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霊山の裁き  作者: 聖岳郎
2/2

霊山の裁き(下)

月山(がっさん)への(いざな)い』


 東京の空は梅雨空が続いた。

 名古屋から戻った空木は、夏山登山に備えて連日体育センターのトレーニング室に通った。今年は七月末に、北海道のトムラウシ山を予定していた。

 東京に戻った三日後、トレーニング室から戻ると、郵便受けに白い封筒が入っていた。空木は何か嫌な予感がした。そして封筒を見て驚いた。差出人の名前は仲内好美とあった。仲内和美の時と同様、ワープロで書かれた名前だけで、住所はなかった。消印は仙台と押されていた。

 空木は急いで部屋に戻り封を開けた。これも事件の発端となった仲内和美の手紙同様ワープロで書かれた手紙だった。違うところは、和美の書体が明朝体なのに対し、この手紙は毛筆体だった。


 空木健介様

 突然のお手紙の非礼をお許しください。

私は、仲内好美と申します。既に空木様は仲内和美の名前はご記憶されていると思います。私は仲内和美の妹でございます。

 突然お手紙を差し上げましたのは、空木様にお会いして全てをお話したいと思ってのことでございます。それは、何故姉が空木様にご依頼したのか。何故あのような事が起こったのか。仙台で何があったのかを、その全てをお話したいのです。

 私は今、夏の一時だけ、山形の月山神社の巫女の仕事をしております。七月九日土曜日に、月山頂上にある神社に来ていただければ、全てをお話致します。お待ちしております。

 仲内好美


 空木は背筋に寒いものが走るのを感じると供に、動揺した。

 仲内和美の妹と名乗っての手紙だが、実名かどうかも判らない上、たとえ実在する名前だったとしても到底本人からの手紙とは思えない。仲内和美の名前で手紙を出してきた人間と同一の人間が出してきた手紙ではないだろうか。この手紙を出した人間が、本当に事件の全てを知っているとしても、何故、月山まで来いと言うのか、月山でなくては話せない理由があるのか、仙台でも東京でもいい筈だ。月山でまた、霊仙山と同じ様な事件が起こるのどろうか。何よりも、何故自分にこんなことを伝えて来るのか‥‥‥。

 空木は石山田に連絡し、夜いつもの店で会うことになった。


 居酒屋「さかり屋」で二人はいつもの酒の肴とビールのジョッキを前に置いていた。

 石山田は仲内好美からの手紙を見ながら言った。

 「健ちゃん何とも不可解な手紙だ。会って全てを話すというなら山でなくてもいい筈だ。住所も明らかにしない仲内好美とは一体何者なのか。実在するのか、本当にこの神社にいるのだろうか」

「いや、月山神社に確認したが、巫女などは置いていないそうだ。すぐにばれる嘘を書いているのも解せない」

「健ちゃんの推測通り、仲内和美の名前で送られて来た手紙と同じ人間が書いた物に間違いないだろう。この手紙はまるで挑戦状みたいだけど、直訴しているようにも読めるな」

「直訴か。そんな風にも読めるかな」

「何故、空木健介に依頼したかとか、仙台で起こった事とか、俺たちや大林刑事たちが知りたいと思っていることを推測して、全て話すということは、逆に知って欲しいと言っているようにも感じるよ」

 石山田は空木より冷静に見ているようだった。

 「確かに、仙台という地名が手紙に書かれているのは不思議だ。仙台で何かがあったと考えているのは、我々と捜査本部だけの筈だ。俺に尾行を依頼した理由もどうしても知りたい部分だ。しかし、この手紙を書いた人間が月山にいるとは思えない」

 今日の空木は中々アルコールが進まなかった。肴にもほとんど手を付けなかった。

 「ところで月山神社ってどこにあるんだ。月山の麓にあるのか」石山田は聞いた。

「いや、月山の頂上だよ。俺は仙台に居た頃二回登った。中宮からのルートだと八合目まで車で行くことが出来て、二時間位で頂上まで登れるが、山登りの連中は逆側の姥沢(うばさわ)から登るのがほとんどだ」

 空木は思い出したかのようにジョッキを口にした。

 「巌ちゃん、俺、月山に行ってみようと思う」

「おいおいちょっと待てよ、誰が書いたか判らないけど、この手紙の主は絶対にいないぞ。居たらいたでそれは危ないよ。この前の霊仙山のような事が無いとは言えない。一人で行くのは無茶だ」

 空木の突然の月山行きに、石山田は自重するように言った。石山田がそう言うのも当然だった。

「俺もそうは思うけど、このままでは浅見芳江から依頼された調査も全然進まない。月山に行っても何も無いかも知れないけど、月山で話すと言っているんだから、何かのヒントが掴めるかも知れない。捜査も進展するかも知れない。それに久し振りに登山として月山に上ってもみたい。巌ちゃん一緒に行こう」

 空木はジョッキを飲み干した。

 「俺は行けないよ。うちの管轄のヤマならともかく、湖東警察署のヤマなんだから、縄張りを越えるのは警察の御法度だ。うちの課長も係長も許すはずはないよ。まあとにかく、あっちの捜査本部の大林刑事にこの事を連絡してどうするか相談するから、それまで一人で勝手に動くなよ」

 石山田はエイひれを摘まんで芋焼酎を飲んだ。

 「わかった。ところで向こうの捜査本部の方は何か進展があったのかな」

「さあ分からないが、今のところは何の連絡も無い。それも大林刑事に聞いてみる」

 空木はやっと調子が出てきたかのように、芋焼酎をロックで飲み始めた。


 翌日、朝一番で石山田は湖東警察署の大林に電話を入れた。

「えっ、空木さん宛てにまた手紙。それも仲内和美の妹を名乗る仲内好美の名前で。確か、仲内好美という名前は浅見豊の葬儀の時、香典にあった名前ですね」

 大林は石山田からの電話に驚いたが、冷静に仲内好美の名前を思い出していた。

 石山田は、空木が無駄に終わるかも知れないが、月山に行こうと考えていることを話し、一人で行かせるのは霊仙山の事もあり、何があるか分からないことから危険だと思うが、そちらとしては対応出来るか聞いた。

 大林は、捜査本部としても人を出したいが、捜査本部が縮小し、人が出せない状況であることを話し、そして言った。

 「石山田さん、また捜査協力をお願い出来ないでしょうか。そちらの課長さんと係長さんには、うちの課長から協力依頼の電話を入れてもらいますから、お忙しいでしょうが何とかお願いします」

 石山田は了解したことを大林に告げた。月山に行って見たいと思う気持ちが即応の返事となったが、課長が許すだろうかと思うと、一瞬間が空いた。

 「‥‥‥ところで、そちらの捜査状況はいかがですか」石山田は思い出したかのように訊いた。

 大林は、三週間以上経過したが、大きな進展がないとした上で、仲内姓の全国調査の報告が、警視庁始め、各道府県警から送られ、あと十数件を残すだけだが、和美、好美に該当する仲内姓は浮かんでこないこと。湯の山温泉の二百三名の単独男性宿泊客の洗い出しは、全員実名での宿泊であることが判った。ほぼ全ての該当者に直接確認を取っているが、東京の住所の二人の確認が残っていて、うち一人は海外出張中であることが判明しており、近々確認が取れそうだが、一人は所轄が何度か訪問してくれたが、不在で確認が取れない 状況となっている。この確認のためにもしかしたら東京に出張することになるかも知れないと話した。


 その日、空木がトレーニングを終え、部屋に戻ると、携帯電話が鳴った。石山田からだった。

 湖東警察署の大林と相談した結果、自分が一緒に月山に行くことになった、と石山田は言っていた。

 「向こうの課長から、うちの課長に捜査協力の依頼があって、俺が健ちゃんと一緒に月山に行くことになった。課長からは何でお前が行かなきゃならないのかと、ぶつぶつ文句を言われたよ」

 石山田の電話のその声は楽しそうだった。

 そして、湖東警察の捜査本部の捜査状況はあまり芳しくなく、仲内姓の全国調査の状況、湯の山温泉の単独男性宿泊客の所在確認の状況も空木に話した。

 「捜査は牛の歩み、というところなんだな。しかし、月山に巌ちゃんが一緒なら心強いよ。ホテル、レンタカー含めて、手配は俺がやるよ。大震災の影響がどれ位続いているか気掛かりだけど、来週の金曜出発で手配してみる。また、連絡する」

 空木は携帯を切った。

 夕方六時過ぎ、部屋を出た空木は「さかり屋」に向かって歩いた。

 西の空に浮かぶ雲がオレンジ色に輝いていた。梅雨前線が北上する傾向だと天気予報で報じていた。例年なら七月初旬は大雨の時期だが、今年は雨が少なく、ここしばらくは梅雨の中休みとなりそうだとも言っていた。

 空木はカウンターに座った。

 「空木さん今日は一人?」珍しく店主が聞いた。

「そう。土曜、日曜の夜は所帯持ちを誘うのは気が引けるしね」

「土曜の夜に一人でうちに来るっていうのも寂しいでしょ。空木さん良い人いないの」店主はニコニコしながら言った。

「ああ、いないよ。そんな事どうでもいいからさ、早くいつもの肴とビール出してよ」

 空木も良い女性がいれば、一緒に食事もしたいし、酒も飲みたいと思う。しかし、四十二歳ともなると恋愛だ、結婚だというのは面倒くさいと思うのが先に来る。

 「空木さん幾つになるの」

 店主はビールのジョッキをカウンターに置いた。

 「俺は四十二歳、九月には四十三だよ」

「後厄ですか、まだまだ若いですね。今度、うちの店に女の子が来てくれるんですよ。少し空木さんより若いですけどね」

「へぇ、この小汚い店に女の子ですか。それは楽しみだ」

 空木はジョッキのビールを、喉を鳴らしながら飲んだ。

 空木は、もうすぐ後厄も終わるのかと思いながら、自分も関わることになってしまったこの事件は、厄災なのだろうかと考えた。

 万永製薬を退職し、探偵業の看板を出した。猫探し、病院の付き添い各々一件の仕事しかこなかった新米探偵に、思わぬ仕事が舞い込んだ。喜んで引き受けた仕事が、とんでもない事件の始まりだった。

 湖東警察署の捜査本部も懸命に捜査しているが、まだ犯人の糸口も掴めていないようだ。何故、自分に尾行の依頼が来たのかが判れば、それが犯人に繋がる可能性は高い。

 浅見芳江からの依頼は、仕事として果たさなければならないが、自分に直接降りかかった尾行の仕事が、何故自分に依頼されたのか、これは何としても調べなくてはならない。

 それともう一つ、気になるのが仙台だ。浅見豊が勤務し何かが起こった仙台。仲内好美の名前で送られて来た手紙の消印の仙台。と思った時、空木はもう一つの仙台を思い出した。

 万永製薬同期の村西の後輩も、確か仙台に関係があって、俺の事を電話で聞いていたと言っていた。確認しようとしてすっかり忘れていた事を、今思い出した。確か伊村という名前だった。

「親父さん、電話させてもらうよ」

 空木は携帯電話を取り出した。

 電話の相手は杉谷一行と言って、空木の万永製薬仙台支店在籍時代の後輩だった。

 空木は、東亜製薬の仙台支店に、今年の三月まで在籍していたと思われる伊村という男を知っているか、杉谷に聞いた。

 杉谷は、親しくはしていないが、同い年だったこともあって知っていると答えた。今、どこにいるかは全く知らなかったが、東京に転勤すると言っていたと思う。辞めたことは知らなかった、と言った。

 空木と伊村が、仙台で住んだ時期が重なっていたかどうかについては、杉谷は、時期は一年位重なっていたかも知れないが、担当病院が違った筈だから、空木さんは知らないのではないか、と答えた。

 空木は、突然の電話を詫び、近いうちに仙台へ行くかも知れないが、その時は宜しくと言って携帯電話を切った。

 月山登山が終わったら仙台へ行こうと思った時、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

 「お待たせしました」

 石山田だった。

 「家で家族団欒じゃなかったのか。一人でゆっくり飲もうと思っていたのに」

 空木はもう芋焼酎を飲んでいた。

 「夕飯は食べてきた。月山登山の打合せということで出てきたよ。さあ、打合せだ」

 石山田は芋焼酎をロックで飲み始めた。


 東京は天気予報通り晴天が続いた。連日三十度を超える真夏日となり、梅雨の中休みどころか梅雨が明けたのかと思わせる日々が続いた。

 空木は、東京生まれの東京育ちだが、東北、北海道の暮らしがこの七、八年続いたせいか暑さには弱くなっているようだった。

 昼の十二時半に石山田と国立駅で待ち合わせた。二時過ぎの山形新幹線で山形に向かう予定で東京駅に向かった。

 東北新幹線のダイヤは、大震災の影響で七月初旬まで臨時のダイヤで運行していたが、今週から通常ダイヤの運行となった。

 空木は五十リッターの大型ザックと、登山靴を入れた紙袋を提げていた。石山田は登山靴を履き、四十リッター位のザック一つを背負っていた。見る限り石山田は、車の運転をするつもりはないようだと空木は思った。ソールの厚い登山靴では、とても運転は出来ないだろうと。

 二人は東京駅の新幹線ホームで弁当とお茶を買ったが、石山田はビールも買った。やはり車を運転する気はないようだ。

 つばさ号の車内は満席だった。震災に関連して、復興関係者やボランティアらしき人たちが多数いて、二人の登山服姿も違和感はなかった。

 郡山から福島の沿線には、屋根にブルーシートを被せた家が何軒もあった。多くの人たちの命と、家屋、財産を一瞬に奪った大震災の爪跡、影響はまだまだ大きかった。

 福島駅でやまびこ号と別れたつばさ号は、山形には夕方五時過ぎに着いた。山形も東京同様晴れて暑かった。山形は東北でも夏の暑さは一、二だろう。

 東口にあるレンタカー会社でレンタカーを借り、西口にあるホテルに向かった。山形駅の西口は、再開発の最中なのか、駅前は広々とした空き地状態で、四軒のホテルが道路の向こう側に立っているだけだった。

 「健ちゃん、どこで晩飯を食べるんだ。決めているのか」

チェックインを済ませた石山田は空木に聞いた。

「大丈夫、山形の繁華街は七日町という所なんだ。そこに美味しい鳥鍋を食べさせてくれる店がある。「おまつ」という店なんだけど、もう予約もしてある。荷物を置いたら行こう」

 「おまつ」は鍋専門の店で、暑い夏は客が減るのだが、二人が入った時、店は九割程埋まっていた。

 空木が店に入ると、女将(おかみ)が「空木さんいらっしゃいませ、久しぶりです」と声を上げた。空木は仙台から札幌へ転勤した後も、年に一回位はここの「鳥たたき鍋」を食べに来ていた。

 二人は、空木の好物の「鳥たたき鍋」と鮪のカルパッチョ、そして裏メニューの磯辺巻きを頼み、ビールで喉を潤した。

 ここの「鳥たたき鍋」は、比内鳥の肉のたたきと、比内鳥の卵の黄身を混ぜてつくね状にし、秘伝のだし汁の入った鍋に落として食べる。鍋の最後の雑炊も絶品で、空木は世界一美味い鍋と言うぐらいだ。

 石山田も「鳥たたき鍋」に舌鼓を打ち、こんなに美味しい鍋は食べたことがないと言いながら、ビールを二杯、三杯とお替りした。

 「巌ちゃん、明日は月山に登るんだから適当にしておきなよ」と言いながら空木もビールをお替りした。

 女将が空木にビールを運びながら言った。

「空木さん、前に来られてからもう一年近く経つでしょうか。今日も札幌からお越しいただいたんですか」

「いえ、東京から来ました。実は、今年の三月で会社を辞めて、今は東京でこんな仕事しています」と言って、スカイツリー(よろず)相談探偵事務所の名刺を女将に渡した。

「あら、会社をお辞めになって今は東京で探偵さんを始められたんですか。山形へはお仕事ですか」

女将は名刺を見ながら聞いた。

「仕事と言うか、月山に久し振りに登ろうと思って、友達と二人で来たんです」

「お友達と月山登山に来られたんですか。天気は良いようですから良かったですね。そう言えば、さっきテレビのニュースで今日、月山でお一人転落して亡くなられたって言ってましたよ。気を付けて登ってらっしゃって下さいね」

「えっ、月山で転落して死んだ‥‥‥」

 空木と石山田は顔を見合わせた。

 「月山のどの辺りで亡くなったのかとか、どこの誰だとか、ニュースで言ってましたか」

「言っていたような気がしますけど、よく覚えていません。すみません」

「いえ、月山で転落して亡くなるというのは珍しいと思いまして」

「それより空木さん。東京にいらっしゃるならちょうど良かった。私の姪を紹介させて下さい。近々、東京で働くことになったんです」と言って女将は後ろを振り返って手招きした。

 エプロンをして赤い三角巾を頭に巻いた女性が、空木達の小上がりの前に立った。

「坂井良子ちゃんと言います。今年二十八歳。こちらは空木さんとお友達」

 女将は二人に紹介した。

 「坂井良子と申します。東京で働くのは初めてなんです。宜しくお願いします」

 可愛らしく、落ち着いた印象の女性だった。

 「東京で何か困ったことがあったら連絡して下さい」と言って、空木は名刺を良子に渡した。

「健ちゃん可愛い娘だな」石山田がにやりとしながら言った。

「そんなことより巌ちゃん、月山で死んだというのは不吉だな」

「不吉は不吉だけど、転落事故のようだし気を付けて登るしかないよ」

「しかし、どこで転落したのかな。雪渓かな。落ちて怪我はしても、死ぬようなところはどこだろう」

  空木は、月山に夏と秋の二回登っていた。

 「そうか健ちゃんは月山の登山ルートを経験しているから気になるよな」

「そうなんだ、それに俺たちが来るのに会わせるかのように死亡事故が起きたこともね。もし、これが明日だったら霊仙山と同じことになる」

「霊仙山か。‥‥‥そうしたら明日の朝刊の記事を見て、何だったら所轄に行って聞いてみよう」

 石山田は、焼酎は何があるか聞いていた。明日の月山登山も石山田の酒量には関係ないようだった。

 二人は「鳥たたき鍋」の後の雑炊にも舌鼓を打ち大満足した。

 ホテルに戻った二人は、フロントに明日の朝刊を一番で部屋に入れてくれるよう頼んで部屋に戻った。

 シャワーを浴びベッドに入った空木はすぐには寝付けなかった。

 月山の転落事故のこと考えていた。恐らく雪渓から滑ったのであろうが、本当に偶然なのだろうか。警察が事故と判断したのだから、我々の登山に偶然当たってしまったのだろうと思うのだが、空木には何か釈然としないモヤモヤとしたものがあった。

 本当は、これは事故ではなく、故意だったとしたら。指定された明日七月九日土曜日に起こる筈の事件が、何らかの理由で今日にずれたとしたら。手紙での月山への誘い、そして転落事故に遭遇することになったのではないか。空木は背中に寒気が走った。

 空木は考えるのを止め、『おまつ』で食べた「鳥たたき鍋」を想像した。睡魔が襲ってきた。

 翌朝五時過ぎ、山形新聞がドアの下から部屋に差し込まれていた。空木は社会面を見た。月山で転落死という小見出しが目に入った。

 その記事には、こう書かれていた。

 七月八日午前九時半頃、姥沢小屋からの登山道を二十分程登った付近で、男性が転落しているのを登山者が発見し月山西川警察署に通報した。病院に運ばれたが、死亡が確認された。死亡したのは仙台市の会社員で江島照夫さん(四十一歳)で死因は頭部外傷による出血死だった。付近は雪渓があり、江島さんが雪渓から転落した際、岩に頭部を打ち出血、死亡したものと見られる。

 空木の部屋のドアがノックされた。石山田だった。

 「読んだかい。どうする」

「大体の場所の見当はついたよ。登る途中だから現場を確認出来ると思う。予定通り頂上の月山神社まで行こう」

 二人は六時半にホテルを出発することにした。


 今日も天気は晴れ、午後からは雲が出る予報だった。山形は、さすがに朝は涼しかった。梅雨前線は北に上ったままのようで、梅雨がないと言われている北海道で梅雨状態が続いているようだった。

 空木たちはコンビニで食料を買い、車のナビに従って、東北中央自動車道から山形自動車道に入った。月山が望めた。月山上部はまだかなり雪があるようで(まだら)模様に見えた。空木は一応軽アイゼンをザックに入れたが、石山田は持ってきてはいないようだった。

 月山インターチェンジで山形自動車道を降り、月山スキー場を目指す。

 月山は標高1984メートル。湯殿山、羽黒山とともに出羽三山の一つに数えられ、修験者の山岳信仰の山として知られ、日本百名山、花の百名山に選定されている。豊富な残雪のため夏スキーが可能で、月山スキー場は、冬は閉鎖、オープンは四月末で七月末までスキーが楽しめる。

