時は全ドックが常時フル稼働だった。


 造船業は近世において最も複合的で、高度なマネージメントを要する産業だった。26種以上の職人をまとめ、多種多様の材料を大量調達し、巨大建造物を生み出さねばならない。造船所長は現地の提督だったが彼らは不在で、造船事務局が任命した17人の上級職員(士官)が16人の書記とともに造船所を運営した。


 他、会計係、倉庫係、調達官、計測員、外科医、さらに建具工、家大工、煉瓦工、製帆工、鍛冶工、運搬工の親方、そして多数の職人がいた。大半は船大工であるが、製品によって職種は細分化された。当時の平均的な日当1シリングに対して、王立造船所では日当3シリングを請求できた上、組合もあったので手当と福利は良かったようである。


 だが、すべては手作業だった。某ゲーム(スカイリム)ですら製材所は水車を動力にしていたのに、造船所では2人1組で鋸を動かして木を挽いた。専用のロープハウスでロープは製造されたが、ロープを結わえるのもやはり人力。熟練の紡ぎ工たちは300メートルのロープを12時間で作ったと記録されている。



 さて、次は設計。設計者はニュートン力学に基づいて、ミニチュアを使った実験を繰り返して最良の船型を目指した。18世紀には喫水線下の船型を魚の腹に似せて設計を行った。こうしてアイデアを練ってから1:48スケールで側面、上平面、断面の設計図面が作られた。1:48という縮尺は今も使用されている。 


 図面ができると造船所で小型モデルが作られ、海軍事務局へと送られた。モデルに問題が無いこと確認され、海軍本部が同意すると、ようやく建造承認が下りた。モデルは軍事機密資料であり、多くが現在まで保管されている。設計が承認されると、図面を原寸に引き直していく。原図工が型板(モールド)を書き下ろすと、それに従って材木が加工された。



 材木が揃うと、いよいよ建造開始。竜骨(キール)は約8メートルの角材7本で作られる。竜骨が床に固定され、必要な溝が掘られると、まず船首材(ステム)を取り付ける。船首材の位置を決めたら支柱(ショアー)で固定する。次は船尾材(スターン)。これは必要な部材(スターンポスト、インナーポスト、船尾梁(トランサム))を組み上げてから竜骨に取り付ける。これも支柱で固定。


 続いてライジングウッド(またはデッドウッド)。これは船首と船尾を竜骨と繋ぐ肘材であり、外板の基礎となる。次はフロアー材。竜骨とクロスするように取り付けられる基礎材で、竜骨という船の背骨に対する船の肋骨にあたる。フロアー材が固定されたら内竜骨(キールソン)を固定。ここまでの工程で艦は食べ終わって骨だけになった魚のような姿になる。


 ここから湾曲した側面材、フレームを取り付けていく。フレームは強度を保つために4つの部材を組み合わせており、コンポジット・ボウに似ている。フレームが組み上がると船の骨組みが完成する。ここから内外に板張りをしていく。今まで垂直方向にフレームを並べていたのに対して、今度は水平方向に湾曲した板を張らねばならない。熟練工が加工した板はすぐに嵌ったが、そうでない場合は板を蒸気で熱して曲げていた。



 板張りの間に甲板梁(デッキ・ビーム)も用意する。甲板は最下甲板(オーロップ・デッキ)砲列甲板(ガンデッキ)上甲板(アッパー・デッキ)船首楼甲板(フォクスル・デッキ)後甲板(クォーター・デッキ)船尾甲板(プープ・デッキ)がある。いわゆる上・砲(中)・下の三層構造である。さらに甲板板を張る前に系柱(ビット)車地(キャプスタン)といった装備も取り付ける。系柱は索具(リギン)、揚げ綱を繋ぐための留め具である。車地は重量物を揚げる装置で、錨や帆柱(マスト)の上部帆桁(ヤード)の揚げ降ろしに用いられる。車地は上甲板を貫通する巨大な心棒によって砲列甲板の骨組みに強力に固定された。


