41・突撃! カレンベルク公爵家
ワスとモニカは、王都下町にあるワスの家にたどり着いた。
家と言っても、老婦人の家の二階に間借りしている小さな部屋である。本と紙で足の踏み場もないその部屋で、二人は貴族年鑑のページをめくった。
「ローレンツ・カレンベルク公爵。あっ、これじゃない?」
めくり始めて十秒で、モニカはローの目星をつけたらしい。
「いきなり公爵ですかぁ……」
ワスは頭を抱えた。適当な下位貴族の家に突撃してけんもほろろに追い返されれば、モニカも夢から醒めるのではないかと思ったのだが、いきなり公爵家に「ロー」が出た。勘弁してほしい。
「ねえねえ、なんて書いてあるの? あたし、ハルツェンバイン語あんまり読めないのよー」
やっぱりモニカはゲートルド人なのかと思いつつ、ワスは貴族年鑑を覗き込んだ。
「発祥はハルツェニア歴以前にて不明――旧家中の旧家じゃないですか。このずらずら並んだ女性の名前は全員聖女? 名家中の名家じゃないですか。王家に嫁ぎまくってるし。王家から何人も降嫁してるし。有名魔術師もアホほど出てるし。政治方面はそこまで強くないか……政治権力に強くないから逆にしたたかに生き残ってきたんでしょうね、この家は。こういう貴族の家が一番貴族らしいんだよなあ……」
こんな家に突撃したくない。大衆作家など虫けらのごとくひねりつぶされそうだ。
絶対におっかない番犬がいる。死界の番犬みたいな黒くて狂暴なやつが何匹もいて、お抱えの騎士がけしかけてくるのだ。
「えーと、そういうところじゃなくて……。当主の家族は書いてないの? ミアはそこにいるの?」
「ああ、そうですね」
気になるのはそこだよなあと、いるわけないと思いつつワスはページに目を這わせる。
「ミアさんは書いてないですよ。そもそもこの本が十年前の編集ですし。家族構成は当主のローレンツと……ああ、この人は侯爵家からの入り婿ですね。奥方が亡くなって、爵位を引き継いだんですね。長子がまだ小さかったからかな。子供は娘が三人……」
「奥さん、亡くなってたの?」
「そうみたいですね。だいぶ前、三女が生まれた年に。えーと、亡くなった年は……」
「そっか」
モニカはほっとしたような顔をした。
なんだその安心顔は?とワスは一瞬思ったが、すぐに「不倫ではなかった」ことにモニカは安堵したのだと気付いた。意外とそのあたりは真面目な女なのだ。
モニカは基本バカなのに、ところどころ真面目だからついほだされてしまう。
しかし安心する前に、ローレンツ・カレンベルク公爵がローであるはずがないと気付く常識を持ってほしい。
「じゃあ行きましょ! カレンベルク家へ」
「ええええ! 待ってください本気ですか? 入れてもらえるわけないですよ」
「どうして? あたしはミアの母親よ」
「じゃあ、ミアさんがいないとわかったらすぐ帰りますよ?」
ミアがいるわけがないのだが、どう言ったところでモニカは聞かないだろう。
ワスはあきらめて重い腰を上げた。
――本当に来てしまった。カレンベルク公爵家へ。
「この壁どこまで続くんですか? 王都中央にこんなバカでかい敷地とか頭おかしい……」
外壁をたどって何分も歩いているのだが、なかなか門にたどりつかないのだ。
棘のある鉄飾りを乗せた白煉瓦の壁が永遠に続くんじゃないかと気が遠くなったころ、ワスは馬車が走ってくる音を聞いた。
振り返ったモニカが目を輝かせる。
「貴族っぽい馬車だわ。ローが乗ってるかも!」
「んなわけが……ああもう、追いかけるんですかっ」
通り過ぎた立派な箱馬車をモニカが走って追いかけていく。ワスもやる気のない足取りでモニカを追った。
幸い、さして長く走ることなく馬車は減速した。行く手に馬車用とおぼしき門がある。馬車はその中に入っていったから、本当に公爵家の誰かが乗っているのかもしれない。
「モニカさん勝手に入ったらまずいですってー!」
ワスは叫んだ。
モニカが馬車を追いかける勢いのままに、開いた門の中に消えてしまったのだ。
がうがうと犬が吠え立てる声が近づいてくる。
(ほらやっぱりいるじゃないか番犬!)