 空木たちは午前八時前に月山スキー場の駐車場に着いた。標高が高いだけに涼しかった。駐車場には既に二十台以上の車が停まり、大半は他県ナンバーだった。

 カラフルな服装の男女が大勢いる。彼らはここからリフトで牛首にあるスキー場に上って行く。空木と石山田は姥沢(うばさわ)小屋の裏手から登山道を登って行く。

 空木は登山靴に履き替え、二十リッター位のサブザックに水と食料とアイゼンを入れた。石山田は四十リッターのザックで、東京を出発した時と同じ姿だった。

 二人は沢を渡り、小屋の裏手の登山道を登り始めた。雪はこの辺りにはない。しばらく行くと、小さな沢が雪渓となっていた。思ったより残雪は多い。十四、五メートル程トラバースする。スリップしないよう慎重に渡る。

 小さな雪渓を二つ程越えただろうか、歩き始めて二、三十分程経った。小さな雪渓の下に赤い布を付けた竹竿が立てられていた。周辺にはいくつもの足跡が見えた。昨日の転落死亡事故があった場所と思われた。

 「厳ちゃんここだな」

「そうみたいだな」

 二人はその雪渓を下った。慎重に下るがスリップする。四、五メートル下った辺りにかなりの血痕があった。やはりここが転落現場だった。さらにその下には沢があって折れた樹木の枝が積み重なっていた。

 空木は周囲を見回し、ザックからカメラを取り出して周囲の写真を何枚か撮った。

 登山道に登り返す途中、血痕の二メートル程上部に、雪から出た岩片が見えた。その岩片にも血痕が付着していた。石山田は、ここに当たったのか、と呟いた。空木はカメラに岩片を収めた。

 二人は登山道に戻り、歩き始めた。

 「運が悪いとしか言いようがないね」石山田が独り言のように言った。

「どんな風に落ちたんだろう」空木も独り言を呟いた。

 この辺りは木道が続くのだが、残雪が木道を覆っている。しばらく行くと、四ツ谷川に合流し牛首カールに出た。一面真っ白、雪原となっていた。

 石山田は驚きの声を上げた。

 ルートはトレースがあって分かりやすいが、急登となったらアイゼンが必要になりそうだった。

 好天の土曜日だが、前後を見る限りこのルートを登っているのは自分たちぐらいしかいないと思われた。

 左手にスキー場が見えた。大勢のスキーヤーが色とりどりのウェアで滑っている。吹き渡る風が冷たい。石山田が「寒いな」と声を上げると、二人は腕まくりしていたシャツの袖を下ろした。

 牛首への分岐に出る。眼前に東北の最高峰の鳥海山(ちょうかいさん)が現れた。振り返ると、登ってきた雪渓のはるか西に、大朝日岳を主峰とした朝日連峰が懐深く(そび)えていた。登山者の数が増えた。ここからは急登が始まるが、残雪はさほどではない。アイゼンは着けない。

 急登を終える。頂上付近は湿原が広がり、池塘(ちとう)が青い空を映し、辺り一面にチングルマ、ハクサンイチゲが群生している。風は冷たく、汗をかいた体に心地良かった。

 二人は頂上の神社に歩を進めた。小屋の間を抜け、神社に出る。辺りを見回した。

 八合目の駐車場から登る、中宮ルートからの登山者を合わせ、四、五十人はいるだろうか。

 神社とその周辺を見ても、やはり巫女らしき女性は居ない。神社の東側に出る。上部を白く飾った鳥海山が目前に(そび)えている。出羽富士と言われる山容は見事だった。絶景なのだが、二人には景色をゆっくり眺める余裕はなかった。

 コンビニで買った、おにぎりを食べる。食べながらも周囲を見回す。風が冷たく、体が冷えてくる。

 二、三十分経っただろうか、それらしい登山者もいない。何も起こらなかった。

 「やっぱり居なかったな」石山田がボソッと口にした。

 二人は下山することにした。

 月山神社を過ぎ、小屋の前まで来た時。

 「厳ちゃん、見てみろよ」空木は思わず声を上げた。

石山田も「えっ」と声を上げた。

 それは小屋の壁に貼られたA4の紙に、マジック様なもので書かれていた。

「空木さんへ

予定が変わってしまいました

 仲内好美」

 二人はテープで止められたその紙を剥がし、周囲を見回した。

 「いたのか」空木は呟いた。

 登って来た時には気が付かなかったのか。いや、かなり周りに注意して歩いていた筈で、見落とすことはないだろう。

 「登ってきた時には無かった。こいつは健ちゃんの顔を知っているんだ。登って来たことを確認して貼ったんだ。間違いない」石山田の声は大きかった。

「健ちゃん、ここにいてもどうしようもない。取り敢えず下山しよう」

 二人は頂上を後にした。

 駐車場に着いた。下山は一時間二十分程で下った。時間は午後一時を回ったばかりだった。

「厳ちゃん、警察に行かないか。事故だと思うけど、やっぱり気になるんだ」

 空木は、頂上にあった貼り紙より、転落事故の方が気になった。

「よし時間もあるし行ってみよう」


 月山西川警察署は国道沿いの町役場の隣にあった。

 石山田は、空木と月山に同行した報告とともに、月山西川警察署に事前に連絡して貰えないか課長に電話をした。課長は、管轄外の事件に首を突っ込むな、の一言だった。

 石山田は湖東署の大林に電話をした。大林は霊仙山の事件に関わってしまった空木の気持ちを理解し、西川警察署の刑事課に連絡しておくと言った。

 月山西川警察署は二階建ての比較的新しい建物だった。

 登山服姿の石山田は、受付に自分の名前を告げるとともに警察証を提示し、刑事課の吹石刑事をお願いしたいと告げた。吹石の名前は、大林から連絡されていた。

 五分ほどして、年は五十がらみのずんぐりとした色の黒い男が出てきた。

「湖東警察署から連絡をいただきました。国分寺署の石山田さんと空木さんですね。私、吹石と申します。お話は電話で聞いていますのでこちらへどうぞ」

吹石は地域課へ二人を案内した。

「転落事故ということで刑事課の出番はありません。地域課で処理していますので担当者を呼びましょう」と言って吹石は、男を手招きした。

 男は吹石と少し話しをした後、机に戻り書類のファイルらしきものを手にこちらに来た。

「地域課の本山と申します。遠路ご苦労様です」

 本山は腰を折りながら小さな応接セットに案内した。

 本山は四十半ばと思われる、太った男だった。

 「わざわざお越しになって、ご確認されたいことというのはどんなことでしょうか」

本山は言いながら書類ファイルを開いた。

 石山田は自己紹介とともに空木を紹介した。そして、月山まで来た理由を、遠く霊仙山という山の麓で起こった事件から、発端となった仲内和美からの手紙、そして妹と名乗る仲内好美からの手紙までを本山と吹石に説明した。

 「そうですか。それで月山神社でその女性と会うことは出来たのですか」吹石が聞いた。

「いえ、それらしい人間は居ませんでした。ただ、こんな貼り紙がありました」

 空木は貼り紙を見せた。

 「手紙の主も頂上にいたという訳ですか」吹石が首を捻っていた。

「そしてお二人が、月山に来るのに合わせるかのように転落死亡事故が起きた。手紙の主も月山に居た。転落が事故だったか確認したいということなんですね」

 吹石は、二人が西川署に来た理由を改めて本山に聞かせるように言った。

 本山はファイルを見ながら。

「我々の現場検証では、事件性は確認出来ませんでした。死亡したのは、所持していた運転免許証から東京練馬区に住所がある江島照夫、四十一歳。死因は右側頭部を強打したことによる脳挫傷及び出血によるものでした。スリップするかつまずくかして転落し、不幸にも岩に頭をぶつけてしまった、と思われます。発見通報してくれたのは、やはり仙台にお住まいの伊東公一郎さん六十一歳の方です」

本山はファイルを読んだ。

「スリップの跡はありましたか」空木が訊いた。

「明確なスリップ痕は確認出来ませんでした。恐らく、滑落ではなく、バランスを崩して飛び込んだような状態ではなかったかと思います」

 本山がファイルから顔を上げて答えた。

 「新聞には仙台の会社員とありましたが、東京の方だったのですか」今度は石山田が訊いた。

「東京の住所に連絡した際に、家族の方から、仙台に単身赴任しているとのことでしたので、新聞社には仙台の会社員と発表しました」

 本山はファイルを見て確認した。

 「差し支えがなかったら、亡くなられた方の会社はどこでしょうか」

単身赴任という言葉に何かを感じた空木が何気無く聞いた。

「差し障りはないと思います。東亜製薬の仙台支店にお勤めだったようです」

 まさかの答えに空木と石山田は、顔を見合わせて息を呑んだ。

 「本山さん、今どこと言われました」石山田が聞き直した。

「東亜製薬と言いましたが、どうかしましたか」

本山はきょとんとしている。

「健ちゃん、どういうことだろう同じ会社だ」石山田は空木の顔を見た。

「同じ会社というのはどういう意味なんですか」今度は吹石が石山田に顔を向けた。

「実は、さっきお話した霊仙山での事件の被害者も、東亜製薬に勤めていたんです」

 石山田の話に、今度は吹石と本山が顔を見合わせた。

 「なんですって。同じ会社の人間だったのですか。こんな偶然があるんですね」丸顔の本山が顔を一層丸くして言った。

 空木は偶然ではないと思った。こんなことが偶然で起こる筈はないと。

 しかし、月山西川署では、昨日の死亡事故はあくまでも事故であり、事件性はないと考えている。恐らく、自らは事件性があるかどうかの調査はしないだろうと、空木は思った。石山田も同じ思いのようだった。

「お忙しいところ有難うございました。もしかすると、滋賀県警の湖東警察署から捜査協力の依頼があるかもしれません。その時は宜しくお願いします」

石山田はこう言って、二人に頭を下げて席を立った。

「石山田さん、すぐ近くの道の駅に町営のいい温泉がありますから、山登りの汗を流して行ったら良いですよ」

席を立った二人に吹石は言った。

 玄関まで見送った吹石は石山田に

「裏付けるものはありませんが、事件の匂いがしてきましたね」ポツリと言った。


 二人は、吹石に教えてもらった温泉に浸かった。

 「巌ちゃん、俺はとても偶然だとは思えない。江島という男が事故にあったのは偶々(たまたま)じゃあないよ。貼り紙の、予定が変わったというのは、好美が手紙で指定した土曜が金曜になった、ということなんじゃないだろうか」

「俺もそう思う。この事は、西川署に連絡を入れてくれたこともあるし、大林刑事に伝えておく必要がありそうだ。一人は事故とは言え、東亜製薬の仙台支店に関係する二人が死んだ。しかも両方の事件、事故とも手紙が絡んでいる。何かありそうな匂いがするよ」と、石山田は温泉に顔を沈めた。

 温泉を出ると、予報通り雲が出て、月山は雲に隠れていた。

 山形駅西口のホテルに戻ったのは夕方六時前だった。

 石山田は今日も「おまつ」をリクエストした。空木も鳥たたき鍋の連ちゃんもいいと思った。都合よく席も空いていた。二人は今夜も鳥たたき鍋と雑炊に大満足しながら酔った。

「健ちゃん、明日はどうする。予定通り仙台へ行くのか」

「そうするつもりでいる。久し振りに後輩にも会いたいし、牛タンも食べたい」

「牛タンか、俺も食べたいね」

「一緒に行くかい」

「いやだめだ。係長からも課長からも、月曜の朝は必ず署に出ろ、と言われている。残念だけど明日中に帰らなくちゃいけない」

石山田はつまらなそうに言った。

「じゃあ、明日の昼は、米沢まで車で走って米沢牛を食べよう。巌ちゃんは米沢から東京へ帰ればいい」

「それは嬉しいね。楽しみになってきた」

 石山田の顔がほころんだ。

 翌日の日曜日、二人は米沢へ車を走らせた。

 JR米沢駅東口に程近い所に、「ぐっど」という米沢牛を安く食べさせてくれる店がある。空木はここへも何回か来たことがあった。

 石山田は牛ロース焼肉重、空木はすき焼き定食を食べた。

「霊仙山といい、月山といい、山好きな健ちゃんに合わせたかのように事件が起きるな」

「山もそうだけど、名古屋、仙台と、俺が勤務した所でもある。これで、北海道で何か起こったら、俺は疫病神だよ」

「疫病神か。それで北海道はいつ行くんだ」

「向こうの後輩の都合もあって、月末の予定が今度の三連休に行くことになった。移動に一日、トムラウシ山に一日、札幌で一日の予定で行ってくる」

「トムラウシ山か。大きな遭難事故があった山だろ。疫病神なんだから気を付けろよ」

「疫病神は、自分には何も起こらないよ。周りの人たちに災いを撒き散らすから厄介なんだよ」

「俺たち二人、後厄だからな。周りに迷惑掛けるなってことか」

 話をしながら空木は、霊仙山と月山の事件、事故に絡んでいる人間が同一人物だとしたら、空木同様かなり山好きなのではないか。しかも名古屋、仙台に多少なりとも縁を持っている人間なのではないか、と思った。

 二人は米沢駅で別れた。石山田はつばさ号で東京へ、空木は山形からバスで仙台へ、それぞれ向かった。



(もり)の都の傷跡』


 空木は、山形のバスターミナルから午後三時三十分発の仙台行きのバスに乗車した。バスは、山形自動車道から東北自動車道を経由して仙台市内に入った。

 やはり、バスの車窓からは、屋根にブルーシートが被せられた風景が目立った。明日で、大震災からちょうど四ヶ月が経過する。津波の被害に遭った町々では、行方不明の方たちもまだ数多くいる。空木は目を瞑った。

 終点の、勾当台(こうとうだい)通りに面した県庁、市役所前に着いたのは、夕方五時前だった。日曜の夕刻とあってか、人通りは非常に多い。杜の都は着実に復興に向かっていると空木には感じられた。

 ホテルは、東北随一の飲み屋街である国分町(こくぶんちょう)に近かった。

 後輩の杉谷(すぎたに)とは六時にホテルのロビーで待ち合わせた。杉谷と飲むのは仙台から転勤して以来五年振りだった。

 二人は、ホテルから歩いて五分程の所にある、牛タン専門の店を予約していた。この店は、牛タンは勿論だが、焼き餃子も美味かった。

 二人は久し振りの再会にビールで乾杯した。

「空木さん、何故会社を辞めたんですか。空木さんを知っている我々は、少なからずショックを受けましたよ」杉谷は、コップから口を離すと同時に聞いた。

「いきなり直球だな。何故辞めたか‥‥。一言で言えばサラリーマン失格を悟ったというようなことだな」

 空木は牛タン焼きを頬張った。

「サラリーマン失格ですか。どういうことですか」

 杉谷は空木のコップにビールを注いだ。

 「俺は入社以来、正しいと思ったこと、こうすべきだ、こうあるべきだ、と思ったことは上司にも、先輩にも、後輩にも言ってきた。生意気な奴だと思われても、それは正しかったと思っている。そうしているうちに、チームリーダーとなり、杉谷たちの様に俺の言葉に耳を傾けてくれる人たちも増えてきたと思っている。人間には欲と言うものがある。俺にももっと多くの人たちに影響を与えられるようになりたい、という欲が出てきた」

「その欲がサラリーマン失格なんですか」

「いや、欲が出ること自体は失格とは思っていない。欲が出て当たり前だと思っている。俺の問題は、その欲を実現させるためのやり方、方法に、心身ともにどっぷり沈める覚悟が出来ない、ということに気付いたんだ。人間、目標を実現させようと思ったら、我慢もし、辛抱もしなくちゃいけない。それが、何が邪魔しているのか分らないが、俺には出来そうもないと思った。俺は一体何をしたいのか、誰の役に立ちたいのか。一度会社という大きな組織を離れて考えてみようと決めた。こういうことだ」

 空木は芋焼酎のロックを注文した。

 「空木さん、格好付け過ぎですよ。その人が居るだけで、その人の周りがホッとする、暖かくなる。そういう人間が居ても良いんじゃないですか。偉くならなくても良いんじゃないでしょうか」

 杉谷もビールを飲み干し、芋焼酎を注文した。

 「杉谷の言うとおりだ。そういう意味でも俺は失格だな」

「そうすんなり言われると寂しいですけど、いずれにしろ空木さんらしいですね。まあ、探偵業の仕事、頑張ってください」

 二人は焼酎でまた乾杯した。

 「ところで杉谷。この前電話で話した、東亜製薬を辞めた伊村という男の事だけど、伊村と親しくしていた人間で思い当たる人はいないか」

「思い当たる人ですか。そういえば、青葉薬品の二条さんだったら少しは知っているかも知れません。東亜製薬は青葉薬品の扱いメーカーの中でも主力メーカーで、扱い金額も多いですし、二条さんは何回か伊村と飲んでいるんじゃないかと思います。少なくとも僕よりは知っていますよ」

 杉谷は餃子に箸を伸ばした。

 「青葉薬品か。卸さんはメーカー社内の事を、社内の人間より良く知っていることも多々あるからな。明日の午後にでも会えるかな」

「明日の午後ですか。急ですね」


 月曜の朝、署に出た石山田は、係長と課長に山形出張の報告をした。課長も係長も、月山西川署で得た情報は湖東警察署に伝えておくように石山田に指示した。石山田は湖東警察署の大林に電話をした。

 月山での転落死亡は管轄の判断は事故で、状況的には相当の判断であること。転落死亡した、江島照夫四十一歳会社員の勤める会社が、霊仙山事件の被害者の浅見豊と同じ東亜製薬であったことを伝えた。

 「同じ会社の人間が、一ヶ月の間に事件と事故で二人も死亡するというのは尋常ではありませんね。しかも、浅見豊も仙台には関係しています。こちらの事件と関連している可能性もあるかも知れませんね」

大林の声は冷静だった。

「空木健介に送られて来た、仲内和美、好美の名前での手紙の主が同一人物だとすると、霊仙山の事件と、月山転落事故の関連はより深いと言えると思います。ただ、西川署の扱いは、あくまでも不慮の事故の扱いで、事件性は無し、と判断していますので、現段階では興味は持ったにせよ、捜査に動くことはないと思われます」

「そうですか。確かに月山の件だけみれば、事故と判断しますね。ということは、仙台へ動くことが出来るのはうちだけということになりますね」

 大林も現状では、月山西川署の刑事課も動けないだろうし、こちらから要請する筋のものでもないと判断したようだった。

 石山田は、湖東警察署の捜査本部の捜査進展状況を大林に聞いた。

 大林によれば、新たな進展は無く、仲内姓の全国調査は、全国二百四十九世帯全ての報告が揃ったが、該当する世帯は無かった。湯の山温泉宿泊客の調査も、直接本人に確認出来ていないのは、残り一人だけで、この一人も実名での宿泊であることから、疑わしいような事は無いのではないかと考えている。という返答だった。

 「石山田さん、空木さんは元気にしていますか。二つの事件に巻き込まれてショックを受けていませんか」

「空木ですか、あいつなら大丈夫です。今日は仙台に居る筈です。今週の末からは北海道に山登りに行くと言っているぐらいですから、心配無用でしょう」

「今日は仙台ですか。私が行くことになるのかどうかは分かりませんが、近いうちにこちらからも仙台へ行くことになると思います」

 石山田は、その口ぶりから大林は仙台に行くつもりだな、と感じた。

 「それと石山田さん、いずれ空木さんと三人で、直接会って情報のやり取りをしたいと思いますが、いかがでしょう。私が東京に出向きます」

「分かりました。七月中にはお会いしましょう」

 石山田は電話を切った。

 石山田との電話を終えた大林は、刑事課長に石山田からの連絡を報告した。刑事課長は、捜査の大きな進展がないだけに、一度は仙台に行くべきだろうと判断した。

 東京への出張も併せて大林が行 くことになった。


 仙台は午後から雲が出た。陽射しはないが湿度が高いせいか暑かった。

 空木と杉谷は、北仙台駅に近い、国道4号線沿いのファミリーレストランで、午後二時に青葉薬品の二条と待ち合わせた。

 スーツを着た二条は、大柄で割腹がよく、空木と比べても随分貫禄を感じさせたが、年齢は空木よりも十歳も若い、三十二歳ということだった。

 挨拶を終えた空木は、コーヒーを注文したが、昼を食べていない杉谷と二条は、大盛りのパスタを注文した。

 空木は、自分は三月に万永製薬を退職し、今は東京で探偵業の看板を出している。東亜製薬に居た伊村君と連絡を取りたいと言っている人が居て所在を探している。と説明した。

 「二条さんは伊村さんとは比較的親しくしていたとお聞きしました。伊村さんが今どちらにいらっしゃるか、ご存知でしたら教えていただきたいのです」空木は二条を見ながら聞いた。

「親しいかどうか分かりませんが、伊村さんの家にも行ったことがあります。今、どこにいるのか、残念ながら私も東京としか知りません。東亜製薬を辞めてどうしているのか、僕も気になっているのですが、連絡のしようがなくて。東亜製薬の人たちにも聞いたことがありますが、皆知らないようです」

 二条は「いただきます」と言って、大きな口を開いてパスタを食べ始めた。

 「そうですか、分かりました。二条さんは伊村さんが会社を辞めた理由は聞いたことがありますか」

 空木は自分も最近会社を辞めたことも重なり、この事も気になった。

 「それが‥‥、理由かどうか分かりませんが、以前、伊村さんが、うちの会社には保身を考える奴ばかりで、相談出来る奴はいないって言っていたことを覚えています。不満はあったと思います。それに大震災で伊村さんは大変な目に遭ってしまいましたから、それがきっかけかも知れません。まして、伊村さんは薬剤師ですから、辞めても食べることには困らないでしょうから」

