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霊山の裁き  作者: 聖岳郎
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霊山の裁き(上)

 脱サラ探偵の空木健介が、思わぬ事件に巻き込まれ、その事件を解決していく推理小説。

 二十年間MRとして勤務した製薬会社を辞め、探偵事務所を開設した主人公の空木健介は、登山を趣味としている。その趣味の山に絡む事件を題材にしたシリーズ推理小説の第一作。主人公の人生のモットーは「能く生きる」、人生を精一杯生きるという意味で「能く生きる」という言葉をモットーにしている。小説の中にこの思いが込められているが、これは著者の想いそのもので、MR経験と登山経験を持つ著者が主人公を通じて人間の善悪を描こうとしている。

 この第一作の「霊山の裁き」は、MRとして各地を経験し、いくつもの山を登った主人公が、探偵として初めて経験する事件。滋賀県と岐阜県の県境に位置する、霊仙山での事件から始まり、山形県の月山、北海道のトムラウシ山、最後は山梨県の甲斐駒ヶ岳まで、いくつもの山々で物語が展開していく。

 尾行という初仕事に喜んだ空木だったが、霊仙山の麓の廃屋で発見した死体から、事件に巻き込まれ、尾行の依頼人は消息を絶つ。死体は誰なのか、依頼人は誰なのか、空木は周囲の人間の協力を受けながら探偵としての経験を重ね、独自の推理を立て、依頼人にそして事件の核心、犯人に迫っていく。

『一通の手紙』     


 一人の中年のハイカーが、初夏の明るい陽の中を、東京奥多摩の御嶽(みたけ)神社からの杉の大木で鬱蒼した参道を下っている。この昔からの御嶽神社への急坂の参道は、今は舗装されて御嶽の宿坊への運搬道となっている。ケーブルカーを使わずに下るハイカーは滅多にいないが、この中年ハイカーがこの参道を下るのは何度目だろう。およそ九百本の杉の大木の中を歩くのが好きなのか、ケーブルカーに乗る金が惜しいのか定かではないが、歩くのが苦ではないことは確かなようだ。

 この男の名前は、空木健介、空木と書いてウツギと読む。中央アルプスにある名峰の名前と一緒だ。彼はこの姓を大いに気に入っている。この姓であるがゆえに、自分は山を趣味とすることになったのだと思っている。年齢は四十二歳、厄年を終えて後厄を残すのみとなった年である。今年の三月、勤めていた会社を辞め、探偵業という仕事を始めた。「スカイツリー(よろず)相談探偵事務所」と、自分の姓「空」スカイ、「木」ツリーから命名した。事務所名は時を(てら)っているが、事務所は自分の住むマンションの一室で、電話もファックスも無い。事務員も当然いない。管理人の許しをもらって郵便受けに「スカイツリー(よろず)相談探偵事務所」の張り紙を出しているだけ、それを見たマンションの住人は首を傾げている。

 その日、いつもは広告チラシしか入っていないその郵便受けに、珍しく郵便封筒が混じっていた。差出人の名前は「仲内和美」住所の記載は無かった。空木は封筒をチラシと一緒に握り四階の部屋に向かう。大岳山から御嶽山、御嶽駅まで歩いた足は心地良い疲れはあるが、エレベーターは使わずに階段を登る。よほど歩くのが好きらしい。

 部屋に戻ると、汗の染みた登山服を脱ぎ、シャワーを浴び、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取出し一気に渇いた喉に流し込む。喉が鳴り思わず声が出る。山の頂上に登りきった満足感、景色に会えた喜びもさることながら、山を終えた後のこの一杯は格別だと空木はいつも思う。

 ビールを飲みながら、白い封筒を開けた。封筒の中には、ワープロで書かれた、一枚のB5用紙と「スカイツリー(よろず)相談探偵事務所」のホームページが印刷されたA4のコピー用紙が入っていた。ワープロで書かれた文章は、ある男性を尾行してもらいたいが、引き受けてもらえるか、という内容の依頼文で、そこには携帯電話のメールアドレスだけが書かれていた。返事をメールでよこせという意味だろうと空木は思った。

 この事務所を開いて以来、仕事の依頼は、ペットの猫探し一件、病院への付き添い一件の都合二件だけ、暇を絵に書いたような状況であった。だからこそ平日にも関わらず、山登りに行けるのだったが、内心焦っていた。空木は依頼の手紙を見て、事務所のホームページを苦心して開設した甲斐があったと思った。

 封筒の消印は、都内千代田区で昨日の五月二十四日だった。

 早速、空木は自身の携帯から、依頼者と思われる携帯のメールアドレスに、引き受ける旨の返事をメールし、おおよその料金も付け加えた。通常の探偵が尾行料として請求する料金よりかなり安い金額を書いた。少々安くてもこの仕事を請けたかった思いがそうさせた。

 空木にとって今日は良い日となった。ビールをもう一缶飲み、芋焼酎をロックで四、五杯飲んだ。この男は、山も好きだがアルコールも大好きだ。

 依頼主の仲内和美から返信メールが来たのは、翌日の昼近くであった。受けてくれた御礼と、後日改めて依頼の詳細は送る、という簡単な内容だった。調査内容の詳細が分からない不安感はあったが、探偵業を開設してから初めての、探偵らしい仕事の依頼を受けたという喜びの方が勝っていた。

 ほろ酔いの空木が、今度はどの山に登ろうか考えていた時、携帯にメールが入った。発信者名は土手と出ていた。それは空木が勤めていた会社である万永製薬の後輩で、山仲間でもある土手登志男だった。

 土手とは空木が名古屋支店の勤務時代に山仲間となり、年に二、三度は山行していた仲だった。北アルプスの槍ヶ岳、穂高、表銀座縦走、南アルプスの甲斐駒ヶ岳、仙丈が岳、そして八ヶ岳の赤岳。最も思い出深いのは残雪の五月の奥秩父金峰山(きんぷさん)から雲取山までの四泊五日の縦走だった。

 その土手からのメールの内容は、久し振りに一緒に山行しましょう、という誘いだった。今度の土曜日に霊仙山(りょうぜんざん)に行きませんか、ということで、空木は断る理由も無いというか、渡りに船である。早速、オーケーの返信を出し、五月二十八日土曜日に現地の登山口で合流することとした。


 関西地方は梅雨入りが報じられていたが、関が原の空はうす曇。午前八時三十分過ぎ、東海道線柏原駅で下車したのは空木を含めハイカー姿の男三人。土手は一本前の電車で到着、すでに駅の待合室で待っていた。土手とは仕事で一年前ぐらいにあっているが、山行するのは瑞牆山(みずがきやま)以来五年ぶりだった。

 二人は舗装された道路をしばらく歩き、砂利道の林道に入る。杉と檜の鬱蒼とした道で、新緑の季節ではあるが、この林道は新緑の木々はまばらで大部分は杉と檜の針葉樹だった。

 霊仙山の名は、日本唯一の三蔵法師と言われる高僧の名前が由来で、高さは1094メートル、鈴鹿山脈の最北部に位置し、山体は石灰岩で頂上部はカルスト地形の特徴であるカレンフェルトを形成している。春から夏にかけては福寿草から始まり、トリカブト、リュウノギクなどが咲き、花の百名山に上げられている。ただ夏はヒルが多く発生することでも有名で、空木も一度だけヒルの被害に遭っている。

 二人は新緑の薄緑色に染まる一合目で休憩し、非難小屋のある四合目からは伊吹山を眺める。過去、春夏秋冬何度もこの山に登っているが、この景色は何年ぶりかと空木は思った。

 北霊仙山の手前の、立て直されて新しくなった非難小屋で、登り始めてから三時間が経った。昼食のラーメンを食べ頂上へ向かう。近江盆地、琵琶湖の景色が一望出来る頂上には、今ブームの、カラフルな出で立ちの山ガールもいて、喜びの声を上げている。空木も土手も久し振りの霊仙山に満足した。下山路は北霊仙山に戻り、お虎ヶ池から槫が畑(くれがはた)の廃村を抜けて、林道を五キロほど歩き醒ヶ井(さめがい)の養鱒場へ下った。

 バスで醒ヶ井の駅まで出た二人は名古屋まで戻り、久し振りの山行を酒の肴に、杯を交わした。土手は、空木が何故会社を辞めたのかという話を聞きたかったのだろうが、空木が言葉を濁した事で遠慮したようだった。

 

 名古屋から東京に戻った翌日からは、梅雨空が続いた。

 六月に入った小雨まじりのある日、郵便受けに数枚の広告チラシと一緒に、やや大きめの封筒が速達で入れられていた。差出人は「仲内和美」とあり、消印は前回同様千代田区であったが、ただ違うのは前回の封筒の厚みよりかなりふっくらしていた。

 空木は中身を見て、驚いた。何と新券の一万円札が五十枚入っているではないか。それと一緒に、いやこちらが本来待っていたものであったが、男の写真とワープロで作成された依頼の詳細が入っていた。

 依頼の内容は、写真の男が来週の六月十日金曜日、朝八時半ごろから、鈴鹿の霊仙山に登るので尾行してほしい。東海道線の滋賀県と岐阜県の境近くの柏原という駅から女性と一緒に登るはずだから、何枚か証拠の写真がほしい。絶対に気づかれないようお願いする。という内容で、撮った写真の送り先はまたメールで知らせる。同封のお金は手付金で、写真が送られてきたら交通費実費とともに残りを支払う、という文章が添えられていた。五十万という金は空木が提示した額の数倍であり、この五十万に加えてさらに払うという。空木はきな臭さを感じたものの、やはり仕事を請け負った喜びが勝っていた。

 写真の男は二十メートルほど離れた場所から撮影されたらしく、紺色のスーツ姿で顔は鮮明ではないが、眉は薄く、唇は比較的厚い。銀縁の眼鏡をかけて目は細い。年齢は五十歳で伸長は一七三センチ位とある。空木より五センチほど高い。これ以上の情報は書かれておらず、男性の名前も住所も、仲内和美との関係も何も分からなかった。空木は仲内和美の携帯メールに承諾したことと、この男性の名前、住所、関係を教えて欲しい旨、書き添えたが、返信は無かった。

 その日の夜、空木は、友人のある男とJR中央線国立駅のすぐ近くの居酒屋で焼酎を酌み交わしていた。

 国立市は東京都国分寺市と立川市の中間にある。国立の名前は「国」と「立」から命名したと言われている。安易なつけ方の街だ。国立駅の南側が国立市、北側が国分寺市で、その居酒屋は南側の国立市にある。

 その友人は、空木の高校時代の同級生で石山田巌(いしやまだいわお)といい、国分寺警察刑事課1係刑事、階級は警部補である。出世は決して早くはない。空木は石山田とも山行経験があり、何年か前の夏の奥穂高岳にテント泊をしたが、石山田の(いびき)はテント場中に響き渡り、空木はほとんど眠れなかった。それ以来、石山田とは泊まりの山は行っていない。

その石山田が勤務する国分寺警察署管内もここしばらくは、平和なようで、非番の石山田からの呼び出しに空木が応じた。

 二人は「健ちゃん」「(がん)ちゃん」と呼び合う仲で、空木は、石山田に初めて探偵らしい仕事が入ったことと、依頼内容、そして現金五十万円が同封されていたことを話した。石山田は胡散(うさん)臭いし、偶然かも知れないが、先週登った山にまた登るというのも不思議な話だ。いずれにしてもうますぎる話だから「健ちゃん用心した方がいいよ」と赤ら顔で忠告した。空木は承知顔で「そうだな」と答えたが、不安感は無く、アルコールが入った今は、好奇心が勝っていた。

 二人で四合瓶の芋焼酎を一本空けたところで、石山田が「健ちゃんご馳走さん、気をつけなよ」と言って席を立った。飲み代を払う意志はないようだ。お金が入ったんだから当然という顔付きだ。時刻は夜の十時を回っていた。

 部屋に帰った空木は、石山田が言った、先週登った山と同じ山、というのが気になった。そんな偶然があるのだと。送られて来た写真の男性はどこに住んでいるのか、「霊仙山」に登るということは、恐らく名古屋から大阪の間に住んでいるのだろう。いずれにしても下山後、尾行を続ければ分かるだろうと考えた。

 来週の木曜から二日間の宿を、以前宿泊した名古屋駅近くに取り、時刻表で柏原駅に八時半までに到着する電車を調べ、名古屋発六時四十五分、柏原着七時四十九分を確認した。天気予報は前線が南下するようで、来週の現地の天気は木曜から金曜は、雨は無さそうだった。雨が降っても写真の男は女性を連れて登るのだろうかと思ったが、自分はとにかく依頼を果たすだけだと思い、余分な事は考えることは止めにした。

 翌日からは連日の梅雨空だった。空木は、近くの体育センターに行き、連日汗を流し、山行に備えながら石山田からのお誘いへの準備をしたが、毎日一人酒ならぬ一人焼酎であった。



『廃屋の影』


 木曜日は予報通り、雲は多いが青空も時々のぞく天気であった。空木はザックを担ぎ、山靴を履き、午後三時半ごろ部屋を出た。中央線国立駅から東京駅を経由し、新幹線で名古屋に向かう。名古屋に着いたのは夕刻六時少し前、空は青空でまだ明るく、少し蒸して暑かった。駅で明日の時刻を確認し、今日と明日の宿「ミユキ駅前ホテル」にチェックインを済ませる。岐阜に住んでいる土手に電話しようかと考えたが、金曜のこの時間から岐阜から出てくるのも辛いものがあるだろうし、自分も明日の仕事を控えていることを考え、止めた。酒好きの空木も、さすがに緊張していた。

 この男もアルコールを飲まない時がある。それは始めての山に登る時、厳しい山に登る時、緊張する山に登る時であった。明日の山は何度も登っていたが、今回は探偵らしい初の仕事であるという緊張感のせいで飲むのを止めた。

 空木はホテルの部屋で、仲内和美から送られてきたオフィスビルをバックにした男の写真を見ながら、被写体との距離感を考えた。この距離での写真しか無かったのか、仮にあったとしても他人が映っているか、自分の手元に残しておきたい写真ばかりだったのだろうか。だとすると仲内和美という、女性と思われる依頼主は、どんな気持ち、目的で今回の依頼をしてきたのか、単なる嫉妬心なのか、離婚のための証拠集めなのか、考えない訳にはいかなかった。

 六月十日金曜日、天気は曇りだ。通勤客に混じっての登山姿は違和感があった。空木はこの違和感が嫌いではなかった。以前、この名古屋のバスセンターから南アルプスの玄関でもある信州伊那駅に向かう時を思い出していた。登山靴を履いて大きなザックを担いで歩くと、通勤している人たちの目が「どこにいくんだろう」という羨望の眼差しに空木には感じたのであった。実際は、好き好んで重い荷物を担いで「何が楽しくて山なんかにいくのか」が正しかったかも知れないが。

 写真の男はどんな気持ちでいるのだろう。違和感よりも楽しさの方が勝っているのではないかと、空木は思った。

 六時四十五分の大垣行きは、通勤の混雑の逆方向であるのか、時間が早いせいか、空いていた。網棚にザックを置いて座る。大垣で米原行きの電車に乗り換える。車両の乗客は座席の半分程度が埋まっている。関が原はガスが出ていた。天下分け目の大戦(おおいくさ)は九月であったが、こんな感じだったのだろうと空木は思った。

 七時四十九分、柏原の駅で降りた乗客は空木一人であった。通学の高校生が何人か乗った。恐らく米原、彦根、長浜の高校へ通学する生徒なのだろうと思った。空木は改札を出て、さてどこで目的の男を待つか、駅の待合室から外を眺めた。待合室は五、六人ほどが座れる長いすだけで、ここではとても待つわけにはいかない。依頼人からは絶対に気づかれないようにと言われている以上、ここで待つのはいかにも具合が悪い。

 駅を出て右手にある駐輪場の陰で待つことにした。

 通勤の女性や通学の女子高生が、ザックの上に座っている空木に何をしているのか、という目を向けながら駅に向かっていく。

 八時十五分過ぎ、上り大垣行きの電車が到着する。降りた客は誰もいなかった。八時三十分過ぎ、下り電車が入ってきた。空木はじっと目を凝らし、駅の出入り口を見つめる。緊張で身震いした。

 男が一人ザックを担いでいる。半そでの白のTシャツにグレーのズボン。眼鏡をかけているが色つきの眼鏡だ。加えて帽子をかぶっているため写真との照合が難しい。しかし、降りてきたのはこの男ただ一人、しかも登山靴にザックを担いでいる。身長もほぼあっている。この男に間違いないと空木は確信した。

 男は駅の出口で辺りを見回しながら、ザックを降ろし、駅の左手にあるトイレへ向かった。トイレから出てきた男はすぐには出発しなかった。携帯電話を取り出して画面を見ているようだ。落ち合う女性とメールで確認でもしているのだろうか。男は携帯電話をポケットにしまうとザックを担いで歩き始めた。

 霊仙山の登山口までは三十分ほどだ。空木はどの位の距離をおいて歩くか考えていたが、カメラのズーム距離から約百メートルが限界と考えた。上に行けばもう少し距離を近づけても怪しまれないだろうと思うが、出発間もない時では姿を見られると、電車から降りた客は空木が尾行する男一人しか乗っていなかったのだから、当然どこから来たのだろうかと怪しまれる可能性が高い。登山道に入るまでは極力、距離を開けようと思った。

 往時は中山道と言われた国道を渡り、名神高速道路をくぐり、林道に入る。男の姿は見えないが、霊仙山に登ることはわかっているのだから慌てる必要はなかった。男の足がどの位健脚か分からないが、休憩はするだろう。一合目のコル、四合目のコンテナの避難小屋、北霊仙手前の小屋では顔を会わせない様、気を付けなければならないと空木は思った。幾度となく登った山道だけに、姿を確認する所として空木は何ヶ所か思い浮かべていた。