ワスが門の前まで来ると、想像していた通りの真っ黒い番犬が、モニカを標的にして突進してくるところだった。
「モニカさん! 危ない!」
ワスは門の中に駆け込んで、かばうようにモニカの前へ出た。
犬は三匹もいた。武器などない。自分が盾になるしかない。
訓練された犬が見事な跳躍を見せ、顔の前で交差したワスの腕をめがけて飛びかかってくる。
(――っ痛)
右腕をがっぷりいかれた。
ワスは声も出なかった。
魔物狩り体験に行ったはずなのに犬ごときにやられた。書くときは魔物に噛まれた痛みに変換しよう。この経験を無駄にするものか――。
「きゃああああ! ワス!」
「逃げてモニカさ――」
あまりの痛みにワスはがっくり膝をついた。
まずい。犬は三匹だ。ほかの犬に首でも噛まれたら、経験を生かすどころではなくなってしまう……。
かすむ目の視界の隅に、騎士たちが番犬を止めているのが映った。番犬は騎士に従い、すっかりおとなしくなっている。
(よかった。とりあえず、命までは奪われずに済みそうだ……)
ワスはその場で気を失った。
ぼんやり意識を取り戻したとき、ワスはベッドに寝かされていた。
右腕がほのかにあたたかい。
重い頭を動かして右腕のほうを見ると、親しく言葉を交わしたことはないが馴染みのある人物が、ワスの傷ついた右腕に手を当てていた。
(あれ? 聖女様だ。ということは、僕は聖堂に運び込まれたのか)
ワスは物書きという職業柄、右手首によく炎症を起こす。そのたびに、住まいのある下町の聖堂に癒しを受けに行く。聖堂には聖女様が何人もいて、ワスは炎症の改善がお得意と評判のこちらの聖女様に、度々お世話になっていた。
度々世話になると言っても聖女様は皆貴族なので、お近づきになるなどとんでもなく、ありがたく癒しを受けぺこぺことお礼を述べるだけだ。貴族である聖女様は治療費などとらない。癒しを受けた者は、帰りに聖堂にいくばくかの寄付をする。金額は任意であり、庶民にはまことにありがたい制度だ。聖女様様である。
「いつもありがとうございます。聖女ドロテア」
普段のように声をかけたら、聖女ドロテアは驚いた顔をした。ワスは聖女の感情のある顔を見たのははじめてだった。
「お目覚めになりましたの」
「はい。ありがとうございます」
ワスは起き上がろうとしたが、「まだそのままで」と言われたので、再び横になった。
聖女がワスの右腕に手を当て、癒しを再開する。
(聖堂にこんな部屋あったっけ?)
見えるのは、下町の聖堂のくすんだ天井ではなかった。女性好みの淡い色に塗られ、白いレリーフの施された優美な天井である。王都中心部の大聖堂には貴族のための癒しの間があるそうだが、ワスの行く下町の聖堂にそんな部屋はないはずだ。
「ここは王都大聖堂ですか?」
「いえ、わたくしの自宅です」
「聖女ドロテアのご自宅?」
どういうことだろう? ワスは混乱した。
聖堂で聖女ドロテアの正式な身分は伏せられているが、立ち居振る舞いからして貴族に間違いなかった。こんな立派な貴族の家に、なぜ自分のようなド庶民が?
ワスは気を失う前の記憶をたどった。
モニカと一緒にローレンツ・カレンベルク公爵の屋敷にやってきた。モニカが馬車用の門から勝手に入って番犬に襲われそうになり、自分はモニカをかばって番犬に噛まれた――。
「……もしかしてこちらは、カレンベルク公爵のお屋敷でしょうか」
「はい」
「申し訳ありませんっ!」
治療中でなかったら、ベッドから出て床にひれ伏すところだった。
聖女ドロテアは、突撃してしまったカレンベルク公爵家の者だったのだ。そういえば、貴族年鑑で見た公爵家三姉妹の中に、ドロテアという名があった気がする。最上流貴族の聖女様が下町の聖堂に奉仕に来ているとは思わなかったので、繋がらなかったのだ。
「連れの者はどこでしょうか? 勝手に敷地内へ立ち入りまして、本当に申し訳ございません。彼女はこちらに探している人物がいると思い込んでおりまして」
「モニカさんでしたら、父と夫がお相手を」
「ローレンツ・カレンベルク公爵と聖女様のご夫君がですか? 本当にあのバカ……いや、魔物討伐隊の上司がご迷惑をおかけして……」
「いえ。我が家も皆、モニカさんにお会いしてみたかったのです。不可解な点が多くて戸惑っておりますが」
「――はい?」
今、聖女ドロテアはなんと言った?
