11. 南北アメリカの500年 第1巻 「他者」との遭遇 ~ ハンパないチート作物で異世界交易の美味しい商売しようと思ったら、繋がってたのはブラック・アフリカでした (中) Youは何しにアメリカへ?
我々がインディオ諸民族の中に、たまたま欠陥なり、野蛮で堕落した慣習なりを見出して驚いたりするのは、まったく言語道断である。
それを根拠に彼らを軽蔑するというのは、まったく不当である。
たとえその民族が悪徳にどっぷり浸かっていようとも、福音書の教えを共有しようとする限り、そこから排除される理由はないのである。
世界の民族のすべてとはいわぬまでも大部分が、それ以上に堕落し、非合理的で、退廃している。
かつて異教徒であった我々の祖先が、我がスペイン全域にわたって居住していた時代、我々自身が野蛮な生活様式や堕落した慣習を保持していたのであり、彼らインディオよりはるかに劣っていたのである。
――ラス・カサス『弁明的史論』
前回までのあらすじ。スペインの征服者によってアステカ、マヤ、インカ帝国は滅びた。生き残った先住民については共同体を再編成、人口を集約して植民地の労働力とした。
メキシコと南米の収奪を見た他国人の心は穏やかではなかった。自分たちも楽園を探して土地を開拓しつつ、隙を突いて後釜に座りたい。そのために手段を選ぶ良心など近世には存在しなかった。
「南北アメリカの500年 第1巻 「他者」との遭遇」著:歴史学研究会
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002214708-00
北米にはフランスとイギリスとスペインが植民地を築いた。スペインは中南米で宝の山を手にしていたので北米では気楽だった。しかし、スペインが取りこぼした北米を巡るフランスとイギリスの植民計画は、失望と挫折の連続だった。
まず、フランスには交易体制を築く土台が無かった。当時の商取引ルートはすべてフランスを迂回していた。交易不毛国家、それがフランスである。唯一、タラ漁の船乗りがカナダ北東部、セントローレンス川やニューファンドランド島への航路を知っていた。拠り所としては頼りないが、それがフランスにとってのすべてだった。
フランス王フランソワ1世は交易の利益ではなく国家の威信のため、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗する必要があった。1534年、ジャック・カルティエはアメリカからアジアへ抜ける北西航路を目指し、セントローレンス川を遡上した。しかし彼らの冒険は太平洋に届かず、ケベックのガスペ岬で「フランス万歳」と書かれた十字架を建立する様子を先住民に見せるに留まった。
先住民は仏人に対して「軟弱」「変なヒゲ」という印象を抱いていた。サバイバル術を知らず、先住民の助けが無ければ生き残れない仏人は異世界を訪れた一般人に過ぎない。宣教なんて戯言を優先している場合ではない。宗教改革の最中、プロテスタントも植民地には必要だった。
植民は遅々として進まず、ようやく1608年のケベック建設に至りヌーベル・フランス初代総督サミュエル・ド・シャンプランによって基礎が固められた。彼は地元のヒューロン族から信頼を得て、毛皮交易の布石を作った。だが、その後はヒューロン族と敵対関係にあったイロコイ族の襲撃が発生、1629年にイロコイ族はイギリスによるケベック占領にも協力、関係悪化の一途を辿る。
この頃、本国ではナントやボルドーの湾港が発展、商取引ルートが確保されたことで、1663年のユトレヒト条約による北米における英国の権利拡大後も、フランスは植民地定着を図った。ルイ14世の治世下で、ジャン・コルベールはセントローレンス川に住民を集中させて農耕社会を築くように要請した。
人口増加のため、先住民との婚姻許可や「王の娘たち」と呼ばれる花嫁が本国から呼び寄せられ、植民地に加わった。だが、植民地は冬になれば川が凍結し、春まで本国と連絡のつかない陸の孤島だった。コルベールの命令に反してヌーベル・フランス領は内陸に拡大し続け、毛皮交易を主体とした独自の空白地となっていった。
一方、英国は国家の威信に囚われず、虎視眈々と利益を追った。スペイン船を私掠船で襲いつつ、1588年にアルマダの海戦でスペインを下すと、海軍力を背景に植民に乗り出す。そして、ハドソン湾から北米沿岸への足掛かりを掴んだ。1607年、チェサピーク湾から上陸した入植者はヴァージニアにジェームズ・タウンを建設。1620年にはニューイングランドにメイフラワー号が到着し、プリマス港を開いた。
英国人に対して先住民は「何故ここに来たのか?」「何故我々をインディアンと呼ぶのか?」と何度も尋ねたという。先住民にとって白人は商人であると同時に、森を焼いて失ったために新たな土地を探している放浪者にも映った。だが、白人が先住民を十把一絡げにインディアンと呼称する理由は理解できなかったに違いない。
英国はコルテス以降のインディアン=野蛮人というイメージに囚われていた。また、他のカトリック国と異なり、英国人は土地所有の権利に強く突き動かされていた。怠惰な未開の異教徒である野蛮人と共存する必要など無く、彼らの土地を購入するのは単なるトラブル回避に過ぎない。「願ってもない疫病」で先住民が激減した際、マサチューセッツ総督は「主が土地所有の正当性を認めた」と記している。
カトリックの宣教師が先住民の言語や歴史を学んだのに対して、英国のプロテスタントの宣教師はそれに倣わなかった。最初から異教徒である先住民は排除すべき存在だった。先住民にとって飲酒が抑制の効かない悪癖であることに気付くと、英商人は率先して酒を売りつけた。また、毛皮交易によって北米の生態系が破壊されることにも無頓着だった。フランスに協力するヒューロン族を倒すため、敵対するイロコイ族に銃火器を売る等、英国は先住民同士の戦争も焚き付けた。
先住民文化の徹底した破壊、それは主の認める正当な権利だった。英国国教会から逃れ、プリマス港を開いたピューリタンたちがアメリカ建国神話を生み出した後も、「明白なる運命」は続いた。