『更沙』
この世は地獄だ。更沙の求めるものは、何一つ手に入らない。幼馴染からの恋も。親からの愛も。
更沙にはかつて姉がいた。更沙を置いて、駆け落ちしてこの立場から逃げていった。一人残された次女として、更沙は王の継嗣となった。
更沙は姉を羨み、妬んでいた。自分が逃れられない場所から、軽やかに逃げていった姉を。しかし更沙にはそんな勇気はないから、ただ羨んだだけで終わった。ずっと此処にいるしかないのだと思っていた。
そんな更沙の目の前にずっといたのが、幼馴染の颯だ。更沙は彼に憧れながら、姉に対するように妬んでいた。自分が逃れられない場所に自ら飛び込んできて、仕事をこなし、母に気に入られ、周囲と上手く渡りあっている彼を。
彼女や、彼みたいになりたかった。なれるわけがないと思っていた。だって更沙にはそんな能力がない。
みんなずるい、と思っていた。
「貴方は貴方であるだけでいいんです」
その言葉を聞くまでは。
「何かを望む必要はありません。できないことに挑む必要もないのです。貴方が、貴方であるだけでいい世界。それがあるんです」
楽園。ある日寄越された書の教師は、流境信仰を更沙に語った。
知識としては知っていた。体制側である更沙にとっては、都合の悪い話だ。明確に、敵対する立場にある。
しかし更沙はそれに惹かれた。
「自由?」
「ええ。素晴らしい概念でしょう。私も初めて触れたときは驚き、心が震えました」
知らない世界の話は面白かった。夢のような場所だと思った。
敵の考えを学ぶことも必要だと言い訳して、それからも彼の話を聞き続けた。
久しぶりに母親と食事をしたある日、
「しばらく前に流境が来たよ」
と、笑いながら更沙に言った。珍しく、楽しそうにしていた。彼女は意外な事が好きなのだ。自分の予想を裏切るものを好んでいる。
――流境。
楽園からの来訪者だ。
更沙の顔が輝いたのを見て、話を続けてくれた。更沙は嬉しかった。彼女が、母親が、自分の表情を見てくれたことが。
「普通の女だよ。とお……じゃない、颯か。彼の家に住まわせている」
「ええと、どうしてそんなことを?」
普通、男女を一緒に住まわせたりしないだろう。しかも颯は貴族だ。
「あいつの気晴らしに――ああ、彼の為になるかと思ったんだよ」
よくよく話を聞くと、颯は偽名として、『遠弥』と名乗っているらしい。警戒心の強い人だからかもしれないが、変な事をするな、と更沙は思った。
楽園の者に嘘をつく理由がどこにあるのだろう。
更沙は早速、流境に会いに行った。本当の、楽園の話を聞きたかった。
しかし、
「残念ね」
更沙は思わず呟いた。流境の故郷は、何の憂いもない楽園ではないらしい。喜びもあれば悲しみもあり、苦しみもあれば幸せもある。人間が息づいている以上、この世と何も変わらない。
颯――『遠弥』は、当然だろ、と言っていたが、更沙は落胆した。
それでも更沙は、書の教師の『楽園』の話を聞くのをやめなかった。
嘘でもよかった。甘い夢を見るのは心地がよかった。
「我々と一緒に、『楽園』へ行きませんか」
楽園。すべての夢が叶う場所。それがあればどれほど良いだろう。無能な更沙であっても、望むものがなんでも手に入る。
なんでも。
誰でも――。
更沙は、手を伸ばした。
「あっ」
と声を上げたのは、更沙だったのか、目の前の教師だったのかは分からない。
本当に、あっという間だった。
赤い衣装に鎧をつけた、大量の人間が飛び込んできて、書の教師を床に叩き伏せると、そのまま捕縛した。書机がひっくり返り、上にあって物が全てその場に散らばった。
更沙はへたり込んだまま、その光景を見ていた。初めての暴力の現場に手足が震えた。
「はやて、」
その中には颯がいた。知らない衣装で、知らない顔をして立っていた。
呼ばれ、彼は更沙を見た。そして、目を瞬かせた。
「あ」
彼の視線の先には、赤い、鞠の根付が転がっていた。軽蔑される、と思った更沙は、咄嗟に言い訳を考えた。この前来たときに落としたのを拾って、保管して、……。
しかし、颯は何も言わなかった。踵を返し、仲間とともに、その場から去っていく。
更沙は唇を震わせて、その場に突っ伏した。
颯は更沙の『気の迷い』の事後処理のため、誰もいない夜の廊下を歩いていた。
流境信仰の書の教師について、彼の罪をできるだけ早く確定させる必要があるのだが、その交渉が長引いていた。
司法に携わる者は頭が固い。王の娘に手を出したのだと伝えても、それは正規の手続きに則っていないの一点張りだった。邪魔な正義だった。どうせ最終的には、逆らえないくせに。
王に頼んで直接命じてもらえれば早いのだが、そうすると彼女はこちらを、「自分の手を煩わせる、無能の役立たず」扱いをする。だから颯と同僚は、自力でなんとかしようとしていた。非効率的で面倒だが、そういう上司を持ってしまった以上、仕方がない。
「めんどくさ……」
思わずぼやく。
表に出したくない話であり、内部でも広げたくない話だったので、あまり人の手は借りられない――更沙のような身分のものが、この現に満足していないなんて、醜聞もいいところなので。
颯は、幼馴染という名の腐れ縁である更沙が苦手ではあったが、彼女に同情もしていたため、複雑な心境だった。
颯には家族がいたが、更沙には誰もいなかった。更沙の地位であれば、いくらでも仲間を作れただろうが、彼女が求めていたのはそんなものではなかった。唯一つ、親からの愛情だけを求めていた。
たまに恋がどうとか言っていたけれど、本当に欲しいものから目を逸らして、適当な、手近な娯楽に手を伸ばしているだけだ。
「(だってあいつ、ただの一度も、自分の言葉で語ったことがない)」
更沙が真実、満たされる日は永遠に来ないだろう。
彼女が本当の意味で、他のものに価値を見出す日がくるまでは。
――腐れ縁だから、その手助けくらいはしてもいいかと思っていたが……。
こんなことがあっては、彼女が彼女の望んだ『自由』になれる日は、もう永遠に来ないかもしれない。
颯はそこまで考えて、大きな溜息を吐いて、その場でしゃがみ込んだ。
「帰りてー……」
小声で独りごちたが、当然応えはない。
颯はしばらくその場でじっとしていた。何もかも投げ捨てて、この場から逃げ出したかった。