 二条はコーラを追加注文した。これでは太る、と空木は思った。

 「大変な目に遭われたというのは」

「伊村さんの奥さんが、あの大津波で行方不明になってしまったんです」

「えっ、津波で行方不明ですか。‥‥しかし確か、伊村さんの仙台の家は泉区でしたよね。海からは随分遠いはずですが」

「よくご存知ですね。ちょうど伊村さんが、東京に家探しで出張している時で、奥さんは海に近い閖上(ゆりあげ)の実家に帰っていたそうです。そこで、あの大津波の被害に遭われたそうで、一家の全員が未だに行方不明らしいです」

 二条はパスタをあっという間に平らげた。

「そんな悲惨なことが起こっていたのですか。もしかしたら伊村さんは、今もご家族を探し続けているかも知れませんね」

「そうかも知れません」

  空木は、家族を失うという辛い目に遭った伊村を、これ以上探すことに躊躇いを感じていた。

 「それから二条さん、これは伊村さんとは関係しない事なのですが、一昨年から今年にかけて東亜製薬の人間で、女性スキャンダルの話を聞いた事はありませんか」

「東亜製薬ではタブーになっている話の事でしょう。一時は東亜製薬の支店長が社員に箝口令(かんこうれい)を敷いたようですから。ここだけの話ですが、細かい中身までは知りませんが、東亜製薬の幹部が得意先の女性を妊娠させたらしいですよ」二条は大きな体を屈めて、小声で言った。

「そうですか。いやつまらない事まで聞いて申し訳ありませんでした」

 空木は、やはりそうかと思った。浅見豊の五十万円の意味がここにありそうだと、直感めいたものを感じていた。。

 空木は二条に礼を言い伝票を取った。二条は「ご馳走様でした」と言って大きな体を折った。

 空木も杉谷も、伊村の家族が惨禍に遭っていたことを知り、少なからずショックだった。杉谷に仙台駅まで送ってもらい、空木は東京に向かった。はやて号の車中、伊村という男の心情を思うと、空木の目には車窓が滲んで見えた。


 空木が国立駅に着いたのは、帰宅ラッシュの夕方の六時半頃。東京は暑かった。

 大きなザックを担いだ空木は、帰宅ラッシュの人混みの中では、さすがに邪魔者扱いで、睨みつけるサラリーマンは一人二人ではなかった。

 空木が「さかり屋」に入ると、石山田が奥の小上がりから、こちらを覗く様にして声を掛けた。

 「お帰り」石山田は焼酎を飲んでいた。

「仙台の牛タンは美味かっただろ」

「ああ、美味かった。それに思わぬ情報も聞くことが出来たよ」

 空木はビールを飲んだ。 

 空木は、仙台で青葉薬品の二条から聞いた話を石山田に話した。

 自分が気になっていた、伊村という男の所在を知りたかったが、分らなかったこと。その伊村という男の奥さん家族が、大津波の被害に遭って、行方不明になっていること。そして、浅見豊に関してのスキャンダルは、やはり女性関係で、得意先の女性を妊娠させてしまったらしいこと。これらを話した。

 「その伊村という男の名前は初めて聞くけど、誰なんだ」石山田は聞いた。

「この三月で、東亜製薬の仙台支店を辞めた男で、俺の事を、俺の友達伝いに聞いてきたようで、一度機会があれば会いたいと言っていたらしい。俺としては、浅見豊の仙台での事が、この伊村という男から聞けるんじゃないかと思ったんだ。しかし、奥さんと奥さんの家族全員が行方不明になっているって聞いたら、浅見のことで話を聞きに行くのも(はばか)られるんで、止めにする」

 空木は、ニラレベ炒めに箸を伸ばした。

「そういうことか。でも浅見豊の情報も集められたじゃないか。あの五十万の使い道が、何となく想像がつくと思うが」

 石山田はエイひれを手に取った。

 「俺もそう思う。名古屋のスナックのママ達の話とも符合する。後は、相手女性をどう探すかだ」

「それはかなり難易度が高いんじゃないか」石山田は腕組みをしながら言った。

 空木は「そうだよな」と頷いた。

「ところで巌ちゃん、大林刑事には連絡取れたかい」

「今朝一番に連絡したよ。捜査の進展はないようで、仲内姓の全国調査も、湯の山温泉宿泊客の確認も収穫はなかったようだ。それで、大林刑事が仙台まで行く事になったようだよ。明日は江島照夫の葬儀が東京であって、東亜製薬の仙台の支店長の都合が、来週でないとつかないらしい。その帰りに東京に寄るので、その時は健ちゃんと三人で一度会いたいと言っていたよ」

「わかった」と言って空木は芋焼酎を飲んだ。芋の香りが口の中に広がった。

 浅見豊が仙台で起こした事を、空木は想像した。

 得意先である、病医院か薬局かに勤める女性、医師か看護師か薬剤師か事務職員か、いずれかに何らかのきっかけで関係を持つようになった。彼はその役職からして、直接得意先を担当しているとは思えない。誰かの紹介か、得意先との宴席がきっかけだろう。そして、妊娠させてしまった。そのことが公になる前に、いや隠すために会社は浅見豊を名古屋に転勤させた。浅見豊の通帳に記帳された五十万は、お産の費用か、手切れ金か慰謝料かは分からないが、妊娠に起因した金銭の可能性が高い。

 その女性はどこにいるのか、誰なのか。石山田が言うように、調べるのは極めて難しい。空木にはその(すべ)が思い浮かばなかった。



『カムイの贈り物』


 東京は連日猛暑日が続いた。

 空木は、週末に予定しているトムラウシ山登山に備え、連日トレーニング室に通った。

 土曜日、空木は羽田空港から札幌千歳空港に飛んだ。千歳空港到着予定十二時三十五分、気温二十四度、天気は曇り時々晴れ、という機内アナウンス。飛行機は予定通り千歳空港に到着した。空港には、一緒に登る予定の上松(うえまつ)克秀が待っていた。

 上松は、空木が万永製薬の札幌支店でチームリーダーをしていた時の部下だった。上松は、冬はスキー、夏は登山、自転車、バイクのツーリングを楽しむ、アウトドア大好き人間で、空木と一緒に羊蹄山(ようていざん)斜里岳(しゃりだけ)といった北海道の山々を登っていた仲だった。

 空木は、上松の運転する車に同乗し、トムラウシ山の登山ベースでもある、トムラウシ温泉東大雪荘に向かった。道東自動車道から一旦夕張インターチェンジで降り、狩勝峠、日勝峠を越えて十勝清水に出る。そこから北上し、新得を通り、トータルおよそ二百キロを走る。

 東大雪荘の宿泊客の大半は、本州から来た登山客と思われた。

 空木は、北海道に来て最初に登った山が、日本百名山に数えられるこのトムラウシ山で、登るのも、東大雪荘に泊まるのも二度目だった。このトムラウシ山で北海道の山の厳しさを体感し、北海道の山の素晴らしさも実感した。 

 トムラウシ山は標高2141メートル、大雪山系南部の山で「大雪山の奥座敷」と称され、北海道で九つ選定されている日本百名山のうちの一つである。トムラウシとは、アイヌ語で「花の多いところ」を意味するとも、「水垢が多いところ」の意だとも言われる。山の上部には池塘(ちとう)や沼が点在し、高山植物が群生しており、また、岩場も多く、ナキウサギの生息地にもなっている。近年は、本州の登山者の人気も高く、憧れの存在となっている。

 夏山登山での事故も多い。特に、2002年7月、2009年7月の事故は、それぞれ二名、九名が死亡する悲惨な事故で、トムラウシ山の、北海道の山の厳しさを改めて示す事故だった。

 空木も三年前のトムラウシでは、天候の不良のため、7月の2000メートル級の山とは思えない異常な寒さを味わった。本州の3000メートル級の山以上の厳しさであると実感したものだった。

 トムラウシ山に初めて登る上松にも、ツエルト(携帯テント)の携帯と防寒対策だけはしっかりするよう伝えてあった。

 二人は、翌朝四時に起床し、前夜のうちに宿が用意してくれたおにぎりを食べ、登山口に向けて出発した。

 登山口の駐車スペースには、既に十台近くの車が止まっていた。

 今日一日で、累積標高差千四百メートルを登り降りする。スタートする前の緊張感が空木は好きだった。

 カムイ天上までは緩やかな登りで、眠っていた体が徐々に目覚めてくる。天気は悪くないようだが、ガスが出て周囲の状況は判然としない。気温は十七、八度か。

 カムイ天上からおよそ一時間半歩いた所から、一旦下り、コマドリ沢に出る。ここから雪渓登りが始まる。標高で二百メートル、距離で四、五百メートルあろうか。雪渓が終わると、前トム平までの岩場だ。二人は「ピー」というナキウサギの鳴き声を聞いたが、姿を見ることは出来なかった。ガスは消えず、視界は良くない。標高が高くなりガスも加わりかなり寒い。

 前トム平からロックガーデンを登る。登り終わると、池塘が点在するトムラウシ公園と言われる湿地に下る。足はかなり重くなってきた。

 ガスが切れてきて、少しずつ周りの眺望が利くようになる。この辺りからがトムラウシ、アイヌ語の「花の多いところ」の真骨頂だ。

 エゾノツガザクラ、エゾコザクラ、チングルマ、エゾノハクサンイチゲ、白、濃いピンク、淡いピンクと色とりどり、正に高山植物のオンパレードで、疲れた体を癒してくれる。

 頂上直下のテント場から最後の登りになる。急登に息が上る。上松の足は快調で空木の先を行く。およそ三十分で頂上に着いた。二人は握手した。頂上は風があって、かなり寒い。二人はレインウェアの上衣を着た。

 二度目のトムラウシは、絶好の景色を見せてくれた。北に大雪山の最高峰旭岳、南西方向に十勝岳、北東にニペソツ山を見せてくれた。空木は頭の中が真っ白になった。下界で起こった事、起きている事を全て忘れさせてくれる。およそ五時間半の登りの後の至福の時間だ。空木は来て良かった。登って良かったと思った。

 下りの途中、十勝平野を望みながら、空木は上松に聞いた。

「上松、お前さん、人を殺したいと思ったことはあるか」

「えっ、何を急に聞くんですか。そんなことある訳ないですよ」上松は答えた。

「そうだよな、普通はないよな。人間はどんな時に殺意を抱くのかな」

「僕は、独身なので分かりませんが、子供とか家族を殺されたりしたら、敵討ち的に殺意を抱くかもしれませんけど、殺人までするかどうか」

 二人は話しながら、ロックガーデンを下り、雪渓を尻セードして滑って降りた。 登山口の駐車場に着いたのは、午後二時四十五分だった。

 東大雪荘の湯に浸かった二人は、達成感の心地良さにも浸った。

 トムラウシ温泉を出て、空木たちが札幌に着いたのは、午後七時を回っていた。

 二人は、空木が札幌に居た四年間馴染みにしていたススキノの寿司屋『すし万』でトムラウシ山登山の無事を祝した。

 『すし万』は空木の自慢の寿司屋だった。須川夫婦と娘さんの奈美ちゃんの家族三人でやっている。ススキノの寿司屋では、寿司そのものは勿論、仄々(ほのぼの)とした雰囲気も合わせ一番の店だと確信していた。

 空木は、エゾ(あわび)とホッキ貝の刺身を注文した。そして須川夫婦に、山で上松に聞いたことと同じことを聞いてみた。

 「私の近くから居なくなったら良いのになって思う人はいても、殺そうとまで思う人なんて居ないわよ」と言ったのは女将さんだった。

それを聞いていた上松が言った。

「そういえば、僕の友達も言ってました。会社の先輩で『この会社にはこの世から消えるべき人間が三人いる』というのが、飲んだら口癖の人がいるって。そういう人はどこにでも居るんでしょうね」

「そう思っているところに何かが起こると、それがきっかけになって殺意に変わり、殺人が起こることはあるかも知れませんよ」主人が言った。

 浅見豊を殺した犯人は、どんなことで殺意を抱いたのか、と空木は思いながら。

 「会社に三人も消えるべき人間がいるのか。上松の友達の会社の業種は何なんだ」空木は何気なく聞いた。

「同じ業種。東亜製薬ですよ」

「ん、東亜製薬。そうか、本社の中にはどの会社も魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)がうようよしているそうだからな」

「友達は本社じゃなくて仙台にいるんですけどね」

「え、仙台。東亜製薬の仙台支店に居るのか」

「そうです。そいつは僕の高校の同級生なんですよ。電話のやり取りは結構してますし、札幌にも遊びに来たこともあります」

 上松は、エゾ(あわび)に何回も箸を伸ばし、ビールをお替りした。

 空木は、芋焼酎のロックを注文しがら、こんな偶然があるのかと思った。この偶然を生かさない手は無いと。

「上松。その友達に聞いて欲しいことがあるんだけど、お願いしても良いかな」

「お願いですか。何のお願いなんですか?変な話でなかったら」

 上松の顔は怪訝になり、構える顔になった。

 「実は、今、依頼されている仕事があって、それは、ご主人の過去の女性関係の詳細を調べて欲しいという、その奥さんからの依頼なんだ。そのご主人という人が東亜製薬の部長だった人で、仙台に単身赴任中に、どうやら女性関係が出来て、妊娠させてしまったらしい。そこまでは大凡(おおよそ)の調べは出来た。出来る事なら、その女性の素性、姓名まで調べたいんだ。それには、東亜製薬の仙台支店の関係者に直接聞く事が出来れば、と思っていた。そしたら、今偶然、上松の友達が出てきたということだ」

「東亜製薬繋がりは、確かに偶然ですね。しかし、僕の友達がそんな詳しい情報を知っているとは思えないし、たとえ知っていても、話してくれるかどうか分らないですよ」

「それは仕方ないことだし、覚悟もしている。俺としては、依頼者に対して、ベストを尽くした、という報告をしたいと思っているんだ」

 空木は、芋焼酎のロックを飲み、煙草に火を点けた。この『すし万』は喫煙客にとってはありがたい店だ。

「空木さん、その部長は今どこに居るんですか」

 上松の問いに、空木は少し間をおいた。

「‥‥‥亡くなった」

「え、死んでしまった。それなのに、奥さんは、過去のご主人の女性関係を知りたいと言っている訳ですか」

「何故かは分らないが、そのことが亡くなったことに繋がっているのではないか、と思っているようだ」

「死に方が不自然だったんですね」

 上松は何かを想像しているようだった。

 「上松、会えるように頼んでみてくれないか。会えるのであれば、明日でもいいし、いつでもいいから頼んでみてくれ」

「分りました。今、電話してみます。ところでその部長さんの名前は何て言うんですか」

 上松は携帯電話を取り出し、椅子を立った。

 「名古屋で亡くなられた部長さんと言ってくれないか。もし、会って貰えるようなら、電話を替わって欲しい」

 店の外で電話をしていた上松が、玄関戸を開け空木を呼んだ。どうやら、友人は明日会ってくれるらしい。空木は、清水順也という上松の友人と電話で話し、会ってくれる礼と、待ち合わせ場所を決めた。

 空木と上松は、鮭の「時不知(ときしらず)」の卵、「時子」を肴に焼酎を何杯も飲み、締めの握りを注文した。空木は、鮪の漬け、烏賊、北寄貝の三貫で締めた。


 翌日の、三連休最後の月曜日、空木は、札幌から仙台へ飛んだ。

 札幌、仙台便は、震災の影響を受け、便数は半分に減便していた。幸いにも午後の便に空席があった。

 仙台空港に着陸する際、窓から見える、海岸線から陸側の風景を見た空木は、その荒涼とした町跡に言葉を失った。

 空港から仙台駅へのバスの車窓からも、仙台東部道路を境にして、左右の風景が全く違った。空木はバスの右側に映る、海まで見通せるその車窓を呆然と、ただ見つめるだけだった。

 清水順也との待ち合せは、清水の自宅に程近い仙台駅東口のホテルで午後五時半にしていた。

 空木の大きなザックを目印にしていたことで、清水はすぐに空木と分ったようで、「空木さんですか」と尋ねた。

 空木は名刺を出しながら挨拶をし、突然の面会の非礼を詫びた。

 二人は、ホテルの右手にあるラウンジに入り、コーヒーを注文した。

「昨日の電話では、亡くなった浅見部長のことで聞きたいということでしたが、どのようなことでしょう」

清水は、探るような目を空木に向けながら言った。

「実は、亡くなった浅見さんの奥様からご依頼を受けまして、ご主人の仙台単身赴任時代の女性関係を調べています。これまでの調査で、どうやら女性関係は間違いなくおありだったようで、その女性は妊娠したようなのですが、その方の素性、名前までは分りません。もし、清水さんが御存知なら教えて欲しいのです」

 空木は一気に話すと、コーヒーを口に運んだ。

 「浅見部長の奥様からの依頼ですか‥‥‥」

「奥様の想いは、嫉妬心からではなく、ご主人が亡くなったことと、女性関係が関連しているのではないか、と思われてのことだと思います」

「私のような平社員は、噂話程度の事しか知りません。ただ、当時、支店内に箝口令(かんこうれい)が出ましたから、噂は本当だと思っていました」

「噂で結構です。お聞かせいただけませんか」

 清水は周りを見回した。話す覚悟をしたようだった。

「ここだけの話にして下さい。その女性は、ある開業医の受付事務をしていた女性だという噂です。その女性を紹介したのは当時の当社の担当者だったようで、それで課長に昇進出来た、という専らの噂でした。尤も、噂のその課長は不幸なことになってしまいましたが」

 話した後、清水はコーヒーを飲み、もう一度周囲を見回した。

 「もしかしたら、その課長というのは、先日、月山で転落して亡くなられた江島という方ですか」

「そうです。空木さん良くご存知ですね。うちの会社では、三月以降不幸な出来事が続いているんです。三月の大震災の時の大津波で、ある社員の家族が全員行方不明になったのを始めに、名古屋で浅見部長が亡くなり、先日は江島課長です」清水は声を潜めて言った。

「その江島課長さんが紹介した女性の名前とか、勤務先とかは噂では聞きませんでしたか。それと津波でご家族が被害に遭われたのは、辞められた伊村さんという方ですよね」

「それもご存知だったのですか。探偵さんというのはすごいですね。そこまで調べているんですね。江島課長が紹介した女性のことは知りません。多分誰も知らないのではないでしょうか。当事者の江島課長と浅見部長以外は」

「伊村さんのことはたまたま知っただけです。そうですか女性のことは分りませんか。二人とも亡くなってしまいましたし、もう知っている人間はいないということですか」

 空木は、事件に巻き込まれたことで、そこまで知ることになったのだとは言わなかった。

「伊村さんは、お子さんがいなくて、奥さんと二人でしたから、ショックは大きかったようでした。カズミを何が何でも捜すと言って、結局会社を辞めてしまわれましたから」

 聞いていた空木は、体に電気が走った。

「清水さん、今、カズミさんと言われましたが、それは伊村さんの奥様のお名前なのですか」

「ええ、そうですけど」

 清水はキョトンとしている。

 「カズミさんというのは、どんな字を書くのでしょう。苗字は、いや、旧姓はご存知ですか」

 空木は、自分の目がカッと見開いているのが、自分でも分かった。清水が引いているのを感じた。

 「どんな字のカズミなのかは知りません。旧姓も知りません」

「旧姓をご存知の方はいらっしゃいませんか」

「うちの女子社員に同級生だった子がいますから、多分知っているのではないかと思います‥‥‥」

 清水は、空木の勢いに戸惑っていた。

「今すぐに分かりませんか」

空木は、一刻も早く知りたかった。

「今すぐは無理です。電話番号も知りませんから。明日になれば分かりますから、空木さんの携帯電話に電話しましょう」清水は困惑気味に言った。

「ありがとうございます。それと、その社員の方に、もしかしたらカズミさんには妹さんがいないか、聞いていただけませんか。お願いします」

「分かりました。聞いておきます」

 空木の目は、ギラギラとしているのだろう。清水は、空木の様子が豹変したことに驚いた様子だった。

 空木は、事態が大きく進展する可能性を感じながら東京に戻った。


 三連休が明けた火曜日の朝の九時前、空木の携帯電話が鳴った。普段は消音、バイブレーターにセットしている空木だが、今日だけは違った。逃してはならない電話が来るという気持ちだった。