 登山道に入る直前の林道で二、三百メートル見通せた。前方を歩く男を確認できた。空木の歩行速度とさほど変わらないようだ。女性とはどこで落ち合うのか分からないが、落ち合うとしたら、七合目の梓河内からの合流地点か北霊仙山、もしくは頂上のいずれかだと、空木は考えていた。休憩場所をずらしながら、一合目のコル、四合目の避難小屋を通過する。汗が滴る。二週間前より山の緑が濃くなるとともに暑くなっていた。

 六合目の辺りが第二の確認ポイントである。やはり二百メートルほど先を男が歩いている。空木はカメラを最大ズームにして二、三枚写真を撮るが、顔は映らない。ザックはグレーに黄色のコンビの三十リッター位の小ぶりのザックだ。七合目へは急登を登り、少し下る。梅雨の時期で登山道はぬかるんでいる。

梓河内からの合流地点を覗くように目を凝らす。誰もいなかった。次の合流点は北霊仙山だ。ここからはある程度接近しても何とかなると考え、歩く速度を早める。汗が滴り落ちた。

 九合目の急坂を登ると避難小屋だ。男は健脚だ、休憩を取らずに歩いている。空木はザックを降ろし、北霊仙山山頂を見るが、人影はない。カメラをまた最大ズームにしてファインダーを覗くがやはり人影はない。前を歩く男一人だけだ。ここでも男を撮るが後ろ姿だ。ここから北霊仙山まではおよそ四百メートル、遮る物はなく人の存在は肉眼でも確認できた。男がザックを降ろすのが見えた。食事を取るのだろう。空木も緊張で空腹感はないが、ここで持参したコンビニのお握りを二個、三個と食べることにした。時間は十一時四十分だ。ここで落ち合わないとしたら、下山後しかない。どちらのコースを下山するのか。お虎が池から(くれ)が畑に下るのか、あるいは霊仙山頂上から笹峠、落合、今畑に下るのか。空木は距離をもう少し詰めることにした。

 空木が歩き始めて五分、男がザックを担いでいる。視界から消えた。空木は足を速めた。北霊仙山に着いた。男はお虎が池方面に歩いている。下山路は槫が畑だ。ぬかるむ道を下る。ここから槫が畑の廃村を抜けて、林道までは一時間程だ。空木は男が視界から消えない程度に距離をとって歩いた。男は汗拭き峠の分岐を槫が畑方面に下っていく。

 「カナヤ」という看板が置かれた小屋が見えてきた。男は真っ直ぐに林道に向かう。

 止まった。空木も五十メートルほど手前で立ち止まった。男は廃村の中の、朽ちてはいるが、比較的家の原型を止めている一軒の家の中に、入っていった。空木は小屋の角で男が出てくるのを待った。

 五分たち、十分が経った。男は出てこなかった。空木はおかしいと思い、近づいてみる。朽ちかけた家に、覗き込むようにしながら入っていく。暗くてよく見えなかったが、柱に寄りかかって座り込むような格好をした影を見た。暗さに目が慣れてきた。ザックを背負った人間が座っている。白い半そでシャツ、帽子を被り、眼鏡をかけている。その瞬間、空木は「あっ」と声がでた。天井の梁からロープが降り、そのロープが男の首に巻きついていた。空木は思わず後ずさりし、尻餅をついた。空木は、葬儀以外では死体を見たことはなかったが、咄嗟に死体だと感じた。

 「カナヤ」という小屋は、平日は無人で誰も居ない。携帯電話は圏外表示だ。空木はザックを置き、林道を走り、携帯電話のアンテナが立つ場所から警察に通報した。時間は午後一時三十分だった。

 およそ二十分後、サイレンの音が谷間に響いてきた。滋賀県警湖東警察署のパトカー二台が登山口の標識前で立っていた空木の前で止まった。数人の警官と鑑識課と書かれた上着を着た警官が降りてきた。

 「あなたが通報された方ですね」色黒で小太りの五十がらみの警官が言った。

「はい、空木と申します」

「湖東警察署刑事課の赤池です」赤池は警察証を見せた。

 空木は赤池たちを廃屋の男の所に案内した。

「あなたの知り合いの方ですか」赤池が聞いた。

「いえ‥‥‥」空木は答えながら、慌てた。何故、廃屋に入ったか聞かれたらどう答えるのか‥‥。

 林道から十分ほどで廃屋の現場へ着いた。赤池たちは、座っている男にゆっくり近づき、ライトを照らし、その死亡を確認した。頸部をほぼ水平に走る索痕。絞殺である。赤池は警官をパトカーに走らせ、本部に至急の連絡を入れさせた。

 「一見、自殺のようにみせかけていますが、首の周りの索痕を見れば、我々でも自殺ではないとわかります。まあ、検死解剖すれば死因、死亡推定時刻もわかるでしょうが」

赤池が空木に向けて話した。

「殺された?」空木は呟くように言った。

 混乱していた。この男と自分以外に誰かが居たのか。自分が見ていた限り、自分とこの男意外に誰もいなかったのは間違いない。この男はこの廃屋に約束でもあるかのように躊躇することなく入っていった。

 赤池は詳しく話を聞きたいので、一緒に警察まで来てもらうことになると思う、と空木に言った。

およそ二十分後、けたたましいサイレンの音とともに、何台かのパトカーと救急車が到着した。

 鑑識のフラッシュが眩しく光り、廃屋の内、外を丹念に調べる。靴の跡も入念に調べている。死体は救急車に乗せられ、病院に向かう。司法解剖され、改めて死因、死亡推定時刻が明らかになるだろう。

 赤池が半そでの白い開襟シャツを着た四十半ばと見える細身の男と話している。

開襟シャツの男が空木の前に立ち、挨拶する。

「湖東警察署刑事課の大林です」

「空木と申します」空木は軽く会釈した。

「通報されたのはあなたですか。亡くなっていた方とは知り合いではないということですね」

「はい、‥‥‥」どう説明するのか、一瞬目が宙を泳いだ。

「山登りに来られたんですか」

刑事の大林は空木の顔、目を見て聞いた。

「はい、柏原から登って、ここに降りてきて、廃屋が気になって覗いてみたら、ロープに繋がった人が座っていて、びっくりして警察に連絡しました」

 嘘はついていない。空木は廃屋に入った訳をどう言おうか考えていたが、全ては話さないまでも、嘘はつかないようにしようと、考えた上の返答だった。

「空木さんはどちらからこられたんですか」

空木の言葉に関西弁の臭いがないと思ったのか、大林は聞いた。

「東京から登りにきました」

「ほー、東京からわざわざこんなところに来られたんですか」

 刑事は、とても信じられない、という顔だ。

 「ところで、あの男性とは山でお話されましたか」

「いえ、ずっと私の先を歩いていましたので、話す機会はありませんでした」

これも嘘ではない。

「空木さん、そんなに時間は取らせませんので、署でもう少し話を聞かせていただけませんか」

刑事は当然来てくれるだろう、という表情で空木に言った。

「分かりました。今日は名古屋に泊まりますので、大丈夫です」

空木は躊躇せずに答えた。

「名古屋にお泊りですか。じゃあ署の人間に送らせますよ」

 空木は、それには答えなかった。パトカーでホテルに乗り付けるのは勘弁してほしいし、まさか電車がなくなるような時間までかかるのだろうかと、困惑したからだ。


 湖東警察署は米原駅の近くにあり、四階建ての灰色の建物だった。入口から入って、右手の階段を上がった左側に刑事課の部屋があった。室内は、他殺と思われる死体が発見された直後だけにあわただしかった。

 大林は課長らしき男と話をした後、一人の若い刑事を連れて出てきた。空木を、一つ部屋を隔てた小ぶりの会議室に案内した。取調室ではなく、会議室にしたのは空木への配慮だった。

 婦警がお茶を運んできた。

 「じゃあ、空木さん、あそこで死体を見つけるまでのことを、覚えている限り話して下さい」

 大林も、若い刑事も手帳を手にしている。

 空木はここに来るパトカーの中で、依頼を受けてあの男を尾行していたことを話すべきかどうか思案していた。

 尾行していた男が死んだ。しかも殺人の可能性が高い。通報者は自分だが、尾行していたとなれば、疑われるのはまず自分だろう。まして、依頼者の居場所も、素性も分からない、知らない。当然会ったことも無いから、顔も知らない。また、都合が悪いことに、五月の末の土曜日に同じ霊仙山に登っている。これはまずいことになった。

 「はい、柏原の駅には八時半ごろ着きました。あの亡くなった方も同じ電車だったと思います。たまたま私は一番前の車両でしたので間近には顔は見ていませんが、後姿は見ました。私は駅のトイレで用足しをしましたので、その方とはかなり距離が離れたと思います。一合目と四合目で休憩しましたが、一緒にはなりませんでしたので、かなり距離はあったと思います。九合目の避難小屋に着いた時、北霊仙山の頂上を見たら、人影がありました。多分その方だったのではないでしょうか」

 空木は、自分が探偵を業としていることは勿論、尾行であったこと、写真を二回にわたって撮ったことも話さなかった。

「その山の頂上には一人だけだった」大林が確認するように聞いた。

「ええ、私の方角から見えたのは一人だけでした。南側、つまり向こう側にだれか居ればわかりませんが」

 空木は、その避難小屋で昼食のお握りを食べたこと、その男は頂上で食べていたと思うこと、自分が頂上に着いた時は、その男はお虎が池に向けて下山していたことを話した。霊仙山に登りながら、霊仙の最高峰である頂上には行かなかったことは話さなかった。

 大林がまた確認する。

 「あの男性は頂上で食事をして下山した。下山の時もあの男性以外は誰も見なかった、ということですね」

「ええ、間近で見たわけではありませんが、時間的に考えても食事をしていたと思います」

「廃屋に入って、死体を発見するまでの状況をお願いします」

「ぬかるんだ道を、見晴台、汗拭き峠と下っていきました。男性も同じコースを下っていて、私の五、六十メートル先を下山していました。下り坂が終わって、小屋を過ぎたところで、その男の人は、スッと廃屋に入って行きました。私は小屋の前で休憩しましたが、その男の人が中々出てこないので、何をしているのかなと思い、覗いてみることにしたんです。そしたらああいう状態だったんです」

 空木は、一つだけ嘘をついた。小屋で休憩ではなく、男の様子を窺っていた、というのが真実だ。

「あの男性が廃屋に入る時、誰か一緒に入った様子はなかったということですか」大林が念を押す。

「はい」空木は頷いた。

「空木さんは何故、この山にわざわざ東京から登りに来たんですか。旅費も宿泊費もかけて」

 空木は、やっぱり聞いてきたか、と思った。

 「この山は、私が名古屋にいた四年間で何回も登っている好きな山でした。もう十年近く登っていなくて、会社を辞めたこともあって、久し振りに登ってみようかと思ったからなんです」

 空木はここでも嘘をついた。二週間前に土手と一緒に登っている。

 大林は、自分は伊吹山には登ったことはあるが、霊仙山がそんなに良い山だとは知らなかったと言い、他にどんな山に登っているのか興味深げに聞いてきた。

 「わかりました。では空木さん、身分証明になるものがありましたらお見せください。それと連絡場所を教えてください」

 大林がメモ用紙を差し出した。

 空木は、国分寺の住所が書かれた免許証と国民健康保険証を見せ、連絡場所には自分の携帯電話の番号を書いた。

 「健康保険証をお持ちなんですね」大林だ。

「ええ、山に行く時は必ず持って行くようにしています」

「固定電話はお持ちではない」大林が確認する。

「独身なので、固定は止めました。携帯だけです」

 大林は納得顔で頷いた。独身だからいろんな山に登れるのだと、その顔は言いたげだった。

 その時、大林の上司らしき刑事が入ってきた。何か、耳打ちしている。

 大林は空木の方を向いて言った。

「他殺と断定されました。持ち物からは身元は判明していません。それと少しおかしなところがあります。空木さん、申し訳ないのですが、被害者の顔を見て、山に登っていた方と同一人物かどうか確認してほしいんです」

「見るのは構わないんですが、はっきり顔を見たわけではないので、確認できるか自信はありません」

空木は時計に目をやりながら、答えた。時間は六時を回っていた。

「被害者の遺体はあと一時間ぐらいでここに搬送されてきますので、食事でも取っていただいてお待ちください。名古屋のホテルには送ります」

大林は、そう言うと今度は、宜しくというように頭を下げた。

 空木はまた混乱した。同一人物かどうか確認しろ、ということは別人の可能性があるというのだろうか。それに顔の確認と言っても全く自信は無い。

 「刑事さん、身元が判らないと言っていましたが、財布の中にカードはなかったんですか」

「お札以外は何も入っていませんでした」大林が答えた。


 七時を回った頃、空木は地下へ案内された。そこは遺体安置所だった。室内灯に照らされた遺体の顔はどす黒かった。

大林が被害者の身長、体重、血液型、およその年齢を空木に説明した。身長は一七三センチ、体重八十キロ、血液型は0型、年齢は四十後半から五十代半ばとのことだった。眉の濃淡はあまり判然とはしなかったが、唇は比較的厚かった。帽子、服装は尾行していた男とよく似ていた。

「色付きの眼鏡はありませんでしたか」

 死体の顔を見ても、空木には判断は出来なかったが、眼鏡は記憶に残っていた。空木が北霊仙山で見た男は、色付きの眼鏡をかけていた。

「これですか。色付きではありませんよ」

 大林が遺留品の中から銀縁の眼鏡を取った。

「遺体にかけてみてくれませんか」

 空木の要請に大林が死体の顔に眼鏡をかけた。

「うーん、何ともいえません」

 空木は、仲内和美から送られてきた写真の男に良く似ていると思った。身長、年齢は合致する。服装も良く似ている。しかし、写真の男が尾行した男、つまり霊仙山に登った男とは確信が持てなくなっていた。今思えば、柏原の駅で見た時が、その男との距離としては最も近かったが、色付き眼鏡と帽子で写真との照合はできなかった。もし、登った男が、写真の顔と照合されるのを避けていたら、それは何故か。別人なのか、と考えた時、大林が言った。

 「検死、司法解剖の結果、この被害者は死亡推定時刻が昨日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められたことによる窒息死、絞殺です。それと、胃の残留物に蕎麦がありましてね。さっきの空木さんの話からすると、登山していた男とは別人ではないかと」

「別人‥‥‥」

 空木はそうかもしれないと思った。そして。

「刑事さん、この人が履いていた靴とザックを見せてもらってもいいですか」と言った。

 大林の後ろのビニールを敷いた机の上にはザック、靴、帽子が置かれていた。この被害者の持ち物だ。持ち物の中にあるはずの携帯電話が無いことに、空木は気づいたが、これは話すのは止めた。

 空木は、廃屋から運ばれていく死体を見た時、靴が比較的きれいなことに、違和感を感じていた。

ザックは三十リッターのグレーに黄色のコンビで比較的新しい。靴は国内製の軽登山靴だが、よく履かれている感じだ。

「刑事さん、この靴あの山から下りて来たにしては随分きれいです。私の靴と比べたら判ると思いますが、泥はもう乾いていても、ソールには泥が入り込んでいるはずなのに、全くない。あの山から下りてきた靴じゃないと思います」

空木は自分の登山靴の靴底を見せながら、別人の靴だと確信したように言った。 

「そうですね、靴底はきれいですね」

 大林は手袋をはめた手で登山靴を取り、空木の見せた靴を眺めて言った。

 空木は刑事にザックの中身がどこにあるのか聞いて、その答えに驚いた。何も入っていないと言うのだ。

「刑事さん、山に登るのに空のザッ クを担いで登る人なんかいませんよ。それと携帯電話を持っていないというのも不自然かも知れません」

「その通りです。私も伊吹山に登った時は、昼飯は勿論、水筒やらお菓子やら入れて登りました。カメラも持っていく人も多いと思いますし、今では携帯電話は必ずと言っていいほど持っていくでしょうね」

「やっぱりこの人は登っていないと思います。別人だと思います」

 空木は言いながら、もう一度登山靴の靴底を見た。5ミリぐらいの石粒が靴底の溝に固く挟まっていたが、泥は全くと言っていいほど挟まってはいない。

 空木は、死体安置所に用意された線香台に手を合わせ、二階の刑事部屋に案内された。入口には「霊仙山殺人事件捜査本部」と書かれた長細い紙が張られていた。所謂、戒名という貼り紙だった。

 大林から、何か思い出すようなことがあったら連絡してほしい、と名刺を渡された。湖東警察署刑事課、大林宏とあった。

 現場に最初に到着した赤池が待っていた。時間は八時半を回っている。空木は、赤池が助手席に乗ったパトカーの後部座席に座り、名神高速道路を名古屋に向かった。サイレンこそ鳴らしていないが、赤色灯を回しながら走ると、まるで大名行列のように、走行車線側に一列縦隊となった。パトカーの前方も一列縦隊だ。先を急ぐ運転者にとってはいい迷惑だろう。

 赤池も山が好きらしく、車中、北アルプスの槍ヶ岳に一度は登ってみたいとか、鈴鹿の御在所岳は観光客だらけでつまらないとか、話しながら、あの被害者も山好きだったのだろうかとか、空木に話しかけていたが、空木はじっと目を瞑りあることを考えていた。

 被害者はあそこで殺されたのだろうか。被害者は山には登ってはいない。自分が尾行していた男は、どこに消えたのか。廃屋には間違いなく入っていった。そして死体を見ている。見ていて通報していないというのは何故だ。面倒なことに巻き込まれたくないからか。

 いずれにしろ依頼者の仲内和美の依頼である、男と女性が一緒にいる写真は撮れなかった。いや、それはあの男が女性と落ち合うことが、山ではなかったから結果として仕方がないことだ。と思った時、空木は仕事が成功しなかった事を依頼者に報告しなければならないことを思い出した。

 パトカーがホテルの前で停まった。時間は九時半を過ぎているが、名古屋駅前の人通りは多く、赤色灯を点けたパトカーから降りるのはやはり気まずいものがあった。しかも赤池が敬礼している。空木は送ってもらった礼もそこそこに、足早にホテルに入った。

