第5話
伯爵邸の長い廊下の突き当たり、ほとんど誰も出入りしない物置小屋のような場所に、その日だけ見張りがついていた。
埃っぽい床に割れた花瓶とガラスの破片、木枠が破壊された絵画、ひしゃげた指輪などが散らばっていた。伯爵が癇癪に任せて破壊した品々だ。
その中央には鉄製の椅子に座らされ、後ろ手に手錠をかけられたレオがいた。身体中に拷問の跡が生々しく残っていた。
つい数時間前まで伯爵を含め、何人もの人間がそこにいたが、なぜか一斉に引き上げた。
かといってどうすることもできず、うな垂れた姿勢で滴り落ちた自分の血の跡を眺めていた。
「うわぁ、ひどい怪我。大丈夫ですか?」
突然耳に入った声に、レオは顔を上げた。そして目を見張った。
そこにはなぜか、昨日、町の食堂で出会ったロアがいた。
「は⁉︎ ロア……⁉︎ どうしてここにいるんだ」
ロアは何て事もないように答えた。
「夕食をご馳走になっていたんですが、伯爵様に毒が盛られたんです。
『問題が解決するまで、部屋でお休みください』と言われたので、こっそり抜け出して、ここに辿り着きました」
「はぁ⁉︎」
夕食? 毒? 何のことだ。ロアの回答は、レオをかえって混乱させた。
その時、ディナー会場になっていた食堂では、ゴーティエが簡易ベッドに寝かされ、医者の処置を受けていた。
ストラヴァが使用人や護衛、料理人を一列に並べ、言った。
「まず、みなさんの持ち物を全て調べます。それから今日1日の行動を説明してください」
まさにこれから、探偵劇でも始まりそうな様子だった。
使用人の1人が恐る恐る手をあげた。
「あの……美食家を、部屋に帰しても良かったのでしょうか? あの人も立派な容疑者では……? むしろ部外者で、一番怪しいんじゃ……?」
その言葉に、ストラヴァは物凄い形相で言い返した。
「あの人にどうやって犯行ができたというんですか? 毒はメインディッシュに盛られていましたが、ロア様は食事中、一度も席を立っていないんですよ?」
「でも、事前に調理場に行ったんですよね。その時に。何か仕込んだんじゃ……」
勇気を持って声をあげる使用人に、ストラヴァは大きなため息をついた。
「そのタイミングで何かを仕込んだとしたら、どうやって毒入りの料理が伯爵様に運ばれるよう取り計らうんですか?
メインディッシュも、他の料理も全て、同じものを食べていたんですよ?
それに使われていた毒も、この屋敷で保管されていたものです。これは十中八九身内で起こった犯行です。
こんな事件に皇室の役人様を巻き込んで、皇室との間に軋轢が生まれたらどうするんですか? 少し考えたらわかることです」
使用人はそれ以上何も言い返せなかった。
ロアはレオに、事件の詳細を説明した。
「でも、いったい誰が、伯爵に毒なんて持ったんだ……」
「あ、それは僕です」
ロアはケロッと白状した。レオは目を丸くして驚き、しばらく言葉が出ないようだった。
混乱を抑えきれないまま、解きほぐすように質問を重ねた。
「お前がやったって、いつ、どうやって毒を持ったんだよ」
「調理場に案内していただいた時です。
料理長は経験豊富そうな方だったので、僕が西側諸国の会食料理を検討していると言ったら、きっと今日のメインは特産の地鶏を使っていただけると思いました。それで食材庫に用意してあった一番上質な鶏肉に、持っていた針で穴を開けて、毒の丸薬を押し込みました」
ロアはそういうと、ポケットから小さな入れ物を取り出した。中には直径5mmほどの小さな丸い粒が入っていた。
「こちらの丸薬は、特別な樹脂でコーティングされていて、熱にも水にも溶けないんです。
服用するには噛み砕く必要があって、その時少し違和感があるかもしれませんが、多分小骨か何かと勘違いしてちゃんと噛み砕いてくださいました」
「そんな小さなもの、適当に仕込んでうまいことその部分の肉が使われるもんなのか?」
「メインに使われる部位は大方決まっていますし、ある程度詳しくなれば、どこに仕込めば包丁に当たらないかまで検討つきますよ」
「でも、だとしてもロアに運ばれる料理にだけ、毒を仕込むのは難しいだろ」
「はい、だからどちらの皿にも毒が仕込まれるようにしました」
その言葉の本意が分からず、言葉に詰まったレオにロアは言った。
「僕、何食べても死なないんです」
レオは未だ、返す言葉が見つからなかった。ロアは説明を続けた。
「味見される方が飲んでしまう可能性がありますから、スープとかに毒を入れるのは避けました。
それから、毒はストラヴァ様が持っていたものと同じ成分のものを使いました。出所の特定を避けられますし、解毒薬が常備されているはずでしたから。
だから容疑者も特定できず、犯人探しで、もう少し時間を稼げるはずですよ」
「ちょっと待て、なんでストラヴァが使う毒がわかるんだ」
