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11. 南北アメリカの500年 第1巻 「他者」との遭遇 ~ ハンパないチート作物で異世界交易の美味しい商売しようと思ったら、繋がってたのはブラック・アフリカでした (下) 砂糖! 砂糖! 砂糖!

われらは白人たちのコンパスと定規の奴隷になるだろう。

われらが神々はそれを為すがままにさせるだろう。

われらのうちの知識ある者たちは、小さな店で酒瓶を囲みながら小声で耳打ちするだろう。

われらの祭司たちも白人たちを為すがままにさせるだろう。

そして、われらの兄弟たちは一握りの米粒のためにわれらを鞭打つことだろう。

こうして、われらはユデア平原よりもさらに多くの殉教者を出すことになるだろう。


――戯曲『アマズールー人』第三幕

 前回までのあらすじ。フランスが北米内陸部へ雑に入植。イギリスが先住民を駆逐しながら北米東沿岸部へ入植。

 おかしいな、もう17世紀半ばだぞと思った皆様。ここからが本番。プランテーションの開幕です。



「南北アメリカの500年 第1巻 「他者」との遭遇」著:歴史学研究会

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002214708-00


 1648年にブラジルのペルナンブーコからオランダを追放したポルトガルだったが、それ以前から製糖業には黒人奴隷を用いていた。先住民が疫病で減少したため、1575年にアフリカ南西部にルアンダを建設、そこを拠点として黒人奴隷を輸入していた。


 既に1503年にスペインもイスパニョーラ島の西領ドミニカでアメリカ初の糖蜜工場を建て、製糖業に成功していたのだが、あくまでも本国との中継地点と見ていた。だが、ブラジルでオランダが敗れると、製糖業に携わっていた改宗ユダヤ教徒も共にカリブ諸島へと逃がれた。そしてカリブ諸島の状況は一変する。


 英領バルバトス、西領ジャマイカ、蘭領スリナム、イスパニョーラ島の仏領サン・ドマング(ハイチ)。改宗ユダヤ教徒の逃亡先で次々と製糖業が開始された。これまでの資源略奪や都市建設とも異なる、欧州向けの商品作物を生産する経済植民地の誕生だった。こうした植民地の変化に伴い、世界経済は大きな変容を遂げることになる。



 1630年以降、タバコの流行によってチェサピーク湾から小アンティル諸島のイギリスの植民地は小規模なタバコ栽培のモノカルチャーに傾いていた。しかし、副産物を持たないタバコは過剰生産が避けられず、不況時には雑草同然となって生産者に打撃を与えた。


 こうした中でオランダ商人はタバコの代用品として、砂糖の導入をイギリス商人に提案する。同時に、オランダはポルトガルの奴隷貿易の拠点である西アフリカのエルミナを1637年に、ルアンダを1648年に占領。ブラジルの砂糖を捨て、アフリカの黒人奴隷を獲得するという戦略をとっていた。


 かくして舞台は整った。砂糖とその生産に必要な黒人奴隷の貿易について、圧倒的イニシアティブを握ったオランダの覇権が揺るぎなく保証されたのである。オランダ商人は三本ローラー式キビ搾汁機(ミル)、煮沸釜、奴隷など、砂糖生産に必要な設備や人材をポケットマネーでタバコ農家のイギリス商人に提供した。


 アメリカで生産された砂糖はオランダ商人が自前の船で欧州へと輸出した。砂糖は甘味料として大衆にも普及しており、また各国の王宮で王侯貴族が大量の砂糖菓子を晩餐会で振る舞っていたことから、確実な利益となってオランダ商人を富ませた。紅茶やジャムといった嗜好品の習慣化は、さらに砂糖の利益を後押しした。



 これまで小規模なタバコ栽培を行っていた英領バルバトスは、瞬く間に黒人奴隷による砂糖プランテーションへと変貌した。それに伴い、植民地各地で白人が少数、黒人が多数の人口構造が生み出された。単なる海賊の基地、交易の中継地点に過ぎなかったカリブ諸島は、砂糖プランテーションによって世界を結ぶ経済ネットワークの中心地となったのである。


 その後、チェサピーク湾からカリブ諸島そしてブラジル北東岸に至る長大な大規模プランテーション地帯は、地域によってタバコ、米、綿花、インディゴ、コーヒー、カカオなど様々な商品作物を産出した。その発展を推進した最有力の共通要素は砂糖だった。砂糖プランテーションが黒人奴隷の爆発的需要を生み出したからである。


 1645年、砂糖転換期のバルバトスでは黒人奴隷は6千人だったが、1711年には4万2千人に増加した。他のカリブ諸島でも、スペイン領を除く植民地で、砂糖生産の増加とともに同様の傾向が見られる。だが、プランテーションは黒人奴隷を使い捨てる自転車操業であり、常に黒人奴隷の供給を必要とした。ヨーロッパは砂糖だけでなく、黒人奴隷の命をも無神経に消費し続けた。



 最後に再度、イギリスについて。当初、都市建設を目標に入植が行われてきた北米のイギリス植民地では、奴隷制について検討されていなかった。しかし、タバコ栽培時に白人奉公人で事足りたプランテーションが黒人奴隷の導入に変化すると、入植者のイデオロギーや法律にも調整が必要となった。


 そこで、英国人は奴隷を単なる私有財産として扱うことに決めた。自由人を奴隷化したのではない。あくまでも「黒人」は労働を行う商品であり、英国人は「黒人」を購入しているだけであると。アメリカにおける奴隷法の成立である。しかし、奴隷法には重大な欠陥があった。


 他のカトリック国が取り決めてきた奴隷解放(マニュミッション)を認める条件が抜けていたのである。



 英国の北米植民地は先住民という社会の外、黒人奴隷という社会の内への人種的差別、民族的排外を通して白人同士の結束を強めた。そこから生まれた合衆国憲法にも、当然のように奴隷制の承認と先住民の排斥が宣言されていた。アメリカの歪んだ人種社会は、近世の時点で宿命づけられていたのかも知れない。

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