なつのゆうわく
【第9回フリーワンライ】
お題:ナツの呼び声、宵闇に紛れて
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
宵闇に紛れて、男が人混みを縫って歩いていた。
ぴっちり揃えた頭髪に、印象に残らない顔、ダークグレーのスーツに、ジュラルミンケースを携えている。
どこにも不審さはなく、帰宅中の営業マンにしか見えない。
しかし彼の正体はサラリーマンなどではなく、プロの泥棒だった。
今日も一仕事終えた成果――何気なく持ったケースだ――を携えて、どのルートからねぐらに戻ろうか思案しているところだった。
時刻は夜八時を過ぎ、人通りはますます増えていく。
差し当たって急ぐ必要もない――が、不意に男は自然な動作で建物の影に入った。
進行方向に制服警官の姿を見付けたのである。
もう手が回ったのだろうか。それとも、繁華街が近いために行っている通常巡回か。
とにかくやり過ごすのが無難である。
どこかの店に入るのが手っ取り早いが、ふと男の目に壁に貼り付けられたポスターが飛び込んできた。
『夏の風物詩との呼び声高い
ホテル大和の屋上ビアガーデン』
エレベーターを降りると、途端に熱気が押し寄せてきた。冷房の効いた箱とは対照的な、物理的な圧力を感じるほどの暑さ。
階下で見たポスターは如何にも涼しげだったというのに。
屋上は日中太陽にじりじり炙られ続けて、夜になってもまだ熱気が逃げ切っていないのである。屋上ビアガーデンは、その印象とはかけ離れて実はかなり過ごしにくかった。
男は途端に喉の渇きを覚えて、適当なテーブルに陣取った。
客の入りはまずまずのようである。一人客はほとんどいなかったが、あちこちで陽気な話の花が咲いている。
ウェイトレスが踊るように滑らかな動作で近付いてきた。
「ご注文はどうされますか?」
思わず「ウーロン茶」と言いかけて、はたと気付く。
ここはビアガーデンだ。男が一人でビアガーデンに来ているのに、ノンアルコールを頼むというのは如何にもおかしい。
変に目立って印象に残るのは良くない。そういうところから足が付くかも知れない。
平凡な客として振る舞わなければ。
「び、ビールを一つ」
「ハイ、生がお一つ」
…………
間。
ウェイトレスは明らかに次の言葉を待っている。
(あ、つまみか)
男は仕事中は飲まない主義、というより、普段からほとんどアルコールを飲むことはなく、従って店での注文には不慣れだった。
テーブルに貼り付けられたメニュー表を一瞥し、
「えー、じゃあ、このナッツの盛り合わせを……」
本当はなんでも良かったのだが、まるで吸い寄せられるようにナッツを指し示した。
ウェイトレスは注文を復唱してからテーブルの向こうへ消えた。
ようやく落ち着ける――と思う間もなく先程のウェイトレスが戻ってきて、黄色い液体がなみなみ湛えたジョッキとやけくそのように盛られたナッツの器を置いて、またどこへともなく注文を取りに行った。
やっと一息である。
緊張が解けると同時に、不思議と腹が減っていることに気付いた。
ナッツを摘まんで口に放り入れる。
(う。なんだこれは。辛い)
その種実はとてつもなく辛かった。
塩辛さに耐えきれず、普段飲まないビールをぐいっと煽って流し込む。
苦い。
苦いが、しかし、炸裂する炭酸がナッツの塩味と脂っ気と共に胃袋へと流れ落ちると、彼の眉間を爽快感が貫いた。
屋上の暑さも、湿気も、全てが吹き飛んだ。
(なるほど、ビールはこうやって飲むものなのか……)
またナッツを一掴み噛み下し、ビールを一口。
美味い。
気が付くと、空のジョッキを捧げ持って、ウェイトレスを呼んでいた。
そして、自分の正面に誰かが座っている。
(知らない女だ)
まったく身に覚えはなかったが、親しげな雰囲気である。
とりあえずナッツを一口食べた。
女が口を開く。
「あなた本当にナッツね」
男は聞き返した。
「なんだって?」
「夢中だって言ったの」
その時、ウェイトレスが替わりのジョッキを持ってきた。
男はそれを受け取るやいなや、ナッツと一緒に飲み干した
次に気が付いた時には、さっきの女はいなかった。
だが、男はなぜかさっきとは違う大きなテーブルに座っている自分を発見した。
左右から、妙に親しげに語りかけてくる人間がいる。どちらも見覚えはなかったが、鬱陶しくてたまらなかった。
とりあえずナッツだ。
ジョッキを煽る。
「あの、すいません。お客さん?」
肩を揺り動かされて、男は目が覚めた。
見回すと、あれほど騒々しかったビアガーデンが閑散としている。
熱気はとうに抜けきり、人気のなさと合わせて随分と屋上の温度が下がった気がした。
「お会計をお願いします」
男を起こした店員が、そう続けてきた。
そしてやたらと分厚い伝票の束を押しつけられる。
「う、む……?」
目を白黒させながらも男は伝票に目を通すと、その合計金額に思わず、アルコール漬けになった目を皿のように見開いた。
とても現実的だが充分に大金と言える金額がのたくっている。いや、のたくっているのは目が回っているせいか。
あやふやな記憶を探ると、どんちゃん騒ぎのおしまいに、気が大きくなって全員分の払いを引き受けたような気がする。
勿論、スーツのポケットにある財布にそんな金額を払える余裕はない。
まあ、待て。落ち着け。
金ならあるんだ。
男は、これだけはきっちりと確保していたジュラルミンケースをテーブルに上げ、ケースと一緒にくすねてきた暗証番号をメモした紙を盗み見ながら、鍵を開けた。
中には札束が入っているはずだった。
入っていたのは書類の束だった。
男が盗んだジュラルミンケースに入っていた書類は、インサイダー取引の資料だった。
しかもそれは、よりにもよってナッツ仲買業者のものだった。
翌日のスポーツ新聞朝刊一面には「ナッツ書類泥棒、ナッツの食べ過ぎでお縄」という記事が踊った。
ナッツの呼び声……(ぼそっ)
最初にこれを閃いて、他には何も考えられなかった。反省はしない。