モニカさんにお会いしてみたかった?
あの頭の螺子がはずれた女に? どういうことだ?
「せっかく尋ねてくださったのに、ミアが今屋敷にいなくて残念です」
「ミア? ミアさん? え? え? え?」
「ミアは今、第三王子の侍女として王城へ上がっておりまして」
「えーと、そのミア様はモニカさんが探してるミアさんではないと思いますが」
「モニカさんがお探しのミアです。ミアは十歳まで、ガウさんの民間魔物討伐隊におりましたから」
「嘘ですよね?」
「本当です」
まさか。まさかまさかまさか。
(貴族年鑑の上から当たって最初の「ロー」がつく貴族が、本当にモニカさんの「ロー」だったのか? そんなアホみたいな話ってあるか?)
ワスは二の句が継げなくなって、あわあわと口を開いたり閉じたりしていた。「そんなバカな」しか言葉が浮かばない。
魂が抜けたようになっているワスの耳に、ノックの音が響く。ワスよりやや年上の、二十代後半くらいの男性がドアから顔を出した。
「お連れの方のおかげんは」
「目を覚まされましたわ。傷口もなんとか塞がりました」
「よかった。申し訳ありません、犬があなたに大怪我を負わせて」
ワスはぷるぷると頭を振った。番犬ならあの場合は噛むだろうと思ったので。どう見てもこちらが不審者だった。不審者を聖女が治療してくれるなんて思いもしなかった。
「こちらの部屋へ来ていただいても大丈夫でしょうか。モニカさんにお話を伺っているのですが、支離滅裂というか……あなたの補足が欲しいと思いまして」
「ハイ。承知しました」
自分も大して知っていることはないのだが、モニカが一から十まで説明するより話がましになるだろう。
ワスは起き上がり、男性と向き直った。話の通じそうな、理知的な雰囲気のある人物でほっとする。
「僕はカレンベルク家長女ドロテアの夫で、アウレール・カレンベルクと申します」
男性が名乗り、穏やかにほほえんだ。
ワスは自分が名乗るのも忘れて固まってしまった。
アウレール・カレンベルクだと?
「武器開発の!?」
「おやめずらしい。一般の方でご存知の方は滅多にいらっしゃらないのに」
「わっ。わっ。あわわわわ。僕武器が好きでいろいろ調べてて!」
「うれしいですね。でも今は訳あって、別の仕事にたずさわっておりまして。その仕事に関して、モニカさんのお話は興味深いところが多いのです。是非ご協力をお願いします」
「ハイッ! 喜んで!」
ワスは歓喜で舞い上がり、アウレールについて部屋を出た。
そしてワスは、自分ごとき一般大衆が知って大丈夫なのかという話に大接近することになる。
ローレンツはやはりローであってモニカの謎の力を知っていて、謎の力があるモニカの復活を王や大僧正に相談しなければならないらしかった。ミアは乳飲み子でも十歳でもなくもう十五歳で、第三王子の侍女として王城に召し抱えられている。アウレールは城で極秘の大仕事をしていて、それ関連でモニカの石化からの謎の復活を詳しく調べたいらしい。ローレンツもアウレールも「これ以上言えない」秘密を持っているかんじで、どうもそれが国家機密級っぽい……。
ワスは交わされる会話をほとんど躁状態で記憶に刻み付けていた。自分は今、すごい現場にいるのだ。雲の上の貴族が国を憂えて話し合っている。そんな場に自分がいる。
興奮しきりのワスだったが、ふとモニカに目をやると、彼女はローに再会した喜びもなく、置いていかれた子供のようにふてくされていた。




