流境
「王の元に案内します」
冷ややかな声とともに、私の目の前の、両開きの門が開かれる。
私は唾を飲み込んで、その門が開き切るのを眺めているしかなかった。怖くても、逃げたくても、従うしかない。
だってここは、私の過ごしてきた日本じゃない。
隣に立つ、三白眼の青年の様子をそっと伺う。彼はただ口を閉じたまま、正面を見据えていた。
私は、彼の腕の中に、落っこちてきたのだった。
思えば、朝から憂鬱だった。冬の朝は寒くて、気が重かった。外は重たい曇り空で、それで余計に気が滅入った。
着替えてから一階に向かい、顔を洗って歯磨きをして、トースターでパンを焼いて、マーガリンを塗って食べた。大学が冬休み中のため、いつもより遅い時間だということを除けば、いつもと変わらない、朝の日常風景だった。
「おばあちゃん家行ってくる」
お気に入りのコートを着て、玄関から、お風呂掃除をしているお母さんに声を掛けた。
「別にいいけど、やることは終わらせたの?」
「まだ。でもおばあちゃん、病院にネックレス持ってきてって言ってたでしょ。探してくる」
「それはいつでも良いって話だったでしょ」
「でも……」
「おばあちゃんが、あなたが自分のことを疎かにすることを望んでると思う?」
私は無言のまま靴を履いた。
「別にいいでしょ! 後でやっても同じだから! ……いってきます!」
「ちょっと――」
急いで家から飛び出しながら、少しだけ心臓がどきどきしていた。
喧嘩とも言えない喧嘩かもしれない。でも、基本的に親の言うことには逆らわない私にとっては、とても珍しい光景だった。
おばあちゃんは今、入院している。病気とかではなく、膝の手術のためだ。以前から、毎日とても痛むのだと言っていた。最近落ち込んでいるようだから、おばあちゃんのお願いはなんでも聞いてあげたかった。
「蔵の棚に、赤い石のペンダントがついた、首飾りがあると思うの。よかったら探して、持ってきてくれないかしら」
私は頷いた。私にしかできないことだと思った。
おばあちゃんの家は、すぐ近所にある。庭には、今はもう水をいれていない枯れた池があって、そこには小さな石橋がかかっていて、その向こうに小さな蔵がある。
植木鉢の下にある鍵を回収し、扉をあけると、かびたような臭いがしていた。埃が、差し込んだ日光にきらきらと輝いて舞っていた。
蔵の棚と言っても、狭いところだから、壁沿いに二つしかない。
「あった……」
私はすぐに、赤い首飾りをすぐに見つけた。
棚の一番下、目につきづらいところに、隠すようにその箱は置かれていた。中には、赤い石のペンダントがついた、首飾りが収められている。
そこで一瞬、私は、手に取ることを戸惑った。自分が触れていいものか、分からなくなった。
それでも、いつもより落ち込んでいるおばあちゃんの顔を思い出して、思い切って手に取った。
その瞬間、地面が抜けたのかと思った。
「え?」
落ちていた。落ちていた、らしい。これは後から言われたことだ。急に二階くらいの高さに現れて、私はそのまま落下したらしい。
「え!!?」
そのときの私は、ただ浮遊感に驚いて、身体を強張らせていた。状況を把握する間も、悲鳴を上げる間もなかった。
そして、強い衝撃とともに、見知らぬ青年の腕の中に落ちた。というより、落下して床に叩きつけられるところを、ジャンプした彼に空中で受け止めて助けてもらった。
彼の腕の中で、呆気にとられたあと、驚きと恐怖と安堵で、泣いてしまったのを覚えている。
その後はもう、怒涛のように過ぎていった。何人もの人に囲まれ、手首をあっという間に罪人みたいに縛られて、私は訳も分からないまま移動させられた。持ち物を回収され(すぐ返してもらえた)、誰にでも分かるような、意味があるのかよく分からない質問――例えば、「電気は何に使われている?」等に答えさせられた(適当な家電を挙げておいた)。
周り皆、なぜか和服を着て、少し昔の時代から来たみたいな格好をしているし、ずっとぼそぼそ何か話している。ずっと私の横にいる、私を助けてくれたらしい青年は、私の側にはいるが、目も合わせてくれない。
泣きそうだった。というかちょっと泣いた。
やがて、周りからほとんど人がいなくなってしまうと、横にいる青年は、私を縛っていた手首の縄を解いてくれた。
「痛くはないですか?」
「は、はい……」
跡も残っていないくらい緩く結んでくれたので、痛くはなかった。
が、正直言うと、とても怖かった。何度か殺されるかと思った。もしくはドッキリだ。とびきり悪質な、見ていて居た堪れなくなるやつ。
それから、「ついてきてください」と言われ、私は彼の背中を追った。何もわからない状況だから、逃げようか従おうか悩んだが、結局、言われるがまま動いた。
だって、何もしてないのにいきなり腕を縛られたのだ。もし、万が一逃げ出して、捕まったら……。
「日本から来たんですね?」
綺麗な日本語で言われて、私は一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「え?」
「あの質問全てに答えられて、言葉も通じるなら、それ以外ありえませんから。此処は日本という国ではありません。あなたの居た所ではない、という意味です」
