第35話 対比するには丁度良すぎる
「ただいま」
音を立てて父が扉を開けた。中はしんと静まりかえっていて、父自身が立てた音だけが耳に届く。まだ誰も帰ってきていなかった。だからせめて私だけでも言ってやろう。お帰り、父。
「…前振りが長い。というか、父と呼ばれると違和感が…。20年ちょっと前までは名前で呼ばれてたからなぁ」
父とか弟とか呼び方がなかったからである。
「そうか…」
ネクタイを外して父がどっかりとソファに座った。なんとなくテレビをつけるが、特に面白い番組はなくすぐに消してしまった。天井に目を向けて意味もなくため息をついた。
父よ、暇なら姉と弟の昔話をしていいだろうか?
「どうしてだ?」
読者サービスである。
「そうか…」
「パパぁ、このお人形買ってー」
子供らしい可愛い声がデパートのおもちゃ売り場から聞こえてくる。姉、5歳の時だ。
「買わないよ、紗弥加。この前もぬいぐるみ買っただろ?」
まだ若々しい父が父親らしく言った。ここまでは普通の家族でもある風景。
「パパぁ」
「紗弥加、買わないって言ったろ」
「パパー、もう一緒にお風呂入ってあげないよぉ」
「くっ……!!」
全国の幼い娘を持つ父親がもっとも悲しがる言葉を姉がスマイル全開で言った。父はこの攻撃に怯んだが、威厳を保って姉に言う。涙目で。
「もう紗弥加も5歳だもんな…。パパとなんか入りたくないよな…。もう入ってくれなくてもお人形は買わないからな」
姉が悲しそうな顔を一瞬見せたが、またすぐに笑顔になって言った。
「パパぁ、しゅんちゃんにこっそりおもちゃ買ったのママに言ってもいーい?」
この当時、弟1歳。父は初の息子を喜んで、頼まれてもいないのに息子のためにおもちゃを買っていた。母に内緒で。
「…どのお人形が欲しいんだ、紗弥加」
姉は小さい頃から姉だった。
パパと呼んでいた時代もあったんだな…。
「まだこの頃の方が可愛げがあったかな…」
いや、普通の5歳児の可愛げはない。
「そう…だな」
弟の話は?
「丁度いい話がある」
「お父さん、これ買って」
姉とは違う落ち着きのある声で弟が言った。当時、弟5歳。幼稚園でも大人しいと言われ続けている時代だ。
「今日はそんなにお金持ってないんだ」
「…じゃあ、こっち」
弟は妥協して、もっと安いおもちゃを指差した。この時すでに値段が読める辺りが現在の弟に通じるところがある。
「おもちゃは買ってやれないよ」
「これぐらいなら持ってるでしょ?さっき見たらお札何枚か見えたもん」
なんとちゃっかりした子供だろうか。
「俊介、そんなに欲しいならお母さんに聞いてごらん。お母さんがいいって言ったら買ってあげるから」
父が斎藤家最大級の呪文を言った。普通の人である父と弟だけに効く呪文だ。
「…じゃあいらない」
母はやっぱり怖かった。
弟は可愛げとかよりもちゃっかり度合いが…。本当に5歳児か確認したくなるな。
「あぁ。でもまだ紗弥加より扱い易い…」
「天の声ー!!」
怒号と共に弟が駆け込んできた。お帰り、弟。
「ただいま…って挨拶してる場合じゃない!!なんの話してるんだ!!なんの話を!!」
なんのと言われても、父と楽しく昔話を。
「ただの昔話してただけだぞ」
「昔の話なんか蒸し返すな!!ろくなことないんだ!!特に天の声が話すと始末が悪い!」
そうだろうか?
「そうだ!!」
怒り心頭の弟が鞄をほうり投げた。鞄は見事な弧をえがき…今まさに帰宅した姉の頭に直撃した。その場の温度が一気に下がる。
「…お帰り、姉貴」
姉がにっこりと微笑んだ。5歳の時のスマイル全開よりも危ない笑みだ。
「ただいま。俊介、私が何言いたいか分かる?」
「…いいえ、さっぱり」
少なくとも危険だということはこの場にいる誰もが分かるが。
「鞄は投げる物じゃないでしょう?」
「その通りです」
「じゃあ、悪いことしたってわかったるわよね?」
「…すいません。ごめんなさい。申し訳ございません。許して、姉貴」
弟が謝りまくったが、姉の表情から危険な笑みは消えない。
「俊介、お姉様とお呼び。それと、一回私が受けた痛みを味わってみるといい」
「マジでやめてください、お姉さ……あ」
姉が本気で投げた弟の鞄はコントロールを誤り、弟ではなく父の顔面に当たった。
「あ…間違えた…」
父がばたりと後ろに倒れる。今のはかなり痛そうだ。大丈夫か?
「…なんでこんな役目ばっかり」
宿命としか言えないのである。
流れ弾に当たった父がなんとも哀れ…。
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