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三国列伝―魏・曹操  乱世の奸雄

挿絵(By みてみん) 挿絵(By みてみん)


曹操そうそう 字は孟徳もうとく

豫州沛国譙県の人(155~220)


魏の建国者にして英雄。三国志の主役。


祖父の曹嵩そうすうは宦官であったが、金で三公の位を買い(三公とは政治のトップ3の地位。当時は文字通り金を払えば地位が買えた)曹家の名を高めた。

若い頃は幼なじみの袁紹と組んで花嫁泥棒をしたりと無頼漢で、身長7尺(161センチ)で風貌は冴えなかったが文武両道に優れ、一見した名士の橋玄きょうげんはまだ一役人に過ぎない曹操に「天下は乱れようとしており、当代一の才の持ち主でなければ救うことはできない。天下を安定させるのは君である」と言い、人物鑑定の大家である許邵きょしょうは「治世の能臣、乱世の奸雄」という評(穏やかな時代ならば優れた官吏に、乱世ならば国を揺るがす傑物になるだろう、という意)を与えるほどだった。


20代で都に上り、騎都尉として北門を守った。その法は厳格で、禁を破り夜間に出入りしようとした高官の親戚を殴り殺し、一躍声望を高めた。上の者たちは曹操を煙たく思ったが、落ち度がないため罰することができず、地方に栄転させることで遠ざけた。

黄巾の乱でも多大な戦果を上げ、西園八校尉(袁紹も名を連ねている)に任命された。

だが大将軍の何進かしんが宦官に暗殺され、その報復で宦官も一掃され、混乱に乗じて董卓が台頭すると、宦官の孫である曹操にもはや居場所はなかった。

都を脱出し、故郷に戻ると私財を投じて兵を集め、旧友・袁紹を盟主に据えた董卓追討軍に名を連ねた。


脱出した際の次の逸話がよく知られている。

逃げる途中、旧知の呂伯奢りょはくしゃに匿われたが、自分を捕らえようとしていると誤解し、一家を皆殺しにしてしまった。

しかし曹操は悪びれることなく「私が人に背くことがあっても、人が私に背くことは許さない」と言い放ったという。

「正史」の記述にはなく創作だと思われるが、曹操という人物をよくとらえた言葉である。


まだ地位も勢力もない曹操は小勢ながら果敢に董卓軍と戦い、敗れはしたものの名声を高めた。

兗州刺史が戦死すると後任となり青州黄巾軍と戦い、30万とも言われるその兵力を傘下に収め、また「兄嫁を奪った者であろうと(当時の価値観では、ある意味殺人にも勝る重罪である)才能があれば迎える」と称された人材登用で一気に力を蓄えた。


父が徐州の滞在中に殺されると、報復として徐州で大虐殺を行なった。河が死体で堰き止められるほどの惨状だったが、その隙に背後で呂布が蜂起したため引き上げた。荀彧じゅんいく、夏侯惇、韓浩かんこうらの必死の防戦がなければ、一息に滅亡していたほどの危機だったが、折からの飢饉も味方し、呂布は撤退し辛くも窮地を逃れた。


196年、董卓の死後、都を牛耳っていた李傕りかくらのもとから皇帝が逃げ出すと、それを助けて李傕らを一掃し、皇帝庇護を錦の御旗に立て、都を許昌に移し政権を築き上げた。