 髭を剃っていた空木は、慌てて携帯を手に取った。清水順也だった。清水によれば、カズミは和美。旧姓は仲内。妹がいる。とのことだった。携帯電話を握る空木の手が震えた。

 空木は、和美の同級生というその女子社員に電話を替わって貰えないか、清水に聞いた。女性は清水のすぐ近くにいるらしかった。

 電話が清水から女性に替わった。

 「お電話替わりました。奥村律子と申します。おはようございます」透き通るような綺麗な声に聞こえた。空木は名前を名乗り、突然の電話の非礼を詫びた。

 「奥村さんは、同級生だった和美さんのご実家の住所はご存知でしょうか。それから、和美さんの妹さんのお名前が分れば教えていただきたいのですが」

空木は、動揺している自分を感じ、出来る限りゆっくり話した。

 「和美さんの実家は、名取市閖上(ゆりあげ)です。何丁目何番地までは分りません。それと、妹さんのお名前も存じ上げません」奥村律子ははっきり答えた。

「和美さん本人も、ご家族も、未だ行方不明とお聞きしましたが。」

「はい、そうです。ご両親も妹さんも、お宅も含めて全て津波に持っていかれてしまいました」

 空木には、奥村律子の声が沈んだように感じた。

 「和美さんのご主人の伊村さんは、どうしておられるかご存知ですか」

「伊村さんは、東京にいらっしゃるようですが、住所は存じ上げません。何度も避難所に行かれて、奥様を含めたご家族を探しておられるようです。会社にもたまに電話が架かってきます」

「そうですか。電話が架かってきたのは、最近ではいつ頃か覚えていらっしゃいますか」

「曜日までは覚えていませんが、先週だったと思います。和美さんも、ご家族の誰もまだ見つからない、と言っていました。あの、申し訳ありません。私もう席に戻らないといけないのですが」

 奥村律子の声が慌てていた。

 「お忙しいところ申し訳ありませんでした。ありがとうございました。清水さんにも宜しくお伝え下さい」と言って、空木は電話を終えた。

 空木は石山田に電話をした。

「巌ちゃん、分ったよ、分った。伊村だ。仲内和美だよ」

 空木は支離滅裂な言葉になっているのが自分でも分った。

 「健ちゃん何を言ってるんだ。さっぱり分らないよ」

「ごめん、ごめん。すごい情報を掴んだものだから、つい慌ててしまった。つまり、尾行の依頼をして来た、最初の手紙の差出人の仲内和美という名前は、伊村政人の奥さんの名前だったんだ。あの手紙を出した時には、仲内和美は行方不明だった。しかも、仲内和美には名前は分らないが、妹がいることも分ったんだ」

「仲内和美という名前は、健ちゃんが探していた、伊村という男の奥さんの名前だったのか。良く調べたな」

「ああ、北海道の後輩の伝手(つて)から辿り着いた。トムラウシ山に登ったご褒美みたいなものだから、カムイの贈り物といったところかな」

 カムイとはアイヌ語で神様の意味だが、空木はこの一連の偶然は、本当にカムイの業だと思った。

 「しかし、仲内和美という名前が、伊村の奥さんの名前と同じというだけでは、伊村が手紙を出したということにはならないだろう。たとえ、妹の名前が好美だったとしてもそれは同じことだ。ただ、伊村という男が、重要な鍵を握っていることは間違いない。重要参考人として浮かんだことには間違いないだろう。湖東警察署の大林刑事に教えたら大喜びしそうだ。仙台へ調べに行くタイミングでのこの情報は、ベストタイミングだよ。ところで、浅見豊の関係した女性の目星は着いたのかい」

 石山田は、興奮冷めやらない電話の向こうの空木に、冷水を掛けるが如く言った。

 「‥‥そっちは分からない。分かったのは開業医の受付事務員の女性が相手で、紹介したのが月山で死んだ江島ということだ」

「江島が紹介。健ちゃん、浅見が殺され、江島が死んだ。この二人が繋がるとしたら、東亜製薬ともう一つは女性だ。紹介した女性繋がりかも知れないよ。これも良い情報かも知れない」 

 電話を終えた空木は、石山田の言う通り、仲内和美の名前で出された手紙の主は伊村とは限らないと改めて考えた。しかし、妹の名前が好美だとしても、差出人は伊村ではないのだろうか。姉妹の名前を知っている人間は限られる筈だ。湖東警察署の捜査本部は全力で伊村を探すだろうと空木は思った。

 

 石山田は湖東警察署の大林に電話を入れた。大林は別の電話に出ているらしく、しばらくした後で電話口に出た。

 大林は東亜製薬の仙台支店に電話をしていたところで、明後日の午後、支店長に会うことになったと石山田に伝えた。

 石山田は新たな情報が、空木から入ったと切り出した。

 仲内和美という名前は、三月まで東亜製薬に勤務していた伊村という男の奥さんの名前で、その仲内和美には名前は分からないが妹がいること。仲内和美とその家族は、三月の震災による大津波で名取市閖上(ゆりあげ)の実家もろとも流され、今も行方不明であること。浅見豊は、仙台で得意先の受付事務員の女性と関係を持ち、妊娠させていたこと。その女性を紹介したのは、月山の転落事故で死んだ、江島という男だったことを伝えた。

「それはすごい情報を頂きました。仲内和美の実家のある名取警察署に、もう一度詳しい調査を依頼してみます。妹の名前が分かると思います。それと、今、石山田さんが言われたイムラという男の姓名は分かりますか」

 大林の声は明らかに張りが出ていた。

「わかります。イは伊藤の伊、ムラは町村の村です。名前は政人、マサトです」

 大林は電話口で何かを持ってきてくれと、叫んでいた。

 「石山田さん、湯の山温泉の宿泊客に居とるんです。伊村政人、三十九歳が()ったんです。東京在住で最後に直接の確認が出来た男です。すぐに所轄に連絡して、重要参考人として身柄を確保してもらうように依頼します。石山田さん、後でこちらから電話しますんで、一度電話を切らせて下さい。すんません」と言って、大林は一方的に電話を切った。

 石山田はまだ、相談したいことがあったが、近江弁が強く出る程慌てていた大林の様子からは仕方がないと諦めた。

 それから、一時間ほどして大林から国分寺署の石山田に電話が入った。

 「先程は失礼しました。あまりの良い情報につい慌ててしまいました」

大林は電話の向こうで詫びた。

「それで両方の所轄にはうまく連絡は出来ましたか」

「はい、両所轄ともに動いてくれています。伊村政人の身柄の確保はまだ出来ていないようですが、直接の確認が出来た時の状況を担当巡査に問い合わせもしています。仲内姓の調査での最初の報告書では、名取市に一軒、世帯主、仲内則夫とありました。津波で家屋流出、家族全員行方不明という内容でした。今回の再調査で妹の名前も判明すると思います。これで捜査も大きく前進します」大林の声は弾んでいた。

 石山田は、伊村政人の東京の住所を聞いた。杉並区荻窪五丁目七ハイム荻南202であった。その住所は、湯の山温泉「旅館湯元」に、五月二十六日の木曜日に宿泊した時、宿泊カードに記載された住所であった。

 「大林さん、殺された浅見、月山で死亡した江島という男、そして伊村政人。三人とも東亜製薬の仙台に絡んでいます。この三人のトライアングルの中心が何かによっては、月山の事故も、事件の可能性が出てきます。私から言うべき話ではないのですが、月山西川警察が動き出すような情報が、仙台で取れれば、全容が見えてくるのではないでしょうか」

 石山田は、管轄としては全くの門外漢であることは承知であったが、空木とともに、霊仙山の事件、月山の事故に絡んでしまった刑事としての責任感から、余分な事と思いながらも言ってしまった。

 「その通りかも知れませんね。私も月山の話を聞いて、偶然ではないなと直感しました。分りました、心して仙台に行ってきます」

 大林は捜査の進展に気分が良いのか、石山田の話しに素直に同意した。

 二人は大林が、仙台から米原に戻る途中の二十二日金曜に、国立駅での待ち合わせを決め電話を終えた。


 翌朝、国分寺署の石山田に大林から電話が入った。

 「昨日の夕方、名取署から連絡がありました。伊村和美、旧姓仲内和美の妹の名前は、好美でした。父親は則夫、母親は房江です。父親が脳卒中の後遺症で半身が不自由、母親もリウマチで歩くのが不自由だったらしいです。加えて、好美には生後四、五ヶ月の赤ん坊がいて逃げ遅れたようです。家族全員まだ発見されていないということでした。それから、伊村政人は、昨日は部屋には帰ってきませんでした。此処しばらくは、202号室に人の気配が無いと、周囲の住人が言っているそうです」

 そして大林は、伊村を重要参考人として指名手配したいが、仙台での聞き込みの後にしたいと思っていること、東京に湖東警察署の捜査本部から人を送るということを石山田に伝えた。

 石山田は空木にこのことを伝えた。

 その日の夜、空木と石山田は『さかり屋』で会った。

 「妹の名前が好美だったということは、健ちゃんに送られて来た手紙の主は、伊村にほぼ間違いないということだ。健ちゃんを嵌めたのも伊村ということになるね」

「そういうことになるな。浅見豊を殺したのも伊村なんだろうか。」

「その可能性は高い。しかし動機が分らない」

 二人はビールを飲み始めた。あっという間に一杯目が空になった。二人とも、ビールをお替りした。今日も東京は猛暑日だった。

「赤ん坊がいたって言ってたけど、好美は仲内姓のままだよね。婿でも貰ったのかな」

「だったら、役所で調べている筈だから、分るだろう」

「巌ちゃん、もしかしたら浅見豊の不倫相手は仲内好美じゃないだろうか。姉が妹の妊娠を知る、姉の旦那がその事を知る。当然有り得る話だよ。伊村は知っていたんだ。それで‥‥‥」

 空木は、その後が思い浮かばなかった。

 「好美の不倫相手が浅見豊だということになれば、それは言えるけど、調べるのはそれこそ容易じゃないよ。それにそうだと分っても、それが何故、殺人に繋がるのか、その動機が分らない事には伊村には繋がっていかないと思う」

 石山田は、空木が思っていることを見透かしているかのように言った。

 「巌ちゃん、もしも浅見豊の不倫相手が仲内好美だったと仮定しよう。浅見が名古屋に転勤した時期が去年の三月。赤ちゃんが生まれたのが、その年の十月か十一月。つまり二月には妊娠は確認されている。伊村はそれを知ると同時に、その相手も知った。浅見を問い詰めた。困った浅見は異動を希望した。赤ちゃんが生まれたが、浅見は認知する気配も無い。手切れ金のように、お産費用に近い金額の五十万を好美に振り込んだ。その事を、伊村は東亜製薬仙台支店の支店長に訴えた。江島のしたことと一緒にね。手に負えないと思ったのか支店長は、浅見ではなく伊村を転勤させた。そこに大震災で和美までが被害に遭ってしまった。こんな目に遭わせたのは誰か。張本人は浅見豊だ。殺したい。こういう筋書きはないだろうか」

 空木は今まで、モヤモヤしていたものが切れかかっているような気がした。しかし、モヤモヤの中心は消えなかった。それは何故自分に手紙を送ってきたかということだった。

 「そのストーリーは、多少の無理はあると思うけど有り得るよ。そのストーリーでいくと、江島の事故も伊村が絡んでくる。やっぱり浅見の不倫相手を見つけ出す必要がある」

 石山田のジョッキは空になっていた。芋焼酎を注文した。

 「伊村はどこに行ったのか。杉並西署が宿泊確認で会ったのが七月十二日火曜日昼過ぎ。外出から戻ってきたらしく、黒服だったそうだ」石山田は芋焼酎を口に運びながら言った。

「黒服か。どんな感じの男だったのかな。車はどうなんだろう」

 空木も芋焼酎を飲みながら、イカの一夜干しを摘まんだ。

 「色が黒くて、痩せて、髪は短かったと言っていた。車は確認出来ていないそうだ。夏の暑いのに黒服ということはどこかの葬式だったのか」

 石山田は言いながら、手に持った焼酎のグラスを見ていた。

「十二日は江島の葬儀だよ。もしかしたら伊村は江島の葬式に出ていたんじゃないか」

「考えられないこともないね。芳名帳を見てみたいな」

 空木も頷いた。

 「伊村は山はやるんだろうか。健ちゃん、確認しておいた方がいいよ」

「山登りか。山をやっているとしたら、霊仙山も月山も登れる。確認の方法はあるけど‥‥、俺、一度伊村のマンションに行ってみるよ」

 といいつつ、空木の目は宙を泳いだ。伊村に起こった人生最悪の、不幸な出来事を考えていた。

 「巌ちゃん、伊村は仙台に居るんじゃないだろうか。閖上(ゆりあげ)の海岸辺りを探し歩いているんじゃないだろうか」

 空木は、海岸線を、涙を流しながら彷徨(さまよ)い歩いている男の姿を思い浮かべた。



『追跡』


 大林は、若い刑事と共に仙台駅に昼過ぎに到着した。

 大林たちは、東亜製薬仙台支店に行く前に、所轄署である青葉中央署に挨拶に立ち寄った。刑事課長と係長に事のあらましを説明し、東亜製薬仙台支店で聞き取りすることを伝えた。

 東亜製薬仙台支店は、大通りに面した、青葉中央署のすぐ横の仙台中央ビルの中にあった。ビルの案内板には十階、十一階が東亜製薬と表示され、十階が支店、十一階が営業所と表示されていた。

 大林たちは、十階の支店にエレベーターで上がった。インターフォンで来社を告げ、支店長への面会を要請した。二人は応接室に通された。

 しばらくすると、三人の男が現れ、名刺を出して大林たちに挨拶した。三人は支店長、業務部長、総務課長の役職だった。支店長は国友一郎、細身で小柄、眼鏡を掛け、神経質そうな感じだった。業務部長は岡山、総務課長は新井と挨拶した。

 大林が口を開いた。

「皆さんご承知の通り、昨年の三月までこちらの支店におられた浅見豊さんは、ロープで首を絞められ殺害されました。我々捜査本部は、一ヶ月以上懸命に捜査を続けていますが、未だ犯人は捕まっていません。そうした中で、犯人に繋がるかも知れない過去の出来事と、重要人物が浮かんできました。今日、滋賀県の米原から仙台まで来たのは、そのことを、より詳細に知るためです。御社、貴方がたの協力をお願いします。会社の面子とか体裁は、この際考えないで頂きたい。これは殺人事件なのです」

大林の語尾は厳しかった。

 三人のうち部長の岡山と課長の新井の顔は、緊張感で引きつっていた。

 大林はさらに続けた。

 「我々の調べでは、浅見さんは仙台で不倫行為をしていた。そして、相手女性は妊娠してしまった。その女性は御社の社員が紹介した、得意先の女性だった。そして、その事が公にならないように浅見さんを名古屋に転勤させた。この事が事件の始まりだと睨んでいます。支店長さん、その女性が誰なのか教えて頂きたいのです」

 支店長の国友に目を向けた大林の傍らの、若い刑事は手帳を開いていた。

 「私は全く知りません。当時、浅見君からは、プライベートなことで悩んでいるということは聞きましたが、それは家庭の事なのだろうと思っていました。不倫をしていて子供まで出来たなどと、思いもよりませんでした。まして、相手女性の名前などは全く知りません」

支店長の国友は身を乗り出して答えた。

「そうですか、それでしたら、女性を紹介したのが、月山で亡くなった江島さんだったということも、支店長さんは御存じなかった」

「えっ、江島が紹介したのですか。そんなことをしていたとは、管理監督者としてお恥ずかしい次第です。知りませんでした」

 答える国友には動じた様子は全くなかった。そして、岡山は頷いた。新井は(うつむ)いたままだった。

 「そうですか。それではもう一つお伺いしたい重要なことがあります。三月まで御社に居られた伊村さん、伊村政人さんのことなのですが、浅見さんの事件の重要参考人として、行方を捜しています。心当たりはありませんか」

 三人は顔を見合わせた。

 「伊村君が重要参考人というのは、容疑者ということなのでしょうか。浅見部長の葬儀でも、江島課長の葬儀でも顔を見ましたが」

新井が国友の顔を横目で見ながら言った。

「重要参考人。つまり、事件の事を最も知っている可能性が高い、ということです。伊村さんから話が聞ければ、御社で何が起こっていたのか、今、支店長さんが仰っていたことが真実なのか嘘なのか判る筈です」

 大林は、三人を見回し、国友を睨みつけた。国友は目を()らした。それを大林は見逃さなかった。

 「今、課長さんが浅見さんと江島さんの葬儀で、伊村さんを見たと仰いましたが、本人に間違いありませんか」

「はい、間違いありません。伊村君とは五年以上この仙台で一緒に仕事をしていましたから、間違えることはありません」

「その時は、何か話をされましたか」

「話をすることはありませんでした。浅見部長の葬儀は私と岡山部長と江島課長の三人で参列しましたが、彼は離れたところにいましたし、目線を合わさない様にしていたようにも感じましたから、こちらからも話しかけませんでした。江島課長の葬儀でも同様で、支店長も参列され、支店の何人かが参列していましたが、誰とも話しはしていないと思います」

 江島の葬儀の後、自宅に戻ったところへ杉並西署の巡査が宿泊の確認に来たのだと、大林は合点した。そして伊村はその後、行方をくらました。

 「そうですか。ところで伊村さんは何故、御社を辞められたのか聞かせていただけませんか」

「優秀な社員で、辞めて欲しくはなかったのですが、事情が事情でしたので、止むを得ず、というところでした」国友がいかにも饒舌に話した。

「伊村君は、東京に家探しに行きましたが、生憎、震災が発生して、家は探せませんでした。その震災の際の大津波で、仙台に残した奥さんが不幸なことになってしまい、会社を辞める決心をしたようです」新井が付け加えるように説明した。

 「伊村さんは、その後、東京の杉並に部屋を借りられて住んでいるようですが、先程お話した通り、目下のところは行方が分りません。最近、伊村さんから電話などはありませんでしたか」

 大林が聞くと、国友と岡山は首を横に振った。新井は首を横に振っている二人を見つめていた。

 「伊村さんのことでもう一つお伺いしたいのですが、伊村さんには登山の趣味はありましたか」

 大林はまた、三人を見回した。

 「伊村君は、山は好きでした。私も一、二度一緒にこの近くの泉ヶ岳に登りました。ここ二年間は一緒には登ってはいません。彼は単独でいろんな山に登っているようでした。夏のアルプスにも登っていると聞いていました」国友が答えた。

「支店長さんも山がお好きでいらっしゃるんですね。亡くなられた江島さんも山好きだったようですね」

大林は国友の顔を見ながら訊いた。

「ええ、彼も山好きでした。月山も最初は私と二人で登る予定だったのですが、登る予定の土曜日が、私が仕事になってしまい行けなくなりました。彼は急遽金曜日も休暇を取って、月山と温泉をセットで登ると言って出かけました。山慣れしている筈なのに、あんな事になるとは油断としか言い様がありません」

 大林は、国友と江島の親しさから考えて、浅見の不倫行為の相手を知らないと言ったことに、疑念を抱いた。

 「お願いなのですが、伊村さんが写っている写真と、伊村さんがご自分で書かれたものがありましたら、しばらくお借りしたいのですが、手配して頂けますか」

大林が言うと、新井が国友と顔を見合わせ、席を立った。

「ご用意して頂いている間に、お聞きしたいのですが、江島さんのスケジュールを知る事が出来る方は、どなたがいらっしゃるのでしょうか。例えば今回のように、休暇を取る予定を事前に知り得る方です」

大林は国友を見て訊いた。

 部長の岡山が国友に代わって答えた。

 「会社のシステムとしては、休暇申請はパソコンの画面上で行うので直属の上司しか事前には分りませんが、我々幹部職はパソコンにスケジュール入力して、支店内の誰でも我々の予定が把握出来るようにしています。ですから、江島課長の休暇の予定も、私は当然ですが、支店全員が分る筈です」

 国友もそれを聞いて頷いた。

 席を立っていた新井が、社名入りの白封筒を持って戻ってきた。

 新井は社内の飲み会の席と思われる、スナップ写真をテーブルに置いた。それは、三月の初旬に送別会で写した写真だった。一番右に居るのが伊村君だと、新井は指した。

 伊村の顔は陽に焼けているのか浅黒く、髪は短かった。

 そして新井は、「退職届け」と印刷された紙をテーブルの上に置いた。それは伊村の退職届けだった。

「最近は、ほとんどパソコンの画面上で処理することが多くて、自筆の物というとこれ位しか見当たりません。しかもコピーなのですが宜しいでしょうか」

 新井は大林の方にその紙を差し出しながら、大林の顔を見た。

 「結構ですよ。ありがとうございます。しばらく写真ともどもお借りします」

 大林は、写真と「退職届け」を封筒に収め、隣の若い刑事に渡した。

 「支店長さん、ご協力ありがとうございました。最後にもう一度お聞きします。伊村さんから、浅見さんの不倫のこと、江島さんが相手女性を紹介したこと、相手が得意先の女性で妊娠したこと。これらの訴えがあったのではないですか」

 大林は国友を見て、強い口調で聞いた。国友は黙って首を傾げるだけだった。

 大林は、三人に時間を割いてくれたことの礼と、仕事の邪魔をした侘びを述べ、東亜製薬仙台支店を出た。新井が、下まで送りにエレベーターに一緒に乗った。

 新井は大林に、六時に隣の国際ホテルのロビーで待っていて欲しい、話したいことがあると(ささや)いた。大林は黙って頷いた。

 外に出た大林は、若い刑事に聞き取りの印象を聞いた。若い刑事は、国友の言っている事は、山の話し以外は信用できない。そして、かなりの事を知っている筈なのに喋らないのは、自分の身を守る為としか思えない。この会社は国友の恐怖政治に怯えているような雰囲気がある、と感想を言った。

