楽園
帰宅した遠弥は、ただいまも言わず、顔を引き攣らせた。
「おかえりなさい、遠弥」
「おかえりなさい。あら、ひどい顔」
ふふ、と楽しげに笑う。美しい彼女は、遠弥の幼馴染らしい。
名前は、天つ風 更沙。私がかつて一度だけ顔を合わせた、この国の王様の娘なのだとか。
もう王様の顔も覚えていないため、似ているかどうかは分からない。でも、更沙さん――更沙様と呼ぶと笑われて、そうは呼ばないと否定された――が、とても綺麗だということは分かる。
ひと目見て、天女だと思ってしまったくらいに。
「――つまり身内に甘いあの人が、此処にいる流境についてぺらぺら話したと」
「それで、なんか気になって遊びに来たんだって」
居間に移動して、三人でちゃぶ台を囲んでいる。
更沙さんは美しい姿勢で座っていて、なんというか、この部屋自体が不釣り合いと言う感じだった。遠弥が叩きつけるように出してきた大きな湯呑みも、なんというか、繊細な、作り物みたいな手には合ってない。
この部屋で更沙さんだけ、まるで違う世界から来たみたいだ。
それって私のはずなのに……。
「色々とお話はうかがいましたよ、……遠弥?」
更沙さんが鈴の鳴るような声で笑うと、遠弥は対照的に嫌そうな顔をした。さっきからずうっとこんな感じだ。
「そんな顔しないで。わたくし、彼女に、楽園のことを聞きに来ただけよ」
「さっさと帰りなよ。そこにあんたの望むものはないよ」
「聞いてみないと分からないじゃない」
「だから聞いても無駄だって、」
「あのー、」
二人のやり取りに、恐る恐る口を挟む。
なに、と二対の目に見つめられ、なんとなく小さくなりながら尋ねる。
「『楽園』って、なんのことですか?」
更沙さんは、不思議そうに首を傾げた。
「あなたの故郷のことではないの?」
「そんな名前じゃないです」
「以前、流境信仰について少し触れたことがあると思うけど、それだよ」
遠弥はつらつらと説明してくれる。
流境信仰には、二つの主だった主張がある。一つが、流境が政治をすべきだという正統性の主張。これは流境がこの国を建国したという伝説(与太話)に基づいている。そしてもう一つが、流境の世界である楽園への憧憬。共にそこへ回帰することこそが幸福なのだと主張している。
私は、遠弥のかつての言葉、「楽園から来たみたいに人がいいね」を思い出していた。不思議な言い回しだと思っていたが、私が流境だからそう言っていたらしい。
「ね。流境の故郷は楽園なのでしょう?」
「え?」
更沙さんの問いかけに、困惑する。
そりゃ、この世界に比べたら文明も発展しているし、便利なものはたくさんある。しかし、楽しいだけじゃないのも事実だ。生きづらいことだってたくさんある。決して一概に、楽園と呼べるような世界ではない。私にとってはもちろん故郷だから大好きで、大切な世界だが……。
そのようなことを説明すると、更沙さんは「そう」と囁くような声で呟いた。
「残念ね」
「そりゃそうだろ。この土地と、流境のいた土地が表裏一体だというのなら、楽園なんてものが存在するなんて有り得ない」
「相変わらず、夢も愛想もない男!」
「事実を述べてるだけだろ」
二人はあーだこーだと言い合いをしている。
二人とも、幼馴染というだけあって、ずいぶん気安いというか、仲良しというか……。
なんかちょっと、仲間外れみたいで寂しい。かも。
「そういえば貴方、何を買ってきたの?」
「お前には関係ない」
「いいじゃない、ケチ」
「僕のじゃない。この子に買ってきたんだ」
「私?」
「ん、うん」
頷かれたので包を開けて見ると、干した果物だった。杏子らしい。食べたことがないけれど、美味しそうなので嬉しい。
「ありがとう、遠弥」
「別に、大したものじゃないよ」
更沙さんはじっと干した杏子を見つめてから、遠弥の顔をまじまじと見た。
「それって、」
「違う!!!」
遠弥がいきなり大声を出したのでびっくりした。珍しいこともあるものだ。
ぽかんとしていると、遠弥はすごい勢いでこっちを見た。
「違うからね?」
「な、何が?」
「しなくてもいい家事の礼だから」
「あ、前も貰ったよね。ありがとう」
お礼を言いながら、こうやって優しくすると、また私が勘違いするかもしれないのに、と思った。
でも素っ気なくされたら悲しいよね……。黙っとこ。