 自販機でビールを買い、部屋に戻った空木は、石山田に電話した。石山田は自宅にいた。小学生になる娘が電話に出て、石山田は風呂に入っていると言った。風呂から上がったら携帯に電話してくれるようお願いして電話を切った。空木もシャワーを浴びる。こんな時でもビールが美味かった。携帯電話が鳴った。石山田だった。空木は今日の一連の出来事、事件を石山田に話した。

 「健ちゃん、その柏原とかいう駅で、待っている姿を誰かに見られていないか。通学通勤時間だし、誰かに見られているとしたら、警察の聞き込みでばれるよ」

 石山田は、空木が被害者と同じ電車で降りたという説明が、警察にはすぐに嘘だと判ると言い、依頼されて尾行していたことも含め、全部話した方が良いと勧めた。

 「それから、依頼主には連絡したかい」石山田が聞いた。

「いや、携帯メールしか方法はないけどまだだ」

「‥‥‥多分、連絡は取れないだろうけど、やってみて」

「わかった、また後で電話する」

 空木は、電話を切り、すぐにその携帯電話で、目的の写真は撮れなかったと、仲内和美に送信した。すぐに返信が帰ってきたと思ったが、それは送信先不明の表示であった。すぐに石山田に電話した。

「巌ちゃん、アドレス不明で帰ってきたよ」

空木は力なく電話の向こうの石山田に言った。

「やっぱり。アドレスから持ち主が判る筈だから、消したんだ。健ちゃん()められたかも知れないよ。昨日の夜のアリバイはあるかい」

 石山田の「嵌められた」と言う言葉に、空木の頭は真っ白になった。これが五十万の代償なのかと。

「ずっとホテルにいて、十一時過ぎには寝た」

 空木は、後輩の土手に電話して飲めば良かったと、後悔した。

 石山田は、自分が空木の身元証明人になるから心配するな、と言って電話を切った。

 空木は、湖東警察署で大林から貰った名刺を出し、電話した。刑事課の直通電話だった。大林はまだ署に居るようだった。

 「思い出したことがあるので明日伺います」

「どんなことですか」

「いえ、明日伺ってお話しないと、電話では説明しにくいので」

「判りました。ではこちらから迎えを行かせましょう」

「いや、パトカーはもう結構ですので。電車で行きますから」

 空木は、さすがに朝からパトカーのお迎えは、ホテルもびっくりするだろうと思った。

 「心配しないで下さい。パトカーでは行きませんから」大林は空木の心配を察して言った。

 刑事課の車で迎えに来るということで、ホテル前で九時に約束した。

 翌朝、空木は迎えに来た大林とともに、刑事課の車で湖東署に向かった。

 空木はパトカー以外の警察の車に乗ったのは初めてだった。

 車中で思い出したこととは何か、聞かれたが空木は警察署で話した方が良いので、と言うだけにした。大林は、身元はまだ判明していないが、行方不明者の届出が出るだろうからいずれ判明する、というようなこと、県警本部から応援が入ったことなどを話していた。

 空木は、捜査本部の紙が張られた部屋の向かい側の、応接室に通された。

 向かい側に座った、大林ともう一人の刑事に向かい、空木は「スカイツリー(よろず)相談探偵事務所」空木健介(うつぎけんすけ)と書かれた薄い名刺を差し出しながら言った。

「すみません。実は私、探偵業をしています。それである人に頼まれて、死んだあの男を尾行していました」

 空木はテーブルに手を着き、頭を下げた。

 「何故、最初からそれを言わなかったんですか」大林が怒ったように言った。

「迷ったんですが、依頼主のことを全く知らないんです。全く知らないで尾行をしているなんて、信じて貰えないと思い、余分なことは話す必要はないと思ってしまったんです」

「じゃ、何故話そうと思ったんですか」

「私の知り合いに警察関係者がいまして、相談したら全部話せと言われました」

「知り合いの方というのは」

「国分寺警察署の刑事をしている石山田という男です」

「嘘はすぐばれると言われましたか」

大林は睨んでいた。

「ええ、柏原の駅であの男を待っている時、高校生に見られていることを話したら、警察の聞き込みで、それはすぐに判ることだと言われました」

 空木は再度、机に手を着いて頭を下げた。

 「朝方の聞き込みで、登山服姿の男が駅の方をずっと見ていた、という目撃者がいました。我々は重要参考人と思っていますが、あなたでしたか」

 そう言うと大林は席を立った。

 しばらくして大林が戻った。

 「国分寺署に確認しました。石山田刑事とは高校の同級生で、尾行依頼の相談もされたと言ってました」

「あなたを信用しない訳ではありませんが、重要参考人として調書を取らせていただきますので、場所を変えます」

 大林は空木を、階段を隔てた取調室へ連れて行った。

 「空木さん、今度は本当に全部話してください」

 空木は、二週間前に友人と霊仙山に登っていることをまず話した。そして仲内和美と名乗る女性から、尾行の依頼を受けたことを、ワープロで書かれた手紙をみせながら説明し、五十万円の着手料を受け取ったことも話した。そして朝の電車到着時刻、男が出発前に携帯電話を見ていたこと、距離が四、五十メートル離れていて、色付き眼鏡、帽子のため写真の男と照合できなかったことも、依頼の写真を見せながら説明した。登山中については離れていて、二度写真を撮ったが、顔は映らなかったこと、北霊仙山で男が食事を摂っていたように見えたこと、女性とは最後まで落ち合うことはなかったことを話した。そして、下山して槫が畑の廃村に、男が一人で入って行ったこと、その時自分は、「カナヤ」の小屋の隅に隠れて、男が出てくるのを待っていたこと、全てを話した。その間誰にも会わなかったし、誰も見なかったことも加えた。

 「二週間前に登っていたんですか」

「はい」

「どなたと登られたんですか」

「岐阜に住んでいる土手登志男という後輩です」

「たまたまとは言え不思議なめぐり合わせですね。おかしいとは思いませんでしたか」

「こんなことがあるのか、とは思いましたが、偶然だと思いました」

 空木は、石山田が言っていたことを思い出していた。探偵としての初の調査依頼に浮かれていた自分が情けなかった。

 「空木さん、この写真の男は被害者と良く似ていますよね。遺体を見た時困ったでしょ」

「はあ、あの時は山に登っていた男かどうか、と考えていたんで、ああ答えましたが、写真の男に良く似ていると思いました」

「被害者はこの方にほぼ間違いないでしょう。依頼文にある年齢が本当だとすればなおさらです」

大林は写真を見ながら言った。

「空木さんの話しからは、山に登った男と殺された男は別人だと思われますが、その男はどこに消えたのか。それと依頼者の仲内とかいう女性は何者なんですかね。会ってないと言いますけど、会ってもいないのに手付けを払うというのはちょっと不自然だと思いますが。それと空木さん、会っていないということは女性か男性かも判らないということですよね」

大林は、空木から出された男の写真から目を上げて言った。

「別人だとしたら、私の尾行していた男がどこに消えてしまったのか。それと刑事さんの言う通り、私も少し変だなとは思いましたし、石山田からも気をつけろと言われました。尾行する男性と依頼人との関係、それから男性の所在地もメールで問い合わせましたが、無しの(つぶて)でした。男か女かは、全く考えませんでした。女性とばかり思っていました」

 空木は、探偵らしい始めての依頼だったので、受けてしまったとは言えなかった。しかし、仕事を受けたい気持ちが、大林の言うように、依頼者が女か男かも判断する冷静さを消してしまったと、思った。もし、男なら石山田が言うとおり自分は嵌められたに違いない。

「その依頼者とは事件後連絡は取られましたか」

 当然の質問であった。

 「昨晩、連絡のメールを送りましたが、送信先不明で送れませんでした」

 空木は携帯電話を手にしながら答え、一度だけ来た仲内和美からの返信のメールを大林に見せた。

 「ということはこの依頼者はアドレスを変えたか携帯電話を処分した。いずれにしてもアドレスから自分の身元が判ることを嫌った。しかも、依頼事が成就したかどうかも分からないまま」

 大林は男の写真をまた手に取った。

 「女性と落ち合うことなくあなたの尾行から消えた登山者と、依頼者、そして被害者との関係がこの事件の鍵を握っていますね」

「ところで、空木さん木曜日の夜十時から十二時の間はどこに居られましたか」

大林はまた、睨みつけた。

「木曜の晩はずっとホテルにいました。外出してません。証明してくれる人はいません。石山田に自分にはアリバイがない、と言われました」

空木は観念したかのようにキッパリと答えた。

「被害者はあそこで殺されたのではないと、我々は思っています。木曜の夜、どこかで殺されてあそこに運ばれた。恐らく車を使っているでしょうし、女一人で運ぶのはとても無理でしょう。被害者の身元が判れば足取りも追えますし、容疑者も浮かんで来ると思います。空木さん、あなたは重要参考人であり、容疑者ですからね。石山田刑事があなたの保証人ということで拘束はしませんが、行動には十分配慮してください。出来れば、所在を常に明らかにしておいて下さい」

大林は机に手を置きながら念を押すように言った。

 十二時を回っていた。取調室から出た空木は、大林から、依頼文、男の写真、カメラのSDカードを複写、現像するのでしばらく預かる。出来るだけ早く返すと言われ、承諾した。さらに大林は、空木に聞いた。

「山によく行っている空木さんから被害者を見て、何か気付かれたことはありませんか。参考までに聞かせて下さい。探偵でもあるそうですし」

 空木にはかなりの嫌味に聞こえた。探偵が簡単に嵌められるとは、と言っているように。

 「帽子も、服装も、それとザックも、新しい感じでしたが、靴だけは履きこんだ感じでした。服だけ新調したのかも知れませんが、違和感はありました。その靴ですが、ソールに花崗岩と思われる石粒が挟まっていました。最近そういう山、例えば鈴鹿でしたら御在所岳かその南の鎌ヶ岳などですが、そういった山に行った形跡だと思います。それと私の尾行していた男ですが、あの廃屋に何の躊躇もなく入って行ったことから考えると、この山に登るのは初めてではないと思います」

 空木は、昨日見た被害者の遺体を思い出しながら、嫌味な質問に出来るだけの答えをした。同時に空木は、嵌められた悔しさを何とか晴らしたいと思う気持ちが込み上げてきた。新米探偵の未熟さに付け込まれた悔しさと腹立たしさだった。

 大林の、署の車で送るという申し出を断り、空木は米原駅までザックを担いで、歩きながら考えた。考えれば考えるほど(はらわた)が煮えくり返ってくる。

 冷静に最初から一つずつ順に考えてみようと思うが、イライラして来るばかりだ。時計を見た。午後一時を回っていた。空腹感は感じなかったが、これが原因だと、空木は思った。腹が減るとイライラするのは空木の癖でもあった。

 米原駅で東京までの切符と駅弁を買い、新幹線に乗り込んだ。都合よく乗り換え無しのひかりに乗れた。土曜日で比較的混雑していたが、これも運良く三人がけの窓際に座ることが出来た。

 米原駅を出るとすぐに、右手に霊仙山の山並みが望めるが、今は雲に覆われている。空木は米原駅で買った弁当を食べ、腹を満たした。窓の外を眺めながら、仲内和美から来た尾行依頼のワープロ文を思い浮かべた。何故、ワープロだったのか。一つは筆跡で男女の違いが判らないように。もう一つは、後々に筆跡を残すと都合が悪い。これだけでも十分怪しい。

 次に依頼内容を考えてみた。「女と一緒に山に登るから女と一緒にいる写真を撮れ」だった。山でなければ一緒にいるところの写真はだめだったのか。だめな筈はないだろう。ただ、確実に撮るためには予定が分かっている方が好都合ではある。しかし、それらしい男は来たが、女は現れなかった。女の予定が狂ったのか、それとも最初から女が現れる予定は無かったのか。仲内和美の携帯メールのアドレスが、変更若しくは削除されていることから考えれば、最初から女と会う予定は無かったと考えるべきだ。

 廃屋までの下山路を思い浮かべた。自分はあの男の後ろ五、六十メートル位まで近づいていたが、あの男は一度も止まりもせず、振り向きもしなかった。ただ、一度だけ止まった。廃屋に入る登山道のところで立ち止まった。あれは自分が付いて来ていることを確認したのではないか。顔を見られずに、最後まで着いて来ているか。

 最後に何故、霊仙山だったのか。廃村、廃屋の存在を知っていたからか、それとも自分があの山を良く知っているということを承知していたからか。何れにしろ、自分を嵌めるのに最も都合が良い山だった、ということだったのだ。

 しかし、最大の疑問は、何故自分を、空木健介を嵌めようとしたのか、ということだった。全く答えは浮かんでこないまま空木はうとうととした。



『容疑者』


 湖東警察署の捜査本部では、県警からの応援の刑事たちも交えて捜査会議が開かれた。本部長は、県警の刑事部長が別の事件の捜査本部長となっているため、湖東警察署長が本部長となっていた。刑事課長から被害者の身元、刑事たちによる地取り、聞き込みの報告がされた。大林が空木から聞き取った調書の内容と、参考品となる空木からの提出物の説明もされた。

 課長からの報告によれば、身元は未だ判明しておらず、行方不明者の届出には該当する人間はいない。死因はロープ様なもので首を絞められた絞殺。死亡推定時刻は六月九日木曜日夜十時から十二時の間。柏原駅は簡易委託駅で駅員はおらず、委託されている方もその時間に駅にはいなかったが、通学の女子高生が登山者風の男二人を目撃している。うち一人は駐輪場から駅を見ていた、とのことであった。醒ヶ井(さめがい)の養鱒場のバス停前の商店の聞き込みで、午後一時過ぎ頃、車が林道方面から醒ヶ井の駅方面に走って行った、との情報が取れたことが報告された。

 鑑識の結果で追加の報告がされた。廃屋の裏手でも被害者とは別の靴跡が見つかったこと、被害者のTシャツ、ズボン、ザックからは汗が全く検出されなかったという二点であった。

 大林からは重要参考人である空木からの聞き取りの報告がされた。空木健介の住所、年齢、経歴、そして現職を説明した後、仲内和美という名前での依頼文の存在。その依頼により柏原駅から男を尾行し、廃屋の現場で死体を発見したが、それは尾行していた男ではなかった。このことから柏原駅で女子高生が目撃した登山者風の男二人というのは、一人は空木健介、もう一人が空木が尾行した男だと考えられる。つまり駐輪場の男は空木健介だと思われる。写真の男と被害者は同一人物だと思われるが、被害者は山に登って来たとは思えない。空木健介の前夜のアリバイはないが、身元保証人が国分寺警察署の石山田という刑事であることから、容疑者の一人ではあるが、マークする必要性は低いと判断していることなどが報告された。

 さらに大林から、依頼人は男女も不明で、筆跡も残さず、携帯のメールアドレスも消していることから、偽名の可能性が高い。この依頼人と、空木健介が尾行していた男が、この事件の最大の鍵を握っており、犯人に最も近いところにいると考えられる、という自分の意見を加えた。さらに参考ながら、山に通じている空木健介から、被害者の履いていた靴の、靴底の溝には花崗岩の粒が挟まっていて、霊仙山には存在しないらしく、直近で花崗岩の存在する山に登っているのではないかとの意見があったことも加えられた。そして、すでに配られている被害者の顔写真、服装、登山靴、ザックそれぞれの写真とともに、空木から預かった、被害者のオフィスビルでの写真と、空木が尾行中に、男を後ろから撮影したものを拡大した写真が刑事たちにそれぞれ配られた。

 捜査会議での初動の方針は、被害者の身元の判明と、空木に尾行を依頼した人間と、空木に尾行され、廃屋から消えた登山者を捜すことと確認された。被害者の身元については、マスコミの力を借りることとし、この後、マスコミ各社に公開することとなった。消えた登山者の捜索は、醒ヶ井の養鱒場バス停横の商店での聞き込みで、浮かんだ車を洗い出すことと、柏原駅下り八時三十三分着の電車に乗っていたことから、これの目撃者を捜すこととされた。さらに汗の痕跡が無く、比較的新しいことから、被害者が購入したかどうかを確認するために、ザック販売店の聞き込みと、さらに登山靴が本人のものかどうかも不明なため、御在所岳周辺も聞き込みをすることが確認された。空木に尾行を依頼した依頼者の調査については、手掛かりが全くないため、今後の情報の推移をみることとなったが、空木健介と定期的に連絡を取る必要性もあることから、これには大林が当たることとなった。

 捜査本部の疑問は、空木健介が犯人でないならば、何故わざわざ、空木に尾行させたのか。これだけ手掛かりが少なければ、尾行させたことが命取りになりかねない。空木健介はマークしなくていいのか、空木が犯人でないなら、空木に恨みを持っている人間がいて、その人間が彼を事件に巻き込ませようと企んだのではないか。このようなことが疑問としてあがり、大林が空木への対応を一任されることとなった。


 空木が国立駅に着いたのは夕方五時半ごろだった。梅雨空だったが日が暮れるにはまだ一時間以上ある。ザックを担いだ空木は、北口の改札を出て、石山田に電話した。石山田も空木からの連絡を待っていたようで、六時半ぐらいにいつもの店で飲もう、ということになった。

 空木のマンションまでは歩いて五、六分だ。シャワーを浴びて着替えて、いつもの店なら余裕で間に合う時間だった。

 居酒屋「さかり屋」に、石山田はもう来ていた。電話を切った後、すぐに署を出なければこうはいかない。

 空木が店に入ると、主人が「いらっしゃい」の声と一緒に、奥を指差した。奥の小上がりに石山田は座っていて、大ジョッキでビールを飲み、もう空になりそうであった。

 「お帰り、遅いよ健ちゃん」

「遅くはないでしょう。巌ちゃんが早いだけだ」

二人は挨拶代わりのやり取りをして、空木のビールが来るのを待って、乾杯した。酒の肴はいつもと同じイカの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めの三品だ。

