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Driftwood ~救い上げられた男~






「どんなときでも死角に注意(チェッキングシックス)よ!」






虚を突かれた形となったが、落ち着きはらって体勢を立て直し、足先から飛沫を上げずに着水。

突然の落下物に驚いた魚群が、クモの子を散らすように逃げていく。

気泡を巻き上げながら、重力に従って沈むと、足がサンゴ礁の一つについた。

それを確認すると思いっきり蹴って、急浮上。艶めかしく輝く帳を突き破り、大気を目一杯肺に取り込んだ。

顔にまとわりつく髪を掻き揚げ、船上を見上げると逆光の中に、極端に小さな一人と取っ組み合う二人の影が浮かぶ。


「夏蔭様、御無事ですか!?」


「お前主の背後を狙うとは何事だ!恥を知れ恥を!」


「ちょっと報復しただけじゃない!サボりは厳禁だって言ってたのはどこの誰よ!」


「ほう、謀反を行う気か。ならばこっちもそれなりの対応をしなくてはなぁ」


「じょ、冗談だってば!あんまりにもお頭が美人だから、イタズラしてみたくなっただけ……」


「今すぐお助けいたします!

そこからお動きになされませぬよう!」


「問答無用!」


「水も滴るなんとやらって格言もあるじゃないー!炎魃だって眼福じゃん!」


「だ、黙れぇぇえ!」


「炎魃様、その方の処罰は頼みました!

私は夏蔭様をお救いして、御身体を乾かして、衣服を取り替えて、御髪を解かして、何か温かいものを渡してから行きます!」


「白兎ー、冬じゃないんだから、そこまでしなくていいぞー……、行ったか」


白兎は夏蔭の言葉を聞き届ける前に姿を消し、二人も怒った炎魃が追う形となって奥へ消えていった。

海に突き落とされるのは、気を抜いていた私が悪い。

何せこの船では手摺に寄り掛かって物思いにふけっていると、背中を押されるのが日常なのだ。

今のところ炎魃が最多、白兎はゼロという好成績を保っている。

縄が落ちるだろう辺りに目星をつけて、そこまで泳ごうと水をかく。

まとわりつくしょっぱい水は、誰にも平等であるところが好きだ。彼女には好き嫌いがない。

冷たさを楽しんでわざと遅く泳いでいると、ちょうど手の届くところにあの袋があった。

そういえばあの猫はどこへ行ったのだろう。三人は全く気付いた様子がなかったが、私に気を取られていただけだったのか。

船上に猫の姿を探して視線をさ迷わせ、一方で布の弛んだところを掴んで引き寄せる。

想像以上の重さに驚いた。

しかもちゃんと見た今分かったことだが、その袋には頭と足と手が生えていて、初めてそれが人間であるということを悟った。

年の頃は夏蔭と同じほどか。

肌の白さは元来のものではないだろう。船人にしては白いと言われる夏蔭と比べても、病的なまでに白い。呼吸は浅く、はっきりとは判断し難いが脈は遅い。

少し痩けた頬と深くはないものの無数にある傷を見ると、並々ならぬ事態に巻き込まれていることは明白だ。

腰に違和感を感じて見れば、一振りの刀を帯刀している。ただし使い込まれた感はないが。


「面倒事はごめんだが……」


生きていると知った以上、海の藻屑となるのを黙って見てはいられない。

それに海にゴミが浮いているというのも気にくわない。


「夏蔭様ー」


可愛らしい呼び声が耳を撫でる。

白兎の前で人命を見捨てるなんて、格好悪いことはできない。

夏蔭は左手で彼の襟首を掴み、右手で水をかいて、舷側に垂れる縄を捉えた。

二筋ある縄の間の横板に足をひっかければ、すぐに上昇を開始する。

ぐったりとした身体は水を吸った着物と相まって、米袋でも抱えているかのように腕を圧迫する。

髪から滴る水滴が裾がめくれて露になった脛にかかるので、むず痒くて仕方がない。

ようやく見えた甲板には手拭いを携えた白兎と、縄を引き上げている男二人が待っていた。

降り立つ夏蔭にすかさず駆け寄った彼女は、手摺にもたせかけられる見知らぬ人物を見て、愛らしい瞳に疑問を浮かべながら首をかしげた。


「そちらの御仁は?」


「漂流してたんだ」


びしょ濡れの髪を解き、外へ頭を差し出して、海に水を返す。

あれだけ騒いだのだから、恩人の猫はもういないだろう。

取っ捕まえておいて、後で礼でも言わせるか。

懐手に辺りを見回して黒い尻尾の一本でも見つけようとして気付いた。

床は夏蔭が海に上がる前から濡れていた。それはかの猫が陣取っていた手摺もしかり。

濡れることになんの抵抗も示さない獣へ微かな疑問を抱いたものだが、猫がいた形跡はなかった。

すなわち足跡がないのだ。


「白兎、この辺に猫はいなかったか?真っ黒い猫」


「猫、でございますか?先ほど三毛の雄は見つけましたが」


「本当か。すごいな」


「黒となりますと、前の船内一斉煤掃きの際には、見なかったように思われます。

それに黒は不吉でございますから、さしもの船員方も連れ込むような真似はなさいませぬのでは」


「だよなぁ」


茶と見間違えたのだろうか。だが目が覚めるような漆黒をあの至近距離で?