 若い刑事は、大林に新井は何を話したいのか聞いたが、大林は「さあ」と言うだけだった。

 しかし大林は感じていた。面会の時の新井の様子は、支店長の国友の話しに不満そうだった。あそこでは、国友の前では言えなかった何かがきっとある筈だと。

 二人は、六時まで少し時間があった。隣接する青葉中央署に戻り、席を借りることにした。

 大林は、湖東署の捜査本部に仙台での聞き取りの報告をした。

 仙台でも伊村の行方の目星は付かない。目下の所、東京の伊村の部屋の張り込みを続けるしかないと思われること。浅見と江島の葬儀に伊村が出ていたという情報の確認を、石山田刑事に依頼してほしいこと。浅見の不倫相手の女性が分れば全容解明に繋がると思われる。ついては、月山西川署に事件性の有無の確認ということで、仙台の江島の部屋を調べてくれるよう、課長から向こうに依頼して欲しいこと。伊村の写真と自筆の書面を送るので、大垣のビジネスホテルのチェックインカード、湯の山温泉の旅館湯元の宿泊カードそれぞれの筆跡鑑定を依頼して欲しいこと。これらを大林は、報告するとともに各署に連絡依頼してくれるよう課長に頼み、手に入れた写真と自筆の退職届けを、写真電送ファクスで送った。

 夕方六時前、大林たちは、国際ホテルで新井と会った。三人は奥のロビーラウンジに入り、飲み物を注文した。

 新井は、緊張した様子で、辺りを気にしながら話し始めた。

 「手短にお話します。国友支店長は、浅見部長の不倫のことは江島から聞いてご承知でした。浅見部長を名古屋に異動させたのも、本人がここから逃げたいという希望と、公にならないうちにということからでした。ただ、相手の女性の勤務先や名前は、事に巻き込まれたくないということで、本当に聞かなかったようです。これは本人が言っていました。伊村君が辞めた理由は、国友支店長が伊村君に、奥さんを探し続けていては、会社に迷惑になる。会社を辞めろと言われたからです。さっきの支店長の話は全くの嘘です。伊村を転勤させて良かった。辞めてくれて良かった、と言っているのを、伊村君は、後輩伝いに知っていた筈です。その伊村君が何故転勤することになったか、ですが、刑事さんの推測通り、伊村君は支店長に訴えたようです。それが支店長にとっては、煩わしい存在になったからだと思います。役員を目指しているあの人にとっては、いて欲しくない存在だったと思います。あの人ほど出世欲の強い人は、他に私は知りません。浅見さんが殺され、江島さんが事故で亡くなった。国友支店長はホッとしているのではないでしょうか。自分の出世の妨げになるものは、全て排除することが、あの人のやり方ですから。うちの会社も人を見る目が無い会社です。あんな人を支店長にしてしまうのですから。それから、伊村君は何回か会社に電話をして来ています。私は話していませんが、うちの課に、伊村君の奥さんと高校、短大の同級生の女子社員がいるのですが、その子に連絡して来たようです。伊村君は、正義感の強い子ですが、一途にものを考えるところがあるので心配です。奥さんもまだ行方知れずのままで、伊村君はあまりにも可哀相です。刑事さん、伊村君を宜しくお願いします」

 新井は手短にと言いながらも、しっかり、そして一気に話した。

 大林は新井に話してくれた礼を言った。そして新井に、伊村は江島の休暇の予定を知っていたかどうかを、その女子社員に聞いて欲しいと依頼し、名刺を渡した。

 ホテルを出た大林は、夕陽の当たる広い歩道を歩きながら独り言のように呟いた。

 「会社というのは人を創りもするが、壊しもするところだ。それもいとも簡単に壊す」


 空木はその日の午後、JR荻窪駅の西口を出て、南に向かって歩いていた。交番で荻窪五丁目七番地を訊き、小学校の付近であることを教えてもらっていた。

 ハイム荻南は四階建てのクリーム色のこじんまりしたマンションだった、

 電信柱の陰に男が立っていた。張り込みだろうかと空木は思った。

 このマンションはオートロックではなく、管理人も居なかった。空木は、階段を上り202号室の前に立ち、ドアノブを引いてみた。やはり開かなかった。

 ベランダは南に向いた道路沿いだった。外に出て、少し離れて202号室と思われるベランダを見上げた。物干し竿ではなく、ロープが一本引かれ、そこに紺色の、四、五十センチ四方の厚手の布様の物が干されたままになっていた。空木はカメラのズームを最大にして、シャッターを押した。どうやらスパッツの様だった。空木は、月山の雪渓の昇り降りに使ったのではないかと想像した。

 空木は、伊村の東京での生活がどれ程寂しいものだったか想像した。空木自身は独り者で何とも思わないが、伊村は和美と二人で暮らす筈だった。仙台での嫌な事も、東京での時間が忘れさせてくれるのではないか、という期待を抱いていたが、叶わなかった。東京での独り暮らしは、伊村には耐え難いものだったのではないか。昔を思い出し、好きな山に没頭しようと考えたのではないか。湯の山温泉に泊まった時は、実名で泊まっている。浅見への殺意はまだ芽生えていなかったかも知れない。伊村は霊仙山にも登りに行ったかも知れない。

 

 月山西川署では、吹石刑事と課長が、湖東警察署の刑事課長からの依頼を受け、対応を相談していた。

 湖東警察署からの依頼はこうだ。霊仙山事件の重要参考人は、仲内和美の夫である伊村政人、東亜製薬を三月に退職した男である。被害者の浅見豊とは、東亜製薬仙台支店時代に同じ職場にいた。月山の転落事故で亡くなった、江島照夫も東亜製薬の仙台支店に在籍し、浅見に女性を紹介していた。三人は、浅見豊の仙台在住時代の不倫相手と繋がると思われる。不倫相手が、伊村政人と何らかの繋がりがあるようであれば、江島照夫の転落事故も事件の可能性が大きくなる。そこで、江島照夫の仙台の部屋に、浅見豊の不倫相手を特定出来る様な物が、残されていないか調べて貰えないか、ということだった。

 吹石は課長に、状況的には月山の転落事故は、事件の可能性を秘めていると思われる。調査も何もしないまま、もし後々、事件だということになれば、署長も課長も後悔することになるのではないか、と進言した。

 課長は腕組みをして考えて、吹石に言った。

「吹ちゃん、やってみよう。但し、少人数しか出せない。署長と地域課長には私から言っておくから動いてみてくれ」

 月山西川署の吹石と地域課の本山が動き始めた。

 吹石は江島照夫の転落事故を扱った本山を呼んだ。転落事故当日の月山スキー場駐車場周辺の聞き込みをして、登山者、駐車していた車の情報を集めてくれるよう依頼した。

 さらに吹石は、江島の妻の江島恵子に連絡をした。事情を説明し、仙台の部屋の捜索と、葬儀の際の芳名帳の確認についての了解を得た。幸いにも、江島の仙台の部屋は、まだ引き払ってはいなかった。


 翌日の金曜日、吹石、大林、石山田の三人の刑事はそれぞれの場所で動いた。

 吹石は仙台に向けて車を走らせた。

 江島照夫の仙台の部屋の住所は、青葉区米が袋一丁目。そのマンションはグランメゾン米が袋と言い、五階建ての三階303号室だった。不動産管理会社の担当者に捜索令状を示し、鍵を開けさせた。

 二週間の間、外気と混じわっていない部屋の空気は、暑さも加わりじっとりと澱んでいた。2DKの部屋は比較的整理されていた。部屋の一つは山道具が部屋中に置かれていた。寝室は居間と兼用だった。机は無く、パソコンも持っていなかった。

 吹石は整理ダンス、衣装箱、本棚の順に調べていった。本棚はビジネス書と山関係の本が半々だった。その中に、「登山順記」と書かれた三冊のノートがあった。吹石はノートをパラパラと(めく)った。

 江島は十年前から山登りの趣味を持ったようだった。吹石は最後に書かれた山日誌を見た。六月二十五日土曜日、曇り時々晴れ、安達太良山(あだたらやま)、となっていた。流し読みをしていたが、ある名前に目が留まった。浅見の名前だった。それはこう書かれていた。「浅見部長の葬儀に参列した。伊村も来ていた。ニューヨークヤンキースのベーブルースではないが、怨念なのか。イニシャルも一緒だ。忘れよう。忘れるには山が一番だ。…」これはどういうことなのか。吹石は三冊の山日誌を署に持ち帰ることにした。

 

 大林は仙台から東京に向かう東北新幹線の車中だった。

 携帯電話に湖東署の課長から連絡が入った。東亜製薬仙台支店の新井から連絡があって、伊村君は休暇予定を知っていた、と伝えて欲しいとのことだった。

 大林は昨日の名刺を取り出し、東亜製薬仙台支店の新井に車中から携帯電話を掛けた。伝言を聞いたこととその礼を言い、直接女子社員の方と話をしたいと言った。しばらくして女性の声に変わった。女子社員は「奥村律子と申します」と電話の向こうから挨拶した。大林は突然の電話の非礼を詫び、伊村からの電話の確認をした。

 奥村律子によると、六月の末頃だったと思うが、江島課長と国友支店長の休暇の予定を教えて欲しいと言ってきた。理由を聞くと、二人に会いに会社に行こうと思うが、休暇をとっている日は外したいと思うので、と話していた。その時、休暇予定を伝えたとのことだった。その後も一度、先週だったと思うが、支店長の休みを確認したいと言ってきたので、その時も教えた、とのことだった。伊村は、江島に関して山の話はしなかったか、聞いたが、山の話は無かったとのことだった。大林は礼を言った。


 石山田は浅見芳江に連絡し、葬儀の際の芳名帳、香典に伊村政人という名前がないか問い合わせた。伊村の名前は無かったことが確認された。

 石山田は大林と急遽、東武線氷川台の駅で待ち合わせた。東京の江島家を訪れるためだった。大林は若い刑事と東京駅で別れ、石山田と合流した。二人は駅近くのラーメン屋で昼食を取り江島家へ向かった。

 江島家は氷川神社の近くのマンションだった。

 江島照夫の妻の恵子は、葬儀の際の芳名帳と香典袋全てを用意していた。玄関先で芳名帳を確認し始めた二人に、恵子が部屋に入るよう勧め、居間に案内した。二人は、大林が芳名帳を、石山田が香典袋を確認し始めた。恵子はコーヒーを出しながら、どちらにとは言わずに聞いた。

「主人の事故に関して何かあったのでしょうか。山形の警察の方から連絡を頂いて、主人の仙台の部屋を調べさせて欲しいと仰っていました。先程はまた電話があって、主人の山日誌をしばらく預かると仰っていました。それにこうして刑事さんがお二人も来られています」

「ご主人の事故にも関わるかも知れませんが、ある別の事件に関わることで調べさせて頂いています」大林が答えた。

恵子は頷きながら「もしかしたら浅見部長様の事件でしょうか」と言った。大林は曖昧な返事をした。

「主人が浅見部長様の葬儀から帰ってきて、あれは怨念かも知れないと言っていました」

 恵子の話に二人は顔を見合わせた。

 「怨念‥‥‥、何の怨念か聞かれましたか」石山田が思わず聞いた。

「聞きましたけど、主人は何も言いませんでした。それが何か?」

「いえ、怨念という言葉が恐ろしいと思いましたので、つい聞いてしまいました」

 二人はまた、芳名帳と香典袋を調べ始めた。

 芳名帳を繰っていた大林が、「あった」と小さな声を上げた。大林は芳名帳を石山田に見せた。「仲内好美」と記帳されていた。

「奥さん、この方はご存知の方ですか」

 大林は、芳名帳の「仲内好美」と記帳された欄を指しながら恵子に訊いた。

「いいえ、存じ上げない方です。会社の方なのではないでしょうか」

「こっちにもあった。仲内好美の香典袋だ」石山田が声を上げた。

 伊村の名前は芳名帳にも香典袋にも無かった。

 二人が、恵子に礼を言い、腰を上げた時、恵子が「忘れるところでした」と言って、メモを取り出した。「月山西川署の吹石に電話をください」という言伝(ことづて)です、と大林に伝えた。


 大林と石山田は江島家を出た後、伊村のマンションの所轄である杉並西署の刑事課に立ち寄った。伊村は未だ部屋には戻っておらず、身柄の確保には至っていなかった。

 二人は、張り込みを続けている伊村のマンションに行った。大林と東京駅で別れた刑事も張り込んでいた。今日で三日目だが、伊村の部屋の灯りが点くことはなかった。

 そのマンションを後にして、二人は石山田の勤務する国分寺署に向かった。国分寺署は西武線の恋ヶ窪の駅に程近く、府中街道に沿ってあった。

 大林は、刑事課長と係長の柳田に挨拶し捜査協力の礼を述べた。

 「大林さん、西川署に連絡してください」石山田は大林に言った。

 大林は忘れていたようだった。手帳を取り出し、刑事課の電話を借りた。吹石刑事は署に戻っていた。

 吹石は、月山登山口付近の聞き込みでは、情報は得られなかったが、江島の部屋を調べたところ、妙なことが書かれた江島の山日誌があった。浅見の葬儀の後に書かれたもののようなので、見て欲しいとのことでファックスを送ると言った。

 A4サイズのノートの該当ページを含んだ一冊分がファックスされてきた。石山田は、これが江島恵子の言っていた、山形の警察が預かるという山日誌なのかと思った。石山田は、届いたファックスを大林に渡した。大林はファックスを読んだ。読んで首を傾げて、石山田に「どういうことなんでしょうか」と言って、ファックスを渡した。石山田も首を傾げた。

 大林は、「ベーブルースの怨念」とはどういうことかと、石山田に聞いた。石山田は首を捻って係長の柳田に聞いた。

 「係長、『ベーブルースの怨念』ってご存知ですか」

「確か、ボストンレッドソックスからニューヨークヤンキースに出された時の恨みで、レッドソックスが何十年間も優勝できないというような話じゃなかったかな、よくは知らないけどな」

「‥‥‥‥‥」


 石山田と大林は、空木との待ち合わせに「さかり屋」に向かった。

 空木は既に来ていた。店の主人は「いらっしゃい」と言って奥を指差した。

 空木は立ち上がり「大林さん、久し振りです」と挨拶した。大林も空木に、情報を提供してくれた礼を言った。三人が会うのは、浅見豊の葬儀の時以来だった。三人はビールを注文し、ジョッキを合わせ再会を喜んだ。

 大林は、伊村政人が重要参考人として浮かんで来たのは、空木のお陰だと言った。

 尾行依頼の手紙の差出人である仲内和美の名前が、伊村政人の妻の旧姓であることが判明したことが、捜査の進展の鍵となった。それを調べてくれた空木には頭が下がると言った。

 空木は、元はと言えば、仕事の依頼を疑いもせず請け負った自分の責任であり、ホームページを開きながら、電子メールでなく手紙で依頼が来た時に、疑うには十分だった筈で、恥ずかしい、と返した。

 「ところで空木さん、伊村政人の名前はいつ知ったのですか。」大林が聞いた。

「それが偶然でした。最初は東亜製薬の仙台で何が起こったのか、興味本位で知りたかっただけなんです。それで、東亜製薬の関係者で話が聞けそうな人間が居れば、聞き出してやろうという程度だったんです。伊村の名前は、前の会社の同期と話している中で、初めて伊村の名前を聞きましたが、その時は、情報を聞き出せる人間かも知れないと思っただけでした。それと、始めは興味本位でしたが、殺された浅見豊の奥さんから、仕事の依頼を受けて、請け負ったことで、深く調べて行くうちに行き着いてしまった。という感じです。全ては偶然です」

 空木はビールを飲み、煙草に火を点けた。

 「浅見豊の奥さんから仕事の依頼ですか」大林が驚いたように聞いた。

「健ちゃんは余程、浅見の奥さんに信用されたのか、旦那の仙台時代の女性関係を調べて欲しいと頼まれて、名古屋のスナックのママにも、情報を取りに行ったんですよ」石山田は空木に代わって答えた。

「何故、私に頼んだのか分りませんが、浅見芳江は仙台時代に間違いなく主人に女が出来たと思っていたようで、自分があの時、それを問い詰めていればこの事件は起こらなかったのではないか、と思っているようでした。それで真実を知りたいという思いが強くなったようです」

 空木は、ビールグラスが空いた大林に、飲み物を聞いた。大林は芋焼酎が欲しいと言った。

 「それで浅見が仙台で起こした出来事を調べるうちに、伊村の家族が震災の津波で被害に遭った事や妻の名前、旧姓が仲内和美だったということを知り、妹の好美の存在にまで行き着いたということですか」

 大林は頷きながら話し、ニラレバ炒めに箸を伸ばした。

 「浅見の起こした出来事はほぼ分かったのですが、相手の女性が特定出来ないんです。それが分かれば、浅見芳江から依頼された仕事は終わるのですが‥‥‥」

 空木は芋焼酎の水割りを大林の前に置いた。

 「そうですか。我々の捜査も大きく進展しましたが、伊村が仮に犯人だとしても、動機が今一つピンと来ないのです」

 大林はそう言ってグラスを口に運んだ。

 「伊村は全てを知っているんでしょうね。今、一体どこで何を考えているんでしょう。行方不明の家族のことを考えているんでしょうかね」

 空木は独り言のように(つぶや)いた。

 「ところで健ちゃんは『ベーブルースの怨念』って知ってるかい」石山田が聞いた。

「『ベーブルースの怨念』。『ベーブルースのうらみ』のことだろ」

「知ってるのか」

「ああ、ボストンレッドソックスからニューヨークヤンキースに金銭トレードされた話だよ。ベーブルースを球団オーナーの借金のためにトレードに出したんだ。それ以後、レッドソックスは八十年以上ワールドチャンピオンになれなかったんだ。それをファンが『ベーブルースのうらみ』が原因だ、としたことが(いわ)れだよ」

「おお、さすが探偵だね。よく知ってる」

 石山田が言うと、大林が月山西川署からファックスされてきた紙を空木に見せた。それを見た空木は「怨念‥‥。イニシャルが一緒‥‥」と(つぶや)いた。

「江島の奥さんも、浅見の葬儀から帰ってきた江島が、怨念と言っていた、と話していたよ」

 石山田が焼酎をガブリと飲んだ。

 「怨念も気になるけど、このイニシャルが一緒というのはなんだろう。ベーブルースのイニシャルなのかな。確かベーブスースの本名は、移民の子でややこしい名前なんだよな。知ってる人なんか居ないんじゃないかな。勿論、俺も知らない」

 空木はグラスを口に運びながら考えていた。

「ベーブルースのイニシャルはBRじゃないのか」

 石山田が言った時、空木が「あっ」と小さく叫んだ。

「厳ちゃん、仲内好美だ。NYだよ」

「仲内好美。NY。なんだよ、それは」

 石山田は大林と顔を見合わせた。

 「ベーブルースのイニシャルじゃないんだよ。ニューヨークヤンキースのイニシャル、NYのことを一緒だと言っているんだ。NY、つまり仲内好美の恨み、と言っているんだ。やっぱり不倫相手は仲内好美だったんだ。紹介した江島はそれを自分でも忘れようとしていることが、この山日誌に書かれているんだよ」

「そうか、そういうことだったのか。健ちゃんやるな」

 石山田が手を打って声を上げた。

 「空木さんの言われる通りかも知れませんね。状況的には、仲内好美と読み取るのが自然ですね。好美が浅見豊の不倫相手で妊娠したとしたら、伊村は当然知り得る立場ですし、会社に訴えるべき立場でもあります」

 大林は水割りの入ったグラスを一気に空けた。

 「浅見、江島、伊村のトライアングルの中心に居たのは仲内好美だった。ということは、江島は伊村に殺されたのか」石山田が空木の顔を見た。

「いや、殺したかどうかは分からない。ただ、月山で伊村は江島と会っているのは間違いないと思う」

「空木さんの推測通りかも知れません。伊村は江島の休暇予定を知っていた筈です。ただ、月山に行くかどうかは知らなかった筈ですが」大林も空木の顔を見て言った。

「恐らく伊村は、浅見の葬儀の時に、直接か間接か分かりませんが、江島が月山に行くことを知ったんだと思います」

「しかし、月山には支店長の国友も、当初一緒に登る予定だったと言っていましたが、二対一では殺害は難しいのではありませんか」大林だ。

「これも推測なのですが、当初、伊村は月山で江島と国友の二人に会って、好美母子の話を含め、恨みをぶつけるつもりだったのではないでしょうか。それも私の前で、会社のスキャンダルを暴くためにです」

「それで好美の名前の手紙で月山神社に来てくれと言ってきたという訳なのか。健ちゃんが証人ということか」石山田が言った。

「その通りだと思う。予定が変わったというのは、国友が来られなくなった、ということなんだ。だから江島が死んだというのは、伊村にとっては想定外の出来事だったんだと思う。本当の事故だった。何と言っても江島は、伊村とともに全てを知っている証人みたいな存在の筈だからね」

