46・絢爛の終焉、その足音
「本当に、全て手放してしまわれるのですか」
画商は大層残念そうだった。
カイル・エッカルト子爵が王都に屋敷を持って以来、懇意にしている画商だ。
「ええ。この屋敷にある美術品は、この屋敷あってこそですから」
エッカルト子爵は特に感慨に浸るでもなく答えた。
十八で爵位を継いですぐ、王都に粋を集めた屋敷を建てた。
遊び暮らして早六年経つ。
「お屋敷も手放してしまわれるのですか」
「ええ」
「こちらのお屋敷ならば、家具や美術品ごと買い取りたい方がいらっしゃるでしょう。よろしければお探ししますよ。残念でならないのです。この美しい空間が失われるのが」
カイルがその美意識を高く買っている画商は、ため息と共に室内を見渡した。
「失われるからこそ美しいと思いませんか?」
刃物のような鋭利な美貌でカイルが艶然とほほえむと、美を愛でる画商は言葉をなくした。
画商が帰るのと入れ替わりに、執事が領地から届いた書類を持って来た。
エッカルト子爵の領地は、王都と地方を結ぶ栄えた宿場町を持っている。虚栄と純朴さが入り混じる、都会と田舎の中継地。
税収や施策など主要な項目に目を通した後、カイルは特別に調査を頼んでおいた項目に注目する。
聖堂に祈りを捧げに来る人々が、一体何を祈るのか。
大方が、家族のこと商売のこと。時に村や町や領地や国のこと。
(ディートハルト殿下の快癒祈願……ふうん)
地方の民の間で、第一王子の人気が高まっている。
魔物被害で苦しむ地方にふらりと現れ、魔物を倒して去っていく。どこからどこまでが本当かわからないが、各地でささやかれ響き合う同種の噂。
噂が噂を呼び、そろそろ王都の大衆作家が題材として扱い出す頃合いだ。
注目作が出たら、一気に王子の人気が加速する。
政治的主張の広がりは、人気の後からついてくる。そうなってから尻尾を振ったところで遅いことくらい、カイルは知っている。
カイルは続けて書類をめくった。
エッカルト子爵家が私設する予定の、魔物討伐隊の志願者。待遇をかなり良くして募集をかけたのが効いたのか、予想より多い。
別に、土臭い領民を魔物から守りたいわけではない。
自己を守りたいだけだ。浮き沈みの激しい社交界という世界で。
おそらくこれからは、領民を顧みない領主は信用を落とす。
美しい屋敷と美術品が己を引き上げてくれるか、野蛮な魔物討伐隊が己を引き上げてくれるか、それは時流が決めることなのだ。
書類に目を通し終わると、カイルは書斎を出て階下の居間に下りた。
居間ではカイルの基準で出入りを許した貴族たちが、自分の家のようにくつろいでいる。ずらりと取り揃えた中から好みの酒をそれぞれ注いで、思想や芸術や色事の話をしている。
「よう、カイル」
「ん」
「お前は『王都派か地方派か』って訊かれたら、なんて答えてる?」
「つまらない質問するなって」
「ははは。そうとは答えられない真面目なやつらから訊かれたらさ」
「優位のほう」
「なら、王都派か。地方派のやつらは王都で影響力がないのを僻む下流ばかりだからな」
場に笑い声が起こる。
カイルは笑わなかった。いつも笑わないので誰も気にしない。
腐敗も退廃も嫌いではないが、読み違いは痛々しいと思った。
粋な装いの若い貴族たちを順番に眺める。美しい彼ら。しかしもう、このサロンは旬を過ぎたのだ。王都の爛熟は行き過ぎた。そろそろ反動が来る。
馬車の音がした。
窓際の一人が外を見やる。
「アンネリーゼだぜ。どうするカイル?」
とくに下卑た顔もせず、彼は小部屋のほうを指した。
「気がのらない。俺は書斎に戻るよ」
「飽きたか?」
カイルは答えず、肩をすくめた。
もう彼女は危険物だからね。
心の中でカイルは答えた。
