La Mia Vita ?
私は死んだ。
あの時。身も心も、名前さえも。
私に関する全ての事柄は死んだんだ。
父の会社が傾いている。という噂はなんとなく聞いていたし、そんなの当たり前だと思っていた。
事業自体もそこまで繁盛している風ではなかった。そもそも繁盛しているなら、私がここまで関わることはなかったのだから。
最初に「事業のため」としてした結婚は十八の時だった。
一回りほど年上の実業家。もう顔も名前も覚えていない。やり方はいつも一緒。結婚して事業のノウハウを習得し、家に戻り父の手柄とする。
この十年で三度の結婚と離別。相手が誰であろうと、どうなろうと、私の知ったことではない。
結婚の度に名前を変えて、外見も変えて、もうどの自分が本物かもわからない。私の人生は最初の結婚の時に死んだ。
このところ、その「事業のため」に行っていた縁談話もパタリとなくなった。二十八にもなる私に、そのような縁談はなくなったかとも思っていたけれど。どうやら、業績悪化も原因のひとつみたい。
今の私の名はビアンカ。黒く長いウェーブがかった髪。紺碧の瞳は、もはや親族とも父とすら似つかない。
それでも、私はどうでもよかった。すでに死んだこの私自身がどうなろうと。
「退屈ね……」
あまりの代わり映えしない日常に、つい言葉が漏れた。
あれだけ毎夜開かれていたパーティーも、一歩屋敷を出れば声をかけてきた男たちも、いまや空想だったのではないかと思うほど。この屋敷内は静寂に包まれている。
執事も侍女も、業績悪化の噂を聞いていつの間にかいなくなってしまった。
警備に当たっていた兵士たちも、土地を有していた資産家たちも。全員、私の前から消えてしまった。
みんなみんな。私を好きだと抱いたのに。
「あ、ネロ!」
ぼんやり外を眺めていた視界に、彼──ネロの姿が映った。
ネロは最初どこから声がしているのかわからない様子で辺りを見回して、窓辺の私に気づき優しく微笑みを返して近寄ってきた。
「お嬢さんはこんなところで何を?」
「また誰に聞いての口ぶりなの、ネロ。お嬢さんなんて。年下のくせに生意気」
二つ年下のネロは家に使える警備兵で、今の主な業務は門番。
私と出会った頃は、お互いまだ世の中のこともわからない子どもだったのに。気が付けば剣の訓練を積み、筋肉をつけ、背も私を追い越してしまった。
──顔はすごく綺麗なのよね。好きなわけじゃないけど。
なんてことを考えていると、ネロは少し切なそうな顔をして口を開いた。
「最後の執事たちがこの屋敷を去るそうです。自分はその話を聞きに」
「え……っ。そう……」
まぁ、こんな不安定な屋敷に仕えるほどみんな余裕があるわけではないか。
「どうしてネロがその話を?」
「自分はこのお屋敷の最後の門番ですからね。色々と情報網は持っています。貴女と、多数の方との間柄もね」
ネロはあからさまに嫌な顔をする。
なるほどね。屋敷を出るからって、全員ペラペラと話していったというわけね。
「ふぅん。で? 何を聞いたの? 兵士たちとの熱い夜の話? それとも最高齢執事との逢瀬かしら?」
「……どれもこれも。話半分で聞いていたけれど。聞いた話の通りならなかなかに軽蔑しますね」
はっきり言い放つネロは一層目を細めた。
その顔が面白くて、わたしはつい吹き出してしまう。
「ぷははっ」
「自分、何か面白い事言いましたか?」
「ううん……。あまりにも目を細くしたからおかしくって! はーあ、貴方に軽蔑されたところで、私は痛くも痒くもないのよ」
「よく言いますね……」
ネロは何か言いたげに私を見る。昔から、そうやって私を見透かしたような眼をして。
その視線に気が付かないふりをして、私は話題を変える。
「それで? ネロはこれからどうするつもりなの? もうそろそろ、お屋敷を出た方が貴方もいいんじゃない?」
「……自分は、まだこちらでやりたいことがあるので」
「やりたいこと?」
「はい」
問いかけているのに、ネロはまるで答える気がもともとないかのように返事をするだけ。
そのままネロは持ち場である門の方へ歩いて行ってしまう。
なに? この廃れていくしかない屋敷で、ほかにやりたいこと?
「ねぇ、ネロ!」
「……はい」
私が叫ぶと、ネロは立ち止まってくれる。昔から。
「名前、呼んでよ」
「……ビアンカ、様?」
「違う。私の……本当の名を」
「それは、もう」
「いいから!」
私の名前は結婚するたびに変わった。
ネロもそれを知っているし、変わった名を名乗ることは禁じられてきた。生まれ持った名前は尚のこと。
それでも、今は。もう今しか。今呼ばれなければ、私は私を取り戻すことなどできない気がして。
「…………ルーチェ」
「!」
絞り出すかのように小さなネロの声が、私の鼓膜に届いた。
私の、私だけの名前。今はもういない、大好きだったお母様。「あなたは光よ、ルーチェ」と優しく微笑む姿。そんなお母様が付けてくれた、宝物の名前。
「ネロ!」
「今回だけです。その名は禁じられているでしょう」
「あはは、覚えているとは思わなかった!」
「……」
不貞腐れたような睨みを私に向けて、ネロは背を向けて行ってしまう。
――やりたいことが何だってかまわない。ネロが私の名を覚えていてくれるのなら。
本当の気持ちを押し殺し、私は渦巻く気持ちに言葉を詰まらせながら、去り行くネロを見送る。
――私を、ここから連れ出してよ。




