89・四姉妹
「お姉様が大好き? 笑わせないで! この女は魔物よ!」
一人の若い女が叫ぶ。手に持つ石を固く握りしめながら。
ドロテアは馬車の窓からその女を見て蒼白になった。身元を偽ってアンネリーゼの侍女になった娘。アンネリーゼの昔の侍女、マリーの妹だ。アンネリーゼは以前、マリーの婚約者を弄んだことがある。マリーの手のひらを靴の踵で貫いたこともあった。
「私の姉にしたことなんて忘れてるんだから! ねえフローラ様、あなた私を覚えてる?」
「リーナ……」
フローラに名を呼ばれ、リーナと呼ばれた元侍女は鼻白んだ。
「ふうん、フローラ様は覚えてるの……」
「もちろん覚えているわ。リーナ、なぜこんなことをするの……?」
フローラが血のついた自分の手を見た。額からは血が流れ続けている。
「だってこの女は覚えてないのよ。侍女の名前なんてどうせ誰のも覚えてないの。自分が破滅させた侍女のことだって、全部忘れてるんだから! そんな女を大好き? ふざけないで!」
「ふざけてなんかないわ! 私はアンネリーゼお姉様が大好きよ!」
「黙れ! あんた殺せばあの女私を覚えるかしら!」
リーナが再び、石を持つ手を振りかぶった。
「やめて!!」
大声を出して窓を叩く。
ドロテアの声は届かず、周囲から悲鳴と驚きの声があがる。座席の窓から馬車の後方は見えない。石が当たったかもわからない。耳をすましても喧騒しか聞こえない。
「開けて! 開けてちょうだい!」
拳が傷つくのも構わず、ドロテアは馬車の戸を力任せに叩いた。
ガシャッと錠前を外す音がした。叩くのを止めると勢いよく戸が開き、アンネリーゼが飛び込んで来てドロテアに縋りついた。
「助けて、お姉様!」
驚いた。
アンネリーゼがドロテアに助けを求めることなど、今まで一度もなかったからだ。
アンネリーゼの側頭部から流れる血が首を伝わり、貫頭衣を赤く汚していた。さっきの石が当たったのは彼女なのだ。
「癒せないの! 力がないの! わたくしには癒せないの……!」
ドロテアはアンネリーゼを癒そうと、傷ついた側頭部に手を伸ばした。
しかしその手が払いのけられる。
「わたくしではないの!」
「おどきなさい」
アンネリーゼの言葉に胸を打たれつつ、彼女を押しのけて外に出た。
目にした光景に心臓が跳ねる。
地面にフローラが倒れていた。
「フローラ……! あっ」
「このお貴族様がよお!」
暴徒の男が割り込んできて、ドロテアに殴りかかった。
ドロテアは目を閉じた。
鈍い打撃音。
だが衝撃は来なかった。
「正当防衛だよね!」
「……ミア!」
さっきの男は地面に転がっていた。
「殴ってくるやつ殴るのは正当防衛だよね! 殴り返されたいやつ全員まとめてかかってこい!」
興奮した暴徒がミアに向かっていくが、ミアは彼らが手にした武器を次々蹴り飛ばしていく。
「ドロテアお姉様、フローラを!」
「ええ」
倒れたフローラに、アンネリーゼが覆いかぶさっていた。そのアンネリーゼの脇腹を、リーナが笑いながら何度も蹴り上げていた。
「あはははは! 無様! マリーお姉様にこの光景見せてあげたい!」
