恋愛
その日、遠弥は更沙さんと一緒に、いつもより早い時間に帰宅した。洗濯物を畳む手を止めて、走って出迎えたのだが、びっくりして、ぽかんと口を開けてしまった。
遠弥はなぜか言い訳みたいに言う。
「遊びに来たいって言うから……」
「急に来るなと言ったでしょう」
「あんたは知らないと思いますが、こういうのも急って言うんですよ」
嫌そうな顔のまま、遠弥は溜息をついた。
「更沙さん、こんばんは。遠弥はなんで敬語なの?」
「主上にも命じられて。だから今は業務中」
「あなたって、いつもそうね」
拗ねた顔をする更沙さんは、そっぽを向くと、さっさと家の中に入っていってしまった。たぶん遠弥が他人行儀なのが寂しいんだと思う。
「あ、おい、挨拶くらい……じゃない。ちょっと待ってくださいって。……あんたは何を笑ってんの」
「敬語の遠弥って珍しいから、つい」
「見世物じゃないんだけど?」
叱られたのでごめんごめん、と謝ってから、私は一人で居間に戻った。
二人の邪魔にならないよう、隅っこの方で、放置したままだった洗濯物を畳む。共同で使う布巾なんかもあるけど、衣類は自分の分だけだ。遠弥の分の衣類は、たまに頼まれて一緒に洗うときもあるが、基本的に別々だ。なんか遠弥が嫌がるから。私も下着とか頼まれたらちょっと気まずいから、助かっている。
畳みながら、時々手を止めて、更沙さんをあちこち追いかける、遠弥の背中を目で追いかける。
いつも冷静で落ち着いている遠弥が振り回されている姿は、少し貴重かもしれなかった。
「あの、勝手にうろうろしないでもらえますか。ここ一応、僕の家なんですけど」
「ちょっとくらい別にいいでしょ。幼馴染なんだから」
「ただの腐れ縁ですが」
「ま。ひどい人」
更沙さんは楽しそうに笑っている。遠弥と追いかけっこをしているうちに、いつの間にか機嫌が治ったみたいだ。
「一修を呼んであげますから、帰ってくれませんか」
「やだ」
「はあ。じゃあどうしたら帰ってくれますかねえ」
「じゃ、わたくしの質問に答えてくださいな」
「はあ、まあ別にいいですけど……」
私は二人の話を聞きながら、遠弥はもう少し、ほんの少しだけでいいから、更沙さんに優しくしてあげられないのかと思った。
だって、
「婚約者はできた?」
どう考えても、更沙さんは遠弥のことが好きに違いなかった。
だからおしゃれな手紙を出すし、ちょっと強引にでも遊びに来るし、お喋りすると嬉しそうで、楽しそうで、距離を取られたと感じると拗ねてしまう。
なのに遠弥は全く気付いていない。それどころか、どうやら更沙さんが一修さんに片想いしていると思っているらしい。鈍感過ぎる鈍感だ。普段のあの目敏さはどこにいってしまったのだろう。
私なんか、彼女にまだ数回しか会っていないけど、それでも分かるくらいなのに……。
「は? 僕にいるわけないでしょう。うちみたいな負け組の家と、わざわざ婚約したがる物好きな家なんてないでしょうし」
「じゃあ、恋は?」
「余裕のある暇人が現を抜かすものですよね」
半笑いだった。聞いてるだけでもめちゃくちゃ感じが悪かった。遠弥がなんというか、恋愛に現を抜かす人々を小馬鹿にしているのがめちゃくちゃに伝わってきた。
「あなた、馬鹿にしてるわね」
「僕は……恋愛というか、今を必死に生きていない暇人を見下しているだけです」
遠弥は、言い淀むことなくきっぱりと言い切った。
遠弥の生い立ちを思うと、そういった考え方になるのも、しかたがないことなのかもしれない。どうかとは思うが。
「運命にも出くわしていないのね」
「いません。そもそも運命なんて信じていませんし」
「運命は、」
「はいはい、ありますあります」
私は、いいなあ、と思った。
普通に彼の内面に踏み込むような質問ができて、そしてそれに答えてもらっている更沙さんに。彼女はきっと、私みたいに、「関係ない」とか、「馴れ合うつもりはない」とか、拒絶する言葉を面と向かって言われることはないのだろう。
彼女と彼は、昔馴染みの、幼馴染だから。
こんなどうしようもないことで嫉妬したくなくて、洗濯物を畳み終わったあと、私はそそくさと、まるで逃げるみたいに自室に戻った。
私だって遠弥にはかなり優しくしてもらっているつもりだ。親切に、面倒を見てもらっている。だけど、他人の、同居人以上の関係にはなれていない――と思ったところで、ふと我に返った。
(私、遠弥と、それ以上の関係を望んでるの?)