話がどんどん進んでいってしまって、ついていけない。速歩きで追いかけながら、訳もわからないまま尋ねる。
「つ、つまり、どういうことですか?」
「説明はこれから、我々の王が行います」
「王?」
王様、ということだろうか。王様? この現代日本に? いや、日本じゃないらしいけど、でも……。
考えていると、青年は足を止めた。道の突き当りである目の前には両開きの門があって、両脇に二人控えている人がいた。
私が恐る恐る彼の横に並ぶと、青年はそこではじめて、私と、ほんの僅かな時間、目を合わせた。きりっとした三白眼は、どこか冷ややかだった。
「王の元に案内します」
そこからの道のりは複雑で、覚えていない。私は彼に付いていくだけで必死だった。誰にもすれ違わないのがあまりにも怖かった。地獄にでも連れて行かれるんじゃないかとすら思った。
やがてたどり着いた先は、奥行きのある長方形の空間だった。長い廊下の先、一段どころでなく高い場所に椅子が置かれている。暗くてよく見えないが、先ほどとは打って変わって、たくさんの人が立っていた。
全員の視線を感じながら、私は、目の前を歩く青年の背中を追いかけた。
そして、思いの外椅子に近い位置で、青年は立ち止まった。
「……連れてきましたよ。これでいいんですね?」
「お疲れ、お疲れ。流境の客人よ、よくぞ参った!」
よく通る、女性の声だった。何がそんなに楽しいのか分からないくらい、はしゃいだ声だった。
高い所から見下されているため、顔はよく見えないが、身を乗り出すようにしているのはなんとなく分かる。
「るきょう……」
「流れるに境と書いて、流境。あなたのことだよ。あなたのような、表裏の世から此方側に来てしまった、不運者達のことだよ」
「表裏の世?」
「ああ。貴方に分かるように言うと、違う世界、異世界のことだね」
小説とか、漫画とか、映画とか、ゲームとか。フィクションの話をしているのかと思った。ぽかんとしていると、王様は冷静に説明を続けた。
流境の客人。異世界から来た存在。珍しいが、無いものではない。
「だからもちろん、帰す手段もあるよ」
「帰れるんですか?」
期待に声が弾んだ。王様が小さく、声を出して笑ったのが聞こえた。
「すぐには無理だよ。帰れる日時、というものがある。が、それが何時かは分からない。調べてはいるから安心しなさい。天気を予知するみたいなものさ」
「そう、ですか……」
「まあ、今までの経験で言うと、そう長くかかるものでもないから、安心しなさい」
慰めてくれたのだろう。優しい王様だ。私は、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「あなたはこれから、私達に保護され、隠匿される。意味は分かるかな? 危険から護られる、ということだ」
「危険」
不穏な言葉だった。だって、しばらくしたら帰れるらしいのに、どんな危険があるというのだろう。
「恐れなくていい。ただ、流境を狙う、変な組織が存在しているだけだ。……我々は体制の安定を望んでいる。政治が荒れないように、守る必要があるんだ。だから、あなたを保護し、隠す。……分かるね?」
私は頷いた。
つまり、流境――私の存在によって問題が起きないように、私の存在が誰にもバレないようにする。私が帰るそのときまで、私の存在を隠し通す。それだけで、何もなかったことになる、ということだろう。
「いつか帰れるその日まで、この世をゆっくりと楽しんでいくといい」
その時頭によぎったのは、朝、お母さんに軽く反抗をして喧嘩みたいな空気になったことと、体調の悪いおばあちゃんが、私が首飾りを持っていくのを待っていることだった。
「あの、私、いつごろ帰れるんでしょうか。早く、帰らないといけないんです」
「分からない。帰れる日時というものは、その時が近づかなければ分からないんだ。繰り返すが、今までの傾向を見ると、そう長くはないはずだ。あなたには申し訳ないが……」
帰れない。少なくとも、今は。
王様はそれから、帰り道の話をしてくれた。
来るときは最悪なことに落下だったが、帰り道はどこぞの洞窟にあるらしい。普段は行き止まりのため奥には進めないが、帰れるときは、不思議と道がその先に続いているという。
ただそれも、今は何の変哲もない、行き止まりの洞窟である。
「そう、ですか……。分かりました。ご説明、ありがとうございます」
「申し訳ない」
「いえ、その、私が、来てしまったので……」
ショックだった。でも、現状にどこか現実味がなく、少しぼんやりした気分だった。
だってこんなの、普通はありえないだろう。夢でも見ているのかもしれない。
こんな、風の流れまで感じるような生々しい夢、見たことも聞いたこともないけれど。
「ああ、そうそう。これは貴方がどうとかではなく、流境の客人には謎が多いため、全員に聞いていることだが……貴方がこちら側に来てしまった心当たりはあるかな?」
「あ、」
私はポケットから、おばあちゃんの赤い首飾りを取り出した。
これに触れた瞬間に異世界にとんだ。
つまり、これが原因?