 「健ちゃん、大変だったな」

「ああ、大変だった。というか今も大変の真最中だね。でも昨日、巌ちゃんに電話して良かったよ。あのまま東京に帰って来ていたら、もっと大変なことになっていたと思う」

「そうそう、湖東警察署の大林刑事から連絡があってね、空木健介から目を離さないように頼む、ということだった」

石山田はにこにこしながら言って、ジョッキのお替りを注文した。

「重要参考人だからね、俺は」

「まだ被害者の身元も判ってないようだし、捜査は始まったばかりだから、対象者が少ないし、仕方ないな。それにしても見事に嵌められたな」

石山田は空木を慰めるように言った。

「身元が判ってないって、巌ちゃん、向こうからはどんな話を聞いたの」

 空木の問いに、石山田は二杯目のジョッキを口に運びながら。

 「本来は、我々には守秘義務があってね、一般人には一切話しちゃだめなんだ。勿論、家族も含めてね。でも今回は健ちゃんの身にもしものことが起きないとも限らないから、話せるところは話すよ。向こうもそれは承知だし」

「俺にもしものことって、どういうこと」

空木は手に取ったジョッキを置いた。

 石山田は大林から聞いた、湖東警察に置かれた捜査本部の初動方針と捜査員から出たという意見を空木に説明した。

 被害者の身元が不明のため、マスコミに公開する。消えた男、つまり空木が尾行した男の足取り捜査は、走り去った車の洗い出しと、乗ってきた電車での目撃情報の聞き出し。汗を掻いた形跡の無いシャツ、ズボン、ザックの購入先の洗い出し。登山靴の靴底の石をヒントに御在所岳周辺の聞き込み。尾行の依頼者の情報は皆無のため、空木からの情報次第であること。そして、空木に尾行を依頼した不自然さに注目していること、を手帳を見ながら説明した。

 じっと聞いていた空木は、聞き終わってビールを一気に飲み干した。

 「不自然だよな。俺もそこがどうにも腑に落ちない。わからない」

 空木は、芋焼酎のボトルを注文した。

 「健ちゃん、月並みな質問だけど、誰かに怨まれるような覚えはないか」

「怨まれる。感謝されることもなかったと思うけど、怨まれることなんか、自分で言うのもおかしいけど、俺、そういう生き方していないつもりだったから、覚えなんかないよ」

空木には、思いもしなかった石山田の質問だった。

「そうだよな、ないよな。でも人間って、人の言葉で傷ついたり、喜んだり、悲しんだりしてるからね」

 石山田のその言葉は、覚えが無くても怨まれることもあると、言っていた。

 空木と石山田は焼酎を飲み始めた。

 「走り去った車があったのか。もしそれに乗って、俺の尾行していた男が逃げたとしたら、廃屋に入っていって、どこからか抜けて逃げ去って行ったということか。そして俺があの廃屋に入ってくるのを見越していて、あの死体を見つけさせたのか」

「走り去った車に、誰が乗っていたか判らないが、その可能性は多いにあるな。第一発見者に仕立てられたということだ」

石山田が続けて言った。

「車で逃げたかどうかは、まだ判らないにしても、初めから健ちゃんの尾行を知っていた。ということは、依頼者と登山した男は、仲間ということだ」

「‥‥‥そういうことだな」

空木は芋焼酎のロックを飲み干した。

「湖東警察の捜査本部もそう読んでいるだろう。尾行の依頼者を探すより、情報の多い、消えた男を捜すことに全力をあげるだろうし、その男を探し出せば、自ずと依頼者も浮かびあがると踏んでるよ」

石山田は新しい氷を注文した。

「健ちゃん、尾行していた男のことで、改めて何か思い出したことはないか。靴底の石粒も捜査のヒントになるくらいだから、どんな些細なことでも捜査の助けになるかも知れない」

「分かってるけど、何せ距離が離れていたから、思い出そうにもどうしようもないよ」

空木は言いながら、もっとたくさんの写真を撮っておくべきだったこと、超望遠レンズだったら良かったのに、と思っていた。

「明日の朝刊で身元不明の死体のことが出れば、捜査本部にもいろいろ情報が集まるだろう。身元が判れば、あっという間に解決するかも知れないよ」

石山田は、また空木を慰めるような言い方をした。

「ところで巌ちゃん、手付金のあの五十万だけど、どうしたらいいと思う」

空木は、このことにも引っかかっていた。

「実際に名古屋に泊まって、尾行したんだから、気にする必要はないよ、警察もそれはノープロブレムだよ」

二人は、ボトルを飲み切り、締めのラーメンを注文して食べた。

「じゃあ、健ちゃん、また何かあったら連絡してくれ、こっちも情報が入ったら教えるよ。ご馳走さんでした」

 石山田は今日も金を払うつもりはないと言っていた。


 日曜日は朝から雨だった。空木は新聞を取っていない。近くのコンビニで新聞と朝食を買った。部屋で新聞を広げ社会面を見た。事件が出ていた。小見出しは、廃屋で身元不明の男性死体、とあって、滋賀県の霊仙山の登山口に近い、廃村の廃屋で死後十時間位の登山姿の死体が発見され、身元の手掛かりが無い。伸長、体重が記載され、首を絞められたような跡があることから、警察は殺人と断定した。心当たりの方は湖東警察へ連絡を、とあった。

 空木は石山田に携帯で電話をした。石山田は国分寺署に出ていた。

 「新聞に出ていたね」

「ああ、出ていた。被害者の身元が判らないとどうにもならないからな。これで捜査が進展するよ」

「巌ちゃん、身元がわかったら俺にも連絡頼むよ」

「大丈夫だ。マスコミに公開していることだから、判明したらまた新聞に出るよ」

 二人は近々また会うことを約束した。



『被害者』


 湖東警察署の捜査本部には、朝早くから何本かの問い合わせが入っていた。皆、新聞の記事を見ての電話だったが、該当する人ではなかった。

 女性の声で電話があったのは午前十時ごろだった。落ち着いた感じの、女性の声で、新聞に出ていた身元不明者が、名古屋に単身赴任している主人に良く似ている。金曜日の午後に、名古屋の勤務先から、連絡が取れないという知らせがあり、今日になっても連絡が取れない、ということであった。

 捜査本部は、勤務先でご主人を良く知っている方と一緒に、米原の湖東警察署に御出で願いたいと告げた。その際には、指紋の照合が出来るものを持参してくれるよう依頼した。その女性は、東京から米原に向かうと言った。

 米原駅に、スーツ姿の男性二人と中年女性が降り立ったのは、午後三時過ぎであった。湖東警察署からは大林が車で迎えに出ていた。四人は湖東警察署に向かい、二階の捜査本部横の会議室に入った。

 女性は浅見芳江と言った。色は白く大柄で、ベージュの袖なしのワンピースに白い薄手のカーディガンを羽織っていた。スーツ姿の二人は塩野と梅田と名乗り、塩野は課長の肩書きの名刺を差し出し、勤務先は東亜製薬株式会社とあった。三人ともかなり緊張した様子で、署長、刑事課長と挨拶し、大林の案内で、早速地下の遺体安置所に向かった。

 銀色のステンレス製の遺体安置箱から引き出された死体は、ドライアイスで囲まれていた。最初に死体の顔を見たのはハンカチを口にあてた浅見芳江だった。

 「主人です。間違いありません」

死体の顔を見つめながら、小さな声であったが、驚くほど冷静に言った。

芳江の言葉に驚いたように、塩野と梅田の二人が覗き込んだ。

「部長」二人は同時に、小さな声で叫んだ。

 芳江の目からは涙がこぼれ落ちていた。

 「ご主人に間違いないでしょうか」大林が念を押す。

「間違いありません。でも何故‥‥‥」

芳江が小さく頷きながら答えた。

塩野と梅田の二人も、浅見部長に間違いないと言った。

「ご主人が何故このようなことになったのか、捜査中です。奥様にはお辛いでしょうが、一刻も早く、犯人を捕まえるためにご協力をお願いします」

 三人は大林に案内され、二階の小会議室に入った。芳江は家から持参した、ハンカチに包んだ電気カミソリを大林に渡した。

 「主人は月に一度位しか東京には戻ってきませんでしたから、指紋が付いているものが、ほとんどありません。これが一番可能性があるかと、思いました」

 大林は芳江が持ってきた、電気カミソリを受け取った。

 「申し訳ありません。確認に使わせてもらいます。指紋が出なくても三人に確認していただいていますので」

 大林はもう必要ないと、言いそうであったが、カミソリを若い刑事に渡し、鑑識に回すよう指示した。

 被害者の氏名は浅見豊。留守宅住所は東京国立市中二丁目。年齢は芳江の五つ上で、五十歳。結婚して二十年で、子供は高校生の男の子が一人。浅見は、東亜製薬の名古屋支店の業務部長で、昨年の四月から名古屋に単身で赴任していた。住まいは名古屋市千種区今池一丁目のマンションだった。芳江が浅見豊に最後に会ったのは、五月の連休での長期の帰省の時が最後だった。

 「その時、ご主人に変わった様子はありませんでしたか」

大林が聞いた。

「変わった様子はなかったと思いますが、一度だけ携帯電話で随分長く話していた時がありましたが、特に変わった様子はありませんでした」

 次に、塩野と、梅田が会社での浅見の様子を話した。

 それによると、浅見は昨年の四月に仙台支店から転勤してきた。職場内、取引業者との間にもトラブルは無く、問題は無かった。木曜の夜、三人で支店近くの金山の蕎麦屋で飲んで、十時過ぎに別れた。金曜日は出社してこなかったが、たまに連絡なしに午前中休むことがあったので、気にはしなかったが、午後になっても連絡がなかったので携帯に電話したが、電源が切られているようだった。マンションにも行ったが、鍵が掛かって留守だった。それで東京のご自宅に連絡した。こういうことであった。

 大林は、死亡推定時刻は木曜日の夜、十時から十二時、死因はロープのようなもので首を絞められての絞殺。当初は服装からして、山から下りて来て凶行にあったかと、思われたが、状況から他の場所で殺害され、あそこに運ばれたものと判断していること。これらのことを三人に説明した。

 大林は、浅見は誰かに怨まれているようなことはなかったかと、質問したが、三人とも人から怨まれているようなことは、全く見当がつかないという答えだった。

 「浅見さんは、趣味で山登りはされてましたか」

大林は三人に聞いた。

「いえ、東京では登っていませんでしたし、聞いたこともありません」

芳江はハンカチを口に当てながら、首を傾げた。

「支店内でも浅見部長が山に登っているという話は聞いたことがありません」塩野だ。

「私は山が好きで、たまに登りますが、部長が山好きという話は聞いたことがありませんし、以前私が山の話をして、登ってみませんか、と言ったら断られましたから、山は登ったことはないと思います」と梅田が続いた。

 これから三人はどうするのか、大林は聞いた。塩野と梅田は名古屋に戻って、支店長と相談したいと言った。芳江は明日にでも、遺体を東京の国立へ運びたい、ということで、その手配と芳江の宿泊の手配を大林はした。


 空木の携帯が鳴った。石山田からだった。

 「健ちゃん、被害者の身元が割れた。名古屋の会社員で名前は浅見豊。自宅住所が驚きだよ、国立だぞ」

「えっ、国立」

 何という偶然だと、空木は思った。

 「名古屋に単身赴任していたそうだ。それと勤務先が東亜製薬だと言っていた。健ちゃんの勤めていた会社とは違うけど、同業じゃないのか」

「東亜製薬は大手だ。確かに、製薬会社としては同業だけど。俺と付き合いのある人間はいないよ」

空木は、東亜製薬には知り合いはいなかったか、と考えながら言った。

「偶然が重なったお陰か、健ちゃんは押しも押されもしない重要容疑者だ。大林刑事が話を聞きにこっちに来るそうだ」

「マジで」

「嘘だよ。でも来るのは本当だ。被害者の葬儀に参列しに来る。ついでに健ちゃんから借りた物を返しに来るらしい。葬儀は参列というより聞き込みだろうけど。俺にも同席してほしいと言っている。健ちゃんも行くか」

「俺が行っても構わないのかな」

「第一発見者ということで、奥さんに挨拶したらどうだ。それなら大林刑事も何も言わないだろう。場所と日時が決まったら、また連絡する」

 石山田は空木を連れて行くことを最初から決めていたようであった。

 「巌ちゃん、被害者の住所を詳しく教えてくれ。明日、様子を見てきたい」

「教えるけど、俺も行くから、一緒に行こう。大林刑事に依頼されている仕事なんだ。住所は国立市中二丁目セントラルマンションだ」


 翌日も雨だった。そのマンションは桐朋学園と一橋大学のある閑静な地区にあった。レンガ張りの六階建の四階だった。

石山田が管理人に警察証を見せ、浅見家の様子を聞いた。三人家族だが、主人は単身赴任で普段はいない、とのことで大林の話と符号していた。ここ一、二ヶ月の間で、浅見家を訪ねて来た人間がいたかどうか、記憶にないかと聞いたが、浅見家に訪ねてくる人はめったにいないので、来れば記憶に残るが覚えはない、との答えだった。何か浅見家にあったのかと、管理人が聞いたが、石山田は何も答えなかった。

この管理人は、明日の新聞を見て驚くことだろうと空木は思った。

 通夜は翌火曜日に行われた。JR南武線の谷保(やほ)駅から程近い斎場で六時から行われ、小雨の降る中、二百人近い参列者が集まった。浅見家のマンションからは車で五分程の距離だった。喪主である芳江はハンカチと数珠を手に、親戚の人たちなのか、挨拶をしていた。横には息子と思われる背の高い、制服を着た男の子が立っていた。

 大林と石山田、空木は一番後ろの椅子に座り、参列者の様子を窺っていた。

塩野と梅田も参列していた。参列者の焼香が終わり、喪主である芳江の、参列者へのお礼の挨拶が終わった。

 大林は、芳江に石山田と空木を紹介した。石山田は国分寺警察署の刑事であること。空木はご主人の死体を発見し、通報した人間であることを紹介した。三人はお悔やみを述べて会場の外にでた。

 外に出た大林は塩野に声をかけ、浅見の上司である支店長に話を聞きたい旨を伝えた。塩野は少し離れた、支店長と思われる礼服姿の男に耳打ちした。二人は、大林たち三人の方に来て、挨拶した。

 「名古屋支店長をしております、篠村と申します」

白髪混じりの篠村は名刺を渡しながら挨拶した。

「滋賀県警湖東警察署の大林です。こちらは国分寺警察署の石山田刑事と発見者の空木さんです。少しだけお話を聞かせていただきたいのですが‥‥、時間は取らせませんので」

大林は、二人を紹介しながら言った。

 大林、石山田両刑事と篠村は、斎場の隅のテーブルに座った。

 「お聞きになっておられると思いますが、浅見さんは殺害されました。殺人事件です。上司である支店長さんから見て、浅見さんが仙台から転勤して来てから、変わったこと、気なることはありませんでしたか」大林は篠村の顔をじっと見ながら訊いた。 

「名古屋に来てから、特に変わった様子というのは無かったと思います」

「名古屋に転勤して来たのは、本人が希望したんですかね。支店長さんはその辺はご存知ありませんか」

「浅見君が希望したかどうかは分かりません。ただ、自宅のある東京を跳び越して、名古屋での単身を希望する人間もそうはいないと思います。私は可哀相だと思いました」

「仙台で何かあったとか」

「それは私には全く判りません」

篠村は仙台のことは仙台に聞いてくれと言わんばかりに答えた。

 大林、石山田、空木の三人は、食事を摂りに通夜の会場を出て、国立駅方面へ向かった。

 石山田は大林を行きつけの居酒屋に誘った。

 三人は、奥の小上がりに上がって、お浄めと称して飲み始めた。

 「あの支店長の、最後の答え方が少し気になりましたが、石山田刑事はどう感じましたか」

「仙台のことは仙台に聞いてくれ、という感じでしたね」

「それはそれで尤もなんですが、何か引っ掛かる。大会社の偉いさんはあんな感じなんですかね」

大林が言った。

聞いていた空木がニラレバを食べながら。

「あの時の支店長の目は一瞬ですが、下を向きました。事件に関係するかどうかは判りませんけど、仙台で何かあったかも知れないですね」

口を挟んだ空木は、もうビールから焼酎に変わっていた。

 告別式は翌日の十時からで、梅雨空だった。平日の午前のためか、昨日の通夜より参列者は減っていた。空木たち三人は、昨日同様、会場の一番後ろの椅子に座って、参列者を観察していた。東亜製薬の名古屋の支店長の姿はなかったが、塩野と梅田の姿はあった。出棺が終わった。大林は塩野に軽く会釈をし、近づいた。

 「ちょっとだけ話が聞きたいのですが、時間はありますか」

「名古屋に戻るだけですから。大丈夫ですけど。どんなことですか」

「浅見さんの仙台時代のことで聞かせて欲しいんです」

「仙台ですか‥‥‥」塩野は怪訝な顔をした。

「仙台の支店の方は昨日、今日と来ておられましたか」

「ああ、来ていたと思いますが、私は顔を知らないので誰かは分かりません。東北の山の話しをしているのが聞こえましたから、多分、仙台支店の人たちだと思います」

「そうですか。ところで、社内で何かあって名古屋に移られたというようなことはなかったんでしょうか」

「何かって言われても困るんですが。‥‥‥ここだけの話にして下さい。噂ですけど、女性関係で異動になったんじゃないかと、耳にしたことがあります。部長は仙台のことを我々には全く話しませんでしたから、本当のところは分かりません」

塩野の顔は、これ以上は簡便してほしいと言っていた。

「いや、ありがとうございました。十分です」

大林と石山田は塩野に礼を言った。

 三人は、車で国立駅へ向かった。

 「大林刑事、仙台へ行きますか」

車中で石山田が聞いた。

「いや、会社として公に話せることでも無さそうですし、噂の中身程度なら名古屋でも聞けるかも知れません。本部に帰って課長と相談してみます」

大林は答えながら、今度は空木の方を見た。

「空木さん、名古屋のイシダスポーツはご存知ですか」

「市内の(さかえ)にある店ですか」

「さすがに良くご存知ですね」

「その店がどうかしたんですか」

「被害者の着ていた服とザックが売られた店のようです」

「被害者が買ったんですか」

「いえ、写真を見た店員の記憶では、被害者ではなく別人です。恐らく、買ったのは犯人ではないかと睨んでいます。購入日は六月九日木曜日の昼だったそうです。同じザックを二つ一緒に買っていったので、店員が覚えていたそうです。それと10ミリのザイルも買ったそうです。ただ、顔は色付き眼鏡と帽子で、はっきりとは分からなかったそうですが」

