E poi
その日は突然訪れた。
朝、起きた時からいつもと空気感が違っていた。
「……お父様?」
すでに父と二人になってしまったこの広い屋敷は静けさを保っていたけれど。今日はなぜだか下の階が騒がしく、その騒がしさが複数であることから父のものではないとわかっていた。
身なりを少し整えてから私は部屋を出た。
もうすっかり執事も侍女もいない生活に慣れてしまった。
「お父様? どうされ……」
広間に入るやいなや、目に飛び込んできたのはぐったりした父の姿。
「お父様!」
「黙れ! もうここはお前の屋敷ではない!」
飛び出そうとしたとき、近くにいた男に抑え込まれる。
見知った顔。もとはこの屋敷で警備兵をしていた男ね。良く知っている。
ほかにも、父の周りには執事だった老父に投資を促して破産した投資家。少し離れたところにいるのは、相性のよかった資産家の男。性格は合わなかったけど。
そう……みんな父と私が生活を壊した相手。
「こんなこと、たとえ事業に絡んでいたとしても許されないわ!」
「……こんなこと?」
声を上げた私の鼓膜に、聞き覚えのある声が響く。
見上げた先で、見知った顔が歪んだ笑顔で私を見ていた。
「ネロ……?」
「ふふ、お嬢さんはこんなところで何を?」
「……なに言って」
あの日、交わしたセリフをまた発して、ネロはにっこりと笑う。
「ここに来るまで、何年も、何年も! 本当に血の滲む努力をしたんです。その結果が、これだよ」
「どういうこと! 悪ふざけはやめて!」
「悪ふざけ……? お前らのやっていた事業という名の資産繰りの方が悪ふざけだろ。いや、罪と言ってもいい」
「……っ」
ネロの言葉を聞いて周りの男たちも頷く。
これは、因果応報なのか。
「自分、すごく頑張ったんです。孤児だった自分を貴女が見つけ出してくれたあの日から。頑張って、頑張って、やっと……お父上の事業とやらを買い占める手筈が整いました」
「え……?」
言葉が、頭に入ってこない。ネロは何を言っているの?
ネロは私が結婚をした十八の時に街で出会った孤児だった。精悍な顔立ちと、ひたむきに働く姿に感銘を受けた。その頃はお金があったし、ちょうど警備兵が足りない時期でもあったから、深くも考えずに屋敷へ招き入れた。
違和感がなかったわけではない。警備の仕事の傍ら、屋敷の蔵書を片っ端から読み漁ったり、資産家や投資家となにやら話をしているのは幾度となく見かけた。ただそれは、ネロの真面目な性格と好奇心からくるものだと勝手に解釈して、特に気にも留めていなかった。
――そんなネロが、父の事業を買い占める……?
困惑する中、ネロは周りの男に命じて私を床へと押し付けさせた。
「……!」
「ごめんなさい。ずっと、ずっと手にしたかった、貴女のことを」
「私を……?」
微笑むネロは私を見ているようで、でもどこか遠くを見つめているような表情で語る。
「初めて会話した時、そのもっと前から。自分は貴女を知っていた」
「そうなの……?」
「はい。孤児の自分を引き取るという前から、急成長している事業があると。若くして嫁いだ娘がいると。有名でしたから」
「……」
「自分はね、親に捨てられた時から……ずっと、ずっと資産を得ようと奮闘してきました。かろうじて読める文字を繋いで盗んだ本を読み、なんとか生き延びて。そこで貴女と出会って世界は一変した。ここまで気持ちが昂ぶる自分を俄かに信じられなかった。でも、一眼見た時から、自分は資産を得て、必ず貴女を迎え入れると誓った」
自分勝手すぎる、とどこか客観的に私は見ていた。それでも突き放せないのは、私も自分勝手だからだろうか。
「……手に入れたんだ、オレは」
「なにを……」
「貴女の全て」
ネロはあまりにも真っ直ぐな瞳を私に向ける。
どうせ死んだ人生。ネロに貰われるくらいなら、ある意味幸せなのかもしれない。
「……別にいいわ。なんの未練もないもの」
「! ……嬉しいよ」
本当に、本当に屈託なく笑うネロの顔を見て、ほんの一瞬「幸せ」を感じてしまった。私にそんな資格がないことは、分かりきっていたのに。
ネロは私が受け入れたことに安堵したのか、これまでの丁寧さを脱ぎ捨てて私へと言葉を紡ぐ。
「本日からこの屋敷はオレが貰い受ける。異論は認めない」
「構わないわ。父がどうなろうともね」
これは紛れもない本心。そう、ここまでは。
「では命じる。名前を捨てよ」
「……え?」
頭になかった提案、ぐっと胸が締め付けられるのを感じる。脳が理解を拒み凝縮する。
言葉に詰まる私へ、ネロは再度言う。
「名前を捨てよ、と言ったんだ」
「……ビアンカの次は、なにかしら?」
「何を言ってるんだ、ルーチェ」
「……!」
予期せぬ呼び名に私は肩をびくつかせた。
その名で呼ぶことはもうないと思っていたから。
「貴女は新しい名の下で暮らすんだ。大丈夫、何不自由させない」
「……はは」
乾いた笑いが喉から零れ落ちる。
そうか、これが私の人生なんだ。お母様からの名を早々に捨て、幾度となく人の人生を掻き回してきた報いなんだ。
ならばそれに従おう。なんと言われてもいい。私が、私だけが知るこの名前を胸に刻んで。ネロが私を求めるのなら、私も私の名前を求め続ける。
「仰せの通り……」
満面の笑みを浮かべるネロは黒く、歪んで、それでいて真っ直ぐだった。
痴れ者と呼ばれようとも、私は貴方の夢を叶えてあげる。
私はもう、死んだのだから。