「心当たりがあるのは珍しい。他の人々は特に理由もなくやってくるから。そちら、預かっても?」
「あ、でもこれは、おばあちゃんの……祖母の持ち物で、」
「これを調べたら、貴方が帰る手がかりになるかもしれない。より早く帰ることができるようになるかもしれないね」
「……分かりました。よろしくお願いします」
そう言われては、断れなかった。私は渋々、近くに来てくれた人におばあちゃんの赤い首飾りを手渡した。
「大丈夫。傷一つ付けやしないさ。調査さえ終わればすぐに返すよ。それより、あなたのこれからについてだが……」
牢屋にでも閉じ込められることを覚悟していると、王様は、「そうだなあ……」と、どこか歌うような調子で話しを続ける。
「貴方が帰れるその日まで、そこの男が貴方の面倒を見よう」
「はあ!?」
いきなり横で大きな声を出されて、びっくりした。王様が指したのは、私を助けて、ここまで連れてきてくれた青年らしい。
王様は、青年の声を無視して続ける。
「同年代くらいだろう? あなたは何歳だ?」
「に、二十歳です」
「そっちの男は十九歳だ。悪くない。いい話相手になるだろう」
「いやいや、馬鹿じゃないですか? 年頃の男と女を同じ家に住ませようっていうんですか?」
「お前の家は無駄にでかいし、部屋もいくつもあるし、静かだろう。別にいいじゃないか、どうでも。別に私が飼って面倒を見てもいいが」
「できるわけないでしょう。……はあ。これも仕事ですよね?」
「そう、仕事だ」
王様がご機嫌なのと正反対に、青年は心底嫌そうだったので、私は居た堪れなくなった。
でも、私のことを「飼って面倒を見る」とか言う人より、命の恩人である彼の方がずっと印象が良かったので、彼には申し訳ないが、何も言わずに黙っていた。
「しかし流境を、よりにもよって僕に、よく任せようと思いましたね」
「お前ならうまくやるだろう」
「はあ。分かりましたよ」
話は、私の意見なんて一つも聞かれないまま決まってしまったみたいだ。
王様よりは印象がいいけど、しかし、まだ名前も知らない男の人と同居することになってしまった。
なんというか、色々と大丈夫だろうか……と思ったが、私に他に行場もないのも事実だ。
「安心しなさい。ちょうどいい男だ。あなたのことを知る者は、少なければ少ないほどいい。それに、この男は腕が立つから護衛にもなる。彼が貴方の面倒をよく見てくれるだろう」
「……私はいま、帰れないんですよね。そしてその帰れる日がいつかは、今は分からない……」
「ああ。この男なら、その日まで、あなたが穏やかに暮らせるよう手を尽くしてくれるはずだ」
「わ、かりました。よろしくお願いします」
私は、隣の青年に頭を下げた。
「こちらこそ。僕は、遠弥。あんたの名前は聞かないよ。誰に聞かれても言わないほうがいい」
「?」
「流境の客人の名前は聞かないのが通例なんだ。それを、神に知られてしまうといけないから」
また『わたしのあなたの七十五日』みたいに、恋愛ものが書きたくなったので書きました。
そっけない、冷ややかな態度の男性と、人懐こい女性の同居もの。
あまり長くならない予定です。
よろしくお願いします。