信用
早朝に起きて、夢でないことに絶望した。涙はでなかった。
冬の朝は寒い。半纏を着こんで、物音がしたので玄関から外を覗いてみると、遠弥が竹刀を振っていた。
ぼんやりと見ていることに、すぐに気付かれた。後ろにも目がついているのだろうか。
「………………おはよう」
「おはよう、ございます」
頭を下げる。
「敬語いらないって言ったよね」
「あ、ごめんなさ、……ごめん」
「謝るほどのことじゃないけど。朝ご飯、昨日の残りでいい?」
「うん。あ、手伝うよ!」
「いらない。食事の支度は僕がするから」
だからといって、運ばれてくるのをただ待つだけというのは忍びないので、ついていった。
しかし彼はさっさと惣菜とご飯を器によそってしまったので、手を出す隙はなかった。
「いただきます」
「いただきます」
ちゃぶ台に向かい合って、手を合わせる。こういうところは、同じ文化で安心する。
遠弥はあっという間に食べ終わると、食器を片付けて、仕事だからと家を出ていった。
「(普通に一人にされたけど……)」
私は、異世界から来た『流境』だから、変な組織に狙われるかもしれないって話だったはずだけれど……こうして護衛もなく一人留守番ということは、大して危険でもないのだろう。
取り残された私は、しかたがないので掃除をしながら、敬語を使わない練習をした。つまり一人で喋っていた。
箒で玄関前の落ち葉を払いながら、ぶつぶつ喋る。
「おはよう、ありがとう、ごめん、ええと……遠弥さん、じゃなくて遠弥……」
とおや、とおや。
響きのよい、きれいな名前だ。
彼には、少しでも迷惑をかけたくないと思った。
遠弥は何度も「仕事だから」と主張していたから、まさか迷惑をかけたら見捨てられると、思っているわけではない。寧ろ仕事での保護なのだから、多少やらかしても、見捨てられることはないだろうと、頭では、理解している。
それでも、恐怖心はある。何もかもが不安だ。怖い。どうしたらいいか分からない。何をしたら良いのかも。
「……」
気を紛らわすため、せっせと、家の周囲一帯を掃き清める。
本当は家の中の拭き掃除とかもしたかったが、使って良い布巾がどこにあるかも分からなかった。
掃除好きというわけではないが、他にやることがないためしょうがない。
そういえば、お昼ごはんとかどうするのだろう。そもそも昼食を食べる文化なのだろうか? もしかしたら食事は、朝と夜だけかもしれない……。
そんなことを考えていたら、遠弥が帰ってきた。なぜか鍋を抱えている。
「おかえりなさい。早かったね」
「……ただいま」
周囲をきょろきょろ見回してから、変なものを見る目でこっちを見た。
「あんたもしかして、ずっと掃いてたのか?」
「暇だったから」
「暇すぎるだろ……」
げんなりした顔だった。
「お仕事おわったの?」
「まさか。あんたの昼食がないと思って準備しに来たんだよ」
「それは、すいません。ありがとう」
「どういたしまして。まあ買ってきただけだけど」
そう言うと、おにぎりと肉じゃがの鍋を置いて、遠弥は去っていった。
去り際、
「あの、遠弥は食べないの?」
と聞いたら、
「忙しいんだよ」
とのこと。慌ただしい人だ。まあ私のせいなんだけど。
それから何時間かけたかは分からないが、玄関と外の掃き掃除が終わったあとは、本当に何もやることがなかった。
本当に娯楽が一切、なんにも無いため、床に寝転がってごろごろ時間を潰した。
でもやることがない時って、本当に時間が経たない。
なので夕方、遠弥が帰ってきたときにはまるで神様のように思えた。
「おかえりなさい!」
「た、だいま……」
なんだこいつ、みたいな顔をされたけど。
私は彼に、本当に死ぬほど退屈なこと、虚無の時間を過ごしたくないこと、時の流れなさが苦痛なことを伝え、家事でもなんでもいいから、何か教えてほしいと伝えた。
「説明は大変だろうし、迷惑をかけるかもしれないけど、このままじゃ私、退屈すぎて寝るしかないよ!」
「寝てれば?」
「そんな……」
その時の私の絶望顔がよっぽど面白かったのか、遠弥はそこではじめて、本当に私が見ていた中でははじめて、少し笑った。まあ、笑顔になったというより、鼻で笑ったという感じだが……。
「冗談だよ。分かった。そんなに暇なら教えるから。それでいい?」
「ほんとうに!? ありがとう!」
私は遠弥の手でも握りたいくらい嬉しかったが、さすがにはしたないので我慢した。
遠弥は面倒くさそうにしていたが、説明は丁寧だった。私が自分では気付けないが、聞いたほうがいいだろうことも、先回りして教えてくれる。
賢い人なのだろうと思った。
「先に断っておくけど、食事の手伝いはしなくていいよ」
「どうして?」
「昨日も言ったと思うけど。あんたのことを信用してない」
なんとなく、予想はしていたけど……。
私の顔を見て、遠弥は肩を竦めた。
「言っただろ。あんたに限らず、僕は誰も信じてないって。退屈なら掃除でも片付けでも洗濯でも好きにしたらいいけど、食事は僕が準備する。いいね?」
有無を言わせない調子だったので、私は大人しく頷いた。この世界にたった一人しかいない、頼りにできる人相手に、逆らう勇気はなかった。
そしてその会話は、そこで終わってしまった。
「……仲良くなれるかな」
夜中、用意された部屋で布団に丸まりながら、思わずぼやく。ふかふかの羽毛布団は温かかった。一緒に渡された毛布もいらないくらいだった。
……事務的な、気が強い、しっかり者の、確か一つだけ年下らしい少年。
何があっても、彼が、私をこの家から追い出すことはないだろう。善意でなく、ただそれが仕事だから。
でもせっかく一緒に暮らすのだから、いつか仲良くなれたらいい。それに、
「いつか、信用してもらえたらいいな……」
いつまでも距離を取られるのは、少し寂しい。
そして私は目を閉じた。
寝て起きたら、元の世界に帰れないかな、と思いながら。