げほげほと咳き込むアンネリーゼを見下ろして、リーナが残忍に笑う。
「フローラ様も見て! あんたの大好きなお姉様のみじめな姿………………ぐふっ」
リーナが気を失ってくたりとくずおれた。ミアが背後をとってリーナの首に絞め技を決めていた。残酷な行為が終了し、ドロテアは無意識に止めていた息をようやく吐いた。
「暴力はもっと冷静にやんなきゃね。って、人のこと言えないか」
「ほんとだぞミア。俺まで振り切りやがって」
いつの間にか場の喧騒は収まりかけていた。
暴動を見かねて第一王子ディートハルトが出てきたらしい。貴族憎しで暴走した人々も、民衆の味方と評判の第一王子に牙をむく気はないようだった。
「聖女ドロテア。負傷者を癒せ」
「かしこまりました」
王子に一礼し、人々が注視する中、ドロテアは倒れたフローラの横に膝をついた。
フローラにはアンネリーゼが覆いかぶさったままだ。
「アンネリーゼ。フローラを癒します。おどきなさい」
アンネリーゼが無表情で身を起こす。乱れた髪の間から流れる血が、かさぶただらけの顔面を汚している。
これがあの美しかった妹かと驚く気持ちだったが、ドロテアにはもっと驚くことがあった。
アンネリーゼがフローラを守ったのだ。
リーナはフローラを殺すと言った。
アンネリーゼはフローラを庇い、頭に傷を負ったのではないだろうか。その後もフローラに覆いかぶさって、妹を守っていたのではないだろうか。
蹴られながら、必死に守っていたのではないだろうか。
さっきドロテアがアンネリーゼを癒そうと頭部に手を伸ばしたとき、彼女はそれを払いのけて「わたくしではないの」と言った。
わたくしではないの。
――フローラなの。
あのアンネリーゼが、自分以外を優先した。
ドロテアは泣きそうな気持ちをこらえてフローラを見た。
三番目の妹は気を失っていて、額に裂傷ができていた。出血は多いが、命に関わるような大きな傷ではない。
「フローラ……死んじゃうの」
横でミアがすすり泣いている。
「死にません。失神は怪我のせいではなく、精神的な衝撃と体力の低下でしょう。フローラはここのところ非常に食が細くなっていましたから」
「ほんとうに?」
「本当です」
「よかった……。フローラの怪我、きれいに治りますか?」
「すぐには治りません」
アンネリーゼが身じろぎする気配があったので、ドロテアはそちらを見た。
(なんて表情をしているの)
口惜しさとやるせなさが入り混じったような、悲しみを湛えた表情。
こんなアンネリーゼは見たことがなかった。
(あなたなら、瞬時に治せるものね)
フローラの怪我を癒しながら、ドロテアは思う。
アンネリーゼはフローラが関わると逆上することがよくあったが、ドロテアの知る限り、フローラの身体を傷つけたことはただ一度もなかった。
侍女や使用人には容赦なかった。カレンベルク家へ来たばかりのミアも扇でぶって鼻血を出させた。ミアには犬をけしかけた疑いもある。
アンネリーゼはフローラを憎んでいるというより、避けている。
アンネリーゼのフローラに対する態度からは、憎しみより怯えを感じることが多かった。
(アンネリーゼ。あなたはフローラの何を怖がっていたの?)