「色付き眼鏡と帽子。健ちゃん尾行していた男と一緒じゃないか」

石山田が確認するように言った。

「そうだね」

空木は言いながら、俺が尾行していた男が犯人なのかも知れないと考えていた。

「しかし、もし買った男と、尾行されていた男が同一で、しかも犯人だとしたら、大胆な奴だ」

石山田が空木の考えていたことを口にした。

「大林刑事、被害者の名古屋のマンションの捜索はどうだったんですか。何か手掛かりになるようなものは出ましたか」石山田が大林に顔を向けた。

「今日辺り調べているはずです。犯人の手掛かりになるようなものが出ればいいんですが。せめて女の匂いでもでれば」

「そうですね、こっちは明日にでも浅見の奥さんを当たってみましょう」

三人は国立駅で別れた。大林は今日の捜査会議までに戻りたい、ということで昼食は移動の車中で摂るという。石山田は、課長に報告すると言って署に戻った。一番ヒマな空木は、自宅マンション近くの豚カツ屋で昼を食べることにした。


 翌日、小雨の降る中、石山田はレンガ張りのマンションに浅見芳江を訪ねた。管理人に挨拶をして、エントランスの部屋番号を押した。芳江は在宅だった。朝からの訪問を詫び、話を聞きたい旨をインターフォン越しに説明した。芳江は午後からは斎場に出かけるので一時間程度なら大丈夫だと言い、玄関のオートロックを解除した。石山田はエレベーターで四階に上がった。監視カメラ付きのエレベーターだ。芳江は石山田を十畳ほどのリビングに案内した。広いマンションの部屋であった。芳江は石山田に紅茶を用意して、ソファーに座った。

 石山田は、取り込みのところへの訪問を再度詫びた。

「申し訳ありません。一つ、二つお聞きしたいことがあります。通夜、葬儀に参列されていた方たちで、見慣れない方とか、何か気になることとか、気付かれたこととかはありませんでしたか」

「親族や私のお友達以外は、見慣れない方たちばかりでしたし、参列していただいた方たちのお顔を改めて見ることも出来ませんでしたから、気になるようなことと言われましても、私は何も‥‥‥」

「それはそうですよね。つまらない質問をして申し訳ありません。そうだ、奥様、お香典の芳名記入帳はご覧になっておられますか」

「いえ、ゆっくりと見てはいません」

「昨日の今日ですから、当然ですね。そこに記入されている名前で気になるようなお名前でもあればと、思いまして‥‥」

 芳江は少し待ってくれと言って、席を立ち、二冊の芳名記入帳を石山田の前に出した。

 「少々拝見しても宜しいでしょうか。私が見ても誰の誰兵衛かさっぱり分かりませんけれど」

 石山田は女性の名前だけでも見ておきたかった。

 「構いません。ご覧になってください」

 石山田は、パラパラと頁をめくっていった。芳名帳はサインペンで書かれていた。一冊目の女性名は六人いた。全て芳江の友人だった。二冊目は男性ばかりで、篠村、塩野、梅田の名前もあった。二冊目の終わりごろに女性名があった。名前は、「仲内好美」とあった。石山田はどこかで聞いた名前だと思ったが、思い出せなかった。

「奥さん、この方はご存知ですか。参列していましたか」

 芳江は芳名帳を手元に寄せた。

 「いえ、存じ上げない方です。参列していたかも知れませんが、女性の方たちで、私が顔を知らない方のご焼香はありませんでした」

芳江は思い出そうとしてか、眉間に皺を作りながら答えた。

「参列して、焼香しない人もいるんですかね」

「それは私には分かりません」

 石山田は仲内好美の名前を手帳に書きとめた。

 「奥さん、香典袋を見せていただけないでしょうか。この仲内という名前の方のものがあれば見せていただけませんか」

 芳江はまた席を立った。二、三分後、これですといって石山田の前に差し出した。表書きの名前は筆で書かれていたが、内袋には金額だけで、名前も住所も記入されてはいなかった。

 「住所は書かれていませんね。普通は書かれますよね」

「そうですね。名前も顔も知らない方でしたら、ご住所を書いていただかなければ参列のお礼状も出せません」

「奥さん、受付をされた方はどなたでしたか」

「斎場の方にしていただきました」

「そうですか、分かりました。ありがとうございました。それから、聞きにくいことなのですが、何度か名古屋には行かれていると思いますが、奥様から見て、ご主人には女性のお友達がいらっしゃったように思いますか」

 驚くほどの冷静さで、凄い事を訊いている自分に、石山田は驚いた。

「高校生の息子が居りますので、何度も行ってはおりません。引越しの際に行ったきりです。女性については、親しいかどうかは分かりませんが、いても不思議ではないと思っていましたが‥‥‥」

芳江は芳名帳に目を落としながら答えた。

 石山田は谷保駅近くの浅見豊の葬儀が行われた斎場へ向かった。浅見家の葬儀の受付をしたのは、小早川という三十前半の男性だった。小早川は女性の名前は覚えていないが、男性で女性のような名前を書いた人がいて、顔を見上げたら、代理で記帳させていただく、と言っていた、という記憶であった。その男は記帳した後、すぐに会場を去った、ということだった。顔の記憶はないが、頭の毛は短かったように思う、と話した。

 国分寺署に戻った石山田は係長の柳田に報告した。柳田は石山田同様、刑事畑一筋のたたき上げである。刑事課長とはしょっちゅう口論している。柳田から、湖東警察の大林刑事から、午前中に電話があったことが伝えられた。柳田は、石山田が聞き込んだことを向こうの捜査本部に早く連絡してやれと言った。

 石山田は、大林に今日の聞き込みの内容を知らせた。葬儀には参列していないが、「仲内好美」という女性の名前が浮かんだこと。その名前は、浅見芳江は覚えがないこと。その名前を記帳した男はすぐに会場を去ったこと。髪が短かったこと。これらを伝えた。

 聞いていた大林は石山田に聞きなおした。

「仲内なんと言いました」

「仲内好美。人辺の仲に、内外の内、好き嫌いの好に、美しいの美です。ご存知ですか」

「いや、仲内という姓は、空木さんに尾行を依頼した仲内和美と同姓です。名前一字が違うだけです。偶然とは思えません」

 石山田は、そうかと思った。どこかで聞いたような名前だと思ったのはこれだったのだ、と。

 「偽名かも知れませんが、仲内姓で追ってみる価値はあるかも知れません。何軒あるか分かりませんが、全国の警察の協力を得られれば、潰していけるかも知れません」

 大林は新しい情報に反応した。

 「そちらの捜査はいかがですか」

 石山田は、被害者である浅見の名古屋のマンションの捜索の状況を聞いた。

 「被害者のマンションの近くに公園があって、夜は極端に人通りが少なくなります。殺害現場は公園若しくは、マンションの駐車場付近ではないか、と考えていますが、何も見つかりません。目撃者もいません。ただ、被害者の駐車場に、別の車が止まっていたのを住人が見ている、という聞き込みが取れました。事件に関係しているかも知れませんが、これ以上の情報はありません。それと被害者の部屋から男性の髪の毛とは明らかに違う、女性らしい髪の毛が採取されました。住所録のような物は見つかりませんでしたが、パソコンがありましたので、奥様の許可をいただいて中に入ることにしています。そこに仲内姓でもあれば良いのですが。それと浅見の仙台での噂話は名古屋の支店で調べてみることになりました」

「わかりました。こちらも協力しますので、何なりと言ってください」

「ありがとうございます。柳田係長にも宜しくお伝えください」

大林の話では捜査は進展しているように思われた。仲内姓で、さらに犯人の糸口が掴めるかも知れないな、と石山田も感じていた。


 石山田は、空木に「仲内好美」の名前が浮かんできたことを知らせた。今日も、いつものところ「さかり屋」で会うこととなった。

 二人は、いかの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めを酒の肴に飲み始めた。空木はジョッキを手にしたまま言った。

「同じ仲内姓を使うというのはどういうことなんだろう。偽名にしろ、実名にしろ、何がしかの意味があるように思う」

「どういう意味なのか。依頼者の仲内和美と、香典の仲内好美。犯人と何か関係している名前なのかも知れない」

石山田もジョッキを持ちながら言った。

「健ちゃん、もしかして、仲内和美って、かずよしって読むんじゃないか」

「ええ、じゃあ姉妹じゃなくて、兄妹とか姉弟とか」

「そう、それと夫婦もあるよ」

石山田はビールの泡を口の周りに付けながら言った。

「仲内姓って全国に何軒ぐらいあるのかな。調べるのは容易じゃないだろうね」

空木はニラレバを摘まみながら、石山田に聞いた。

「さあ、何軒ぐらいあるかな、数百軒はあるだろう。潰していくのは容易じゃないね。潰していって、ホシに当たると分かっていれば良いけど、偽名だとしたら無駄足だからね。辛いものがあるよ」

 石山田は途方も無い作業だと言外に言っているようだった。

 「それから健ちゃん、捜査本部は被害者の殺害された現場は、名古屋のマンション付近だと睨んでいるようだよ。被害者のマンションの駐車場に停まっていた不審な車も確認されている。その車と、林道から走って行った車が一緒なら、辻褄が合うな」

石山田は言ってから焼酎を頼んだ。

「一緒の車だとしたら、殺してから車で現場まで運べるわけか」

空木は頷きながら言った。

「そして、車を登山口辺りにおいて、戻る。電車は動いていないけど、タクシーなら駅まで出れば捕まえられるか、呼べる」

「向こうの捜査本部も、そう読んでいるだろう。タクシー会社とホテルを片っ端から洗っている筈だ。深夜に乗せる客は、大概は酔っ払いだ。素面(しらふ)で、田舎の駅から乗る客はそうはいない」

 石山田は芋焼酎をロックで飲み始めた。

 「それと、大林刑事から浅見芳江の毛髪を取ってくれるように頼まれた。被害者のマンションから、女性の物と思われる毛髪が採取されたらしい」

「やっぱり。でも奥さんには女の毛髪が取れたとは言いにくいね」

空木は、(あたか)も、そういう経験をしたかのようなしたり顔で焼酎を飲み干した。

「そうなんだ、奥さんは名古屋には引っ越しの時しか行っていないと言っているしね。あとは、健ちゃんが見つけた花崗岩の石粒だけど、何とか岳の近くの温泉を当たっているらしいけど、単独で来る登山者は結構たくさんいるらしくて、ホシに繋がるような情報は取れていないようだ」

「御在所岳だ。麓の温泉は、湯の山温泉だったかな。俺は泊まったことはないけど、十軒以上あるからね」

 空木は、自分が言ったことが解決の糸口に繋がってくれればと、思ったが、顔写真でもあれば別だが、何も無い中での聞き込みでは難しいだろうと思った。




『尾張名古屋』


 湖東警察署に置かれた捜査本部では、事件発生から一週間経過しての、捜査会議が開かれた。

 被害者の足取りは、六月九日木曜日の午後十時過ぎまでは、部下である塩野と梅田の三人で、蕎麦屋で飲食。タクシーで千種のマンションに帰宅途中、マンション付近でロープの様な物で首を絞められ殺された。その夜、被害者の駐車場に、他府県ナンバーの黒っぽい車が停まっていたが、朝には無かった。車種はRV車様だった。因みに、被害者自身の車は、飲酒するつもりだったことから、会社に置かれたままであった。被害者の部屋は荒らされた様子は無く、殺害現場ではないと思われた。部屋から、女性の毛髪と思われる物が採取され、鑑識でDNAを調べている。東京にいる浅見芳江の毛髪と比べるため、国分寺署に協力を依頼している。被害者の部屋にあったパソコンには、捜査の参考になるようなものはなかった。

 空木が尾行していた男の足取りは、大垣から乗り換えた電車の車掌が、帽子、色付き眼鏡をかけた登山者風の男を見ていた。醒ヶ井(さめがい)の養鱒場バス停の商店主が見た車は黒っぽい大きな車としか確認出来ていない。

 イシダスポーツ名古屋店で九日にザック二つ、ロープ、服を買った、帽子、色付き眼鏡の男のその後の足取りは掴めていない。

 被害者の登山靴に挟まっていた、花崗岩の石粒から三重県御在所岳付近の温泉である、湯の山温泉の聞き込みを行ったが、五月一日から六月九日までの単独での男性泊り客は、十四軒の温泉宿合計で二百三名であった。

 空木に尾行を依頼した「仲内和美」については、全く情報はない。ただし、国分寺署からの情報で、被害者の葬儀の芳名帳に「仲内好美」という名前が記帳され、記帳したのは本人ではなく代理と称する男だった。

 以上の報告が刑事課長からされた。そして、自殺に見せかけた計画的犯行からすると、殺害の動機は怨恨である可能性が高く、被害者の周辺関係者を洗うことが指示された。さらに今後の方針として、帽子を被った色付き眼鏡の男は、空木が尾行した男と同一人物の可能性が高い。この男の足取り調査をさらに進めること。黒の他府県ナンバーのRV車で、死体を運んだ可能性が高く、醒ヶ井養鱒場付近で同様の車が目撃されていることから、犯人は九日夜から翌十日午後一時時半頃まで、登山口林道付近に車を駐車していた可能性がある。従って、このRV車の行方とともに、九日深夜に醒ヶ井養鱒場もしくは醒ヶ井駅付近で客を乗せたタクシーがないか洗い出すこと。そして被害者の女性関係の調査。湯の山温泉宿泊客の裏づけ。そして仲内姓の調査を全国の警察に正式に依頼するとされた。


 翌日小雨が降る中、湖東警察署の捜査本部から、大林が若い刑事とともに東亜製薬の名古屋支店に向かった。名古屋の空も、雨が降ったり止んだりで、雲が低く垂れ込んでいた。

 東亜製薬の名古屋支店は丸の内のオフィス街の一角のビルにあった。名古屋支店長の篠村と総務課長の戸塚、そして業務課長で大林とは何度も顔を合わせている塩野が応対し、応接ソファーに大林たちと向かい合わせに座った。

 大林は手帳を手にしながら切り出した。

 「お忙しい所申し訳ありません。ご承知の通り御社の部長の浅見豊さんの殺害事件の捜査で伺いました。既に一度支店長さんと塩野さんからはお話をお聞きし、仕事面で浅見さんが恨まれるようなことはなかったとお聞きしました。我々としては、金銭、女性関係での怨恨でも捜査を進めています。浅見さんはお金の貸し借りで揉めているような様子はありませんでしたか」

「社内ではそういう話は耳にしたことはありませんが、プライベートなことに関しては分かりかねます」

支店長の篠村が答えた。

「総務課で知る限りでは、社外からお金に関する電話も来客もありませんでした」

総務課長の戸塚が次いで答えた。

「そうですか。わかりました。そうしましたら次に浅見さんの女性関係についてお聞きしたいのですが、これもプライベートなことでもあり、皆さんお話し難いかも知れませんが、噂でも何でも結構です些細なことでもお聞かせいただきたい」

大林は三人の顔を見た。

「女性関係についても私は全く分かりません。たまに一緒に飲みに行くこともありましたが、女性の話を私の前でしたことはありませんでしたから」

篠村はそう言うと、戸塚と塩野の方に顔を向けた。戸塚が首を傾げながら、塩野を見て言った。

「塩野課長は浅見部長とよく飲みに行っていたと思うけどどうなの」

「週に一回は部長にはお付き合いしていました。あの日も一緒に行きましたからよく行っていたと思います。部長は単身赴任だったので、ほとんど外食ですから飲食店にはよく行かれていたと思います。ただ、女性関係についてはそんな話をしたことはなかったので私も分かりません。接待で使うクラブなどから誘いの電話はあったと思いますが、私たちの給料では、プライベートでは高いので中々行けませんから部長と言えども店に通うということも無かったのではないでしょうか」

塩野は大林の顔を見ながら言った。

「以前もお聞きしましたが、浅見さんの前任地の仙台での様子はどうだったんでしょうね。浅見さんは仙台でも名古屋同様単身赴任だったようですから。女性関係もあったかも知れませんよね」

大林は三人の顔を窺うように見回した。戸塚と塩野は目を伏せた。

「仙台で何があったかは知りませんが、女性の噂はあったようです。男ですからプライベートなことで浮いた話が出ても不思議ではないと思いますが」

戸塚と塩野の様子を見た篠村が、代表するかのように答えた。

「そうかも知れません。しかし、殺人事件が起きたとなるとプライベートな事だからでは済まないのです。支店長さんお分かりになりますよね」

大林は口調を強めて言った。

「ええ、勿論分かります。とは言え名古屋にいる我々には当時の仙台での事など全く分からないことは事実です」

 篠村は困惑していた。

 「そうですか、これ以上皆さんに聞いても仕方ありませんね。支店長さん、浅見さんの机の中、特に浅見さんがお持ちになっていた、得意先も含めた全ての名刺を拝見させて頂きたいのですが、お願い出来ますか」

大林は篠村を見た。篠村は戸塚に、大林たちを浅見のデスクに案内するよう指示した。

 浅見のデスクの上には花が置かれていた。業務中の社員たちは、大林たちが何をするのだろうかとチラチラと見ていた。篠村たちはそれぞれ自分の机に戻り、大林たちの調べが終わるのを待っていた。

 浅見の机の中は、業務の内容毎にファイルで整理されていたが、誰かの手が入っているような感じは無かった。大林たちは業務ファイルには全く手を付けなかった。

 すぐに名刺ファイルは見つかった。分厚いファイルを大林は捲った。大半は病院を中心とした医師などの得意先と取引特約店の名刺で占められていた。大林の目当ては飲食店のそれも女性の名刺だった。目当ての名刺は料亭を始め、すし屋、レストラン、クラブ、スナックまで二十軒弱、枚数で二十四、五枚あった。大林は篠村に抜き出した名刺のコピーを依頼した。名刺の裏の地図も含めてのコピーには時間が掛かった。コピーを受け取った大林たちは、篠村に礼を言い東亜製薬の名古屋支店を出た。