「御頭、こいつはどうしますか」


答えの見えない思考に囚われかけている夏蔭に、男の一人が話しかけた。

そうだった。いることすら危うい猫を思うより、今現在を憂う方が大事だ。

過去に気を取られていては武人の名が廃るというもの。

爪先を使って頭を小突かれる彼は、身体が冷えて震えているようである。

夏であるとしても長らく水に浸かっていれば、ふやけるし寒くなるのは当たり前だ。


「じゃあ、空いてる部屋に寝かせとけ」


「昨日のバカ騒ぎで、部屋は全部潰れてますが」


「……そうだった。じゃあ、当に空いてる寝床に寝かせとけ。

別に酔いどれが床に転がっててもいいから」


「かしこまりました」


二人はそれぞれ漂流人の頭と足を持って運んでいった。

その後にまたもや水が道を作る。

ここら一帯拭かないとな。

面倒なことにげんなりして、くしゃみをひとつ。


「夏蔭様、早に着替えられたほうが宜しいかと」


「そうするよ」


彼女から手拭いを受け取り、顔を拭う。

真夏ならばまだしも、他より冷えるのが早いこの身体は不便だ。

袖を絞りながら、さっきできた道を伝い、着替えを求めて船内へと向かった。






目を開けたとき、あたりは夜だった。

天井を不安定な光がたゆたい、平衡感覚を狂わせ、まるで箱の中で転がされているような錯覚に囚われた。

寝ている間に大量の汗をかいたようだ。

身体にかけられた薄い布が膠のようにべっとりと貼り付いて気持ち悪い。

不快なタオルを跳ね退けて、身を起こすと、何か込み上げるものを感じた。

咄嗟に壁に手をついて、熱いものを押し止める。

気分は最悪だった。頭は痛いし気持ち悪い。

やはり足元のぐらつく感覚は続く。

頭を振りながら薄暗い室内を見渡してみると、アルコール臭さが鼻についた。

薄暗い中には何やらごろごろ転がるものがある。それに幾つもの吊り床も。

それの一つに彼は寝ていたのだ。

またもや吐き気を覚えたが、そこはぐっと我慢する。

しばらくじっとしていることで、どうにか気分の悪さとの妥協点を見つけた俺は、足で探って靴を見つけようとした。

何かの唸りのようなものが響く殺伐とした部屋。

これだけ物が散乱していては見つかるはずもないだろう。

早々に諦めた。ここはどこなのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。

どこかは大した問題ではないのだ。

重要なのはここがあの忌まわしい家からどれだけ離れているかだけ。

死んだにしたって、それで彼らから永遠に逃げられたと考えていいのだ。

この不可解な空間にそう結論をつけると再び周りを見た。

それにしても、


「冥土もこんなもんか」


「ひどいな。いつもこんなじゃないぞ」


物寂しげな低音だけが淀んでいるとばかり思っていたので、突如として響いた張りのあるハスキーな声に不覚にも度肝を抜かれてしまった。

左に目を向けると傍らと言っていいほど近くに、行李に腰掛けた男がいた。

男は一心に手の中を覗きこんでいる。

闇に溶け込むような黒髪を首でひとくくりした頭がこちらを向いた。

暗がりでただ爛々と輝く二つの瞳は、アイスブルーとコバルト。その煌めきには一種の不気味ささえ宿る。

彼が不気味に映るのは、地獄の水先案内人だからなのだろうか。

ふらりと立ち上がって、半身を向けられる。

だらしなく開いた着流しの内には、これまた黒いミドリフトップを着用している。

腰には刀を差しているが、攻撃する様子はなく懐手に徹している。


「昨日遅くまで宴会してたせいだ。

とはいっても、私は普段この部屋に入らないから分からんが」


男が手近な塊を蹴ると、それからうめき声が生まれた。

どうやら中身は人であるらしい。

理由もなくほっとしている自分がいた。


「いやー、それにしてもお前運がいいな。

普通漂流して拾われる確率なんて、第六天、様が天下に名を轟かせられたくらいの低さだよ」


「漂流……?ここは船の中か?」


「当たり前だろ。じゃなかったらこの磯の匂いと揺れはなんだって言うんだ」


生憎磯の香は酒で消されて分からないが、揺れは酔いからくるものではなかったらしい。

ということはこれは噂に聞く船中りか。

死んだと信じていたので、緊張の糸が切れたらしい。また吐き気が襲ってきた。


「おいおい、吐くのはいいが、外でやってくれよ」


「だ、大丈夫だ」


心配二割、迷惑八割程の助言に、何とか返事を返す。

日ノ本を出たときは幼かったからよく覚えてないが、船中りはこんなにも恐ろしいものだったのか。

素人は船縁から離れられないと笑いながら話していた船乗りを思い出し、今更ながら話をちゃんと聞いておけばよかったと後悔する。

もしかしたら軽くする方法なんかを教えてくれていたかもしれない。