 空木は少し興奮したのか、顔を赤らめ、イカの一夜干しに手を伸ばした。

 「だったら伊村は何故出てこないのかな。出てきて全てを暴露してもいいんじゃないか」石山田が首を捻った。

「多分、もう一人直接話したい人間がいるからだよ」

「もう一人というのは、ひょっとして支店長の国友ですか」

 大林は言って、仙台での聞き取りの時の国友を思い浮かべた。虚勢を張ることが出来るが、それは虎の威を借る狐のように大林には見えた。

 「その通りです。ただ、月山との違いは、伊村は、今は国友を殺してもいいと思っているのではないか、ということです。伊村はたびたび会社の後輩に、この会社にはこの世から消えて欲しい人間が三人いる、と言っていたと聞いています。もしかすると、その三人というのは、浅見、江島、国友の三人ではないかと思います。その内二人が消えた。一人は伊村自身の手で、一人は事故で死にました。あと一人となった今、殺す事は世のためと思っているような気がします」

「伊村は殺すつもりなんだろうか。だとするとやっぱり仙台の何処かでなのか」

石山田の話を聞いた空木は、焼酎を口に運びながら「いや、何処かの山だと思う」と推測を口にした。

「どこの山なんだ」

「それは俺にも分らない。突き落とせば死ぬ、そういう山が最適だ。とは言え国友がそういう山に行くかどうか」

「伊村は毎日、国友を見張っているのかな」

「そんなことはしないと思うけど、休日は国友の動きを見ている可能性はあるね」

「伊村は国友の休暇の予定も知っている筈です。所轄の協力を貰って、国友の自宅を張り込むようにしましょう」二人の会話をじっと聞いていた大林だった。

「大林さん、東亜製薬の仙台支店に、国友が山に登る時はどこに登るのか必ず聞いて、連絡をよこすように言ってください。それと、江島の山日誌の全部のコピーを私に読ませてくれませんか。構わないでしょうか」

空木はまた煙草に火を点けた。



『告白』


 週末の土曜、日曜は全国的に猛暑日となった。空木はテントを担いで、北アルプスにでも避難したい心境だったが、月曜には国分寺署に出向く予定を止める訳にもいかなかった。

 月曜になっても猛暑は一向に収まらず、街路樹の葉もうな垂れている様に見えた。

 伊村の行方は全く分らず、大垣のビジネスホテルのチェックインカードの筆跡と、東亜製薬から提出された伊村の退職届けの筆跡が一致したことから、今日、全国に重要参考人として手配された。

 空木は、国分寺署に届けられた、江島照夫の山日誌のコピーを借り受け自宅に持ち帰った。

 石山田は管内で発生した窃盗事件の現場に出向いていた。

 大林は荻窪の伊村の部屋の張り込みを続け、一週間近く米原の自宅には戻っていなかった。

 七月二十六日火曜日。昨夜のスコールのような雨のせいか、幾分暑さは和らいだが、湿度が高くじめじめしていた。

 空木は、コンビニで朝昼を兼ねたサンドウィッチとカップ麺、サラダを買いに出た。マンションに戻り、メールポストを開けた。広告チラシと一緒に白い封筒が入っていた。封筒の差出人は書かれていなかった。空木は、またか、と思った。過去二度の手紙との違いは、差出人が書かれていないことと、宛名が手書きであることだった。

 空木は部屋に戻り、コーヒーを入れ、食事をしながら封筒を開けた。手紙を読んだ空木の驚きは、霊仙山の廃屋で死体を発見した時以上だった。

 それは伊村政人本人からの手紙だった。


空木健介様

前略 突然の手紙に驚かれておられることと思います。

私の名前は伊村政人と申します。空木さんは、もう分かっていると思います。仲内和美、仲内好美の名前で手紙を出したのは私です。何故、そのようなことをしたのかと思っておられると思います。

 それは一つには、私には成さなければならない事がありました。それはまだ成すことは出来ていません。もう一つは、空木さんに私の悔しい、苦しい胸の内を二人の名前を使うことで、いずれ分かって貰えると思ったからです。

 私は浅見豊を殺害しました。それは、浅見はこの世に存在してはいけない、許されない人間と思い至ったからです。奴はある女性を、結婚を餌に(もてあそ)び、妊娠までさせました。そして逃げ回り、産まれてきた子の認知もする気も無く、挙句の果てに金で誤魔化そうとしました。ある女性というのは、もう空木さんはご承知と思います。私の義妹である仲内好美です。

 私が好美の妊娠を知り、相手が浅見豊だと知ったのは、出産の数ヶ月前でした。その時、浅見に義妹を紹介したのが江島だということも知りました。私は国友支店長に相談しましたが、既に仙台に居ない人間が起こしたことを大事(おおごと)にするな、の一点張りでした。江島にも何故あんな奴に、紹介したのか問い詰めましたが、反省する言葉は聞けませんでした。

 好美は、十月に出産しました。名前は育美と名付けました。私ども夫婦の養女にと説得しましたが、好美は、浅見さんは結婚してくれる筈だから、の一点張りでした。浅見は結婚どころか、認知もする気はありませんでした。

 そしてあの三月十一日でした。妻の和美も、妹母子も両親も皆、津波にさらわれてしまいました。私は、私を異動させた国友と江島を恨みました。東京にさえ行っていなければ、妻の和美は生きていた筈です。逆恨みであることは十分分かっています。しかし、異動の理由が解っている私には、悔しくてなりません。

 三人は、好美母子がこの世から居なくなったことにほっとしたに違いありません。そして私が東亜製薬から去ったことも。この悔しさを解っていただけるでしょうか。

 空木さんは、何故私が、空木さんを巻き込むようなことをしたのか、疑問に思っておられるでしょう。空木さんは記憶に無いと思いますが、私は名古屋、仙台で空木さんを存じておりました。特に仙台でお見かけした時、空木さんは杉谷君と同行しておられました。そして、病院の外来で待っている時、杉谷君にこう言いました。

「人間は、自分を本当に理解してくれる人が一人居てくれれば幸せだ。全ての人に理解して貰おうとすると傷つき不幸になる。そして誰かを理解する人になることが出来れば一人前だ」その言葉は私には忘れられない言葉になりました。

 私の理解者は妻の和美でした。その和美が居なくなりました。空木さんに解って貰えればそれでいい、解って欲しいと思い、和美の名前であのような仕事の依頼をしてしまいました。

 空木さんに依頼をした時は、浅見豊を殺すつもりはありませんでした。浅見の家庭を壊そうと思っての依頼でしたが、浅見は名古屋でも女性癖は変わっていないことを見て、殺すしかないと決めたのです。

 江島は不幸な事故でした。国友と二人で来ていれば、あんな事にはならなかったでしょう。空木さんに月山へ来てくれようお誘いしたのは、空木さんの前で、あの二人に辱めを味合わそうと思ってのことでした。それで終わりにしようと思っていました。

 私は、殺人という重大な罪を犯しました。決して許されることではありません。和美もきっと私を叱るでしょう。しかし、私にはっもう一つしなくてはいけないことが出来ました。和美のためにやらなくてはなりません。

 空木さんと会ってゆっくり話がしたかった。こんな男がいたことを忘れないでください。

                                         伊村政人

                                       草々


 便箋四枚に書かれた伊村からの手紙を読んだ空木は、窓の外を見ながら、一つ大きな息を吐いた。伊村の悔しさ、辛さが空木の心の芯に()みた。

 空木は思った。伊村は死ぬつもりだ。空木は、このままでは自分が後悔することになると思った。伊村はどこに居るのか、早く探し出さなければならない。封筒の消印は昨日の月曜日、仙台だ。伊村の狙いは国友と会うことだ、それも山でだ。国友に動きがあったのだろうか。伊村はそれを知って最後の手紙を送ってきたのか。兎に角、石山田と大林にこの事を知らせなければならない。

 空木は、石山田の携帯電話に電話をした。石山田は国分寺署に居た。空木は、伊村から手紙が来た事を伝え、その文面から、伊村は国友とともに死ぬつもりだと感じたことも伝えた。石山田は、すぐに大林に連絡を取るので、空木にその手紙を持って、国分寺署に来るように言った。


 空木が国分寺署に着いたのは、午前十一時少し前だった。大林はまだ来ていなかった。空木は、石山田に伊村からの手紙を見せた。手紙を読んだ石山田は、空木の想像した通りだと言った。

 横を通りかかった刑事課長が「こっちの仕事もちゃんとやってくれよ、石山田君。なあ、柳田係長」と言って石山田の肩を叩いた。石山田は柳田係長の顔を見て、親指を立てて意味不明のOKサインを出した。

 大林が国分寺署に到着したのは、それから三十分程してからだった。空木は、大林にも伊村からの手紙を見せた。手紙を読んだ大林は、湖東署の刑事課長に連絡し、手紙をファックスで送った。

 「大林さん、伊村は国友を殺して、自分も死ぬつもりのように思えますが、どう思いますか」

 空木は、文面から読み取った自分の想像を大林に伝えた。

 「私もそう思います。相当な思いを持った手紙だと思います」

「伊村にこれ以上、罪を重ねさせる訳には行きませんよね。国友に連絡した方が良いのではありませんか」

 大林は「そうですね」と、携帯電話を手にして東亜製薬の仙台支店に電話をした。国友は出張中で会社にはいなかった。大林は、自分の携帯電話に連絡をするよう伝言した。そして、念の為、国友の休暇の予定を聞いた。それは、明後日、木曜から金曜にかけてだった。

「木、金ですか…」空木は考えていた。国友は何処に行くつもりか。

 大林は国友の自宅住所の所轄である仙台青葉北署に連絡し、自宅周辺の巡回を強化して、一層注意して欲しい旨を伝えた。

 「大林さん、伊村の手紙の消印が仙台で日付は昨日の月曜日になっています。過去の伊村の手紙の差出地は、和美の時が東京千代田区、好美の時が仙台でした。和美の時は自分の居場所を知られたくなかったから、千代田区から出した可能性があると思います。好美の時は、もう最後だと思って仙台というヒントを出しても良かった。そうして考えると、今の伊村にはもう一つ成す事があるといっている以上、もう仙台には居ない可能性があります。伊村は国友の登る山を知っていて、もう既にそこに向かっているか、到着して待っているんじゃないでしょうか」

 空木はそう話しながら、国友は土曜、日曜を含めた四日間の休みにどこに登るつもりなのかとずっと考えていた。

「健ちゃんはどこの山だと思っているんだ」石山田が腕を組んだ。

「それは俺には分らない。国友に聞くしかないよ」

「国友に山に登りに行くつもりなら、必ず行き先を言うように言いましょう」

 大林は、仙台の東亜製薬で面会した時の、国友の非協力的な態度を思い浮かべたのか、強い口調になっていた。



『甲斐駒ケ岳』


 翌日の水曜日は朝から気温三十度を超えた。空木はジージー、シャンシャンというせみの声に起こされた。

 トレーニング室のある体育センターに隣接した公園には、夏休みの子供たちが、せみ取りに来ていた。

 空木は、暑さは大の苦手だが、汗をかくのは好きだ。トレーニングで大汗をかき、シャワーを浴び、冷えたビールをグビっと飲む。これが平日に出来る。サラリーマン生活では考えられないことだった。

 部屋に戻った空木は、一通り読んだ江島の山日誌をもう一度読むことにした。江島は百三十回ほどの山行(さんこう)を記録していた。東北の山は勿論、北アルプスの山もいくつも登っていた。関東の山も雲取山、筑波山、谷川岳とかなりの山に登っていた。何故か南アルプスの山には一度も登っていなかった。中央アルプスも、八ヶ岳連峰も登っていたが、南アルプスだけはなかった。恐らく、南アルプスは山懐(やまふところ)が深く、休みの日数が余分にかかることが原因だろうと空木は日記を読みながら思った。

 空木も赤石岳、聖岳、悪沢岳と南アルプスの主峰を登っているが、何れも登山口への移動と帰宅に、それぞれ一日取られる。サラリーマン登山者には休暇のやり繰りが難しい山だった。

 国友と一緒に山行している山もいくつかあったが、東北の山を何れも日帰りの山行だった。その中に、国友が南アルプスに行く時は、自分も連れて行ってくれと言っているが、支店長の体力では難しいと言って断った、という部分があった。伊村の手紙を読んだ後、この文を見ると、江島も山に関しては、はっきり物を言うのだと空木は思った。

 山行は何と言っても体力がベースで出来るものである。遭難事故の大半は体力に問題があって起こると言っても過言ではない。体力のない登山者が、パーティーの中に一人でもいれば全員がその一人に巻き込まれると思わなければならない。最近の山の遭難事故は中高年の体力不足であり、トムラウシの事故も天候が根本ではあるが、究極は体力不足と言える。そういう意味では、江島の国友への言葉は忠告と言って良いほど正しい。

 伊村との山行も二回あったが、二年前が最後だった。江島と伊村は当時、山でどんな話をしていたのか知りたかったが、今となってはそれを知る術は無かった。ただ、二回山行をともにしていれば、山仲間となっている筈だ。その仲間に裏切られたという思いも、伊村にはあったのではないかと空木は思う。

 空木は読むうちに、江島の山日誌に三年程前から、三大急登という文字が何回か出てくるのに気付いた。

 空木はいつに間にか、転寝(うたたね)していた。あまりの暑さとせみの音で朝同様起こされた。

 携帯電話に石山田からの着信が入っていた。

 空木は気がつかなかったが、せみの音と思ったのはマナーモードにしている携帯電話のバイブレーターの音だったようだ。時間を見ると夕方五時半を過ぎていた。

 空木は石山田に電話をした。石山田は、大林からの連絡の内容を伝えてきた。国友から連絡がないため、東亜製薬の仙台支店に電話をしたところ、国友はプライベートな休暇なのだから、どこに行こうが、どうしようと連絡などする必要は無い。まして、どこに行くかは決めてないのだから連絡のしようが無い、来週の月曜日には出社すると言って帰宅してしまったとのことだった。空木の知恵を借りたいと言っているので、いつもの所で待っていてくれと石山田は言った。

 空木が「さかり屋」に入った時には、まだ石山田と大林は来ていなかった。店の主人が「いらっしゃい、今日は一人」と声を掛けた。空木は「いや、後から来る」と言って、三人だよと、指を三本立てた。

 十分程してから二人が来た。

 「空木さん、国友はやっかいな男です。警察が連絡を欲しいと言っているにも関わらず、無視する訳ですから話になりません」

 大林は疲れた顔で言った。米原を出発して、仙台での聞き取り、そしてそのまま東京での張り込みを続けているのだから、疲れて当然だった。

「‥‥‥まずいですね」

空木はビールを飲み干し、芋焼酎のロックを作りながら呟いた。

「健ちゃんこのままじゃまずいね。国友は行き先を言うつもりはなさそうだよ。奥さんにでも聞いて貰うかい」石山田はジョッキを片手に言った。

「青葉北署が集中巡回パトロールをしてくれている筈ですから、明日、本人か奥さんかに聞いて貰いましょう」

 大林が眠気を忘れる為か、両手で顔を洗うように擦った。大林はビールの後、ウーロン茶を注文した。明日も張り込みがあるからという事だった。

 「国友は本当に登る山を決めていない、いや決め兼ねているかも知れませんよ」

「そんなことあるのかい。山に登りにいくのに、登る山を決めていないなんてことが」

 石山田が、「大林さん申し訳ない」と言いながら、芋焼酎を飲み始めた。

 「そんな事は、それほど多くはないけど、ベースにする宿泊拠点によってはそれが出来るんだ。例えば、北アルプスの徳沢というところをベースにすると、常念岳、蝶ヶ岳、槍ヶ岳も行けないことはない。だから登る山を決めていないということも有り得るということさ」

「じゃあ、国友は北アルプスに行くつもりなのか」

「北アルプスだけがそういうことが出来る山とは限らないよ。東北でも幾つもある。福島県の桧枝岐(ひのえまた)に泊まれば、会津駒ケ岳と燧ケ岳(ひうちがたけ)の両方登れる。北海道でもそういうことが出来るんだ。まあ、国友が一人で北海道の山に行くとは考えられないけどね」

「空木さん、山も知っていて、東北も知っているあなたなら、東北人の気持ちで国友がどこに登りたいと思っているのか、見当がつくのではありませんか」

言った大林の顔は、半ば諦め顔だった。

「それは目茶苦茶な話ですよ。それでは東北に住んでいる山好きな人たちは、皆同じ山に登ることになります。ただ、江島の山日誌を見ると、幾つか気になる部分がありました。江島はあれだけ山に登っていて、南アルプスの山には一度も登っていませんでした。恐らく、休日の都合で山懐(やまふところ)が深い南アルプスには行けなかったのだろうと思いますが、今年は登ろうと思っていたようです。その江島に、国友が一緒に南アルプスに連れて行って欲しいと言っていたようです。江島は国友に、支店長は体力的に無理だと言ったとも書かれていました」

「江島はどこに登ろうと思っていたのですか」

「これもあくまでも推測ですが、甲斐駒ケ岳に登ろうと思っていたのではないかと思います。それも黒戸尾根ルートと呼ばれる、長大で急登が多いルートから登るつもりだったと思います」

「何故、江島はそこに登ると思ったのか教えてよ」

石山田が不思議そうな顔を空木に向けた。

「江島は三年前の夏、長い休みを取って、北アルプスの烏帽子岳からスターとする、裏銀座と呼ばれる縦走路を小屋泊で山行している。その時にブナ立尾根と呼ばれるルートから登っているんだけど、そのルートは日本三大急登と言われる登山路のうちの一つなんだ。それ以来、江島の山日誌には度々、三大急登の文字が出てくるようになった。そして、去年は谷川岳を西黒尾根ルートから登っていて、日誌には残るはあと一つ、と書かれているんだ。この谷川岳の西黒尾根ルートも日本三大急登の一つと数えられている。そして、残る一つが甲斐駒ケ岳の黒戸尾根ルートなんだ。標高差二千二百メートルの健脚コース、一日での往復はとても無理だ。江島は今年の夏、ここに登るつもりでいた、と俺は考えた」

 空木は、甲斐駒ケ岳には二度登っていた。夏山と春山だったが、何れも天気に恵まれ、日本第一の高峰の富士山と第二の北岳を望むことが出来た。二度とも登りは、長野県と山梨県の県境の北沢峠から登っている。

 

 甲斐駒ケ岳は、赤石山脈(南アルプス)の北端に位置し、山梨県と長野県にまたがる標高2967メートルの山である。日本アルプス屈指の名峰として日本百名山に選定されている。「駒ケ岳」の名が付いた山は全国に十八山あるが、その中ではこの甲斐駒ケ岳が最高峰である。甲斐駒ケ岳の花崗岩から成る山肌は夏でも白く望まれ、山梨県側から一気に2500メートル程の標高差をもって立ち上がり、中央本線沿線からもその白い全貌が望まれることからも、多くの人々に名山として称えられている。


 「健ちゃんはそのコースを登ったことはあるのかい」

「いや登ったことはない。長野県側の北沢峠から登って、下りに使ったことはあるよ。下りで六時間半かかった。鎖場、はしご場、ナイフリッジのルートありで緊張もするし、きつく長いコースだったよ」

「そこに国友は登りに行く」

「それは何とも言えない、分らないよ。でも山好きは登りたいと思っている山とかエリアがあると、どこかで必ず口に出るんだ。そういう意味でも、国友が登ってみたい山域であることは間違いない筈だよ。それに江島から三大急登の話は何度も聞いていた筈だ、自分の体力では無理だとまで言われていた。その江島が死んだ。山仲間だったらどう思うか」

「俺なら死んだ仲間に代わって登るけどな」

石山田が空木の顔を見て自慢げに言った。

「俺もそう思っているんだ。だけど、国友は行き先を言わない。それは体力が心配なんだよ。天気のことも気にはなっている筈だ。天気が悪かったら甲斐駒ケ岳は止めようとも思っているのではないか。国友はプライドが高いんだよ。だから登ると言って登れなかったら、プライドが傷つくとでも思っているんじゃないかな」

 空木は煙草に火を点けた。

 「空木さん、仮に国友がその何とかルートを登るとしても、伊村はそれをどうやって知ることができるのでしょう」

大林は眉間に皺を寄せて聞いた。

「知ることは出来ないでしょう。伊村も我々同様、国友が休暇を使ってどこに登りに行くか推測している筈です」

「健ちゃん、それって宝くじみたいなものじゃないのか」石山田が言う。

「宝くじよりは確率は高い。山の数は宝くじの発行枚数ほど多くはないよ。それに僕らは、伊村にこれ以上罪を重ねさせないという目的からすれば、国友と伊村の行く場所がずれてくれれば一つの目的は達成することになる。そういう意味でも、国友の行くところを推測する方が重要だと思う」

「確かにそうですね。国友の行く所に行っていれば、そこに伊村が来なくても我々の一つの目的は果たせます」大林はそう言うと、その通りだと自分自身に言うように頷いた。

「‥‥‥大林さん、今、行っていればって言いましたけど、誰が行くんですか。伊村がそこに居るという情報でもあれば、所轄にも動いて貰えますけど、現状では事件とは無関係な国友が、行くかも知れないだけでは所轄を動かす訳には行きませんよ。事件が起きれば別ですけど」