翌197年、曹操は宛城の張繡ちょうしゅうを降伏させるが、張一族の未亡人・鄒氏すうしと密通したことに激怒した張繡は、賈詡の献策で謀反を起こした。

曹操自身は命からがら逃げ延びたが、嫡子の曹昂そうこう、腹心の典韋、甥の曹安民そうあんみんは曹操を守って戦死した。

曹操の正室・丁氏ていしは子供がなかったことから側室の子の曹昂をかわいがっていたが、戦死の報に激怒して実家に帰った。

曹操は迎えに行ったが、丁氏は口をきこうともしなかったため、離縁された。

代わって踊り子だった卞氏べんしが正室となったが、卞氏は常に丁氏のことを気づかい、曹操に内緒でたびたび自宅に招きもてなしたという。


198年、張繡に報復を果たし、さらに呂布、袁術えんじゅつらを相次いで平らげ、中原の大半を手中に収めた。

だが残る北方の覇者・袁紹の勢力は曹操をはるかに上回り、また四方を敵に囲まれた曹操には、袁紹に対して回せる戦力は限られていた。だがこの時は天運も曹操に味方した。南方で都を急襲しようと機をうかがっていた孫策は急死。西の劉表は老齢ということもあり動かず、また韓浩らの献策で取り入れた屯田が当たり、曹操は官渡で持久戦を挑むことができた。


戦力差は何十倍もあったが、曹操は防戦のかたわら情報を集め、袁紹軍の兵站基地を突き止めると、奇襲でそれを落とし、一気に戦況を逆転させた。袁紹は敗戦の失望から間もなく亡くなり、後継者を指名しなかったことから袁氏の残党は互いに争い自滅していった。

曹操は遠く北の果てまで攻め上がり、袁氏の勢力をことごとく吸収した。戦いは困難をきわめ、片腕だった郭嘉も風土病で亡くなった。

戦利品として得た書状の中から、曹操軍の諸将が袁紹と内通していた証拠がいくつも見つかった。だが曹操は「私とて袁紹に勝てるかどうか不安だった。下の者が動揺して内通を考えるのもしかたない」とその全てを中身も見ずに焼き捨てさせた。

そして「誰もが北征は無謀だと忠告してくれたが、まさかこれほどとは思わなかった。今後も遠慮なく忠告してほしい」と諸将に頭を下げたという。


208年、北方のほぼ全域を治めた曹操はついに中華統一を目指し、大軍を南下させた。

荊州の雄・劉表りゅうひょうは老齢から間もなく亡くなり、あとを継いだ劉琮りゅうそうはすんなりと曹操に降った。

劉表の客将だった劉備は、軍師に迎えたばかりの諸葛亮に「荊州の軍勢をまとめて対抗すべき」だと進言されたが、劉備は「劉表殿の恩義を裏切ることはできない」と拒否し、わずかな兵をつれて逃げ出した。劉備を慕い多くの民や劉表の旧臣が付き従ったが、そのせいで進行速度は大幅に減じており、曹操は夏侯惇を騎兵で急行させると、それをさんざんに打ち破った。

劉備は冷遇されていた劉表の長男・劉琦りゅうきや先行していた関羽の助けでどうにか逃げ延びたが、もはや抵抗する力はなく、残す敵は江東の孫権だけとなった。


孫権の陣営も降伏論に傾いていたが、軍事の筆頭である周瑜は「曹操軍は水戦に不慣れで、補給線は延び、疫病も流行している」と勝算を数え上げ、劉備と独断で同盟を結んできた魯粛ろしゅくや、使者として赴いてきた諸葛亮も抗戦を主張したため、孫権は戦いを決意した。

赤壁で両軍は対峙したが、周瑜の読み通り疫病で曹操軍は動けず、呉軍もまた指揮系統の混乱や戦力差から動けず、戦況は膠着した。

だが黄蓋の偽装投降策が当たり、艦船に多大な被害を受けると、曹操はやむなく全軍退却を指示した。

荊州の大半は孫権、劉備の手に落ち、曹操の天下取りの夢はあえなく潰えたのである。

曹操は「郭嘉さえいればこんなことにはならなかった」と嘆いたという。


西方では馬超、韓遂かんすいらが挙兵し、北方では烏丸や異民族がたびたび蜂起していたため、南方の攻略は困難と悟った曹操は、馬超、烏丸族らを退けると漢中に兵を向けた。張魯ちょうろはすぐに降伏したが、攻略中に益州は劉備の支配下に入った。