「僕、昨日食堂で飲んでいますから。味でわかりました」
レオはロアが語ることを半分も理解できていなかった。ゆっくり整理したかったが、そんな余裕もないことはわかっていた。
「というか、外の見張りは?」
「話していたら仲良くなって、持っていたお菓子を差し入れたところ、ぐっすり眠ってしまわれましたよ」
ロアはいたずらっ子のように笑うと、ポケットから鍵の束を取り出した。見張りから拝借したものだった。
レオがまた呆気に取られて言葉を失っていると、ロアは静かに尋ねた。
「……レオさんが本当は、次の伯爵になるはずだったって本当ですか?」
レオは一瞬顔をこわばらせた。しかしすぐに観念するように向き直り、ポツポツと言葉を続けた。
「……本当だよ。前伯爵は俺の父親で、現伯爵は俺の兄だ。
父上は、長男に家を継がせるつもりはなかった。人間性が相応しくないと、そう判断していた。だから生前、俺に爵位を継がせることを宣言していた。
けど父上が亡くなった後、長男はすぐ俺に刺客を送った。俺を殺して、伯爵の座に君臨しようとしたんだ」
「……じゃあ、どうして今はすぐ殺されていないんですか?」
ロアの質問は、ともすれば一線を超えていた。それでもレオは冷静に答えた。
「遺言状があるんだ。父上の書斎の金庫の中に。
その金庫は、頑丈な素材で床に足の一部が埋め込まれていて、破壊することも動かすことも燃やすこともできない。
それを開けるための鍵は長男も持っているから、最初は難なく遺言状を破棄できると思っていたんだろうけど、開け方が少し変わっていて、俺だけが父上から教えられていた。
その内容が公になれば、長男はその日から伯爵の称号を失う。
だから長男は俺を殺す前に、その金庫の開け方を聞き出して、遺言状を燃やそうとしているんだ」
ロアはしゃがみ込んで、レオの顔を覗き込むように言った。
「じゃあ、その遺言状があれば、レオさんが伯爵になれるんですね」
眩しいくらいに輝くロアの目を見て、レオは思わず顔を伏せた。
「そうだけど、俺だけじゃもう書斎の金庫は開けられない」
「なぜですか?」
ロアが尋ねると、レオは床に転がるひしゃげた指輪に視線を落とした。
「あの指輪、公爵家の証なんだけど、金庫の鍵にもなっている。はめ込む部分があるんだ。
けど見ての通り、長男に破壊されてもう原型を留めていない。今はもう、長男が持っている指輪しか使えない」
「なるほど……」
ロアは床に落ちる指輪を拾い上げ、どこか考え込んだ様子だった。
唐突にポケットに手を入れ、何かを取り出した。
「ちなみに公爵家の証って、これですか?」
確かにそれは、公爵家に伝わる家紋が彫られた、正真正銘の「公爵家の証」だった。
「はぁ……⁉︎ なんでお前が持っているんだ……⁉︎」
「昔、帝国の関所を越えるために、前公爵様からお借りしていたんです」
「そんな易々と貸せる代物じゃないぞ……⁉︎」
「はい、それくらい僕、切羽詰まっていたんです」
あはは、と気の抜けるように笑ってロアは言った。
レオはまた衝撃で言葉を失っていたが、そういえば昔、9年くらい前、命の次に大切だと父親が常々言っていた指輪を、一度、無くしていたような気がする。
「ちょうどいいので、お返しします。遺言状を取りにいきましょう」
ロアはレオの後ろに周り、手錠に鍵穴を合わせ始めた。
「……俺が伯爵になろうが、なるまいが、前伯爵の墓参りはできるだろ。どうしてここまでしてくれるんだ」
レオは独り言を言うように呟いた。
「前の伯爵様に認められた方に認められないと、真っ直ぐ感謝を伝えられませんから」
ロアは迷いなく答えた。レオはそれ以上何も言わなかった。
「……あれ、おかしい。鍵が全部合わないな……。まぁいいか」
レオの後ろから、バキッと大きな破壊音が聞こえた。
途端に手が自由になった。
「ちょっと待て、今の音なんだ?」
「外れました! 行きましょう!」
「おい!」
レオの声も気にせず、ロアは部屋の外へ進んだ。
前伯爵の書斎は、2階の一番奥の部屋にあった。
レオはロアから預かった鍵の束から一本を取り出し、鍵穴に刺した。
「その鍵、部屋用だったんですね。手錠が開かないわけです」
「まぁ、逆に幸運だったかもな。こうして書斎が開けられるわけだし」
レオは手錠について追求するのを諦めていた。
鍵は抵抗なく回され、ガチャリと音を立てた。
ロアは扉を開くのを見届けていた。レオの視線が書斎の一点に向かうと、目を見開いて驚いていた。
「……レオさん? どうかしましたか?」
レオはロアの声に返事もせず、ただそこに立ち尽くしていた。かと思えばぐしゃっと髪の毛をかき上げ、その場にしゃがみ込んだ。
「あいつ……! どんだけ金庫の中身が怖いんだよ……!」
ロアがレオ越しに書斎を覗くと、話に聞いていた通り、大きな金庫が鎮座していた。
そしてその金庫を取り囲むように、分厚い鉄格子が造られていた。