 これで艦は形になったが、まだ仕事は多い。船倉(ホールド)にポンプと水溜めを取り付け、汚水蓋(リンバーボード)銃眼(ガンポート)を設置する。艦内には隔壁も必要である。上甲板と砲列甲板の間には防火用にバルクヘッドを設ける。また、パネリングと呼ばれる船倉の上の仕切りにより、パン庫と火薬庫の乾燥状態を保った。


 当時、費用を抑えるために過剰な装飾は減っていたが、サンダラーの船首には雷を司る神を象徴し、ゼウス像が彫り込まれた。船体の塗装は無く、樹脂などが塗られた。しかし、砲列甲板だけは血の色が目立たないように真っ赤に塗られた。


 舵については舵軸と舵板からなる。1本の舵軸に、(にれ)材の板を噛み合わせて作った舵板を取り付けた。舵軸の上部には上甲板上で舵柄(ティラー)を差し込む。円形の操舵輪が開発されたのは18世紀で、それまでは舵柄の上に付いた操舵棒で舵を取った。サンダラーは操舵輪と操舵棒を併用し、互いをロープで繋ぐダブルロックシステムを採用した。



 1760年、ついにサンダラーは進水に臨んだ。マストホールに立てた3本のポールに軍艦旗(エンサイン)国旗(ジャック)長旗(ペナント)を掲揚し、サンダラーは動き始めた。だが、艤装がまだである。大砲と帆柱(マスト)索具(リギン)を装備せねば意味がない。進水式の喜びも束の間、艤装取り付け工事が開始される。


 船体の前方からフォア、メイン、ミズンの3本の帆柱(マスト)があり、帆柱(マスト)は3つのセクション(下から順にローワー、トップ、トップギャラント)から成る。帆柱(マスト)はそれぞれ3本の帆桁(ヤード)があり、ミズンにはさらに三角帆用の帆桁(ヤード)も付いていた。これらをクレーンで吊って船体に装備させた。


 一応、説明しておくが帆柱(マスト)が壊れたら帆船は操船不能である。だが同時に、帆柱(マスト)という最重量物を支え、上手に(セイル)に風を当てなければ操船はできない。そこで帆柱(マスト)を支えつつ、(セイル)を動かすために索具(リギン)――強固な綱が必要となる。


 帆船には2種類の索具(リギン)がある。帆柱(マスト)を支える静索スタンディング・リギン前後支索(ステイ)および左右支索(シュラウド)と、支索や(セイル)を調節する動索(ランニング・リギン)である。動索のうち帆桁(ヤード)の向きを変えるブレス、上げ下げするハリヤード、帆の裾を上げるバントラインその他諸々があったが、ロープという単語は絞首刑を連想させるらしく一切使われていない。これら索具(リギン)の総重量は30トンにも及ぶ。


 そして大砲。主砲は32ポンド、上甲板に18ポンド、後甲板に9ポンドを積んだ。大砲は砲架(キャリッジ)に載せられ、砲耳(トラニオン)で支えられた。こうして完成した英国の帆船軍艦は速力を犠牲に耐久性と火力を上げており、肝心の海戦で失われることは少なく、敵艦を撃破した。



 最後にサンダラーの戦績について。Wikipediaは何も語ってくれないが、サンダラーはきちんと殊勲を立てた軍艦である。1760年4月28日、サンダラーはチャールズ・ブロビイ艦長の下、チャールズ・サンダース提督指揮下の地中海艦隊に合流することが決定した。


 1761年7月17日の午後2時、ジブラルタル海峡の警備中、サンダラーは北アフリカのスパーテル岬付近で帆影を発見、追跡する。2隻のフランス軍艦と1隻のスペイン商船を確認し、戦闘を開始した。フランス艦がマスケット銃を発砲したため反撃。その後、フランス艦が衝突し、砲62門のラキレと判明、接舷して互いに交戦した。やがて味方のフェイバリットが加勢した。捕虜を捕らえて戦利品を獲得したものの、この戦闘で20名が戦死している。


 その後、サンダラーはフランス海岸西の海峡艦隊に編入。1763年から1765年までポーツマス港の防衛艦となった。1775年からポーツマス港で大改修を受け、1780年に西インド諸島での任務のため出帆。同年10月31日、バミューダ海域にて大型ハリケーンに遭遇、全船員とともに消息を断った。

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