力を持たないアンネリーゼは、寄る辺ない世界に放り出された子供のように、地面にぺたりと座り込んで茫然としていた。
傷を癒してやりたかったが、ここでは難しいだろう。「魔女」を優先的に癒したら暴動が再発するかもしれない。幸い、一刻を争う傷ではなさそうだ。
「ミア。アンネリーゼを馬車の中へ」
フローラの癒しもかさぶたまでにして、ドロテアは立ち上がった。
「ほかに、負傷された方はおられますか」
声を張り上げつつ、そうだ、さっきミアが殴り倒した男性がいたとそのほうを見ると、彼はよろよろした足取りで逃げるようにこの場を去ろうとしていた。
「そこのあなた。殴られて倒れたでしょう。こちらへどうぞ」
「えっ。あっ。いや……」
「ほら、頬が腫れて唇も……あら。あなたは」
「もっ、申し訳ありませんでしたー! 聖女ドロテア!」
彼はドロテアの足元に走り寄ると、飛び込むように土下座した。ドロテアがつとめている下町の聖堂によく来る大工で、仕事の怪我も喧嘩の怪我も、ドロテアはよく癒してやっていた。
「聖女ドロテアがカレンベルク公爵家の方だとは知らなかったんですー!」
「知らないと思いますよ。言っていませんから」
「おっ、おれ、気付かずにあんたを殴ろうとしちゃって……」
「殴ろうとして逆に殴られたわけですね。腫れが酷くなる前にこちらへどうぞ」
おろおろした大工がおかしかったのか、周囲からクスクス笑いが聞こえる。なんとなく場が和んできて、「あ、俺も癒してもらお」「コブできたわ」「衛兵のやつ盾でぶんなぐって来てよう」と行列ができる。
気を失っているフローラのまわりにも人が集まっている。戻って来たミアが見張っているものの、大丈夫だろうかとはらはらしていると、こんな声が聞こえた。
「フローラちゃん、かわいそうにねえ」
「あんな魔女でも、お姉ちゃんなんだねえ」
「フローラちゃんらしいよ。お姉ちゃん思いでさあ……」
年配女性がフローラのまわりでぐすぐす泣いている。きっと準聖女としてのフローラを知っている人たちだろう。フローラも、大聖堂を訪れる人々に公爵家令嬢だとは言っていなかったはずだ。アンネリーゼとフローラが姉妹であることを今ここで知った人がほとんどではないだろうか。
年配女性にまじってミアもぐすぐす泣いている。そんなミアの背を「あんたも大変だろうけどがんばって」と女性たちがポンポン叩いて励ましている。
ドロテアはなんだか胸がいっぱいになってしまった。
悪い出来事の中にもいいことはある。
カレンベルク家は立ち直れる。
きっと立ち直れる。
目の前に白いものがちらつき、ふと見上げると雪だった。
花びらのように舞う初雪を合図にしたかのように、一時暴徒と化した人々も、それぞれの家に散りはじめた。
癒しを待つ人の列が消え、ドロテアはアンネリーゼが待つ馬車へ向かった。馬車を守る衛兵に「ありがとう」と礼を言い、中に入る。
アンネリーゼはローブも羽織らず、座席の背にもたれかかってぼんやりしていた。その瞳はやはり赤く、魔性の徴を帯びたままだ。
(でもおかしいわね。前より人に見えるわ)
ドロテアは脱ぎ捨てられたローブを拾い、アンネリーゼに羽織らせた。そのまま横に座って妹の頭を抱え込む。
「癒しましょう」
アンネリーゼを癒す日が来るなんて思わなかった。
彼女は自分で癒せたから。ドロテアが聖女の力を授かって日を置かずして、もっと強い力を授かったから。誰よりも強い力を。
「……あたたかいわね」
傷にドロテアの力を受けながら、アンネリーゼがぽつりと言った。
「そうらしいわね。自分ではわからないけれど」
「お姉様」
「なあに」
「フローラってどうしてああなの」
「どうしてかしら」
「あの子が怖いわ」
「そう?」
「怖いの」
「そうなの」
「あの子が怖いのに、あの子がいなくなるのはもっと怖いの。……怖かったの」
「そう……怖かったの」
ドロテアは目の奥が熱くなるのを感じた。アンネリーゼを支える手に力が入る。
「あの子はどうしてわたくしを好きだなんて言うの。もう何も持っていないわたくしを」
「あなたがアンネリーゼだからでしょう」
「……意味がわからないわ」
「わたくしもよくわからないけれど、あなたがアンネリーゼであの子がフローラだからだと思うわ。そうとしか言えないわ」
アンネリーゼは何も答えなかった。
唇を震わせ、その赤い瞳からはらはらと涙を溢れさせるのみだった。
ああ、この子はこんなにも人間らしい顔ができるのだ。
瞳は赤く、魔女だ魔物だと呼ばれるけれど。
(聖女って、魔物って、一体何かしらね……)
きっとそれは精霊にしかわからないことだろう。
「今日は寒いわね」
ドロテアは考えるのをやめ、泣き続ける妹のローブの前をしっかりと合わせてやった。