ロアは中に入ると、鉄格子に手を触れた。滑らかな光沢を放っていて、他の設備より新しいことが見て取れた。
鍵穴を刺す場所が何箇所もあって、その上に鎖と錠が加えられていた。それを解錠する鍵はどこにも見当たらなかった。
「そんな檻、前までなかった。鍵を持っているのは長男だろうな」
顔を伏せたままレオが言った。ロアは静かに鉄の番人の表面を指で撫で、その冷たさを感じていた。
少しの間、そのまま時間が流れた。
レオが意を決したように立ち上がった。
「ここまで連れてきてくれて感謝する。後は俺が何とかするから、ロアは戻るなり逃げるなりしてくれ」
「待ってください、レオさん、どうするつもりですか?」
「鍵を壊すかこじ開けるか、誰かに見つかるまで足掻いてみる」
「危険ですよ。今日のところは逃げたらどうですか? レオさんが生きている限り、領民も希望を持ち続けられると思いますよ」
ロアは引き留めたが、レオの覚悟は決まっていた。
「今逃げたところで、またここに戻って来られる保証はない。こんなに金庫の近くまで来れたのだって奇跡なんだ。
もう領民は疲弊し切っている。これ以上待たせられない」
レオは書斎の棚を物色し、利用できそうなものをかき集め始めた。
ロアにはそれが、徒労に終わることがわかっていた。レオに残された時間は、多くて今夜一晩だけだった。
どんな道具を使っても、普通の人間がそんな短時間で、この檻を攻略できるわけがなかった。
「……レオさん、僕、あなたのお父さんに、本当に感謝しているんです」
聞こえるか聞こえないかの大きさで、ロアは言った。
レオはその声に振り返った。
ロアは目の前の檻に歯を立てた。次の瞬間、鉄を噛み砕く咀嚼音が響いた。
錠前の破片や割れた鎖がバラバラと床に落ちた。レオは目の前の光景を、ただ茫然と眺めていた。
ラグーア領前伯爵の遺言状が公になってから、早1ヶ月が経った。伯爵邸の中庭で子どもたちが遊んでいた。
正門が開き、いくつもの馬車が入ってきた。その中の一番綺麗な馬車から、1人の人間が降りてきた。
「レオ兄! おかえり!」
レオに気づくと、ダリアは思い切り飛びついた。
「ダリア、ただいま。みんな元気だったか?」
レオの質問に、ダリアは元気よく頷いた。
「叙任式、ちゃんと終わった? レオ兄、これでもう伯爵なの?」
「あぁ、遺言状はちゃんと認められた。皇帝からも他の貴族からも支持を得た」
その言葉にダリアは心の底から喜んだ。周りで遊んでいた子どもたちもみんな集まり、変わるがわるレオの手を取った。
「ロアは? 今どこにいるんだ?」
「今日も前伯爵様たちのお墓のところに行ったよ。レオ兄が帝都に出かけてから、毎日そこに行っていたよ」
レオは子どもたちと一通り言葉を交わしてから、1人中庭の奥の墓地に向かった。
白大理石の墓石と色とりどりの花で満たされた空間は、墓地特有の陰気さとは無縁だった。その真ん中で、静かに膝を折るロアの姿があった。
レオに気づくと、パッと顔を上げて振り返った。
「レオさん、お久しぶりです。叙任式、無事に終わりましたか?」
レオは頷いてロアの近くに寄った。
「ずっとここにいたんだってな」
「はい、もう何年も来たかった場所ですから」
そういうとロアはまた前を向いて、顔を伏せた。
「前伯爵にお会いしてから、僕の人生は全部変わったんです。
それまでの僕には絶対に得られなかったものも、知り得なかったことも、感じることが出来なかったことも、あの人のおかげで手に入れることができた。
だから……」
ロアはかすかに声を震わせて続けた。
「本当は、生きているうちにお礼が言いたかった」
レオはなんて言ったら良いのかわからなかった。
かける言葉も見つからず、ただ黙ってロアの背中を見ていた。
その状態で、しばらく時間が流れた。
ロアは立ち上がり、微笑みながら振り返った。
「でも、あの人に救われた力で、あなたの力になれて嬉しかった。あの人の望んだ未来に貢献できて嬉しかった。
僕なりに、あの人の恩に報いることが出来た気がしました。レオさん、ありがとうございます」
木々の間から溢れる光が、瑠璃色の瞳に反射した。
「……礼を言うのは、こっちの方だろ」
レオが静かにそう言うと、ロアはあははと無邪気に笑った。
2人は墓に背を向けて、邸宅の方に歩き出した。
「ところでレオさん、僕、今度の皇室の会食のために、食材を探しているところなんです。
この伯爵領内にも気になる名産品がいくつもあって、よろしければ、食材開拓にご協力いただけないでしょうか?」
レオは柔らかく笑って言った。
「いいよ、なんだって協力する」
その後、ラグーア領地の食材が振舞われた西側諸国との会食は大成功に終わった。
その評判は帝国内外に広まり、辺境の町の小さな食堂にも、噂の料理を味わおうと訪れた人々で活気に溢れていた。