枕に頭を沈めて意気消沈していると、目の前に竹筒が差し出された。

開けてみろと指図されるので、蓋を取って匂いを嗅ぐ。

何とも形容し難い。


「飲んどけ。元気が出るぞ」


言われるがままに飲んでみると、強烈に辛く、そして、


「っ!?」


焼けるよな痛みが喉を襲った。


「あ、これ気付け用だったわ。こっちがそうだ」


背を丸め声にならない悲鳴を上げていると、今度は違う竹筒をよこしてきた。

この痛みを除いてくれるならなんでもいい。

続いてそれを煽る。

今度のは逆に強烈に甘く、しかしとろりとして少し苦味があった。子供向けの薬のような味だ。

あまり旨いとは言えなかったが、喉の痛みが緩和されたように思えたので、半分ほどを一気に飲み下す。

その間男は再び無造作に積み重ねた行李に腰掛け、さっき俺が飲んだ液体をちびちび口にしていた。

全くもってどんな神経をしているのか。

信じられない気持ちで見ていると、新たに何かが投げられた。

薄くスライスされた薫製肉。

ということはさっき手の中を見ていたのは、多分肉を削いでいたからなのだろう。

さっきのダメージで胃もたれを起こしそうだし、酔いも治まらないので断ろうとすると、


「無理にでも食わないと、ねじこむからな」


半ば奪い取るようにして、切れ端を受け取る。

爽やかな笑顔からはひとかたならぬ気迫が感じられた。

渋々ながらに固いそれを噛み千切って、ひたすらに咀嚼する。

初めはゆっくりと噛んでいたが、次第に止まらなくなって、ガツガツと恥も外見もなくかぶりついた。

あの液体と同じく旨くはないだろうと覚悟を決めていた。しかし驚いたことにこれはかつてないほど旨い。

塩加減といい、独特の香りといい、絶妙だ。

一枚食べ終わると同時に新たなものを差し出される。

じっと観察されていたようだが、気にしていられないほどの空腹が、この食事を機に彼の身を襲っていた。

再び食らいつく。


「いい食いっぷりだな。この肉、好き嫌いが分かれるのに」


「何の肉だ?」


「アナコンダ」


「アナ・・・?」


「蛇だよ蛇。こんなぶっとい奴」


手で示されて衝撃のあまりむせた。


「嘘に決まってんだろ。胃が弱ってんだからゆっくり食え」


無駄に注意されるよりよっぽど威力がありすぎて、食欲が無くなってしまった。

気乗りしないままに肉をかじる。

しばらくの間、重苦しい沈黙が続く。

男の持ってきた肉の塊が半分ほどになったところで、彼は口火を切った。


「悪いな。寝床が空いてるのはここだけだったんだ。女所帯だが勘弁してくれ」


よく見てみると床に転がる細長い物体は二日酔いに苦しむ女たちだった。

他にも吊床に眠る者や、隅で折り重なって呻き声を上げる者などある。

信じられないことに全員女。

強烈な目眩を覚えた。これは船に揺られているからではないはずだ。

誠実そうな外見だというのに、なかなかのやり手のようである。

確かに性別がどっちつかずな外見はウケが良さそうに思える。


「私は夏蔭だ。こいつらの名前は後で本人たちに聞いてくれ。お前は?」


「俺は」


とそこで言葉を飲み込んだ。不思議そうに首をかしげる夏蔭。


「藤次郎だ」


「ふーん」


「なんだよ」


名前を聞いてもいまいち反応が薄い。というか上の空だ。

名前を尋ねておいて、そんな対応はないだろう。

夏蔭はニヤッと確信めいた笑みを浮かべる。


「いや、名字を言わないからには何か事情があるんだろうなと」


これには動揺を隠しきれなかった。

が、危うく疑問を呈する前に、彼の言うことを打ち消す言葉が喉から零れた。


「名字なんて、あるわけねぇだろ」


全てを見透かされそうな澄んだ瞳でじっと見つめられ、内心冷や汗が止まらない。

負けじと見つめ返す。

全くブレない視線に挫けそうになったとき、夏蔭はようやく俺から目を離して、ナイフを明かり取りから注ぐ光にかざした。


「ま、そういうことにしといてやるか。人には人の事情があるってもんだし」


よもや自分の何を知っているわけでもないだろうが、どちらにしろ深く追求されずほっとする。

彼はナイフを研ぎ始めた。


「具合はどうだ?大分良くなったんじゃないか」


はたと気付いて胃に手を当てる。先ほどまでの酔いはすっかり消えていた。

あの奇妙な薬のおかげだろうか。

感心していたが、あることを思い出して懐に手を突っ込む。

ない。あれがない。

慌てて落としたのかと床を見る。そういえば着ているものも自前とは違うではないか。

まさか。海に落ちたときに……?最悪な事態を想像してぞっとした。

後は何が無くなってもいいが、あれだけは駄目なのだ。



スタイリッシュな文章が書きたいものだ。

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