 外は小雨が降り出していた。東亜製薬の名古屋支店の前は大通りで、道路の真ん中は公園だった。人影は無く、紫陽花の青い花が気持ち良さそうに咲いていた。

 二人は大通りから少し小路に入った喫茶店に入った。大林は東亜製薬でコピーした名刺の一覧をだした。店の数を改めて数えると十九軒だった。若い刑事が「これ全部接待で行っている店なんですかね」と呟くように言った。

 大林は、フレンチレストラン、料亭、すし屋、中華レストラン、ホテルのラウンジは除外し、女性従業員がいるであろうスナック、クラブの数を数え直した。「七軒か」と独り言を言って、コピーされた名刺に印しを付けた。

 大林は「全部、錦にある。これなら今日中に回れるな。」と若い刑事に言った。若い刑事は「大林さん、店はまだ開いていませんよ」と言って時計に目を落とした。時間はまだ午後五時を回ったところだった。

 「そうだな、従業員の多い大きな店なら誰かいるかも知れんが、スナックは八時位にならないと開いていないだろうな。クラブと思われるところから行ってみよう」

 午後六時少し前、二人は喫茶店を出た。飲み屋街の錦に向かった。外は、雨は上がっていた。日没にはまだ時間があった。十分ほど歩くと錦通りと云われる名古屋で一番の繁華街に着いた。人通りはまだ少なかった。開店の準備する店の従業員と思える人たちが、ビルの出入り口、店の玄関を出入りしていた。

 一軒目はビルの三階のワンフロアーを占める『G&G』というクラブだった。ドアは開いていた。男性従業員が店内を掃除していた。大林は「開店前です」という従業員に警察証を見せ、ママは居ないか聞いた。男性従業員はママは七時を過ぎないと出てこないと言った。東亜製薬の浅見という男を知っているか聞いたが、東亜製薬はうちを使ってくれるが、自分は浅見という人を知らないと答えた。

 二人は店を出た。時間はまだ明るさの残る午後六時半だった。食事をすることにして小路を歩いた。味噌煮込みうどんを食べた二人は、「夏は味噌煮込みはダメだ、汗だくになる」と言って店を出た。

 時間は七時を回っていた。『G&G』のドアを再び開けた。さっきの従業員が大林たちの顔を見て「ママ、警察の方が見えました」と言ってママを呼んだ。ママの名前は斉藤みどりと云った。大林は名刺のコピーを見て頷いた。

 「東亜製薬の浅見さんはお店によく来ていましたか」

大林がママの斉藤みどりに訊いた。

「東亜製薬様にはよく来て頂いていますが、浅見さんというお名前は、私は覚えていません。頻繁にはお見えになっていない方だと思います。何かあったのですかその方」

「いや、それでしたら結構です。お邪魔しました」

大林はそう言って店を出た。二軒目、三軒目も同様の答えだった。時計は午後八時を回り、夜の帳が下り、錦の街のネオンが色とりどりの灯りを点けていた。

 四軒目の『ラウンジ風露』という店のドアを開けた。ママの名前は長谷百合子と云った。高級そうな着物を着ていた。風露のママは、浅見豊が奇禍に遭ったことを知っていた。

 「浅見さんがうちに来なくなって、半年以上経つと思います。うちの女の子にご執心の時期があって一時は毎週お見えになりました。あんな事になって驚きました」

 百合子の言葉に、浅見がご執心だったその女の子は居るかと、大林が聞くと、居るとのことだった。

 その女性は文子という名前だった。

 「浅見さんは貴女にかなり熱を上げていたとお聞きしましたが、親しくされていたのですか。例えば、浅見さんのマンションに行くとかです」大林は緊張する文子に訊いた。

「親しいということはありませんでした。お部屋にも行ったことはありません。浅見さんは正直言うとしつこくて、二度、同伴のお食事をしました。それと一度だけ、お店が終わってからお寿司を食べに行きました。その時、自分の部屋に行こうって誘われましたが、私には彼氏がいるからと断ったら、それっきりお店にも来なくなりました。去年の十二月頃だったと思います。浅見さんの目当てはアレだけだったと思います」

 大林は、文子に訳を話して毛髪を数本貰い受けた。若い刑事はティッシュに包まれた文子の毛髪を手帳の間に入れた。

 五軒目、六軒目は収穫はなかった。最後の七軒目のスナックのあるビルの前に立った時には、時間は午後九時を回っていた。スーツ姿の男たちの行き来が多くなっていた。

 アミューズビルの七階の『優』というスナックに二人は入った。「いらっしゃいませ」の声が響いた。大林はカウンターの前まで行き、カウンターの中の女性に警察証を見せた。女性従業員は「ママ」とボックス席に座って接客している女性を呼んだ。

 その女性はママで中島優子と云った。背がスラっとした美人だった。優子は浅見豊の事件を知っていた。優子は客が居るので外で話しましょうと言った。

 「浅見さんはよくいらっしゃいました。亡くなる一週間前にもお見えになっていました。あんな事になるなんて」と言って優子は口に手を当てた。

「貴女は浅見さんのマンションをご存知ですか?」

大林は、知らないという答えを予想して通り一遍の聞き方をした。

「ええ、実はその最後にお見えになった夜に、部屋に入りました」

「部屋に入ったんですか。それは何時(いつ)か覚えていますか」

 身を乗り出す大林の横で、若い刑事は手帳を開いた。

 「事件の起きる前の週の木曜の夜というか、金曜の未明というのでしょうか。浅見さんあんまりにもしつこいので、断り切れずにお茶を頂くだけということで帰りに寄りました。本当に寄っただけです。私、浅見さんがお風呂に入っている間に帰らせて頂きました。私、そんなつもり全然ありませんでしたから」

「分りました。あと少し伺いたいのですが、浅見さんのお金のことですが、付けで飲むとか借金しているような感じはありませんでしたか。それから浅見さんはお店に来ている時、仙台の事を話されたことはありませんでしたか。仙台は浅見さんの前任地なんです」

「お金についてはきれいな方でした。いつも現金でお支払い下さっていましたし、借金している感じは全くありませんでした。それと仙台の事ですか‥‥‥仙台は、昔は日本三大ブス産地の一つと言われたけど、今は美人が多いと言っていたのは覚えていますけど、それ以外は記憶に残っている事はありません」

「そうですか、分かりました。ママさん申し訳ありませんが、ママの髪の毛を何本かいただけないでしょうか。浅見さんの部屋に落ちていた毛髪と照合させて頂きたいのです」

大林は手帳をポケットに終いながら、横の刑事に目で、受け取れと合図した。

 優子は少し待ってくださいと言って、店の中に戻った。しばらくして優子は、ティッシュの上に数本の毛髪を乗せて出てきた。大林は礼を言って、それを若い刑事に渡した。大林は改めて協力の礼を言って店を後にした。

 

 東京では同じ日、小雨が降る中、石山田と空木が国立の浅見宅を訪れていた。

 浅見芳江とテーブル越しのソファーに座った。芳江は事前に石山田から連絡を受け、自身の毛髪を用意していて、ティッシュで包んだ毛髪を石山田に渡した。

「奥さん、お手数掛けて申し訳ありません。頂戴いたします」

 石山田は毛髪を確認して、丁寧に用意したビニール袋にそれを入れた。

 「因みに、亡くなられた御主人の血液型はO型とお聞きしていますが、奥様は」

「私はA型でございます」

「お気を悪くしないでいただきたいのですが、奥様の毛髪と違う女性のものだと、確認される可能性が高いと思われます。御主人の部屋に入るような女性の心当たりはありませんか」

 石山田は手帳を手にストレートに聞いた。横で聞いている空木は、背中に汗が流れた。

 「心当たりと言われましても、お答えのしようがありません」芳江は膝に手を置きながら小声で答えた。

「名古屋には一度しか行かれていないということですから、尤もな事だと思います。それで、名古屋にはいつ行かれますか。御主人の荷物の整理もしなければならないのではと思いますが」石山田だ。

「はい、来週辺りにでもと思っていますが、息子は学校がありますし、親類に頼もうと思いますが、都合がつくかどうかも分からないので、私一人で行くことにしました」

芳江は心細げな声で答えた。

「一人で片付けるのは並大抵ではありませんよ。一人では持てない物もあるでしょう」

「ええ、でも家具類は業者さんにお願いして全て廃棄してこようと思っていますし、何とかなるのではと」

芳江はますます心細げな声になった。

「奥さん、じゃあこの男を一緒にお供させますよ。御主人を最初に見つけたのもこの男ですし、昔、野球もやっていて力もそこそこありますよ。それに何と言っても、人畜無害で安心ですし、世界で一番ヒマな人間ですから大丈夫です」

石山田は空木を見ながら、空木に断りも無く唐突に口に出した。

「ええ、俺、俺かい」

空木は驚いた。

「それはあまりにも申し訳ありません。私一人で何とかやってみます」

驚く芳江を前に、石山田が続けて言った。

「それに、この男は名古屋にも何年か住んでいて、地理にも通じていますよ。奥さん、名古屋は全然分からないでしょう。連れて行きなさい、役に立ちますよ。(よろず)相談探偵事務所の空木君いいよね」

いつもは健ちゃんと呼ぶ石山田が、空木君と呼んだ。

勢いに押された空木は。

「あああ、いいよ、喜んで行きましょう。奥さんさえ良かったら、お手伝いさせてください」

言ってしまった。

「それは‥‥そうしていただけたら、有り難いですし、心強い限りです。本当に宜しいのでしょうか」

芳江は真剣な顔で二人を見ながら、聞きなおした。

「大丈夫です」

石山田が答えた。

答えた石山田に呆れたように顔を向けた空木は、「大丈夫です」と改めて答えた。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます。本当に助かります」

芳江は笑みを浮かべながら礼を言った。

 微笑んだ芳江の顔を見るのは二人とも初めてだった。空木には、芳江の笑い顔は年齢よりも随分若く見えた。

「業者の手配もありますから、早めに日程の御連絡を下さい。私はいつでも大丈夫ですから」

 空木は、芳江に気遣いさせないように、自分はヒマであることを改めて強調し、名刺を芳江に渡した。


 浅見豊の葬儀から一週間が経った。

 梅雨空の(あいま)から夕日が差し、名古屋は蒸し暑かった。名古屋駅についた空木は、何度か泊まった駅前のホテルにチェックインを済ませ、ロビーで後輩の土手登志夫が来るのを待った。浅見豊の部屋の整理に来たついでに、後輩の土手と一杯飲む約束をしていた。浅見芳江は金山駅の近くの全日空ホテルを取っている。明日の朝、迎えに行く事になっていた。

 土手は日が沈みかけた午後七時過ぎにロビーに姿を見せた。二人は近くの居酒屋で飲むことにした。ジョッキで乾杯しながら、土手は、空木に名古屋に何の用事で来たのか聞いた。空木は、霊仙山で起こったこと、自分が容疑者となった経緯、被害者の自宅が自分のマンションに近いことから、名古屋の部屋の整理に付き合うこととなったまでを説明した。

 「それ新聞で見ました。霊仙山で殺人事件が起きるなんて驚きましたよ。ついこの前二人で登った山で事件が起きるなんて。しかし、空木さん大変だったんですね」

土手は驚きながらも、興味津々だった。

「それで、犯人は捕まったんですか」

「いや、まだだ」

 空木は、湖東警察の捜査本部から土手には、自分と一緒に登った確認は入らなかったのだと思った。

 「空木さんが尾行していた男が犯人なんでしょうかね。犯人だとしたら、あの場所まで呼び出したんでしょうか。呼び出されて行けるような所ではないですね」

 土手の問いかけに、空木は、細かくは話せないが、別の場所で殺されて、あそこに運ばれたらしいことを話した。

 「空木さんに尾行を依頼した人は、全く分からないのですか」

空木は、嫌なことを聞いてくるなと、思った。一般論として依頼人に関して全く知らずに仕事をするというのは、善良な市民のする行動ではない。空木は恥ずかしかった。

「いやあ、それを聞かれると辛い。探偵業の看板を出した自分としては恥ずかしい次第なんだけど、全く分からないまま、仕事を引き受けてしまったんだ。だから、何故俺に尾行を依頼してきたのかも分からない」

 空木は、手羽先を手に取って嚙みついた。

 「それに霊仙山を選んだのも不思議ですね。空木さんが何回も登っている山で、男を尾行することになるなんて。もしかしたら、空木さんが霊仙山を良く知っていることを、依頼者は知っていたんじゃないですか。思い当たる人はいませんか」

 土手はジョッキを空にした。

 「思い当たるのは土手ぐらいだよ。一緒に登ったことがあるのは何人かいるけどね」

 空木もジョッキを空けた。

 「ところで、土手に聞きたい事がある。東亜製薬に知り合いは居ないか。会社の内情を話してくれるような知り合い、友達はいないか」

 空木が土手を呼び出したのは、これを聞きたかったからだ。

 「東亜製薬の知り合いですか。知っている人はいますが、友達となると、いませんね」

土手は言った後、しばらく考えていた。

 土手の勤めている会社、つまり空木が今年の三月まで勤めていた会社は、万永製薬という製薬業界では中堅の会社である。一方、東亜製薬は製薬業界の大手と言われる会社で、医療機関を訪問するMRと言われる職種の人数でも、万永製薬の七百人に対し、東亜製薬は二千人を擁する大会社である。

 「空木さん、村西さんに聞いてみたらどうですか。空木さんの同期ですし、村西さんは帝都薬科大学卒でしたよね。東亜製薬は帝都薬科卒が多いから友達がいるかも知れませんよ」

土手は一口餃子を頬張りながら、空木に言った。

「村西か。そう言えば村西とも霊仙山に登ったな。しかし、あいつ薬大卒業してるけど、薬剤師じゃないからな。東亜製薬に友達なんかいるかな。まあ、一度連絡して聞いてみるか」

 村西というのは、空木とは万永製薬入社同期で、最も馬が合う仲であった。空木が万永製薬を辞める際、最も慰留したのは彼だった。送別会の時も、新宿で朝まで飲み明かした。薬科大学を卒業したが、国家試験にずっと通らず、薬剤師ではなく、薬学士でいる。

 「空木さん、東亜製薬になんかあるんですか。もしかしたら、殺された人って東亜製薬の人ですか」

空木は、それにははっきりとは答えなかったが、土手はそれと感づいたようだった。


 翌朝、空木は全日空ホテルに浅見芳江を迎えに行った。今日も天気は良く、暑かった。芳江はGパンにTシャツ姿で、いかにも部屋の整理、片付けという出で立ちだった。二人はタクシーで、浅見豊が単身で住んでいた、千種区今池のマンションに向かった。

 マンションはクリーム色の六階建てだった。玄関の向かい側には道路を隔てて、公園があった。空木は、浅見はこの辺りで殺害されたのかと思い、周囲を見渡した。ここから四、五分歩けば、今池の繁華街があるが、この辺りはマンションが多く、閑静な住宅街だった。確かに、夜ともなれば、人通りはほとんどなさそうだ。駐車場はマンションの東隣にあるが、昼でも人の存在が分かりにくい、ましてや夜ともなればほとんど人は見えないのではないかと思った。

 浅見豊の部屋は三階の東端の301号室だった。このマンションには管理人は常駐してはいなかった。エレベーターで三階まで上がり。301号室の前には、業者が用意したダンボールが置かれていた。空木が手配したものだった。

芳江は空木に礼を言い、ドアの鍵を開けた。湖東警察署の刑事たちが、捜索で部屋に入って以来、誰も入っていないせいか、モワッとした澱んだ空気が流れ出てきた。

 部屋は、2LDKで寝室にはベッドが置かれていた。空木が見る限り、山登りの匂いはどこにもなかった。やはり浅見は山はやっていなかった。芳江は部屋を見渡しながら、しばらくぼんやり立っていた。夫の生活の場に触れ、その生活を思い巡らせているのか、比較的綺麗に整理された部屋に、別な思いが出てきたかは分からないが、ぼんやり眺めている時間は短くはなかった。

 空木は、芳江に部屋の片付けを促した。芳江は台所の食器、冷蔵庫の中、洋服掛け、整理ダンスの中を整理した。整理しながら、時々手を止め、じっと見つめている時がしばしばあった。涙を流しているようにも見えた。二人の思い出に胸を詰まらせたのかも知れない。

 和机を整理している時、芳江が「あら」と小さな声を上げた。空木はどうかしたのか聞いた。

「通帳が出てきました。何のために作ったんでしょうね」

 芳江は、空木に見ても構わないという風に手渡した。その通帳は七十七銀行の通帳で、記帳されていたのは、2008年5月の日付で一万円の入金のみであった。

「これは、口座を作った時の入金金額だけですね。私も仙台に赴任当時、水道料の払い込みだけは地元の銀行に振り込まなければならなくて、口座をこの銀行で作ったことがありますよ。恐らく、あとはカードで済んでいたんでしょうね。残額を確認する必要があるでしょうから、東京に戻ったら支店を探して記帳しましょう。どこかとお金のやり取りもあるかも知れませんし」

「私、主人がどんなお金のやり取りをしていたかなんて興味ありません」

「でも奥さん、お金のやり取りがあったとして、その相手次第では犯人の手掛かりに繋がるかも知れないですよ」

「‥‥‥空木さんにお任せします」

  寝室、浴室と整理し終わった頃、昼を回っていた。空木には空腹になるとイライラする癖があった。

 「奥さん、お昼ご飯にしませんか」

「もうちょっとで終わりますから、もう少し頑張りましょう」

「奥さん、ひつまぶしって御存知ですか。うなぎの蒲焼なんですが、三つの食べ方が楽しめて、名古屋の名物ですけど、これは美味いんですよ」

 空木は腹が鳴った。名古屋名物の中でもこれが一番美味いと空木は思っていた。

 「テレビでは見たことはありますけど、食べたことはありません」芳江は片付けながら答えた。

 午後一時を回った頃、芳江が腰を上げ「大体終わりましたね、食事にしましょうか」と言った。マンションを出た二人は、タクシーを拾った。

「熱田の蓬莱軒本店までお願いします」と、空木は運転手に行く先を告げた。

「空木さん、やっぱり名古屋は良く御存知でいらっしゃるのですね」

芳江が嬉しそうだった。

「いやいや、今からいく所は有名で誰でも知っています」

言いながら空木は携帯電話で予約を入れた。

 熱田蓬莱軒についた二人は、格子戸を開け店に入った。座敷のテーブルに座るとひつまぶしを注文した。一善目はそのまま、二膳目は薬味をのせる。三膳目はだし汁をかけてお茶漬け風に食べる。