「ねえ、ねえ、流境さん」
「はい」
「貴方の世界では、人々はどのような風に恋をするの?」
「えっ……」
なんで私に、いきなり、そんなことを聞くのだろう。更沙さんの目はただでさえ輝いているみたいなのに、好奇心のせいかもっとキラキラしている。
ええと、と戸惑いながら、遠弥が止めてくれないかと思ったが、彼はお茶を飲んで知らん顔をしている。助け舟は期待できない。
恋も愛も、語れるほどの経験がない。いや一般論で話せばいいのかもしれない。でも恋愛なんて人によって全然違う経験になるだろうし、普通の、一般的な恋愛って何だろう。そもそもそんなもの、存在するのだろうか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
「こ、」
「こ?」
「恋して、愛して、幸せになります」
遠弥はうわ、というような顔をしていたが、更沙さんはお気に召したらしい。
「それって素敵! わたくしも学んだことがあるわ。自由ってことでしょう? 自由に恋して、自由に愛して、自由に幸せになるってこと!」
「そ、そうです。そうです」
よかった。なんとかなかった。顔がちょっと熱い。
もしかしたら更沙さんには、好きな人がいるのかもしれない。でも今の立場じゃうまくいかないから、それでおそらく、自由恋愛に憧れている。
それって少し、可愛いかもしれない。
「わたくしも教えてあげる! この世界にはね、運命があるの。運命の恋、運命の愛、運命の二人! 惹かれ合って止まない二人……」
「……まあ、目印みたいなものがあるわけでもないし、おとぎ話みたいなものだけどね」
「運命はあるわ。たった一人、誰よりもお互いを慈しみ合う大切な人が、誰にだって現れるはずよ」
「はいはい、あるといいですね」
遠弥は鼻で笑う。分かりやすく小馬鹿にした態度に、更沙さんはむっとした。
「……貴方なんかには分からないわ。どこにも婿入したくないからって、髪を切って庶民のフリなんてしてる、へんてこな貴方なんかにはね!」
「意思を表明してるだけだよ。なんで髪を切ってるか聞かれたら、説明できる」
「何の意味があるのよ、それ」
「縁談を持ち込まれずに済む。まあそもそも僕なんかにないと思うけど、念には念を入れないと」
「まっ、そうですか!」
更沙さんはそっぽを向いた。
遠弥はぼそりと呟く。
「貴族の、しかも継嗣が気ままに恋愛できるなんてあり得ないと思うけど」
「もう知りません!」
更沙さんは怒って、もう帰る、と言い出した。遠弥に対して怒っているらしいが、これも彼の想定通りなんじゃないだろうか。早く帰ってほしがっているみたいだったし。
そう思って遠弥の顔を見ると、彼はにっと笑ってから、人差し指で静かに、というジェスチャーをした。
普通にどきっとするからやめてほしい。
「楽園では、親子は皆仲がいいの?」
帰り際、唐突に更沙さんから質問された。ぎゅっと両手を握っていて、今までになく真剣な、緊張した声だった。
私はなんとなく、お母さんと喧嘩したことを思い出した。
「……それは、人それぞれかもしれないです。そこは、この世界と、変わらないと思います」
「そう」
更沙さんは落胆していた。分かりやすくがっかりしていた。
彼女はどこか遠くを見て呟いた。
「そんなものよね」
そうして更沙さんは帰っていった。
遠弥も、更沙さんを送っていくと言って一緒に出ていったが、すぐに戻ってきた。
「あれ、おかえりなさい。早かったね」
「待機してた護衛に引き渡すだけだからね。我儘に付き合わされて大変だな」
「……遠弥」
「なに?」
「更沙さんて、ご両親と仲が悪いの?」
「あんたって結構何でも率直に聞くよね」
ごめん、と謝る。
思ったことを結構すぐに口に出してしまうのは、自分でも悪い癖だと思っている。それでも、あまり変なことは言わないように心がけているつもりだけど。
「遠弥が、王様は身内に甘いって言ってたから、二人は仲がいいんだと思ったんだけど」
「……僕の上司は立派な政治家だけど、人でなしだから。甘いって言っても、気まぐれにそうするだけだよ。だからどうしても、どこかで不和が出るんだ」
「それってなんだか、悲しいね」
「そうかもしれないね」
遠弥は困ったような顔で少し笑った。そして、それきり何も言わなかった。