61・聖なる愚者
カイル・エッカルト子爵の屋敷はめぼしい家具や美術品が売り尽くされ、がらんとしていた。高窓から入る明るい午前の光が、大理石の床を白く輝かせる。
清浄だと、カイルは思った。
訪ねて来た馴染みの女は、豪奢な家具調度で飾り立てていた屋敷ではまるで美の化身のようだったが、なにもなくなった清浄な空間にはそぐわなかった。
テーブルも椅子も絨毯も、カーテンすらもなくなった居間に、絵が一枚だけ残っている。精霊に祝福される騎士の全身像だ。若く美しい騎士は希望に満ちた表情で空に右手を差し出し、若い女性の姿をした精霊たちが彼を取り囲む。一見、神話の場面を描いたありきたりな絵画だが、カイル・エッカルトは綺麗なだけの美術品など買いはしない。
「この絵をわたくしにくださるの?」
女は――アンネリーゼ・カレンベルクは、子爵の冷たい美貌を見上げた。カイルが戯れに女を横たえた長椅子はもう売り払ってしまったので、二人は立ったままだ。
「気に入っていただろう? フェリクス殿下に似てるって」
「ええ。そうだけれど――わたくし、絵をいただきに来たわけではなくってよ」
アンネリーゼが不安げに室内を見回す。
何もなくなったこの屋敷は、彼女にとってくつろげる場ではなくなっただろう。ここで毎週のように乱痴気騒ぎの夜会があったなど、嘘のような静けさだ。
「あいにくと、俺はもう魔術師の斡旋はしていなくてね。身元の不確かな魔術師とは全部縁を切ったよ」
「なぜ……?」
「危なっかしいじゃないか。俺にも立場がある」
カイルの返答に、アンネリーゼの顔にちらと軽蔑の色が浮かぶ。
カイルは肩をすくめた。
そうさ、俺はもう君のお眼鏡にかなう面白い男ではないよ。さっさと俺に見切りをつけて、出て行ってくれないかな。危なっかしいのは君も同じだからね。
(自分で自分の危なっかしさに、気付いているかどうか知らないけどね)
哀れなアンネリーゼ。君の足元の薄氷は割れる寸前だよ。
しかしアンネリーゼは出て行こうとはしなかった。
部屋の隅に控えた執事を邪魔そうに見やると、執事をどこかにやれと目線で訴えてくる。
カイルは無視を決め込んだ。
部屋に沈黙が満ちる。
アンネリーゼが沈黙に耐えかねて口を開こうとしたそのとき、馬車が入ってくる音がした。
「レオンだ。会っていくか?」
屋敷に出入りしていた常連の一人だった。
「帰るわ。彼、大して役に立たないもの」
「よろしくやってたじゃないか」
アンネリーゼは睨むようにカイルを見ると、大理石の床に靴のヒールを鳴らして出口へ向かった。
「絵は君の屋敷へ送らせるよ」
アンネリーゼが部屋を出てしばらくすると、メイドに案内されてレオンが入ってきた。
「うわ。本当に何もないな」
日の光が床に落ちるだけのがらんとした部屋を見て、レオンが驚く。
「屋敷にも買い手がついたよ。月末には引き払う」
「さみしいね。まあ、そろそろ引き際か。豪勢な遊びをする貴族に反感が高まってる。地方は今、大変だからな」
「魔物被害か」
「酷いもんだよ」
レオンも地方領主の息子だった。息子な分、領主のカイルよりは気楽な立場だが。
「俺たちの青春を終わらせるちょうどいい機会だ」
「自分本位なやつだ。あいかわらず血も涙もないな」
レオンは笑った。そしてふと、一枚だけ掛かった絵に目をとめる。
「血も涙もないお前にしては真面目臭い絵だな。初代ディータス王の弟だろう、これ。なんで聖人の絵なんか」
建国の勇者ディータス王の弟フェルディー卿は、いかなる誘惑にも屈せず王を支え続け、後世に聖人と伝えられている。
「アンネリーゼにやろうと思って。フェリクスによく似てるだろう」
「ああ、たしかに」
「この絵、ちょっと面白い仕掛けがあるんだ。甲冑を着てるだろ。よく見ると、甲冑の表面に小さく女が映ってる。精霊じゃない人間の女が」
「本当だ。紺の髪で赤い服……。娼婦かな」
「なんとなくアンネリーゼに似てないか?」
「似てる」
レオンは吹き出した。
「フェルディー卿は赤い服の女の誘惑などまるで眼中になく、精霊に祝福され空を見ている。届かぬ理想を見てるのさ。聖なる愚者だ」
「お前、この絵をアンネリーゼにやるの?」
「うん」
「本当にいい性格してるな」
「どうせ気付かないよ。彼女は愚かだから」
カイルの断定に、レオンが声を上げて笑った。
聖なる愚者のようなつまらない美男子に執着するアンネリーゼを、レオンは嗤っている。カイルも最初のうちは嗤っていたが、だんだん寒気のようなものを覚えるようになった。
魔女のように悪心に満ちたアンネリーゼ。
聖なる愚者に、彼女は何を求めているのだろう?