「美味しかった。こんなにたくさん食べたのは初めてかも知れません」

芳江は言った。

「それは良かったです。ところで奥さん、これからどうされますか。御主人の部屋に戻りますか」

「いえ、片付けは終わりましたから、一度ホテルに戻って、着替えてから主人の会社にご挨拶と、荷物の引き取りに行こうと思います」

「ああ、そうですね、会社の荷物というか、私物があるんですね。もし、差支えがないようなら、私もご一緒させていただけませんか」

「空木さんが宜しかったらどうぞ」

食事を終えた二人は、全日空ホテルに向かった。


 ホテルから出てきた芳江は、Gパン姿から、水色の半袖のワンピースに着替えていた。

 東亜製薬名古屋支店は、テレビ塔近くの大通りに面したオフィス街にあった。タクシーを降りた空木はどこかで見た風景だと感じた。

 東亜製薬は、二十五階建てのビルの十階と十一階にあった。二人はエレベーターで上がり、受付のインターフォン越しに来社を告げた。ドアが開き、中から見覚えのある顔が出てきた。塩野と梅田だった。

空木と芳江は応接室に通された。お茶が運ばれ、すぐに支店長の篠村が入ってきた。篠村は、芳江に改めてお悔やみを述べ、浅見豊の机の中は、一応こちらで整理させてもらったことを説明した。会社の機密事項の漏出を防ぐためでもあると思われた。さらに、篠村は芳江に、先日、刑事が来て浅見豊のデスクの中にあった名刺ホルダーの中から何枚かをコピーして行ったことも話した。

 応接室を出た二人はフロアーに案内された。左側の机の列の一番奥に、花束が生けられた花瓶が置かれていた。浅見豊のデスクだった。

 私物は僅かで、文房具、名刺ホルダー、そして社内で撮られたと思われる数枚の写真であった。芳江は丁寧に挨拶し頭を下げた。フロアーにいた社員全員も立ち上がり、芳江に向かって深々と頭を下げた。

 二人は東亜製薬の名古屋支店を出た。時間は午後三時を過ぎていた。梅雨の中休みなのか、陽射しが強く、大通りの真ん中にある公園の樹木の葉が暑そうに(きらめ)いていた。

「奥さんお疲れでしょう。ホテルに戻ってお休みになられたらいかがですか」

空木は、芳江が心身ともに疲れているだろうと思った。

「はい、少し疲れました。そうさせていただきます」

 空木は金山の全日空ホテルに芳江を送り、夕方には迎えに来ることを約し、駅前のホテルに戻った。


 夕刻の六時過ぎ、空木は、芳江を千種駅の近くの、味噌御田(おでん)つる軒という食べ物屋に案内した。

「奥さんの口に合うかどうか分かりませんが、ここも名古屋の名物の味噌おでんを食べさせる名物店です。予約も取りにくい店ですけど、今日は運よく取れました。話の種に一度食べて見て下さい」

空木は、芳江の気持ちが少しでも、不幸な事件から遠退く様に、精一杯の気遣いであった。

「空木さん、本当にありがとうございます。私のようなおばちゃんに付き合って名古屋まで来ていただいた上に、こんなにお気遣いしていただいて」

芳江は丁寧にお辞儀をして礼を言った。

 二人はビールを注文し、赤黒い八丁味噌が入っただし汁に、たっぷりと漬かったおでんを食べた。

しばらくして、空木は一枚の写真をゆっくりと芳江に見せた。

「奥さん、この写真を見て下さい」

 それは、空木が尾行を依頼された時に、同封されていた写真だった。

 「あ、主人。それに今日行った会社の辺りのように見えます。どこでこの写真を」

「これは、ある人から渡された物です。ある人というのは仲内和美と名乗る人なのですが、どこの誰か全く分かりません。私はこの写真の男性、つまり御主人を尾行するように依頼を受けました。でも、結果的に尾行したのは御主人ではありませんでした。御主人はあの廃屋に遺体となって置かれていました」

 空木はここで言うべきことではなかったかと思い、芳江の顔付きを窺った。

 芳江は写真を空木に返した。

 「誰が主人の後をつけるように頼んだんでしょうか。主人を恨んでいた方がいたということですね」

 冷静に静かに話す芳江の言葉に、動揺は感じられなかった。

 「ご主人が恨まれていたかどうか分かりませんが、何も理由なしにこっそり写真を撮って、尾行を依頼することは、普通はないと思います。それと、尾行の依頼人が誰なのかは全く分かりません。今のところ、男女さえも分かっていません。ただ、その依頼人がこの名古屋で、ご主人の写真をこっそり撮った可能性は高いと思います。ご主人の殺害に依頼人が関わっているのは間違いないと思います」

 空木と芳江が店を出た頃、名古屋の空はやっと暗くなった。

 翌日、荷物を東京に送り、二人は東京へ戻った。



『同期』


 湖東警察署では、事件発生から二週間が経ち、三回目の捜査会議が開かれた。会議では、聞き込みによる、新たな情報の報告がされた。

 死体が発見された日の前夜遅く、醒ヶ井(さめがい)の駅付近から乗客を乗せたというタクシーが見つかった。そのタクシーは彦根にあるタクシー会社で湖東タクシーといい、運転手は高柳という運転手だった。

 高柳によれば、深夜一時頃、迎車の依頼が入り、醒ヶ井の駅付近から大垣の駅近くのビジネスホテルまで乗せた。その客は、深夜にも関わらず色付き眼鏡をかけ帽子を被ったままだった。行き先を言った後は、話しかけても全く話はしなかった。大垣のホテルには深夜二時頃着いた。

 さらにそのホテルでの聞き込みでは、その男は、午後四時頃チェックインした、藤田勇二という客ではないか、ということだった。その男は、チェックインの際はザックを持ち、一時間ほどして、ルームキーはフロントに預けずに持ったまま出かけた。その際、帰りは深夜になるが、ホテルの玄関ドアは開いているかと確認していたこと、色付き眼鏡と帽子を被っていたのが特徴的だったことで、フロントの係員はよく覚えていた。

 車については、車で来たのか確認した際に、車はここには置かないとのことでナンバーは聞かなかったが、黒っぽい車で出かけたように思うとのことだった。

 夜、何時に戻ったか分からないが、朝は登山姿で午前七時半ごろチェックアウトした。

この男がチェックインの際に記入した電話番号は使われておらず、また記載された住所の、東京都千代田区四番町七を管轄の麹町署に当たってもらったが、該当するマンションも藤田勇二という男も存在していなかった。

 この聞き込みから、重要容疑者である色付き眼鏡の帽子の男は、名古屋の登山用具店でザック他を購入した後、大垣のホテルにチェックインした。そしてここから名古屋に戻り、浅見豊を殺害したと、推測された。

 そして殺害後、深夜、車で死体をあの廃屋まで運んだ。死体を置いた後は、歩いて醒ヶ井駅付近まで行き、呼んだタクシーで大垣のホテルまで戻った。車は登山口周辺の林道に停め、翌日の逃走用に置いて行った。

 そして翌日、大垣駅から柏原駅に向かい、霊仙山に登り、空木健介の尾行のターゲットになった。空木健介に死体を発見させた後は、置いていた車で逃走した。こういう足取りが考えられると報告された。

 次に、湯の山温泉の単独男性の宿泊客の洗い出しについては、当該の二百三名の宿泊客全ての宿泊名簿から、確認作業を急いでいるが、不在の人も多く、全ての所在確認は取れていない。所轄の協力も得ながら確認を急ぐと報告された。

 被害者の怨恨の線の調査について、金銭、女性、社内それぞれについての聞き込みが報告された。

 金銭関係については、目下のところ社内社外での怨恨に繋がるような情報はなかった。

 社内の人間関係についても、東亜製薬名古屋支店の社員を中心とした聞き取りが行われ、被害者の仙台支店在籍時のことは分からなかったが、何かがあって社内で口止めされている可能性も考えられ、状況次第では仙台での聞き取りが必要になるかも知れない、と報告された。

 女性関係に関する調査で新たな報告がされた。浅見豊の会社にあった名刺ホルダーから飲食店を当たった結果、被害者と親しくしていたと思われる女性が浮かんだ。それは、名古屋の繁華街である錦のスナック『優』のママで中島優子と言い、浅見豊が殺害される一週間前に千種のマンションの部屋に入った、とのことであった。

 中島優子によれば、浅見豊とは親しい関係ではなく、今まで何回も部屋に寄るようにしつこく誘われていた。その夜も、浅見は閉店までお店に居て、しつこく誘われ、寄るだけということで初めて部屋に入った。そして、浅見が風呂に入っている間に部屋を出た、ということであった。中島優子の毛髪と、部屋から採取された毛髪は、同一の物と確認された。

 最後に、「仲内」姓の調査状況について報告された。それによると確認されているだけで、全国で二百四十九世帯の仲内姓がある。全国の警察が各所轄で調査協力してくれている。この滋賀県でも三軒が該当したが、いずれも事件に関係しそうな情報はなかった。和美、好美の名前が、実在するかどうかも分からない中での調査だけに、大きな期待は出来ない。また、時間も掛かるだろうと報告された。

 捜査は少しずつ進展しているものの、犯人に直接結びつくような情報、犯行に繋がる動機の手掛かりなどは浮かんでこなかった。 

 捜査会議で出された意見は、被害者の仙台支店時代のことを詳しく調べる必要があること。そして、空木に尾行を依頼した理由がどうしても疑問として残る。空木を巻き込むことが目的だったとしたら、やはり空木健介の周辺、人間関係に手掛かりがあるのではないか、という意見も出されたが、設置から二週間近くが経過した捜査本部の人数は、今後縮小することもあり、積極的な捜査は見送られた。

 

 名古屋から戻った空木は、東京駅で浅見芳江と別れ、七十七銀行へ向かった。

 七十七銀行の東京支店は、予め新幹線の車中でその所在地は調べておいた。七十七銀行東京支店は、地下鉄の東銀座駅から二、三分の所にあった。

 空木は、ATMで芳江から預かった通帳に記帳した。予想した通り、水道料の振込みに使われた口座、通帳だった。半年に一度入金され、二ヶ月に一度の割で三千円弱の金額が引かれていた。残額は僅かな通帳であったが、その中で最後の入出金が目を引いた。それは昨年十二月に五十万の入金、今年一月に同額の出金が記帳されていた。入金先はトウアセイヤクカブとあった。

 記帳を終えた空木が、自宅マンションの部屋に戻ったのは午後五時をまわった頃だった。

空木は、浅見芳江の家に電話をした。芳江は帰宅していた。空木は、明日通帳を返しに伺いたいが都合はどうか聞いた。芳江は午後なら在宅ということだった。

 芳江への電話の後、空木は万永製薬入社同期だった村西の携帯に電話を入れた。この時間帯は、製薬会社の営業職であるMRの最も忙しい時で、携帯は留守電となった。空木は、時間が空いたら電話が欲しい旨の伝言を入れておいた。

 石山田に電話をした。石山田は、今日は時間が空かない、ということだった。やはり一番ヒマな人間は自分だと空木は思った。石山田は湖東警察からの情報として、浅見豊のマンションで採取された毛髪が誰の物か判ったこと。色眼鏡に帽子の男の、前日の足取りが見えてきたこと、などの連絡があったことを話した。

 空木は、名古屋に行って、わかったことを石山田に伝えた。依頼の写真は、東亜製薬の名古屋支店の前で撮った写真で、大通りの公園側から撮られた物であること。浅見豊のマンションから通帳が見つかったこと。通帳を記帳したところ、そのほとんどは水道料の引き落しに使われていたが、直近の一件だけ、五十万の入出金があり、それは昨年の十二月から今年の一月にかけてのものだったこと。

 石山田は、この情報は湖東警察の大林に伝えておくと言った。石山田は最後に、やはり空木健介の周囲の人間関係を洗うことが、犯人の手掛かりを掴むことに繋がるという意見も、湖東警察の捜査会議で出たということを空木に伝えた。

 石山田との電話中に、電話が入っていた。同期の村西からの折り返しの電話だった。今度は、空木が折り返しの電話を入れた。村西が出た。

 村西とは三月の末から会っていないが、万永製薬に入社以来の親友である。要件を掻い摘んで話し、明日にでも会えないか聞いた。村西は、明日の土曜なら空いているということであった。六時に新宿で待ち合わせる約束をして電話を切った。


 翌日の土曜日は、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。

空木は、朝食のロールパン、目玉焼き、ハムを食べ、愛車の50ccのバイクで、久し振りに体育センターに出かけ、トレーニング室で汗を流した。ここしばらく、アルコール摂取量がさほど多くはなかったせいか、三キロのランニングも、百五十ワット負荷のバイク漕ぎもさほど苦しくはなかった。ウェイトトレーニングを終え、心地良い汗と心地良い筋肉の張りを感じながら、シャワーを浴びた。

 独身の空木は、ジャンクフード、ファストフードは食べ慣れているが、中でもココイチのカレーは大好物である。パリパリチキンカレーで腹を満たし、浅見宅へ向かった。

 浅見芳江は、クリーム色のコットンパンツと、水色の半袖のポロシャツ姿で、年齢より若く見えた。

芳江は、空木に名古屋での礼を述べ、応接ソファーに招き、コーヒーミルで豆を挽いてコーヒーを入れた。

 「ひつまぶしも味噌おでんも美味しかったけど、新幹線の名古屋駅のホームで食べたきしめんが一番美味しかったわ」芳江は嬉しそうに言った。

 空木は、名古屋からの帰り、どうしても駅ホームの、立ち食いのきしめんが食べたかった。芳江には申し訳ないと思いつつ、付きあわせてしまうことになったのだった。そのきしめんが美味しかったと芳江は言っていた。

 「いや、あんなお昼ご飯になってしまって、奥さんには申し訳ありませんでした。失礼とは思いましたが、何事も経験というつもりでお誘いしてしまいました。新幹線の名古屋駅のホームのきしめんは、サラリーマンの間では評判なんです」

 「本当においしかった」芳江は笑った。

 空木は、コーヒーカップをテーブルに置き、預かっていた七十七銀行の通帳をテーブルに置いた。

 「通帳、お返しします。私の予想通り、水道料の払い込みのための口座でした。ただ、見ていただければ判る通り、一回だけそれとは違うお金の入出金がありました。奥さんは御存知ありませんでしたか」

 空木は、記帳された通帳を芳江の方に押しやった。

 「知りませんでした」芳江は答えながら、手に取った通帳をめくった。

 「昨年の十二月に五十万ですか‥‥。この日は確か主人の会社の賞与の支給日だったと思います。それで‥‥」

 芳江は何かに合点したようだった。少し待って欲しいと言ってソファーを立ち、しばらくして戻ってきた。

 「やはり賞与の支給日でした。主人は賞与の一部がこの口座に入るように会社に指定したようです。何のためか分かりませんが、確か私が夏より随分少ないのね、と言ったら、成績が悪かったから、と言っていたことを覚えています」

芳江は七十七銀行の通帳を見ながら言った。

「翌月にすぐに引き出していますね。何に使ったんですかね」

「主人は買い物をする時はほとんどカードでしていたはずですから、現金で五十万というのは私には思い当たりません」

 空木は、浅見豊は誰かに借金していたか、女性に貢いだか、ではないかと考えたが、芳江には聞けなかった。名古屋のマンションから採取された毛髪の主が判ったことも、空木は芳江には伝えるのを止めた。芳江もそれについて聞きはしなかった。

 空木は長居を詫びてソファーを立った。玄関まで送りに出た芳江は、空木に少し厚めの白い封筒を手渡した。

 「空木さんには、本当に何と言ってお礼を言って良いのか言葉がありません。中にお礼の手紙を入れてあります。後でお読みください」そう言って芳江は深々と頭を下げた。

 外は小雨が降り始めていた。空木はマンションのエントランスで白い封筒を開けた。中には便箋とともに、かなりの枚数の一万円札が入っていた。その便箋にはこう書かれていた。


 空木健介様

 前略

 名古屋では、マンションの後片付けから荷物を送り出すまで、そして主人の会社への御挨拶もご一緒いただいたこと、その上、大変美味しく、そして珍しいお食事にもお誘いいただいたこと、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

 主人を亡くして十日も経たない中、一人で見知らぬ所へ行くのは心細い限りでしたが、空木さんのお陰で無事、所用を片付けることが出来ました。そして、空木さんのお心遣いには、涙が出るほど嬉しく、主人が亡くなったことも一瞬忘れてしまうほどでした。

 主人が亡くなり、息子と二人だけの生活になりますが、息子のため、そして私自身のために強く生きて行こうと思っています。

 同封したお金は、空木さんに名古屋で散財させてしまったお金の、幾何(いくばく)かにしていただければ幸いです。それと、探偵の空木さんへの依頼料が含まれています。それは、主人が仙台に赴任当時、何があったのか調査していただきたいのです。主人は仙台が初めての単身赴任でした。赴任して一年程経った頃から、帰ってくる回数が減り、私との関係も冷えました。私は女性が出来たのでは、と思いましたが、問い詰めることもしませんでした。もしも、その事が今回の事に繋がっているとしたら、あの時、問い詰めていればこんな事にはならなかったかも知れない、と思い始めています。どうか調べていただき、本当の事を教えていただきますようお願い致します。

