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遠くに在りて弥栄を  作者: ばち公
1章 信用
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『偽名』

「なあ、本当にあの落ちてきた流境(るきょう)と住んでるのか? どんな感じ?」

「どんなって、雑魚だよ雑魚」

「雑魚ってお前……せめて名前とかさあ」

「知らない。どうでもいい。流境だから聞いてないけど、そうじゃなくても聞いてないと思う」

「ああ、流境って名前聞いちゃ駄目なんだっけか」

「らしいよ。名前も知らない相手だから、僕も遠弥なんて()()を名乗ってるし」


 あんまりな発言に男は閉口した。帳簿を前にして、字と数字を書いていた手も止まる。


「……(はやて)

「なに?」

「お前のその人間不信ってどこからきてんの?」

「生まれつきかな」


 そう言って、颯と呼ばれた青年は帳簿から顔を上げ、にやりと笑った。同僚の男は肩を竦める。


「その流境に同情するよ」

「いきなり子守する羽目になった僕にじゃなく?」

「子守って年齢じゃないだろ」

「同じようなもんだろ。常識も知識もないんだし。しかしあの年齢で、なんであんなに弱々しいかな」

「お前に比べりゃ誰だって弱々しいだろ。自分基準で相手を見るのやめろよ」

「はいはい」


 分かってるのか分かっていないのか、どうでもよさげな回答に男は筆の軸で、眉の辺りを掻いた。


「別に興味を持てとは言わんが、素っ気なくはしてやるなよ。ただでさえ孤独なんだから可哀想だろ。なんかこう、ちゃんと会話とかしてるか? できてる? 俺、想像つかないんだけど」


 普通、他人であろうが怯えていたら、気を遣い、穏やかな空気を作ってあげようとするものだが。


「確かに」

「お?」

「興味はないけど、探りくらいは入れたが方がいいかもしれないね。流境とはいえ、変なやつだったら困るし」

「誰もそうは言ってないが……」


 同僚のあまりの人間不信っぷりに、男はドン引きした。颯は気にせず手にしていた帳簿を閉じ、書棚に片付けに行く。


「しかし、まさか、よりにもよってお前が、流境と暮らすとはね。問題ないのか?」

「仕事だからね」

「……そうだな。お前の仕事への姿勢は信用できる。というわけで、ここの勘定が合わないんだがどう思う?」

「僕もう帰る時間だから。じゃ、お疲れ様」

「颯! 待って! ねえ! お願いします!」


 颯は同僚の切実な悲鳴を無視して帰宅した。



「遠弥、おかえりなさい!」

「…………タダイマ」


 帰宅する度に大きな声で出迎えられる。が、颯はまだ慣れていなかった。『遠弥』と偽名で呼ばれることにも、自分で名乗っておきながら、まだ少し違和感がある。

 揃って、颯が買ってきた夕食をとる。食事中は静かだ。互いに話題が浮かばないのだからしかたがない。

 それから颯が何かしようとすると、流境の娘はいちいち手伝おうとする。

 何も知らない相手に手伝いをさせるのも効率が悪いし面倒くさいので、


「前も言ったけど、あんたの世話をするのが僕の仕事なんだから、気を遣わなくていい」


 と、遠回しに何度目か分からない拒否をすると、


「私も前も言いましたけど、暇過ぎるんです……」


 と死んだ顔をされる。このやり取りも何度目だろう。


「何もしないのも気まずいので、迷惑かもしれませんが、今日も色々と教えてください」

「分かったよ。敬語をやめてくれたらね」

「あ、そうで――だったね。うん、分かった」


 神妙な顔で頷く少女に、颯はため息を飲み込む。

――互いにまだ、この生活に慣れていない。

 なんとかしばらく、彼女がいつか帰ってしまうまで、やり過ごせたらいいと思っているだけなのだが。

 颯も別に、彼女を不快に思っているわけではない。全体的に弱々しいとは思っているが、礼儀正しく、常識的。なぜかすでに、会って数日の男を信頼しつつある無防備さから見るに、おそらく善良だ。

 おそらくは、だが。



 颯は彼女が風呂に入っている間に、寝たフリをしてみた。戻ってきた彼女の様子を見ようと思ったのだ。

 まさかただの流境の彼女を、明確に敵だと認識しているわけではない。しかし、こうして他人の思惑を計るのは、颯の癖のようなものだった。


「遠弥?」


 偽物の、ここにしかない名前を呼ばれる。予定どおり、無視をする。

 彼女は何度か遠弥と名前を呼ぶと、そのまま部屋に戻っていった。

 寝に行ったのかと思って身を起こそうとした瞬間、彼女がまた戸を開けた音がしたため、また寝入った振りをする。


「よいしょ」


 少女は、颯に自分の布団を掛けて、そしてまた、自室へと戻っていった。

 冷えた布団が体温に馴染んだころ、颯は起き上がり、大きなため息を吐いた。


「布団なしでどうする気だよ……」


 冬のこの夜に、敷布団と毛布だけで眠るつもりなのだろうか。無謀にもほどがある。

 そもそも、いきなり見知らぬ男と同居することになって、普通に距離を詰めてくるところもおかしい、と颯は思っていた。

 一応颯は、怖がらせてはいけないだろうと、言動でそれなりに距離を取るようにしている。普通に考えたら、望まない同居のうえ、その相手の男が急に距離を詰めてきたら、恐らく非力な女としては怖いだろうと思った。単なる予想だが、そう的外れではないと思っている。

……颯には彼女と仲良くなる気が微塵もなかったので、それくらいがちょうど良いだろうと思ったのもある。

 なのに、向こうはどうやら、そんな男と仲良くなろうとしているらしい。危機感とかないのかと思ったし、真面目に気を遣っている自分が馬鹿みたいだった。

 颯は、しばらく時間を潰してから立ち上がった。人の好い同居人に、布団を返すために。

 善良で無警戒すぎても、どう扱ったらいいか困る、と思いながら。

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