「フェリクスは馬鹿だから、もし婚約者にアンネリーゼをあてがわれていたら、あんな女でも愛そうとしただろうな」
「だろうね」
「婚約者がフェリクスだったら、アンネリーゼが破滅することはなかったかもな」
「アンネリーゼは破滅するのか、カイル?」
「第一王子の暗殺に手を染めた者がいるらしい。アンネリーゼの関与を疑っているのが、アンネリーゼの姉の夫だよ。カレンベルク本家の婿養子だ。アンネリーゼに都合の悪い事実が発覚したら、彼女の実家はもう彼女を庇わないだろう。彼女がおとなしくしていれば事なきを得るかもしれないけど……まあ、無理そうだね」
「また何か企んでるのか、アンネリーゼは」
「企んでるんじゃないかな。俺に魔術師を借りに来たから」
「貸した?」
「貸してないよ。裏社会の魔術師とはもう接触しない。アンネリーゼが敵とする側に尻尾を振ることにしたし」
「カイルお前、地方派につくのか?」
「うちの領の魔物討伐隊を貸すことを了承しただけだ。ディートハルトに頼まれた」
「よく婚約者の間男にものを頼む気になるな、第一王子は」
「おもしろいじゃないか。俺はあの男、嫌いじゃない」
カイルは薄く笑った。
ディートハルトと対面したことは数回しかないが、いつも己の高い身分に居心地悪そうにしているのが印象的だった。握手した手のひらは固く、剣を持つことを日常としているのが伺えた。ハルツェンバインの王侯貴族らしくない男だ。
しかし、とカイルは思う。三国が分裂する前の、旧大国の王族だったら、ディートハルトのような戦う男は世継ぎとして歓迎されたのではないか、と。
己の出生に居心地の悪さを感じつつも、目標を持ち戦い続ける第一王子。
己の持って生まれた力を当然のものとしつつも、からっぽな一位の聖女。
今のカイルは、アンネリーゼよりディートハルトのほうが興味深かった。倦んだ人間より熱量のある人間のほうが見ていておもしろい。
「アンネリーゼがディートハルトに惚れてるんだったら、俺も彼女を手放したくなかったかもな」
「お前、本当に悪趣味」
レオンの苦笑に、カイルはいつもの無表情で応じた。
「魔術師を雇って、アンネリーゼは何をするつもりなんだ?」
「さあね。興味ない」
「フェリクスに婚約者候補でも現れたのかな。あれかな――今話題の」
心底どうでもいいカイルとは反対に、噂好きのレオンの目が輝く。宮廷でも城下町でも、今一番注目されている人物を思い浮かべたのだろう。騎士服の聖女だ。
「どうでもいい。俺は巻き込まれたくない。どうにかしたいならアンネリーゼはヴァッサーを頼ればいい。彼女が一晩身を任せれば、なんでもやるだろ。あの田舎者なら」
「あはははは! そうなったら見物だな。アンネリーゼがヴァッサー伯爵と!」
社交界では最上級に洗練された佇まいのレオンが、悪童のように意地悪く下品に笑う。こんなレオンを見たら、彼に憧れるうぶなご令嬢方はさぞ幻滅することだろう。
「面白くなってきた。婚約してくれないかな。フェリクスと、騎士服の聖女」
レオンは嗤い続ける。
アンネリーゼにとって自分たちが退屈しのぎの玩具であるように、自分たちにとってもアンネリーゼは高価な玩具だ。そして高価な玩具がこわれていく様を楽しめるくらい、自分たちは豊かで、退屈している。
国境の民がどれほど魔物被害に苦しもうが、貴族なんてこんなものだ。
レオンも自分も性根は一緒だ。
だからもう、この連中と一緒にいるのは飽きたのだ。
*****
フェリクスは自室で資料の整理をしていた。
従魔術に関する記録の目録作りだ。ゲートルド語、しかも古語が多いので、整理は難渋している。
アウレールも資料整理に参加してくれるが、彼には武器の開発という本来の仕事がある。
ディートハルトがアウレールに魔剣を発注したのだ。アウレールの負担を減らすために、資料整理くらい自分が頑張らねばならない。
(従魔術か……。大変なことだ)
従魔術、すなわち魔物を従わせる技術。
魔物を戦闘に利用することが出来ればどれだけ有利か、想像に難くない。しかし今のところ、神話並みに古い書物にしか記述がなく、具体的な技術については雲をつかむような話しかない。