 またお会いできる日を楽しみにしております。

 梅雨空が続く毎日、どうぞお体に気を付けてお過ごし下さいませ。

かしこ

                       浅見芳江


 空木はフーッと息を吐き、封筒をポケットにしまった。


 小雨が降る中、空木は中央線に乗り、村西と待ち合わせの新宿へ向かっていた。土曜日の中央線は比較的空いていた。

 車中で空木は、浅見芳江の手紙を思い返した。浅見豊の仙台での生活で起こったこととは何か。芳江の手紙は一昨年から様子が変わった。女性が出来たのでは、と書かれている。

 東亜製薬の名古屋支店の社員たちは、仙台のことは敢えて知らないと、言っているようだ。通帳に記帳された五十万と関連しているのだろうか。もしかしたら、女性関係のもつれから誰かに脅されていた。それで五十万が必要となった。しかし、それで支払ったとしたら、何故殺されなければいけなかったのか、犯人にすれば金づるになる人間を殺す理由は何か。

 こんな事を探偵見習いのような自分が調べられるのだろうか。

 しかし、芳江は何故、今になって女性がいたかも知れないと、自分に知らせたのか、しかも手紙で。湖東警察の大林にも、石山田にも言う機会はあったのにと思った時に、電車は新宿駅に着いた。


 空木が、待ち合わせの新宿プリンスホテルのロビーに着いた時には、村西は既に待っていた。二人は軽く手を挙げ「おーっ」と合図ともうめき声ともつかない挨拶をした。

 二人が新宿で飲む時は、ここから程近い歌舞伎町の小料理屋と決まっている。二軒目は、職安通り方面に五、六分歩いたところのビルの四階にあるスナックだ。

 村西良太、四十三歳、空木とは万永製薬の同期入社だが、村西は一浪しているため、年齢は空木より一つ上だった。アルコールは滅法強く、所謂ザルである。二人は昇給、昇格もほぼ同じだったこともあって、お互いに良き相談相手だった。

 空木が三月に退職する際に村西が必死に止めたのも、多分にそういったことから来る寂しさからだった。空木も、村西を残して辞めることに心の痛みはあった。

 しかし、昇給、昇格、保身のために人脈にしがみついたり、仮面をいくつも被っている先輩、上司を見ていると、会社という組織の中で、自分自身の歩いて行く道に不安を感じない訳にはいかなかった。

 村西からは、そんな会社を俺たちで変えようと説得されたが、空木は一度、門外漢となって客観的に自分を見つめてみたかった。謂わば、サラリーマン失格なのだが、空木自身はサラリーマン、特にMR職は好きであった。

 そんな村西との三月以来の一献であった。

 空木は、帝都薬科大卒の繋がりで、東亜製薬の事を知りたいと思うようになった経緯を、順を追って村西に説明した。

 「そんな事に巻き込まれていたんか、空木、探偵業も楽やないな」

 村西の生まれは奈良だった。関西弁を敢えて使っている訳ではないが、べったりの関西弁を減らす意思も全くない男だった。

 「お前からの電話で、東亜製薬に誰かいないか名簿を繰りながら思い出そうとしたけど、内緒で内情を話してくれるような友達は思い当たらん。東亜製薬へ行く連中は真面目な奴が多いし、俺ははみ出しもんやったからな。おらんわ」

 村西は、酒の肴の島らっきょうを摘まみながら、ビールを飲み干した。

 「やっぱりそうか。無理かも知れないと思っていたけどな」

 空木もビールを飲み、北寄貝の醤油焼きを摘まんだ。

 村西は、カバンから名簿のコピーを出し、空木に渡した。それは帝都薬科大の同窓会名簿のコピーで、村西の学年の前後三年間ずつ、合計七年間分だった。そこには、現住所、現在の勤務先も記載されていた。病院勤務、薬局経営、薬局勤務そして製薬会社勤務もかなりあった。東亜製薬も毎年五、六人はいた。

 空木が名簿を見ていた時、村西が思い出したように言った。

 「そう言えば、四月だったか五月だったか忘れたけど、後輩で東亜製薬に勤めておる奴から電話が架かってきて、お前のことを聞かれたぞ」

「えっ俺のこと。それは誰、この名簿に載ってるのか」

「載ってるはずだ。大学で俺を知っていたと言ってたから。‥‥確か名前は伊村だ」

「突然電話してきたのか」

「突然と言えば突然やけど、名古屋で何年間か俺と一緒の病院を担当していたことがあって、その縁で俺に聞きたい事があって電話してきたみたいだ」

「それで俺の何を聞いてきた」

「スカイツリー(よろず)相談探偵事務所という名前をホームページで見たが、あれは村西さんと一緒の会社にいた、空木さんが開いた事務所かって聞くから、そうやと答えた。どうかしたのか聞くと、自分も会社を辞めたので、空木さんは自分の事を覚えてはいないだろうが、自分は良く覚えている。機会があったら会ってみたいって言ってた。空木お前、こいつと仙台で一緒の時期があったんやないか」

「仙台で一緒の時期か。俺が札幌へ転勤する直前かな。東亜製薬の伊村、覚えが無いよ」

 空木は、村西から渡された名簿を捲って、伊村という名前を探した。

 「あった、伊村政人。住所は仙台市泉区だ。この名簿はいつ頃の名簿だ」

「何年か前の物だ。伊村は名簿からすると学年で俺の三つ下。年はストレートだとしたら三十九だな。それと伊村が、お前とは名古屋でも一緒の時期があったって言ってたぞ。まあ、担当地区が違ったら顔を合わせることはないから、親しくなることはないやろうけどな」

「名古屋でも重なってたのか。村西、この伊村君に連絡は取れないか。仙台支店で起こった事を知ってるかも知れない」

「残念ながら、無理やな。俺の家に架かってきた電話だし、電話番号の履歴は残っていない。それに会社を辞めたらしいから、名簿に載ってる仙台の住所にはもう居れへんやろ」

 そう言うと村西は、空木に焼酎を注文しておいてくれと言って、トイレに立った。空木は焼酎と島らっきょうと本鮪の刺身を追加で注文した。空木は心の中で、浅見芳江に調査の着手料の礼を言った。

 空木は、初めて聞く伊村政人という名前を思い出そうとしたが、思い出すことは出来なかった。自分に記憶がなくて、相手だけがしっかり覚えているというのは、気持ちの良いものではない。近いうちに、辞めた万永製薬の仙台の後輩に聞いてみようと思った。

 焼酎と追加注文の品が運ばれてくるのと同じに、村西が戻った。

「おー。百年の孤独かよ。高い焼酎頼んだな」

「大丈夫、この焼酎分だけは俺が(おご)るよ」

二人は、らっきょうの匂いをぷんぷんさせながら、香ばしい麦の香りの琥珀色に輝く焼酎を飲んだ。

 ここ居酒屋での締めは焼きお握りだ。味噌を塗った焼きお握りは美味かった。

 スナックの先客は、商店主らしい二人連れだけで空いていた。サラリーマンが休みの土曜日はこの辺りの飲み屋は暇なのだろうと空木は思った。

 空木と村西はウイスキーの水割りを飲み始めた。

 「伊村という後輩は、何故俺のことを覚えていたのかな。俺は名古屋時代はもちろん、仙台時代も全く記憶にない」空木は手にしたウィスキーグラスを見ながら言った。

「何回会っても、覚えて欲しい人は中々覚えてくれへん。たった一回会っただけでも生涯記憶に残る人もおる。顔は思い出せなくてもその人の言葉ははっきり覚えている。そんなことってあるからな」

村西は煙草を(くゆ)らせた。

「嫌なことで記憶に残っているのかな」

「それはないやろ。それだったら機会があったら会いたいとは言わんやろう。殺したいくらい憎んでいたら、居場所を教えてくれと言うだろうし、お前さんの住所はホームページで分かってるよ。伊村は余程お前のことを良い人だと思っているんやないか」

「だとすると、俺が覚えていないというのは随分失礼な話になるな」

「その通りだ。空木、お前会わないほうが良いかも知れんな。良いイメージが台無しになるぞ」そう言って村西は笑った。

 いつの間にか日付が替わっていた。



『杜の都の匂い』


 翌日の日曜日も予報通りの雨だった。

 空木と石山田は居酒屋「さかり屋」でいつもの通り、イカの一夜干し、エイひれ、ニラレバ炒めを肴に芋焼酎を飲んでいた。

 空木は石山田に、浅見豊の名古屋のマンションから見つかった通帳の事を話した。

 「浅見は五十万は何に使ったと思う。俺は女絡みではないかと思う。不倫を脅されていたか、女に貢いでいたか。巌ちゃんはどう思う」

「その辺りが臭いな。物を買う時はほとんどカードを使う男が、現金で五十万支払うというのだから、怪しい使い方だ。あと考えられるのは、女絡みかも知れないが借りていた金を返す、借金返済だ」

「借金だったら芳江に言うんじゃないか」

「カミさんには言えない中身ということさ。いずれにしても事件に関係している可能性はある。湖東警察署も興味を持っているよ」

 石山田はそう言って湖東警察署の捜査本部の動きを話した。

 東亜製薬では賞与の振込口座の分割制度があって、昨年の冬の賞与では、浅見豊はこの制度を使っていた。何故かは分からないが初めて使ったようであること。スナック『優』のママ、中島優子にも浅見と借金を含め、金銭、物品のやり取りが一月になかったかを聞いたが、全く身に覚えはないし、浅見豊は付けで飲むようなことはしなかったと言っていることを石山田は話した。

 空木は石山田の話を聞くと。

 「巌ちゃん、名古屋のそのスナックのママに会いに行かないか」と、思いついたように言った。

「何で俺が名古屋まで行くのさ。健ちゃんだってそこまでする必要はないよ。いくら事件に巻き込まれて悔しいって言ってもさ」

「いや、巌ちゃん実はね、俺、浅見芳江に調査依頼されたんだ。浅見豊は仙台時代に女性関係があった筈だ。それが事件に関わっているんじゃないかと。だからそれを調べてほしいって言うんだ」

 空木は煙草に火をつけた。

「それは初耳だ。女の感は確かだからね。でも、今までそんな事全然言わなかった芳江が、何で健ちゃんにそんな事言ったんだ。もしかしたら健ちゃん名古屋で何かあったか」

石山田はニヤニヤしながら言った。

「バカな事言うなよ。未亡人になったばかりの傷心の、それも年上の女性にそんな気が起きる訳がないよ」

「まあ、そうムキになるなって。しかし、そのママに会って浅見豊の仙台時代の話が聞けるかどうかは分からないよ。湖東警察だってその辺は承知の筈だ」

「そうかも知れない。でも浅見豊の仙台時代の友人として、客として行ったら、何か聞き出せるかも知れないよ」

 空木は焼酎を飲み干した。


 翌日、朝から降っていた雨が、午後になって上がった。

 空木は、名古屋に向かう新幹線に乗っていた。午前中に浅見芳江に連絡して名古屋のスナック『優』の名刺で住所を確認していた。

 名古屋に着いたのは、夕刻六時過ぎだった。駅前のホテルにチェックインした後、地下鉄に乗り栄で降りた。時間潰しに、登山用品を扱うイシダスポーツに行くことにした。イシダスポーツは、色付き眼鏡に帽子の男、つまり空木が霊仙山で尾行した男が、服、ザック、そしてロープを購入した店だった。

 空木は、登山用具、小物を見るのが好きだった。灰皿、ライター、ナイフ、食器、カラビナからコッヘルや小物まで、一時間ぐらいはあっという間に経ってしまう。

 ザイル、ロープ売り場の前に来た。紐のような3ミリザイルから太い20ミリザイルまで、色もカラフルだ。空木はその男は、どんな思いでこのロープ売り場の前に立ったのだろうと考えた。その男は、10ミリザイルを購入したという。購入したその十時間後位には、それで浅見豊を絞め殺している。どんな憎しみ、恨みがあったのか。空木には狂気としか思えなかった。犯人がどんな理由を並べようが、精一杯生きている人間の命を絶つことは、絶対に許されることではない。

 イシダスポーツを出た空木は、栄通りから錦通りに向かって歩いた。腹ごしらえをしてからスナック『優』を探すことにした。スナック『優』の住所は、錦三丁目アミューズビル8Fとなっていた。錦のスナックは山ほどある。探すのは容易ではないのは判っていた。

 空木は、錦にカレーショップのココイチがあるのを知っていた。ココイチはここ愛知県が発祥の地である。ココイチでビールを飲み、シーフードカレーで腹を満たした。

 午後の八時を回り、錦の街もネオンに彩られ活気付いていた。空木は小一時間歩いただろうか、やっとアミューズビルの看板を見つけた。その八階にスナック『優』の看板があった。

 店はボックス席が二つ、カウンター席が十席とこじんまりした、落ち着いた雰囲気の店だった。

 店は時間がまだ早いせいか、客は誰もいなかった。

 「いらっしゃいませ」

女性二人が声を上げた。

空木はカウンター席の左端に座り、ウイスキーの水割りを頼んだ。

「お客様、ここには初めてでいらっしゃいますね」

長身の年上と思える方の女性が声を掛けた。

「ええ、初めてです。昔、三年間程名古屋に住んだことはあるんですけど、この店は来たことはなかった。いい雰囲気のお店ですね」

空木は店内を見回しながら言った。

「ありがとうございます。中島優子と申します。この店のママをしております」

空木の前に名刺を出した。

 中島優子は、長身で色は白く日本美人だった。今日は和服ではないが、着物が良く似合いそうだと空木は思った。

 「お店の名前はママの名前から取ったんですね」

空木は白々しく言った。

「そうなんです。私の名前の一字を取りました。でもお客様に『優』を選んでいただいたのは、どなたかの御紹介ですか、それとも本当に偶々(たまたま)なのですか」

 優子は、水割りグラスをコースターとともに空木の前に置いた。

 「実は、浅見さんという方に以前紹介してもらったのですが、その方は最近亡くなってしまったんです。今日は仕事で名古屋に来たんですが、夜の時間が空いたので、浅見さんの供養のつもりでこの店を探して来ました」

 空木は精一杯考えた末の芝居をした。

 優子の顔が曇った。

 「浅見さんのお知り合いでいらしたんですか。浅見さんは(むご)いことになってしまいました。お客様は浅見さんとはどちらでお知り合いになられたのですか」

優子は空木のグラスを取りながら言った。

「知り合ったのは仙台です。会社は違いますが、同じ業界です。名古屋に来ることがあって、名古屋のスナックを教えて欲しいとお願いしたら、ここを教えてくれました」

 空木は新しく作られた水割りをぐいと飲んだ。

 「あら、仙台でのお知り合いなんですか。それで今日は仙台からお見えになったんですか」

「いえ、今は転勤して東京にいます」

「もし宜しかったら、お名刺頂戴してよろしいかしら」

「今日は生憎ホテルに名刺を置いてきてしまってすいません。空木健介と言います。空に木と書いて「うつぎ」と読みます」

 ここで探偵の名刺を出す訳にはいかなかった。

 「あらお珍しいお名前。空木様ですか。空木様、私もおビール頂戴しても宜しいでしょうか」

優子は甘えた声で言った。

「いいですよ。でもママ、(さま)は止めてよ」

空木は言って、優子とグラスを重ねた。

 サラリーマン風の客が三人入ってきた。なじみ客の様だった。空木は東亜製薬の社員ではないかと聞き耳を立てたが、違うようだった。

 空木は、ウイスキーのキープボトルを入れることにした。ママの優子は喜んだ。

「空木さんありがとうございます。ゆっくりして行って下さいね」

優子は空木に新しい水割りを作った。

 また、サラリーマン風の客が二人入った。ほぼ同時に若い女の子が、ショルダーバックを提げて店に入ってきた。その子はカウンターの中に入り、バックを置くと空木の前に立った。

 「ユキです。宜しくね」と、いきなり空木の前のビールをコップに注ぎ、乾杯と言って一気に飲んだ。

「ユキちゃん、空木さんにちゃんとお断りしてから頂きなさい」

優子がそれを見て言った。

「あーごめんなさい。頂いちゃったけど、頂まーす。空木さん」

 今時の女の子だと空木は思った。

 「空木さんは、浅見さんの昔のお知り合いで、うちのお店にわざわざ来て頂いたのよ」

優子はユキに言った。

「そうなんですか。ママにモーレツアタックしていた浅見さんのお知り合いなんだ」

「ユキちゃん余分な事言わないの」

ユキは舌を出して首をすくめた。

 空木はサラミチーズを摘まみながら、水割りを三杯、四杯と飲んだ。

「空木さん、浅見さんの奥さんて、知ってますか」ユキが小さな声で聞いた。

「うん、知ってるけど、どうして」

「若いの?」

「いや、浅見さんより若いけど、四十半ば位かな。若いとは言わないな」

「そうなの。じゃあお嬢さんかな。お産の費用は、今はいくら位かなって私に聞いてきたことがあるの。奥さん妊娠したのって聞いたら、黙ってた」

「へーお産か。まさかママじゃないよね」

「いやだー、ママだったら大変。お店のお客さん来なくなっちゃう」

ユキは笑った。

 優子が空木の前に立った。ユキは他の客の前に立ち、ケラケラ声を上げて笑っている。

「浅見さんは名古屋でも女性と付き合っていたのかな。ママは知ってる」

空木は、何気ない振りをして優子に話しかけた。

「さあどうだったでしょう。仙台ではお盛んだったようですね」

「ママは浅見さんから仙台の話しを聞いたことあるの」

「はっきりとは分からないけど、出来ちゃったんじゃないかなって思ったの」

そう言って、お腹を手で触った。

「お産の費用だとか、養育費だとか言ってる時があったわ。奥様なのって聞いたら、違う違うって言ってたの」

「へえーそうなんだ」

空木は浅見芳江の感は当たっていると思った。

 四人の客が入り、ボックス席に座った。空木は名古屋に来た時は必ず来ると優子に言って店を出た。

 浅見豊は仙台に間違いなく親しい女性がいた。五十万はその女性に繋がっているのだろう。名古屋まで来た甲斐があったと空木は思った。




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