勢いに乗る劉備は漢中に攻め上がり、攻防の末に曹操は撤退を決意したが、夏侯淵を失ってしまった。


その間の213年には魏公、216年に魏王となり、後漢王朝を実質支配することに成功したが、自身は丞相の地位についたまま、帝位を望もうとはしなかった。


219年、荊州の関羽が北上を開始し、于禁うきんを破り、曹仁を包囲した。

身を持って関羽の恐ろしさを知る曹操は遷都を考えたが、司馬懿らの進言により翻意し、孫権の協力を取りつけ関羽の背後を襲わせると、徐晃、張遼を差し向け関羽を退けた。

関羽は孤立した末に戦死し、孫権は劉備の怒りの矛先をずらすため、曹操に関羽の首を送りつけたが、曹操はそれをねんごろに弔った。


220年、曹操は66歳で世を去った。

「戦時中だから服喪の期間は短くし、墓には財宝を入れないように」と言い遺したという。

人々は急死したのは関羽の呪いと噂したが、曹操はもともと頭痛の持病を抱えており、また当時としては高齢だったため、不審なところはない。


~曹操、その才~

曹操は劉備や孫権らその他の英雄とは異なり、小男で見栄えも冴えなかった。

他国の使者と面会するときには、立派な風采の者を代理に立て、自身は衛兵に化けて側に控えたという。


革新的な考えの持ち主で、特に人材登用に当たっては才能だけを見て、身分や品行方正を問題にしなかった。自身を何度も裏切った者でさえ、才あれば気にせず召し抱えるほどだった。

荀彧、荀攸じゅんゆうらを中心に参謀集団を作り、政策・戦略の決定に関与させたが、こうした軍師の組織化は世界初の試みだという。


韓浩らの建議で屯田制を始めたのも画期的である。

これにより曹操軍は兵糧に悩まされることはほとんどなく、他の群雄よりも常に有利に戦いを進めることができた。


他にも朝廷の官位を一新し、権限を一元化した。

州の区分けを改め、地方分権から中央集権型の軍隊を作り上げた。

まず曹一族から財産を把握させ、戸籍を整理し、徴兵や徴税を正確に行えるようにした。

他勢力との人口の奪い合いを避けるため、勢力圏の境界線上に住む人々を中央に移し、また積極的に異民族を移住させ兵力とした。

などなど、新たに押し立てた政策は枚挙にいとまがない。


軍事においては優れた兵法家であり、勢力を拡大してもなおほとんどの戦に自ら軍を率いて臨んだが、生涯を通じて9割以上の高い勝率を残した。

それも敗れたのはほとんどが兵力の差(董卓との戦い)や謀叛(呂布の裏切り、宛城の戦い)や地理上の不利(赤壁の戦い、漢中の戦い)によるもので、正攻法で敗れたのは、馬超との潼関の戦い(これも奇襲により危地に陥っただけで結果的には勝利している)くらいである。

また現存する『孫子の兵法』は曹操が自ら編纂したものであり、他にもいくつもの兵法書を著し(残念ながら全て散逸している)後世の将軍たちに用いられた。

武芸にも優れ、草創期に兵を集めたとき、反乱が起きたが、自ら剣をふるって数十人を切り捨て鎮圧して見せたり、若い頃には宦官の邸宅に忍び込み、発見されたが手戟を振り回して悠々と逃げ延びたという。(この逸話は『蒼天航路』で見事に脚色されている)


詩人としても当時を代表する一人であり、無数の詩を残し、自ら作曲までした。表現は簡潔ながら、力強く雄大な詩が多いという。

その他、書道、音楽、囲碁、果ては料理にまで造詣が深く、後世に張華ちょうかが著した『博物志』では、それらに長けた当時の人物と並び、曹操の名が挙げられているほどで、酒の醸造にまで手を出し、現在の日本で行われている「段掛け方式」の原型を発明したとされる。


文武両道のみならず、旺盛な好奇心と驚異的な適応力で、ありとあらゆる分野の知識を蓄え、そのどれもが一流となった、これほど広範な才能を持った人物は、世界広しといえども歴史上、曹操ただ一人ではなかろうか。

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