書斎に戻り、領地に送る指示書を書いていると、再び執事がやってきた。
「裏口のほうへ、ヘルガ・クラハトと申す女が来ております」
「追い返して」
「かしこまりました」
ヘルガ・クラハトは没落貴族の令嬢で、身を持ち崩してあちこちで裏仕事を請け負うようになった風魔法使いだ。高給で使っていた時期もあったが、政治上の派閥争いに使われるようになったと聞いて関わりを断った。
貴族だから、魔力があるからと慢心していると、ヘルガのように闇稼業にまで堕ちることもある。
(昔アンネリーゼに紹介したこともあったな)
五年ほど前か。アンネリーゼがヘルガを何に使ったのかは知らない。興味がなかった。
アンネリーゼの生活にも内面にも興味がない。美しいことと聖女であること、あとは第一王子の婚約者であることだけが面白い。
(アンネリーゼほどの身分と力があっても、堕ちることはあるだろうか)
這いつくばる彼女は見物かもしれないと、カイルは嗜虐的な笑みを浮かべた。
王都が爛熟と絢爛の時代を終えるとき、彼女ほど似合う生贄はない。
自分自身は、決して時代の生贄になる気はないが。
カイルはペンを走らせる手を止め、耳をすませた。階下からアンネリーゼの嬌声が聞こえる。彼女を小部屋に連れ込むことに、今日は誰が成功するだろう。
腐り落ちる寸前の、豊かな王都の淫靡な夜だ。
*****
父親と義兄の前で倒れた翌朝、ミアはベッドから起き上がれなかった。
(うぐぐぐ頭が痛い……)
あの看護婦姿の自称聖女は、本当になんだったのだろうか。
昨日はアウレールに彼女のことを質問しようとしたところで気を失ってしまった。
自称聖女に力が欲しいかと問われたから、欲しいと答えたらこれだ。封印・解除の聖女は力の付与などできないはずだ。新種の聖女だろうか?
(力を与えることができるなら、聖女じゃなくて精霊じゃないの?)
さすがにそれは現実離れし過ぎている。
タイミングよく覚醒が始まっただけなのだろうか。
そもそも、この具合の悪さは覚醒の予兆なのか。
さっぱりわからない。
しかし、体の具合は確実に悪い。聖女なんて大嘘で、毒魔法でもかけられたのかもしれない。そうだったらどうしよう。でもあの場には大僧正もいたし――。
芯から痛む頭でぐるぐると考えていると、ノックの音があった。
メイドかと思ったら大僧正だ。びっくりして起き上がろうとしたが、くらくらして再び枕に倒れ伏す。どうにもできない。
「起き上がらないで結構ですよ、ミア様」
大僧正は穏やかに言った。
「申し訳ございません」
「ミア様はこれから、聖女として覚醒なさるのです。おかげんの悪さはその予兆ですから、ご心配なさらず」
「わたし、普通の聖女じゃないです。大僧正様はそのことを……」
「存じております。陛下も、妃殿下もご存知です」
「きのう、木の上にいた看護服の女性は」
「彼女については、ミア様のおかげんが落ち着かれたら話しましょう」
大僧正は優しく、しかしきっぱりと答えた。
「一瞬、お母さんかな、って思ったんです……。夕日のせいで、髪がわたしと同じオレンジに見えて。でも歳がおかしいですよね。母が生きてたら四十歳近いはずだし」
「そうですね」
「お母さんの妹……とかかな」
母モニカに妹や親戚がいたら、封印・解除の聖女であってもおかしくはないとミアは思った。
「そのうちお会いできますよ」
大僧正は肯定も否定もしなかった。
「ディートハルト殿下、助かりますよね。あの女性か、わたしがいたら」
「はい。元通り元気になられます」
「よかった……」
ミアの目に安堵の涙がにじむ。
「本当によかったです……」
寝そべったミアの目から、涙が一筋枕に垂れる。
その様子を大僧正がじっと見つめているのにも気付かず、ミアは再び眠りについた。