 石山田の言葉に大林は腕組みをして考え始めた。

 「俺が行くよ、レンタカーを借りて俺が行く」

空木が言い放つように口にした。それは、そこに行けば、伊村に会えるような気がしての言葉だった。

「空木さんに行かせる訳には行きません。私しか行くべき人間はいないでしょう」

大林は腕組みをしたままだった。

「大林さんは山登りをしたことないでしょう。中学のころ伊吹山には登ったことはあるそうですが。私はルートもおぼろげながら記憶がありますし、何より山に慣れています」

 空木は、伊村に会ってみたいという気持ちは口には出さなかった。

 「三人で行こうか。俺、休むよ。風邪を引いたってことで休む。俺の車で、三人で行こう」石山田はニコニコしながら言った。

「国友が別の所へ行って、そこに伊村が待っていたら一巻の終わりという事ですかね」

 大林は焼酎の水割りを空木に頼んだ。張り込みのことは忘れているようだった。

 「そういう事になるかも知れません」空木は言った後、ため息をついた。

「そうならないように神頼みでもしますか」石山田が明るく言い放った。

 空木は確信とまではいかないが、国友が黒戸尾根ルートで甲斐駒ケ岳に登ることは、ほぼ間違いないと思っていた。そして、伊村も自分と同じ推測をしている筈だと思った。そうであって欲しいと。

 黒戸尾根ルートからの甲斐駒ケ岳登山は非常に長く、ナイフリッジになった岩場、鎖場、長い梯子場と、突き落とせば必ず死ぬであろうという場所は数え切れない程ある。伊村は、国友が黒戸尾根ルートを登ることを、願っているのではないかと空木は思った。

 空木は心の中で、国友が登る山の推測が外れても全く構わないが、伊村の推測と自分の推測は同じであって欲しいと願った。伊村と会って話をしたいと思った。伊村を死なせる訳にはいかなかった。

 空木は、国友が甲斐駒ケ岳に山梨県側から登ると仮定し、その行程を考えた。

 初日の明日の木曜日は、仙台からの移動日だ。甲府、韮崎もしくは小淵沢に泊まるだろう。登り始めるのは明後日の金曜日だろう。早朝、横手駒ケ岳神社か竹宇(ちくう)駒ケ岳神社のどちらの登山口か分からないが、スタートする。いずれにしても両方のルートは、標高1500メートルの笹ノ平で合流する。そしてその日は七合目の七丈小屋に泊まるつもりだろう。土曜日に甲斐駒ケ岳の頂上に登り、その日のうちに下山し、甲府か韮崎に泊まる。そして最終日に仙台に戻る。空木はこう予想した。恐らく、伊村も同じ推測をしている筈だ。

 ナイフリッジの刃渡り、そして長い梯子場は笹ノ平と七丈小屋の間にある。伊村が殺害場所として想定しているのはその辺りの筈だ。

 伊村は、七丈小屋に泊まっているか、笹ノ平でテント泊かのどちらかだろう。伊村が山に入るのは明日の筈だ。我々は明後日、日の出とともに登って二つのルートが合流する笹ノ平を目指す。

 三人は、明日国友の動きを確認した後、深夜に甲斐駒ケ岳の登山口を目指して出発することとした。

 締めのラーメンを食べ、三人は腰を上げた。店の主人が「空木さん、来週から新しい女の子が店に入るよ」と言った。空木は「ああ、そうなんだ、楽しみだね」と言いながら、来週はどんな気分でここに来るのかと想像した。すっきりとした気分で来れることを願った。



『暑く長い日』


 七月二十八日木曜日、今日も朝から東京多摩地区は気温三十度を超えていた。

 大林と石山田は国分寺署にいた。大林は湖東署の刑事課長と連絡を取り合っていた。

 大林は、既に容疑者として指名手配されている伊村は、未だ行方が分からない。伊村を逮捕するためには、国友をマークすることとしたが、国友の動向がはっきりしない。その中で、我々が最も注目しているのは、甲斐駒ケ岳の登山ルートである黒戸尾根ルートである。ついては、甲斐駒ケ岳の山梨県側の管轄の警察署に依頼して、麓の登山口の駐車場に、黒っぽいRV車が止まっていないか確認して欲しい、と刑事課長に依頼した。

 大林は、国分寺署の刑事課長と柳田係長に、今日一日ここに詰めさせて欲しいと依頼し了解を得た。今日が勝負の日という緊迫感を漂わせていたのか、刑事課長は大林に励ましの言葉をかけた。

 石山田は書類の整理をしながら、わざとらしい咳をし、「ああー熱っぽいなー」と周りに聞こえるように独り言を言っていた。明日の休暇の下準備なのだと、大林には分かり易い演技だった。

 その頃空木は、朝食のロールパンをかじりながら、甲斐駒ケ岳の登山地図を広げていた。竹宇(ちくう)駒ケ岳神社か横手駒ケ岳神社か、どちらから登るか考えていた。笹ノ平までのコースタイムはどちらを行っても二時間三十分だ。通常は市営駐車場のある竹宇駒ケ岳神社側から登る登山者が多いが、空木が下山に使ったのは横手側だったことから、横手駒ケ岳神社から登ることに決めた。

 その時、携帯電話が震えた。その着信番号は、空木の携帯電話には登録されていない番号だった。空木は電話を取り、「空木です」と応えた。二、三秒沈黙があった。空木はもう一度「空木ですが、どなたですか」と言った。

 「‥‥‥伊村と申します」

 男の声は確かに伊村と言っていた。空木は瞬間、体中に電気が走ったように感じた。

 「伊村さん。伊村政人さんなのですか」

 空木は伊村の声を聞くのは初めてだ。本人かどうかは空木には判らない。空木は落ち着いてゆっくり話そうと思った。

 「はい、伊村政人です。突然のお電話で申し訳ありません」

 伊村の声は通る声のようだった。一言ひと言が明瞭だったが、背後のセミ音が五月蝿(うるさ)かった。

 「伊村さん、今どこにいらっしゃるのですか。手紙は拝見させて頂きました。私は貴方にお会いしてゆっくり話がしたい。貴方もそう書いていらっしゃいましたよね」

 空木は、出来るだけ意識してゆっくり話した。少し話すだけで口の中が渇いてきた。

 「今どこに居るかは言えませんが、仙台より北に居るとだけお話しておきます。ですからすぐにお会いできる場所ではありません」

 セミが伊村の周囲で五月蝿く、シャンシャン、ジージー鳴いている。

 「セミの音で聞き取りにくいのですが、東北にいらっしゃるのですか」

「そうです。お電話したのは、最後に空木さんにまた仕事の依頼をしたくてお電話しました」

「仕事の依頼ですか。そんなことより、伊村さんのお気持ちはあの手紙で十分汲み取ることが出来ました。警察に出頭して、今度は(おおや)けの場で、貴方の気持ちを世間に、そして会社にぶつけましょう」

「いえ、私にはやらなければいけないことがあります。ですから、それは出来ません。空木さんへの仕事というのは、私に代わって和美とその家族を探し続けて頂きたいのです。私の最後のお願いです。宜しくお願いします」

「何を言っているんですか。和美さんを探すのも、待っていてあげるのも、そして送るのも貴方、伊村政人の役目なんですよ。貴方の代わりが出来る人間なんていません」空木は必死で伊村に話しかけた。

「申し訳ありません。許して下さい。空木さんと最後に話が出来て本当に良かった」

 電話が切れた。「しまった」空木は絶句した。着信履歴に残った番号に電話をした。もう電源が切られていた。

 時計は午前十時半だった。空木は急ぎ石山田に連絡した。

 「厳ちゃん、伊村から携帯に電話が入った」

「えっ、何だって。伊村から電話があった。伊村はどこにいるんだ」

石山田は横にいると思われる大林に「伊村から電話があったそうだ」と告げていた。

「仙台よりも北に居ると言っていたが、嘘か本当かわからない。俺に行方不明の奥さんを探してくれという頼みの電話をしてきた。宜しく頼むと言って、電話は切られた」

「仙台より北。見込みが外れたか」

 石山田の声が弱々しく聞こえた。

 「国友の方はどこに行ったか分かったかい」空木は聞いた。

「さっき青葉北署から大林さんに連絡があった。健ちゃんに連絡しようと思っていたところだったんだ。連絡によると南アルプス方面としか言わなかったらしい。仙台インターまで後ろを付いたが、国友の車を追っていく車は無かったと言っていた」

「間違いなく甲斐駒ケ岳、黒戸尾根ルートを目指しているよ、国友は」

「そのようだね。どうする」

「‥‥‥行く。俺は行くよ。伊村はルート上のどこかにいるような気がする」

「だけど伊村は仙台より北にいるって言ってたんじゃないのか」

「伊村は嘘を言っているような気がする。やっぱり行くよ、厳ちゃん」


 夜九時過ぎ、食事を済ませた三人は、国分寺署の車で中央自動車道を国立・府中インターチェンジから西へ向かい、山梨県の須玉インターチェンジを目指していた。

 当初は自家用車で行く予定であったが、国分寺署の車で行くことになった。それは、石山田が夕方六時過ぎに「熱っぽいので早めに帰らせてほしい」と言って、大林と署から帰ろうとした時、係長の柳田が、署の車を使って行けと石山田に言ったのだった。

 係長の柳田と刑事課長は、大林が湖東署の刑事課長とやり取りしている状況や、空木と石山田の電話のやり取りを聞いていた。さらに石山田が、仮病を使って行くつもりでいることも、当然ながら察知していた。管轄外の事件であり、また管轄外の場所であることから、どうしたものか相談していた二人は、見て見ぬ振りをすべきか、全面協力すべきかを考え、後者に決めたのだった。

 深夜の中央道は、さほどの交通量ではなく大型トラックがほとんどだった。たまに猛スピードで追い抜いていく乗用車があると、運転している石山田が「はい、免許取り消し」と言っていた。

 順調に山梨県北杜(ほくと)市横手にある横手駒ケ岳神社に到着した。神社の周囲は真っ暗で、神社も駐車場も区別がつかない暗闇の中だった。車のライトでやっとそれと判った。時間は夜十一時を過ぎたところで、駐車場には一台の車も無かった。

 横手駒ケ岳神社も竹宇(ちくう)駒ケ岳神社も、管轄の警察署は北巨摩(こま)警察署だった。大林が湖東警察署の刑事課長を経由して依頼していた、所轄による両神社の駐車場の調べでは、午後二時から三時の段階では、横手駒ケ岳神社の駐車場に地元ナンバーの軽自動車が二台、竹宇駒ケ岳神社手前のキャンプ場に隣接した市営駐車場に十四、五台の車が停まっていたとの情報だった。しかし他県ナンバーの黒っぽいRV車は停まっていなかった、という報告だった。

 三人は、日の出の時間の四時五十分に合わせて出発することとし仮眠を取った。石山田はすぐに鼾をかき始めた。大林は疲れているのだろう。石山田の鼾を物ともせず寝息を立てていた。空木は一晩中まんじりともしなかった。それは石山田の鼾のせいだけではなかった。

 東の空が白んできた。空木は二人を起こした。大林は空木の用意したTシャツ、ジャージに着替え、これも空木が用意した登山靴を履いた。少しきついと大林は言っていたが、歩くことに支障は無いようだった。空木と石山田も登山靴を履き準備を済ませ、ザックを担いだ。大林は空身でザックは担がないことにした。

 今日の好天を告げるように、セミがシャンシャン、ジージーと鳴き始めていた。空木は暑い一日になると思うと同時に、セミの鳴き声から、あることを確信していた。

 横手駒ケ岳神社は木々に囲まれ鬱蒼とした中に社があった。神社に向かって左手に登山道に通じる道があった。樹林帯が続く登山道を三人はひたすらもくもくと登った。三十分程歩くと汗が吹き出てきた。展望台と言われる地点で一時間が経過した。

 国友はどちらのルートか分らないが、既に出発しているだろうと空木は思った。釜無川を挟んで赤岳を主峰とする八ヶ岳連峰が望めた。標高が1000メートルを超え、セミの音はほとんど聞こえなくなった。ここからおよそ一時間半で笹ノ平と呼ばれる地点に着く筈である。

 三人はブナ、コナラからシラビソが混じり始めた樹林帯をさらに登る。空木の腕時計に内臓された高度計が1500メートルに近づいた。三人は足を止めた。竹宇駒ケ岳からの登山道と合流分岐する地点を示す標識が見えた。標識の辺りには人影は無かった。時間は午前七時を回ったばかりだった。コースタイムよりかなり速い。ここからほんの少しで笹ノ平の小広くなった場所に出ることを、空木は二人に伝えた。

 三人は辺りを見回しながらゆっくり歩を進めた。先頭を行く空木の目に、黒い影がチラっと動いたのが目に入った。動物か人かの判断は付かなかった。笹ノ平の奥の樹木の陰に隠れるように座って、こちらを窺っている人間を石山田が見つけた。

 「健ちゃん、人だ」

 空木と大林は、石山田の目線の方向に目をやった。男はじっとこちらを見ていた。その男は、髪は短く、サングラスをかけ大型のザックの上に座っていた。

 「伊村さん。伊村政人さんですか。空木です。空木健介です」

空木は立ち止まったまま声を掛けた。

 男は無言で立ち上がり、サングラスを外した。

 「伊村です」と言って会釈をするように頭を下げた。

 大林が二歩、三歩と前へ出て、警察であることを告げ、浅見豊殺害の容疑者として逮捕することを伝えた。石山田が、ザックから手錠を取り出し、大林に渡した。

 伊村は小さく「はい、わかりました」と言った。背丈の低い熊笹が、一面に茂った笹ノ平に夏の陽射しが差し、緑の葉がきらきらと輝いていた。

 「大林さん、伊村と少し話をさせて貰いたいのですが、良いでしょうか」

 空木の言葉に、大林は小さく頷いた。

 空木は、伊村のザックの横に自分のザックを置き、「座って話しましょう」と言って、伊村をザックの上に座らせ、自分も座った。

 「伊村さん、悔しい、辛い思いをしましたね」

空木は雲一つない青い空を見上げて言った。

「空木さん‥‥‥」

伊村の声は声にならなかった。

「伊村さん、貴方は一人ではないんですよ。国友を殺して自分も死のうなんて、つまらないことを考えるのは止めにしましょう。国友には別の制裁が待っていますよ。良識ある社会の目という制裁がね。国友は殺す価値も無い男です」

空木は、伊村の肩に手を掛けて語りかけた。

「和美に申し訳なくて‥‥‥」

伊村は声を振り絞るように言った。

「罪を償い、人間として一生懸命生きることが、和美さんを喜ばせ、安心させる唯一の方法です」

空木の言葉に、伊村は両手で顔を覆った。

 空木は立ち上がり、大林と石山田の居る所へ歩いて行った。

 「大林さん、伊村は国友に危害を加えることはないと思います。国友がここに登って来るまで待つ訳にはいかないでしょうか」

大林は、少し離れた所に座っている伊村を見ながら言った。

「大丈夫でしょう。我々も少々疲れましたし、しばらくここで休むことにしましょう」

 大林と石山田はザックを置き座った。

 空木はまた、伊村の横の自分のザックの上に座り、携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。空木には伊村に聞きたいことがあった。

 「伊村さん少しお話しましょう。伊村さんは随分山好きなんですね」

「‥‥ええ、育ったところが山村だったので、自然に好きになったのだろうと思いますが、社会人になってより好きになりました」

「山村というとどちらの生まれなんですか」

「生まれたのは東京ですが、両親は私が小さい頃事故で亡くなって、私は母方の祖父母に育てられました。その祖父母が住んでいたのが秩父の両神村という所でした」

 伊村の目は遠くを見ていた。

 「両神村というと百名山に選定されている両神山の両神ですか」

「そうです。もう祖父母も他界して家もありません。空木さんは両神山に登られたことはありますか」

「ええ、登りましたよ。確か何年か前の五月の連休に登りました。ニリンソウの群生地があって可愛い白い花が印象に残りました。伊村さんも登っておられますよね」

「数え切れない程登りました。初めて登ったのは小学四年だったと思います。祖父母に引き取られて一年位たった頃ですね。祖父に連れられて登りました。五月か六月か忘れましたが、空木さんが見られたニリンソウを私も見て、綺麗だと思った思い出があります。両神山の登山コースは幾つもありますが、全て登っています。頂上から眺めた雲取山を見て登りたいと思いました。中学になって雲取山に始めて登りました」

 両神山の話をしている伊村の目は遠くを見つめたままだったが、その目は潤んでいるように空木には見えた。

 「空木さん、両神山のヤシオツツジも綺麗ですよ。是非その季節に登ってみて下さい」

「そうですか。是非登ってみます。いや、伊村さん一緒に登りましょう」

空木はそう言って伊村の顔を見た。伊村の目からは涙がこぼれ落ちた。

「私は死んだ両親から生を貰い、祖父母に育てられました。両神の小学校、中学校の先生や友達に良くして貰いました。死んだ両親の残したお金で大学にも行けました。たくさんの人たちから受けた恩を台無しにしてしまった‥‥‥」

「伊村さん。伊村さんはまだ若い。これからでもその人たちへの恩返しは十分出来ますよ。あなたさえその気持ちをもっていれば出来ますよ」

 空木は、こんなに優しい心を持った人間が、何故人を怨み、殺してしまうのか、伊村という男と話をして、それを考えない訳にはいかなかった。

 伊村はその後も空木に、小学校、中学校の思い出を話した。川で遊んでいて溺れそうになって仲間に助けられ、ずぶ濡れで帰って祖母に叱られた思い出。近くの神社での夏の夜の肝試しで、天狗を見た話。中学の卓球部の部活で、初めて大宮に出た時の町の大きさと人の多さ、賑やかさに驚いたこと。伊村の目にはもう涙はなかった。

 国友が登ってくるまでにはもう少し時間がありそうだった。空木には、どうしてももう一つ聞いておかなければならないことがあった。

 「ところで、伊村さんにどうしても聞いておかなければならないことがあります。それは私の大きな疑問なんですが、貴方は何故霊仙山を選んだんですか。答えたくなかったら無理に答えて頂かなくても結構ですが」空木は小声で話しかけ、伊村の横顔を見た。

「空木さんを見かけたからです」

「えっ。何処で見たんですか」

「五月二十八日の土曜日に、柏原の駅です」

「え、じゃあ伊村さん貴方もあの日、霊仙山に登っていたんですか」

「はい。空木さんは友達と二人連れでした。私は空木さんのずっと後ろを歩いていましたが、一緒に登ったとも言えますね。運命なんですね」

 空木は、あの日の柏原駅を思い出していた。確か自分を含めて、三、四人のハイカーが同じ電車を降りたように思う。その中の一人が伊村だったとは思いもよらなかった。それは伊村が言うように運命だろう。そして今日という日が来たのは宿命だと思った。

 空木は腕時計を見た。午前八時の少し前を示していた。「そろそろ来るな」と空木は独り言を言った。

 「伊村さん、国友に会ってすっきりしましょう。私の目の前で、貴方の言いたい事を国友にぶつけて下さい」

 空木は言って、伊村の目を見た。伊村の目が厳しくなった。

 登って来る人影が見えた。三人は伊村を隠すように笹ノ平の小広場に立った。大林が「国友だ」と言った。国友の顔を知っているのは伊村と大林だけだ。

 国友がザックを担ぎ、額から汗を流して笹ノ平の小広場に着いた。「おはようございます」

大林が声を掛けた。山では見知らぬ人間でも出会ったら必ず挨拶する。それが極普通である。

「おはようござい‥‥‥」とまで言って、大林の顔を見た国友は、大林を記憶していたようで目を見開いた。

「貴方は刑事さん‥‥‥」と絶句した。

 三人の後ろから伊村が前に出た。

 「私が誰か分かりますか、支店長」

「伊、伊村か。何故お前がここに居るんだ」

 国友は、瞬間ここが何処なのか分からなくなったかのように周囲を見回した。

 「あなたを殺すために、この山であなたを殺すために待っていました。でもこの人のお陰で命拾いしましたね」伊村は、空木の方に顔を向けながら静かな口調で言った。

「私を殺すため‥‥‥」

「そうです、殺すためです。でも、もう止めました。あなたのような人は殺すに値しないと、この人に教えて貰いました。あなたは、自分の保身しか考えない人だ。あなたには正義感も、道徳心もない。臭い物には蓋をし、甘言(かんげん)を言う者を重用し、諌言(かんげん)を述べる者を排除していく。私の異動もそういうことでしたね。しかもあなたは、妻の和美を探す私に、会社に迷惑が掛かると言い、そして私が会社を辞めることを決心したら、周囲の人たちに「すっきりした」と言った。あなたは人の上に立つべき人間ではない。人の苦しみを小指の先程も解ろうとしない、部下にとって最低、最悪の上司、人間です。江島課長も悩んでいましたね。そしてスキャンダルの種を蒔いたのは自分であることをあなたに相談した。あなたは江島課長に何と言いました。「生涯口を閉ざせ」と言われたようですね。あなたという人は、人を創るどころか、次々と壊していったのです。私は、浅見豊を殺してしまいました。罰を受けます。あなたにも罰を受けていただきます。社会的な罰を受けていただきます」

