壊れた世界
淡い月の光が僕を照らしていた。
真っ暗な世界の中で、唯一僕を照らしてくれる淡くて、力強い光だ。
ギシーーと音がした。あまりにも幻想的な月の光に目を奪われていた僕は、その音に何の躊躇も無く、振り返る。
「あーー」
声が自然と漏れた。音がした方向を見やれば、月の光に照らされた、女神が僕の前に居たからだ。
「貴方はーー何故?何でここにいるのよ?」
女神が、やりきれないといった表情を見せながら、一度俯き…ゆっくりと顔を上げると、僕を無表情で見つめーー
「ごめんなさい…私にはどうすることも出来ない…ただ、そうねーー」
女神が僕を一瞬だけ睨み付け、また無表情になると、軽く息を吐き出しながらーー
「ここに来たのは、多分運命ね…貴方はーーそれを望んだだけよ」
思考が急激に鮮明になった。
淡い月の光が、しっかりとした月光の色を取り戻し、僕の視界が『ソレ』を認識した。
女神ーー違う。彼女の事は良く知っている。彼女は、相変わらずいつもの服装のままで、僕の前に立っている。
漆黒のセーラー服、どこの学園のだか解らないが…彼女しか着ていない夜の闇を深くした真っ黒のセーラー服を身に付け、しなやかな体躯に不釣り合いな、目を奪われるその豊満な胸を揺らしーー
腰まである黒くて長いロングストレートの真っ直ぐに下ろした髪が、月光に彩られ、周りの闇を照らすように光を帯びーー
整った顔立ちで、まるで出来の良い人形を見ているような白い肌にーー
不釣り合いな切れ目の真っ赤な瞳が、僕を射ぬくように見つめーー
「あ…う…ぁ?あーー」
その背後や両脇に…見たこともない…いや、マテーーあの紺色の布は確かーー
「自分の運命を呪うなら、呪いなさい…大丈夫ーー一瞬だから」
無表情な顔が、口の端だけ笑みを浮かべる。
目の錯覚だと疑うような、見たことすらない笑みを見せられ、唐突に自分の足がボロい床を踏みつけ、その反射的な行動のおかげかーー体がゴロゴロと横に転がり始めた。
視界に映る、古びたステージの壇上を見やりながら、ふとーーここはどこだろう?と思う
そうだーー思い出した。今いるこの場所は、旧校舎跡の廃校の体育館だ。
友人と共に、探検と称する肝試しに来たんだ。それでーー
「無様ね…実に下らない無様な姿ね」
ギシ、ギシ、と一歩ずつ聞きたくない音が響く。アレが聞こえなくなった時はーー
「ーーッ!!」
ゴロゴロと転がる体を無意識に立たせようとして、激痛が走り、腕を伸ばそうとしてーー何故か床に顔をぶつけ、ジタバタと…もがく事しか出来なかった。
「あら、ごめんなさい…貴方が動くから狙いが逸れたのよ…大丈夫、大丈夫…ほーら」
笑っている声に聞こえる。普通に彼女は喋っているのだろう。
だが、僕には笑った声に聞こえた。ボロい床に体を叩きつけながら、痛みと充満する血の匂いと、赤い景色を眺めながら前に視界が動きーーバタバタと動かす足が床を蹴り飛ばし、埃とカビ臭い匂いを嗅ぎながら、何とか前に進むしかなかった。
「追いかけっこもいいけど、いい加減歩くのが面倒だわ…ちょっとだけーー」
その声と共に風が僕の頬を柔らかく撫でた。
血の匂いと埃とカビに支配された筈の鼻腔が、甘い匂いに包まれーー
瞬間、世界が回転した。いや、正確に言えば凄まじい衝撃を脇腹に受け、体が宙を舞いながら回転しているとわかったのは、目の前にあるのが壇上の床だと認識しーー
「終わりね」
声が耳元で響く。刹那、更なる衝撃と何かが砕ける音がハッキリと脳に響き、そのまま背中から叩きつけられた。
「ぶ…は…ぁ、ぐ…」
声にならない何かを発し、空気が漏れる。
それでもなおーー動いたか解らない体を懸命に動かすのは、生きている証なんだと僕は思う。
「さようならーー貴方は、本当は死なない筈だったんだけどね」
彼女がそんな独白を漏らし、僕の腹に押し付ける足の力を更に込めながら、ゆっくりとーー彼女の体から一振りの剣を引き抜く。
血が飛び散り、しかし、表情すら変えずに彼女は、その切っ先を僕へと向ける。
「ーーいいよ」
「…?まだ喋れるの?…貴方はーーまあ、いいわ」
僕を見る真っ赤な瞳が、ほんの少しーー揺らいだように見えた。
「君は…僕の…大事なーーぐ…だか…」
ヤバイなぁ、もう痛くないんだよね。体が痛くないから、喋っても反動無いのが救いかなぁ。
「……バカ」
その言葉と共に、泣き顔のように揺らぐ瞳を見て、僕はーー笑ったんだ。
笑ってーーそう、安心させたかったんだ。
そうだ、僕はーー
「君を一人に何てさせてやらないよ」