77・思い出のお茶会
カレンベルク家へ帰り着いたアンネリーゼは自室に籠り、着替えもせずベッドに身を伏せた。
「アンネリーゼ様、お着替えを――」
「出ていきなさい」
主人のぴりぴりした声に侍女が引き下がる。侍女の怯えた顔も苛々する。アンネリーゼは侍女が閉じたドアに水差しを投げつけた。
陶器の水差しはガチャンと大きな音を立てて割れた。ドアの向こうにしばらく侍女の気配があったが、彼女は何も言わずにパタパタと走り去った。
もうあの侍女は辞めるかもしれない。擦り切れたような顔をしているからそろそろだろう。どうでもいい。侍女など消耗品だから。
そんなことより、問題はヴァッサー伯爵だった。
アンネリーゼは地下牢で王妃たちが見守る中、ヴァッサーの治療をした。宣言どおり完璧に治した。
舌が元通りになり、身体の疲労まで癒されたヴァッサーは、聖女の膝の上で目を覚ました。彼が何か言う前に、アンネリーゼはとっておきの華やいだ笑顔を作ってみせた。
ヴァッサーが笑顔に魅入られたのを見てとってから、アンネリーゼは王妃たちから見えないように顔の向きを変えて、唇の動きでヴァッサーに伝えた。「助けます」と。
助ける気などない。
失敗した上に捕まるような間抜けな男は消すしかない。
しかし今はヴァッサーをその気にさせて、自白させないようにしなければならない。
(あの男が王妃に余計なことを言う前に殺さなくては――)
どうしたらいいのだろう。
こんなとき頼りになったカイル・エッカルト子爵はもう王都にいない。闇稼業の魔術師を使わなければ地下牢の囚人になど手を出せないのに。カイルの取り巻きの中にだって、カイルのように裏社会にまで通じている人物はいない。
アンネリーゼが思案していると、ドアがノックされた。
侍女が思い直して戻ってきたのかと思って無視するが、再度ノックの音がする。続けて二度三度と。
今度は花瓶でもぶつけてほしいのかと苛々していたら、思いがけない声がした。
「アンネリーゼお姉様。おかげんが悪くていらっしゃるの?」
(フローラ?)
聞こえてきたのは確かに妹の声だ。アンネリーゼはベッドから身を起こした。
「なにか壊れる音が聞こえました。お怪我は……」
「なんでもないわ」
「よかった。お姉様、お茶とお菓子をお持ちしました。よろしかったら――」
「余計なことしないで。あっちへ行って」
苛立ちを声に滲ませて拒絶する。
「……はい。ごめんなさい」
カチャとかすかに茶器が鳴る。しかしフローラはなかなかドアの前を去ろうとしなかった。
「あの、アンネリーゼお姉様。今夜も私とアンネリーゼお姉様、二人だけですから、お夕食を一緒にいかがですか」
「お断りよ」
「はい……」
「あなたの顔なんか見たくないの」
「……はい。ごめんなさい。アンネリーゼお姉様」
フローラの気配が遠ざかる。
アンネリーゼは自分が息を詰めていたのに気付いた。フローラと話している間、ヴァッサーの問題も頭から消えていた。侍女を拒絶したときにはまるで感じなかった緊張感があった。手を見るとわずかに震えている。
(――なんなの)
なんなの。あの子は一体。
なぜ、フローラはこんなに自分を緊張させ、疲弊させるのだろう。
フローラのことは子供のころから嫌いだったが、昔はこれほど疲れなかった。フローラの顔など見たくないし近寄られたくもないのに、フローラの気配があるとついそちらを見てしまう。この引力は一体なんなのだろう。
(これではわたくしがまるで――怯えているみたいだわ)
*****
フローラの侍女クララは、アンネリーゼに拒絶されて意気消沈する主人に、なんと声をかけていいかわからなかった。
「私がお持ちしましょう」
フローラが震える手で持つトレーを引き取る。シナモンをきかせた林檎のパイに、ナッツの入ったチョコレートケーキ。ポットの紅茶はまだ冷めていないはずだ。
「お部屋でいただきましょうか」
「ええ……」
アンネリーゼに拒絶されたフローラを見るのがつらい。できることならクララは主人に、もう諦めたらいかがですかと言いたかった。
フローラがどんなに親切にしたって、アンネリーゼは無視か拒絶しかしない。クララがフローラの侍女になってからずっとこうだ。アンネリーゼがフローラの笑顔に応えたことなど一度もない。
どこまでも優しいフローラは、そんな姉でもひたむきに笑顔を向ける。姿を見れば手を振り、部屋に引きこもっていればお茶とお菓子を持って訪ね、誕生日には贈り物をする。フローラが贈った花束や小物が屑籠に捨てられているのをアンネリーゼの侍女が拾って、クララにそっと持ってくるのも毎年のことだ。
クララは受け取られなかった贈り物をこっそり処分するたびに、アンネリーゼに対する憎しみが湧いた。
(あの方には心がない。ミア様がいらっしゃらなかったら、フローラ様のお心は壊れてしまったのではないかしら)
異母妹のミアが来てから、フローラは目に見えて明るくなった。ミアはフローラを外の世界に連れ出し、フローラは聖堂勤めを通して強くもなった。
そんなミアも今は王城勤めだ。さらに、異例の聖女として覚醒し、第一王子に抜擢されて魔物討伐の旅に出ているという。フローラはミアの快進撃に大喜びだが、クララはミアがフローラから離れていってしまうようでさみしかった。
王城からは毎日届いた手紙も、旅先からではそうはいかない。フローラは何も言わないが、間遠になったミアの便りにさみしさを感じないわけがない。
「旦那様とドロテア様とアウレール様、はやくお戻りになられるといいですね」
「ええ」
「今度また、イエンシュ伯爵令嬢をお呼びしませんか。秋になったら庭園の木々が紅葉して綺麗ですから、お庭でお茶会をするのも素敵ですね」
クララの精いっぱいの提案に、フローラの顔がぱあっと明るくなる。
「秋のお茶会、大好きよ。栗や林檎や胡桃のお菓子に、こっくりしたココアや甘いキャラメルソース。ブランケットを枯葉の上に敷いてじかに座るのも、野趣があって楽しくて。ああ、私……」
フローラは極上の笑顔でにっこり笑った。
「毎年秋になると、アンネリーゼお姉様とのお茶会を思い出すの。とても楽しかったわ」
クララはしまったと思った。
何回も何回も聞いた、フローラの幼いころの思い出話。クララが侍女としてカレンベルク家へ来る前のことだ。
フローラが庭園で乳母とままごとのお茶会を開いていたら、そこへアンネリーゼがやってきて、遊んでくれた話。あのアンネリーゼにもそんな子供時代があったのかと、はじめて聞いたときは驚いたものだ。
「あのお茶会のとき、アンネリーゼお姉様は笑ってくれたの」
この話をするときはいつも、フローラは半分泣いているような顔をする。
「お母様を奪った私に、笑いかけてくださったのよ」
「フローラ様。フローラ様は、何も、誰も、奪っておりません」
「ありがとうクララ」
フローラはそう言うが、クララの言葉は届かない。決して届かないのだ。
「私、アンネリーゼお姉様が大好きよ」
「フローラ様……」
「大好きなの。たとえ、二度と私に笑いかけてくださらなくとも」