 伊村の目は、国友を一層厳しい目で見つめていた。(りん)とした態度は犯罪者のそれとは思えなかった。

 「空木さん、刑事さん、ありがとうございました」

 伊村は両手を小さく前に出した。

 「下山してからにしましょう。下りで転んで怪我をしてもつまらないですから」

 大林は、石山田に手錠を返した。

 四人は空木を先頭に、石山田、伊村、最後尾に大林という順で下山にかかった。

 「国友さん、ここから上は危険な箇所が多いそうです。十分気を付けて登ってください」

 大林は呆然と立ち尽くす国友に、皮肉たっぷりに注意の言葉をかけた。

 

 「健ちゃん、国友はこんなことがあっても登るつもりなのかな」

歩き始めた石山田は、振り返って国友を見ながら言った。

「多分登るだろうね。せっかくここまで来たんだから登ろうと思っているでしょう。そういう人間だと思う。自分には関係ない話だとね」

「少し痛い目に遭ったらいいんだ。あんな奴」石山田が吐き捨てるように言った。

「そんなこと言っちゃだめだよ。あいつにだって家族もいるんだから。まして厳ちゃんは刑事だよ、刑事の言うことじゃないよ」と空木が振り返った。

「まあそうだな。ところで健ちゃん。伊村は電話で、東北に居るって言ってたのに、何故ここに来るって決めたんだ。ただの勘か、それとも思いだけだったのかい?」

 石山田は前を歩く空木の背中に向けて訊いた。

 「セミだよ、セミ」

「セミってどういうこと?」

「仙台より北には熊ゼミはいないんだよ。伊村から掛かってきた電話の周りでセミの音がした。シャンシャン、ジージー入り混じってね。熊ゼミはシャンシャン鳴く。電話を終えてしばらく経ってからそれに気が付いたんだ。仙台より北にいるというのは嘘だとね。嘘だとしたら、後は行く場所は此処しかないという、確信に近いものになった。今日の朝、熊ゼミの鳴き音で確信がより大きくなったよ。伊村は恐らく、竹宇(ちくう)駒ケ岳神社の手前の、キャンプ場の駐車場辺りから電話した筈だよ」

「熊ゼミの鳴き音か。すごい観察力だな、驚いた。一句出来た。罪びとの罪を防いだセミの声」

 二人の話が聞こえたのか、聞こえなかったのか分からないが、伊村が後ろを歩く大林に、前を向いたまま訊いた。

 「刑事さん、私が湯の山温泉に泊まったことをどうして判ったのですか」

「空木さんだよ」

「空木さんが知っていたのですか」

「いや違う。貴方が浅見に履かせた登山靴の底に、花崗岩の石粒が挟まっていたんだよ。空木さんがそれを見つけて指摘してくれた。花崗岩の山は御在所岳辺りだと。それで我々は他県から来るとしたら、湯の山温泉に泊まる可能性があると睨んだ。それが調べるきっかけだった」

「私が此処に来ると考えたのも空木さんですか」

「そうだ。我々は空木さんに随分助けられた。貴方も人間として、空木さんに助けられたようなもんだ」

 伊村は立ち止まり、空木の背中を見ながら大きな息を一つ吐いた。


 横手駒ケ岳神社の駐車場に下山したのは、午前十一時を過ぎた頃だった。

 大林は、石山田から渡された手錠を、改めて伊村にはめた。

 北巨摩(こま)署へ向かう車中で伊村が「空木さんと話して良いか」と大林に聞いた。大林は了解した。

 「空木さん、私が此処に来ることがどうして分かったのですか」

「江島の山日誌の存在です。あの日誌で国友が、何処に登るつもりかを予想しました。貴方も国友が何処に登るか予想した筈です。私には江島の山日誌しか情報はありませんでしたが、貴方にはもっとたくさんの情報があった筈ですから、国友が黒戸尾根ルートで甲斐駒ケ岳に登ることを予想するのはそんなに難しくはなかったと思いますが」

 空木は助手席から首を回し、後部座席に居る伊村に話した。

「私は、今年の初めから国友支店長の、いや正確には江島課長と国友支店長の登る山を聞いていました。決定的だったのは、江島課長の葬儀の折に『慰霊登山』という言葉を支店長が言っているのを耳にしたことでした」

「江島が月山に登るというのは何処で知ったんですか」今度は空木が聞いた。

「あれは東亜製薬の仙台支店に電話をした時に聞きました。最初は支店長と二人の予定と聞きましたが、江島さん一人になった。江島さんは私と月山で出会ったことに随分驚いたようでした。話をしながら、後ずさっていき転落してしまいました。まさか死ぬとは思いませんでした。運が悪かった。私に何かされると思ったのでしょうね」

 北巨摩(こま)署に到着した。北巨摩署はクリーム色の二階建てだった。大林は伊村とその中に入って行った。

 しばらくして出てきた大林は、ここでの聴取を終えたら、北巨摩署の車で湖東署まで伊村を移送すると言って、空木と石山田に挨拶をした。

 「石山田さん、空木さん、大変お世話になりました。本当にありがとうございました。空木さん、空木さんには本当に頭が下がります。一人前の探偵になられましたね」

 大林は二人に頭を下げた後、空木の顔をニコニコしながら見上げた。空木は頭を掻いた。

 石山田と空木は、大林と握手をして別れを告げ、東京へ車を走らせた。

 ハンドルを握りながら、石山田は空木に言った。

 「健ちゃん、山をやる人間には悪い奴はいないって言うけど、どう思う」

「伊村も、国友も、江島もそれに俺も、山好きと言う意味では同類だからね。何とも複雑だね。人間は間違いを必ず犯す。間違いをした後でどうするかで人間の価値が決まるとしたら、伊村も国友もこれからが本当の厳しい勝負が待っているってことだと思うけど、国友は変わらないんじゃないかと思う。そういう意味では国友は山の仲間とは言いたくないな」

「うーん、山好きにも悪い奴はいるかも知れないってことか」石山田は納得したような言い方をした。



『真相』


 滋賀県警湖東警察署に移された伊村は、浅見豊殺害の全てを供述した。

 五月下旬から六月の初旬にかけて、浅見の女性関係を調べることを目的に、登山をする時以外は、浅見の周辺を嗅ぎ回っていた。当然自分の顔は浅見に知られているので、空木に尾行を依頼するための下準備だった。この時は、殺して恨みを晴らそうとは思っていなかった。女性関係の証拠を掴んで、それを東京の留守宅に送ることで浅見の家庭を破壊しようと考えていた。

 六月の第一週だったと思うが、浅見のマンションを見張っていた時、浅見は深夜にタクシーで帰宅し、女を部屋に連れ込んだ。それを見た時、義妹の好美があまりにも可哀想に思え、浅見の女性癖は許すわけにはいかない、殺そうと決意した。

 浅見は、週のうち木曜日はほとんど飲んで帰ること。帰宅した時は必ずマンションの自分の駐車場に、別の車が無断駐車していないか確認する習慣があることが分った。そこに車を止めておけば、必ずあの暗い駐車場の奥深いところまで浅見は来る。そこで殺せると確信した。

 六月九日木曜日の夜を殺害日と決め、行方不明の妻の名前で、空木さんに尾行の依頼の文書を現金と一緒に郵送した。空木さんは承諾してくれたが、尾行相手の正体を教えて欲しいとメールしてきた。自分はこれには答えなかった。これで、空木さんは来なくなるかも知れないと思った。

 空木さんをこの事件に巻き込んだのは、自分の独りよがりであり申し訳ないと思っている。空木さんのことは、私と同じ業界にいたこともあり、以前から知っていた。尊敬できる人だと思っていた。たまたま空木さんが会社を辞め探偵事務所を開いた事を知り、この人に自分の思いを解かって欲しいという気持ちで巻き込んでしまった。

 六月九日当日、名古屋市内の登山用具店で、自分の服に良く似た服、ザック二つ、そしてザイルを購入した。その後、車で大垣のビジネスホテルに移動し、チェックインを済ませた。この時は偽名、偽の住所でチェックインしたが、どんな名前、住所でチェックインしたか覚えていない。

 そして名古屋に戻り、浅見のマンション付近に駐車し、暗くなるのを待った。夜になり、浅見のマンションの駐車場に車を移動させ、浅見が帰宅するのを待った。浅見は予想通り飲んで帰宅した。女が一緒だったら別の手順を考えなければいけなかったが、その必要はなかった。

 浅見は、夜十時過ぎにタクシーで一人で帰宅した。そして予想通り、駐車場の自分の駐車スペースを確認するため近付いて来た。

 浅見は「俺の駐車場に無断で停める不届き者め」と(わめ)くように言いながら、運転席を覗いた。自分は助手席側から回り込み、浅見の背後からザイルを首に巻き力一杯、思いっ切り首を絞めた。

 「好美の恨みだ」と言ったが、浅見は「グワー」と低い声を出しただけで、十秒程でぐったりした。自分も首を絞めたまま、車の横に座り込んでいた。

 浅見の死体を黒のRV車に乗せたが、予想以上に浅見は重かった。

 駐車場を出たのは十時半近かったように思う。霊仙山の麓の、(くれ)が畑の廃村に向かった。この廃村、廃屋の存在は、以前名古屋に居た時から知っていた。醒ヶ井(さめがい)の養鱒場から林道に入り、登山道入口についたのは夜中の十二時過ぎだったと思う。

 車の中で、浅見の服、靴を着替えさせ、廃屋までヘッドランプを点け運んだが、浅見の体は異常な程重かった。廃屋の梁にぶら下げるつもりだったが、重さで梁が折れるかも知れないと思い、柱の袂に座らせ、首に巻いたザイルを梁に通すだけにした。浅見が着ていた服などは何日か後に、東京でゴミとして捨てた。

 浅見の死体を置いた後、車を登山口付近の林道脇に駐車し、林道を、ヘッドランプを頼りに醒ヶ井の駅を目指して歩いた。醒ヶ井の駅前に着いたのは午前二時前だったと思う。タクシーを呼んで、大垣のビジネスホテルまで戻り、仮眠を取った。翌朝、大垣駅からJRで柏原の駅に向かった。

 空木さんが駐輪場の横に陰にいるのを確認した時は、浅見を殺害した時の昂ぶりよりさらに興奮した。空木さんを巻き込むことが出来た嬉しさが込み上げてきたのだと思う。今思うと異常だった。

 浅見豊の振りをして、霊仙山に登り、そして槫が畑の廃村に下山した。空木さんは、決して近づかず、依頼通りに尾行してくれた。廃屋に入り、そのまま裏手から抜けて林道に出た。林道脇に停めてあった車で逃げ、そのまま東京に向かった。次にしなければならないことがあると心に決めていた。出頭することも、捕まる訳にもいかなかった。

 乗っていた車は、東京で売り、新たに中古車の白いスポーツワゴンを購入し、移動、宿泊に使っていた。

 東京の荻窪の部屋には、警察が宿泊の確認に来てからは戻らず、衣類を含めた生活道具を車に詰め込み生活していた。何故、荻窪のマンションが分ったのか不思議だった。この時からいつか捕まると覚悟した。その間、行方不明の妻、そして妻の家族の情報がないか探し回った。ボランティアもした。登山もしていた。

 山梨に入ったのは、七月二十七日水曜日だった。山梨の塩山(えんざん)の奥にある温泉に泊まり、翌日に竹宇(ちくう)駒ケ岳神社近くの、尾白川渓谷キャンプ場の駐車場に車を停め、テントを担いで笹ノ平まで登りテント泊をした。

 翌日、早朝にテントをたたみ、国友が登って来るのを待った。国友が登ってきたら、後ろを歩き刃渡りの岩場で呼び止め、(ののし)りの言葉を浴びせ、そして突き落とそうと考えていた。自分はさらに上まで登り頂上が見える八合目辺りで滑落して死のうと思っていた。

 まさか空木さんが登ってくるとは思わなかった。空木さんの顔を見て、国友への殺意は萎えていった。


 江島照夫の転落事故の経緯についても伊村は供述した。

 七月八日金曜日に休暇を取って月山に登ることは、東亜製薬の内勤社員から聞いた。当日早朝、月山スキー場の駐車場で江島を待っていた。月山は八合目の中宮からのルートもあるが、山好きで今年、甲斐駒ケ岳に登るつもりでいる江島は、間違いなく姥沢(うばさわ)小屋のルートで登ると踏んでいた。やはり江島は月山スキー場の駐車場に現れた。八時前だった。支度を整え姥沢小屋の裏手から登り始めた。自分は五分ほど遅れて後ろを歩いた。江島が休んだ時に、話をしようと考えていた。江島が紹介した仲内好美が、浅見の子を生み、そして浅見に裏切られたことをどう思っているのか聞くつもりだった。

 ところが、三つ目位の雪渓で江島に追いついてしまった。話をすることになったが、江島は何かに怯えるように後ずさりした。危ないと声を掛ける間もなく江島は後ろ向きに転落した。這い上がってくるだろうと思って見ていたが、江島は十メートル程下の、沢の手前のところで動かなかった。救助要請すべきであることは分っていたが、出来なかった。死んでも構わないという悪魔の気持ちが、その時の自分にはあったのだと思う。と供述した。



『虹の彼方に』


 月が替わった八月一日月曜日の午後、空木は愛車のミニバイクで浅見芳江のマンションに向かっていた。

 今日はこの夏一番の暑さとなり、セミも木から落ちるのではないかと思わせる程の暑さだった。

 芳江はクリーム色の膝下丈のパンツに淡いピンクのポロシャツ姿で空木を出迎えた。空木には、芳江の様子が以前より生き生きしているように見えた。

 空木の顔を見た芳江の顔がほころび、「お久し振りです。お元気ですか」と言って、部屋に招いた。空木がここを訪ねるのは六月二十五日以来であった。

 応接ソファーに座った空木は、改めて依頼された仕事の報告に来たことを芳江に告げた。

「奥さんもお元気そうで何よりです。依頼された調査の報告に一ヶ月以上もかかってしまい、申し訳ありませんでした。もう警察からお聞きになったと思いますが、ご主人を殺害した犯人は、伊村政人という男で、今年の三月までご主人と同じ東亜製薬に勤めていた男でした」

 と言った後、空木は淡々と浅見豊の仙台での出来事を報告した。

 およそ二年前、部下であった江島という男の紹介で知り合った仲内好美という女性との間で子供が出来た。妊娠を浅見豊が知ったのは、昨年の一月か二月と思われる。本人が異動を希望したのはこの後だった。その異動希望が叶い、名古屋へ転勤したのだと思われる。

その仲内好美との間に出来た子が生まれたのは、昨年の十月で名前は育実という女の子だった。好美は、姉夫婦から養女にという申し出を受けたが、浅見豊が結婚してくれるという言葉を信じ、頑なに拒否した。

 浅見豊は好美の義兄から結婚しないのであれば、せめて認知するよう求められたが、お金を出しただけだった。それがあの五十万円だった。

 そしてあの三月十一日という日を迎えてしまった。仲内好美母子は、両親、姉とともに大震災による大津波に巻き込まれてしまい、行方不明となり未だに発見されていない。

 最後に、浅見豊を殺害した伊村政人という男は、実は仲内好美の義兄だった。と伝えた。

 これらの事を淡々と報告した。空木が話し終えた時、空はにわかに真っ黒になっていた。静かに聞いていた芳江は深々と頭を下げた。

 「空木さん、嫌なお仕事をお願いして申し訳ありませんでした。主人がしたことは、人として許されることではありません。主人があんな目に遭ったのは、好美さん母子の怨念なのではないでしょうか。もしも機会があれば、好美さん母子の墓前に、主人に代わってお詫びしたいと思います」

 芳江が話し終わるのに合わせるように、激しい雨音がし始めた。スコールのような夕立が降り始めた。

 「奥さんも、好美さん母子、そして家族が早く見つかるように祈ってあげてください」

 空木は、雨が止むまで居たらどうかという芳江の好意を辞して、浅見家を出た。

 愛車に跨った空木は、好きな場所である立川の国営公園に走った。六車線の大通りの上に架かった公園入り口の橋の上に空木が立った時には、もう雨は上がり、雲が切れ、また夏の陽射しが猛烈に地面を照らし始めていた。遠くに、丹沢の山々と奥多摩、奥秩父の山々がスカイラインを見せていた。そして見事な、大きな虹がかかった。

 空木は何故か、伊村の育った秩父両神の村に行って見たいと思った。


 その夜、空木と石山田は「さかり屋」の入り口をくぐった。「いらっしゃい」のいつもの声がした。その後にもう一つ「いらっしゃいませ」と透き通るような声がした。

 空木は「えっ、何で」と声を出した。空木は霊仙山の廃屋で死体を見た時よりも驚いた。それは山形の鳥鍋屋『おまつ』で会った、坂井良子だった。

 「空木さんでしたね。坂井良子です。今日からここで、叔父さんのところで働くことになりました。宜しくお願いします」

 良子は笑顔を見せながら、丁寧に頭を下げた。

 「健ちゃん、こんな偶然めったにないよ。山の神がくれた奇跡だ。大事にしろよ」石山田は言って、空木の背中を叩いた。

 空木はその夜、人生で何度もないであろう心地良い酔いを経験した。空木はその心地良い酔いの中で思った。人生には恨みも感謝も、哀しみも喜びもある。人間だからそれは仕方のない事だろう。思いの全て背負って精一杯生きて行くことが出来る人間でありたいと。

                              

                                           了                         


 長編山岳推理小説としての第一作。

 安定した職業の製薬会社のMRを中途退職して、探偵業を始めた空木健介は、初めての探偵らしい仕事に飛びついた。これは、人間誰しもに起こり得ることで、フリーランスとしては仕事の依頼は当然ながら嬉しい。まして、探偵として初めての、探偵らしい仕事とあれば空木でなくても二つ返事で請け負うだろう。その初仕事で、事件に巻き込まれるとは思いもしなかった。

 最初に登場する山は滋賀県と岐阜県の県境に位置する霊仙山は、名前の通り宗教的な雰囲気が残る山で、眺望も北に伊吹山、西に広大な琵琶湖を望むハイカーには人気の山で、著者も空木健介同様に、何度もこの山に登っている。舞台となっている榑ヶ畑の廃村は今は跡形もないが、当時はまだ家屋の姿を保持しており、柱や梁もしっかり残っていた。そこから事件は始まる。

 次に登場する山形県の月山は、夏スキーのメッカとも言うべき山である。月山は日本百名山にも数えられる山でもあるが、霊山の出羽三山の一つでもあり信仰の象徴の名山でもある。この山でも東亜製薬の社員が亡くなるという設定こそが、霊山の裁きに繋がっている。この月山にも著者は二度、空木たちが登ったコース、本編にもある姥沢から登り、雪渓のトラバースも頂上の神社にも登った経験をしている。

 さらに、空木健介は北海道に渡り、これも百名山に上げられている、トムラウシ山に後輩と共に登る。この山は、2009年7月に9人のツアー登山者が遭難死した山で、北海道の山の奥深さと厳しさの象徴とも言える山だと思われる。空木は、この山を一緒に登った後輩からの人脈で、東亜製薬の仙台支店で起こっていたスキャンダルに行き着く。これを「カムイからの贈り物」アイヌ語で神を表すカムイと表現しているが、著者にとっては、北海道で登った山々の中でも、最も印象に残る山であり、カムイと表現したかった。

 本作のクライマックスとも言える最後に、伊村政人と空木が語り合う場面に設定された、甲斐駒ヶ岳の山梨県側からの登山コースの黒戸尾根と言われる急坂長大な上りは、日本三大急登に数えられる程の急坂だ。著者はここを登ったことはないが、甲斐駒ヶ岳からの下りで歩いている。伊村がここで最後の仕上げの殺人を考えたのも、このコースにはいくつも危険な緊張する箇所があるからだが、単独でここを下った著者も随分緊張を強いられた記憶があるからこそ、ここを最後の場面に使いたかった。山岳推理小説として仕上げる為には、日本百名山の甲斐駒ヶ岳と三大急登が必要だった。

 本作中では、空木健介が何故、安定した製薬会社を辞めたのかは、抽象的にしか表現されていない。何故辞めたのか、何故探偵業を選択したのか。第二作、第三作と空木健介シリーズが続く中で、それは明かされて行くのかも知れないが、MRという職を経験している著者にとってもMRに嫌気がさして退職した、というようには描くつもりはないようだ。著者としては、本作でも描いている空木の人間としての優しさや、正面から人生に向き合う姿から、読んでいただいた方々に想像して欲しいと思っている。

 不幸な境遇に遭っても(本作では東日本大震災)一生懸命生きようとしている、生きている人たちが、これからも前を向いて歩いていって欲しいと願う空木は「能く生きる」という言葉が好きだ、と言う。著者は空木のその言葉を使うことで、「人の命を断つ」行為と対比させ、人間の悪と善を対比しようとしている。今後の作品にもこの思いが使われると思う。是非、第二作、第三作を読んで欲しい。


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[良い点] 製薬会社における人の価値観感と一人の人としての在り方を考えさせられる。
[良い点] 面白かったです。 [気になる点] 作者名は空白にしませんか? リンクが載るので
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