いつから? どうして? なんのために?
私は彼と、例えば友達みたいな関係とか、そういうのを望んでいるのだろうか。
それって、少し、いやかなり、
(な、なんか恥ずかしいかも……)
ちょっとでもいいから、信用してもらえたら嬉しいと願ってはいた。が、それとこれとはわけが違う。
思わず、顔を覆った。安全に、穏やかに生活できているだけでありがたい。そう思うべきなのに。
弁えない自分が、ひどく恥ずかしかった。
冷たい水でも飲んで落ち着こうかと部屋を出ると、玄関の戸が叩かれた。
「おーい、来たぞー」
私の部屋は玄関に近い。聞き覚えのある声だったので戸を開けると、
「一修さん、こんばんは」
「こんばんは。いつも急に悪いね」
困ったように笑う一修さんが立っていた。
遠弥は、職場から更沙さんを連れて帰る前に、適度なところで迎えに来てほしいと、一修さんに頼んでいたらしい。用意周到だ。
そのまま一修さんは、まだ残りたそうな更沙さんを連れて帰っていった。が、しばらくすると戻ってきた。折角なので、居間に案内しようとしたが、「長くならないからここでいい」と断られた。
「もう少しあの人に優しくしてやれよ。俺が愚痴を言われるんだぞ」
「主人の娘相手にできる限りのことはしてるよ」
「そうじゃなくて……別に誰も、あの人と恋だの婚約だのしろなんて言ってないだろ。もっとそもそもの話――人付き合いの話をしてるんだ」
「いや、単純に仲良くするにも家格が釣り合ってなさすぎるだろ。無理無理」
遠弥は軽く笑って却下した。
これ、私が聞いていていい話なのだろうか。しかし、この場から去ろうにもタイミングを逃してしまった。
「余計なお世話だし、僕とあいつが仲良くししても、傷の舐め合いにしかならないよ」
遠弥は少し遠い目をした。私には分からないけれど、彼には彼なりの考えがあるのかもしれない。
「それにあいつにはもっと、」
と言いかけて、いや、と遠弥は首をふる。
何を言いかけたのだろうかと思った瞬間、
「そもそもあいつが好きなのって一修じゃん」
と、へらへらと何も分かっていないことを言い出したので、私は遠弥に呆れてしまった。あれほどに分かりやすい更沙さんの想いには、本当に全然全く欠片も気付いていないらしい。
そっと一修さんを見ると、彼も呆れ返った顔をしていて。ふと目が合った瞬間、なんとなく彼と通じ合った気がした。頷かれもした。私も頷き返した。
(鈍いですよね……)
(鈍いよな……)
みたいな。
まあ、すぐに間に入ってきた遠弥の背中に邪魔されて、何も見えなくなってしまったが。
「話が終わったならそろそろ帰りなよ。もう日が落ちる……僕は送らないからな」
「いらねーよ! 分かった、帰るよ。じゃあな、遠弥。流境さんも、またな」
「はい、また」
遠弥の背中から顔を出して、小さく手を振ると、ぶんぶんと大きく振り返してくれた。一修さんは、初対面のときからずっと良い人だ。仕草一つ一つに優しさがにじみ出ている。
「一修さん、良い人だね」
「……そうだね。あいつは良い奴だよ。お節介で世話焼きで、自分から厄介事を背負いがち」
「そっかー」
なんとなく分かるかもしれない。
納得していると、遠弥の視線を感じた。不思議に思って見つめ返すと、微笑まれる。
そんな顔されるとふつーにちょっと緊張するからやめてほしい。
「一修は僕なんかと違っていい所の貴族様だから、婚約者がいるんだよね」
「へー、そうなんだ。一修さんて、……いい感じの人だもんね」
お父さんみたいだよね、という言葉は飲み込んだ。一修さんて、今でもまるで、遠弥と更沙さんのお父さんみたいに見える時がある。さすがに本人達には言えないけど……。
と、私は心のなかでだけ思ったのに、
「なんか変なこと考えなかった?」
「考えてないです!」
ぶんぶん首を振って否定した。考えてたけど。たぶんそれもバレていただろうけど、遠弥はふーんとだけ言ってそれ以上言及してこなかった。
この人、本当にこんなに目敏いのに、どうして恋愛だけあんなに鈍いんだろうな、と思った。
そして、もしかしたら本当に、心の底から興味がないのかもしれないな、とも思った。