侍女として働くためにお城へ来たのに、すっかり病人のようになってしまった。
ユリアンの部屋にも行けない。
逆にユリアンがミアの部屋に来るのだが。
ユリアンは今、ミアのベッドの横で床に転がって図鑑を見ている。
「殿下、女性の寝室に入り浸るのはどうかと思いますよ」
「お前が来ないからだ。別に病気じゃないんだろ」
「しかもバルコニーから」
夜這いじゃないんだから。九歳に夜這いされても困るが。
「おまえが言うかそれ。先におまえがバルコニーからおれの部屋に来たんだぞ」
「あれは殿下が心配だったから」
「おれだっておまえが心配だ」
「うわあ……殿下」
「なんだよ」
「きっと将来モテますよ。ちょっとキュンとしちゃいました」
「なっ……なんだよ!」
(真っ赤になっちゃって。かーわいい)
王城に来るまでは面倒だとしか思わなかったが、ユリアンとはすっかり馴染みになってしまった。
古参の女官やメイドが言うには、ユリアンと子供のころのディートハルトはよく似ているらしい。ディーもこんなやんちゃな子供だったのか。さすが魔物に乗って王都脱出するだけある。ディーもユリアンも冒険者としての資質ありまくりだ。
というか、近隣三国の王家の始祖は魔物を制圧して国を拓いた勇者だったのだから、古代なら魔物狩りの資質は王族としての資質だったわけだ。
彼らは生まれる時代を間違えた。
(わたしもか。古代の聖女だし)
「ディートハルト殿下も回復の希望が見えてきましたし、ご一緒に魔物狩り、行けるかもしれませんねえ」
「おう」
「よかったですね」
「おまえも一緒に行くんだぞ」
ユリアンが愛読書の魔物図鑑から顔を上げる。
「わたしも一緒に?」
「あたりまえじゃないか」
(あたりまえなんだ)
ミアはなんだかじーんとした。ディーとユリアンの絆に入れてもらえたのだ。
「うれしいですねえ」
「だからさっさと体調戻せよな。おまえが元気ないとおれがつまらない」
「うーん。こればっかりは」
体調が戻ったら、聖女精察の儀を受けることになるだろう。
聖女精察の儀を受けたら、ハルツェンバイン国におけるミアの立場は確定してしまう。
封印・解除の聖女。
希少種である古代の聖女を、国家が自由に遊ばせておいてくれるわけがない。
覚悟を決めたとはいえ、もうキュプカ村では暮らせないことを考えると、心に隙間風が吹き抜ける。ガウとエリンとクリンと魔物狩りができる日は、もう来ないかもしれないのだ……。
(いや、そんなことない)
「ユリアン殿下。ディートハルト殿下とわたしの魔物狩りの師匠に、殿下も魔物狩りを習ってみたいと思いません?」
「なにっ」
ユリアンの最大限まで見開かれた目が、キラキラ輝く。
「『最果てのガウ』っていう、知る人ぞ知る老剣士が師匠だったんです。強いんですよ~」
「習う習う! 連れてけ、そいつのところに」
「是非殿下をお連れしたいです。でも、陛下の許可が要りますけど……大丈夫かな」
「父上にはおれが頼む!」
ここはユリアンの我儘力に大いに期待しよう。
うきうきと楽しそうなユリアンを見ていたら、ミアはディーとアンネリーゼのことなどどうってことない気がしてきた。
ディーと自分の関係は、共にユリアンの成長を見守る仲。だたそれだけでいいじゃないかと思い始めた。
そしていつか王子たちが漕ぎ出すハルツェンバインの治世に、少しでも貢献できれば。
魔物狩りのミアとしても、変わり種の聖女としても、手を貸せることはいくつもあるだろう。きっと自分は、彼らの手助けができることに誇りを感じるはずだ。
(公爵家の者として恥ずかしくないようにって、そういうことですよね? やっと分かってきました、ドロテアお姉様)




