人間の基本レッスン
スタジオの片隅に、小さな椅子と大きめのメモ帳。
そこには「人間としての基本行動チェックリスト」という見出しが太文字で書かれている(書いたのはプロデューサー日向)。
そのチェックリストの上に、ちくわがちょこんと座っていた。ネクタイはやっぱり首輪みたいになっている。
「本日は“カメラに固まらない”“走るなら人間走り”“会話のマナー”あたりをやります」
日向の顔は真剣そのもの。マネージャーは冷や汗。私は心の中で「頑張れ…」と呟く。
まずは“カメラ慣れ”の訓練。
巨大なカメラの代わりに、丸い黒いクッションを並べておいて、ちくわに「これがカメラだ」と慣らす。
ちくわはクッションを見て、慎重に匂いを嗅ぎ、少し離れて四つん這いになり、勢いよく逃げ出した。
「四つん這いはやめて!」
日向が怒鳴り、マネージャーが走って捕まえる。
スタッフは息を呑むが、クッションに寄せられた視線はどこか微笑ましい。
次は“挨拶の仕方”。
日向がモデルで見本を見せる。
「目線は相手の眉間より少し上、声ははっきり、笑顔を作ってから一言。」
ちくわは真剣にうなずき、気合を入れて声を出した。
「は、はじめまして……!」
その声が、甲高く、ハムスターの鳴き声と人間の語調の中間で、スタッフ一同が一瞬で沈黙。
しかし気がつけば、誰かがニヤリと笑いをこらえる。ちくわの「人間風味」がまたしても場をさらっている。
続いて“行動マナー”――食べ物を勧められたときの受け答えや、椅子の座り方、物を渡すときの両手の使い方。
ちくわは物を渡す際、無意識に頬袋を持つような仕草をしたため、スタッフが同時にのけぞる。
「それ、クセ直して!」日向の声が響く。
だが一番の混乱は“走る練習”だった。
日向は「人間として走る」デモを見せ、ちくわにもやらせる。
ちくわは一度胸を張り、立ち上がり、ゆっくり歩き出す。――そして突然、顔が真剣になり、四つん這いでまたもや爆走。
結果、リハセットの小道具ボックスをまたしてもなぎ倒し、スタッフの悲鳴と子どもの歓声がスタジオに混じった。
日向は頭を抱えつつ、少し笑みを浮かべる。
「不安定だけど、使いどころはある。カメラに固まる姿、四つん這いで疾走する姿、素の戸惑い。全部“ちくわの個性”として受け入れられてきている。でもね、事故が増えるとクビになる。だから“やっていいちくわ”と“やってはいけないちくわ”を分ける。スタッフ全員でルールを作るから協力して」
その言葉はちくわにとっても救いで、ちくわは小さくガッツポーズをした(けど爪が引っかかって、おもむろに爪をカリカリするのは止められない)。
レッスン後、事務所の小さなミーティング。
日向は各スタッフに担当を割り振る。カメラ慣れ担当、動き監修担当、広報対応担当――と分かれていく。
「ちくわは“天然”だからこそ魅力がある。だが天然は制御しないと現場が崩壊する。だから“制御された天然”を作る」
私はノートに“制御された天然”と大きく書き留める。妙に説得力がある。
その夜、ちくわは家でスマホをいじりながらぽつりと言った。
「ぼく、今日いろいろ壊した。みんな、ごめん」
「みんな、もう慣れてきたよ。あなたが天然だからウケてるんだもの」
ちくわはじっと考え、そして小さく呟く。
「でも、ぼく……わかってきたかも。どこが“ちくわ”で、どこは“人”でいるべきか」
それは少し成長のにおいがした。けれども翌日の撮影スケジュールには「子ども向け歌番組・ミニコーナー生放送」――という恐ろしい一行が組まれていた。生放送。予想もできないトラブルの可能性。
私は冷や汗をかきつつ、ちくわの頭を撫でる。
「明日は僕が守る」
ちくわは小声で言った。
「ぼく、頑張る」
その決意が、本当にどこまで通用するのか。世間は暖かい反応と一緒に、観察眼と好奇心をどんどん送り続けている。
ちくわの“制御された天然”実験は、まだ始まったばかりだった。