それに、フェリクスにとって従魔術は、実現してほしい技術ではない。
こんな技術があふれたら、戦でどれほど無残な犠牲が出ることか……。
ディートハルトもそれを懸念している。
ゲートルドで従魔術が再開発されているとしたら、かつて魔剣の開発時にもあったように、魔物の大乱獲が起こっているかもしれない。そうアウレールは言っていた。国境付近で危険な魔物が増えているのは、乱獲を察して逃げ出す知能のある魔物は、魔力持ちの上位魔獣だからではないかと。
(五十年前の乱獲の記録も押さえておくべきか……)
フェリクスは椅子の背に身を預け、ふうと息をついた。
やることは膨大だが、ディートハルトの役に立てることがうれしい。
「私は兄上の手足になるくらしか能がないのであるし」
「んなわけあるか」
独り言に返事があったので驚いて振り返ったら、兄王子が戸口に立っていた。
「兄上っ」
「よくここまで集めて分類できたなあ……。お前もアウレールも凄いな」
場を占拠する資料の山を見て、ディートハルトが嘆息する。
フェリクスはくすぐったい気持ちになった。兄に褒められるとうれしい。
「いえ。分類がせいいっぱいで、内容理解まで私はなかなか……」
「他国語でしかも古語だぞ? 俺なんて題すら読めん。お前がいなかったらお手上げだよ」
ディートハルトが手近な一冊を手に取り、題を見て降参したように天を仰ぐ。
「文献は無理だから、俺は現地に行く。国境付近に」
「……止めても無駄なのでしょうね」
「よくわかってるじゃないか。まあ心配するなよ。ジェッソのほかにも頼りになる味方ができたし」
「聖女ミアですね」
「うん」
「聖女ミアは、兄上が所属された民間魔物討伐隊にいらしたとか。兄上にとって妹のような存在だと聞きました」
「妹? 誰に聞いた」
「宰相と、何人かの大臣に」
「何の話のときに?」
「その……まだ正式な話ではないのですが、大臣たちは聖女ミアを私の婚約者に推しているとのことです。父上と母上は了承していないので、現段階では候補に挙がったというだけです。兄上にとって妹のような存在でしたら、聖女ミアが私と結婚して義妹となったら、兄上も喜んで――」
「喜ばない」
ディートハルトが彼らしくなく話の腰をぴしゃりと折った。
「兄上?」
「妹じゃないし」
「あの……もののたとえですが」
「わかってるよ」
「兄上、私は何か兄上のお気に障ることを言いましたか? 怒ってらっしゃるような」
「ミアは妹じゃないし。お前との婚約も認めない」
「……なぜですか?」
「言わせるな」
フェリクスは混乱した。
ディートハルトはミアに親近感を持っているようだし、ミアを頼りにもしている。ミアを王族に迎えることに異存はないと思っていたのに。
「もしや兄上――」
ふと思い至った可能性に、フェリクスは震えた。
おそるおそる兄の目をのぞき込めば、不安げに揺れている。
「真面目なお前には失望されるかもしれないけど、俺は――」
「いいのです、兄上。至らないのは私の責任です。兄上が家族のように大切に思う聖女ミアを守るには、私はまだまだ未熟です。聖女ミアと結婚など思い上がりでした。兄上に認めていただける男になるよう、今後も精進してまいります!」
「……ちょっと待て。なんでそうなる?」
「私は何かおかしなことを言いましたか?」
「あちこちおかしい」
「申し訳ありません。おかしいところがわかりません。こんなだから私は兄上に認めていただけないのですね」
「認めてる! 十分認めてるけど……」
「ではなぜ、聖女ミアとの婚約は認めていただけないのでしょう?」
「今の俺の立場では言えないんだ。察してくれ。理由は俺にある」
「兄上に? ……申し訳ありません。本当にわかりません」
ディートハルトは頭を抱えてしまった。
(ああ、兄上を困らせてしまった。兄上は私を認めていると言ってくださるけれど、本当はあきれているに違いない。我ながらなんて不甲斐ない……)
しょんぼりとうなだれるフェリクスの肩を、あきらめ顔のディートハルトが力づけるようにぽんぽんと叩いてくれた。




