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30・アンネリーゼとフローラ


 昨晩の情事のせいか、アンネリーゼは目覚めても気だるかった。

 今日は聖堂に行く気がしない。

 起こしに来た侍女を「頭痛がするから」と追い返し、再びベッドに身を沈める。しかし二度寝する気にはなれなかった。ディートハルトの容態が気になった。


 もちろん心配などではない。

 死んでいないかと期待する気持ちだ。


 アンネリーゼは第一王子の暗殺計画に積極的に関与したわけではないし、全貌を知らされているわけでもない。

 招待された貴族の家で、魔物の毒に侵された若者を「誰とも知らずに」癒しただけだ。若者がディートハルトの護衛の魔術師であることは、アンネリーゼは知らなかったことになっている。


 つまり表向きは、アンネリーゼはどこかから運び込まれた哀れな魔物被害者を救っただけだ。緊急で聖女の務めを果たしただけ。聖女ならよくあることだ。もし事が露見しても埃は出ない。


 実行犯は一時的に護衛を排除する必要があったが、殺してしまうとディートハルトの身勝手による事故を装えないため、一計を案じた。そんなところだろう。


「失礼します。アンネリーゼ様」

 侍女が再び起こしに来た。

「なに?」

「王宮へ出向くようにと。あの――陛下のご用命だそうです」

「わかったわ」


 アンネリーゼはベッドから降りた。

 侍女に着付けをさせながら、自分を呼びつけるならきっと容態は悪化しているのだとほくそえんだ。治癒を求められたら努力するふりだけすればいい。


 窓からふと前庭を見下ろすと、妹と妾の子が粗末な僧服もどきを着て、馬車で聖堂へ出かけるところだった。


 なんの力もない二人の妹。もうあの子たちに興味はない。


 妾の子はまだ十五だが、十五になってから力を覚醒させる聖女など滅多にいない。封印・解除の聖女だなんて、まるで神話に出てくるようなことをヴァッサー伯爵は言っていたが、ヴァッサーは小物で信用できる男ではないし、今のアンネリーゼは眉唾話だと思っている。


 ミアが公爵家へ来たばかりのころは、歯向かってきて目障りだった。人に命じて懲らしめようとしたら失敗したけれど、アンネリーゼが少しいじめてやったらぼろぼろ泣いて怯えて病気になって、まったくいい気味だった。今だってアンネリーゼに怯えて暮らしている。脅そうと思えばいくらでも脅せる妾腹の子なんて、もうどうでもいい。


 妹たちは二人とも「はずれ」だ。哀れな無能力者。


(みっともない服。雑用係がお似合いね)


 しかしどんなに味気ない粗末な服を着ていても、フローラの輝くような愛らしさは、階上から見下ろすだけでわかるのだ。


 アンネリーゼは苛々した。

 ついフローラに目がいってしまうことにも苛々したし、なんの力もない無能力者に苛々させられることにも苛々した。


 苛々していたら、アンネリーゼが見ていることにフローラが気付いた。


(どうしてすぐ気付くのかしら)


 笑顔で窓に手を振ろうとするので、アンネリーゼは乱暴にカーテンを閉めた。


「どうなさいましたか?」

 怯え顔で侍女が問う。

「眩しかっただけよ」

 カーテンの端を握りしめ、アンネリーゼは答えた。




 アンネリーゼが妹を忌々しいと思い始めたのは、フローラが二歳、アンネリーゼが五歳のころだった。


 アンネリーゼが庭で遊んでいると、乳母に付き添われた妹がおぼつかない足取りで近づいてきた。なんの断りもなく近づいてくるのが腹立たしくてならなかったし、さらに腹立たしいのは、乳母が止めもせずにこにこ笑っていることだ。「フローラ様、お姉様ですよ」などと言って。


「近づかせないで!」


 アンネリーゼは金切り声をあげた。

 フローラはビクッとして、大声で泣き始めた。

 乳母は何も言わなかったが、フローラをあやしながら非難がましい目をアンネリーゼに向けてきた。


 なによそれ。

 怒るなら妹にでしょ。

 わたくしは近寄られたくなかったのよ!


 すべてが腹立たしくてならなかったのに、そのころのアンネリーゼにはメイドに当たり散らすくらいしかなすすべがなかった。


 フローラが家族の食卓に混ざるようになってからは、食事の時間も忌々しかった。


 ナイフとフォークが使えるようになったフローラは、四歳で家族の食卓につくことを許された。使えるようになったと言っても幼児であるし、食器はガチャガチャとうるさく話し声もうるさかった。


 ドロテアがきつく叱ってくれることを期待しているのに、「おくちをとじて噛むのよ」「ナイフがさかさまよ」などと穏やかに注意するだけだ。フローラが「おいしい!」と叫べば、叱るどころか笑いすらする。アンネリーゼにはいつも小言ばかりのドロテアが。


「フローラ、今日のごはんはなにがおいしかったかい?」

 父親がまなじりを下げて三女に問う。

「ぜんぶよ!」

「そう、ぜんぶおいしかったのかい」

「ぜんぶだけど……いちばんは、でざーとよ!」


 幼児のたわいない話に、父も、姉も、給仕もメイドも笑う。


「フローラは甘いものが大好きだね」

「そうよ、だいすきなの。わたし、おおきくなったら、あまいものをたくさんならべてお茶会をするの。おとうさまをごしょうたいするわ!」

「それは楽しみだな」

「ドロテアおねえさまもごしょうたいするわ!」

「素敵ね。うれしいわ」

「アンネリーゼおねえさまも」


「いかないわ」


 アンネリーゼはフローラをぴしゃりと遮った。

 さっきまで笑顔がさざめいていた場が、凍り付いたのがわかった。


「アンネリーゼおねえさまはあまいものがおきらいなのかしら?」

「あなたが嫌いなのよ」

「アンネリーゼ」

 ドロテアがこわばった声で言う。小言を言うときの声だ。

「おとなげないわよ」

「おとなじゃないもの」


 アンネリーゼは残酷な期待を持ってフローラを見た。

 嫌いと言ってやった相手が衝撃を受ける顔を見るのは楽しい。

 しかし、幼いフローラは何を言われたかわかっていないのか、きょとんとしていた。


「わからなかった? わたくし、あなたが嫌いなのよ、フローラ」

「アンネリーゼ!」



「わたしはアンネリーゼおねえさまがだいすきよ!」



 アンネリーゼは自分のほうが衝撃を受けた顔になったのがわかった。


 ショックで泣き出すのを期待していたのに、こともあろうかフローラは、にっこりアンネリーゼに笑いかけたのだ。「だいすき」と言って。


 だいすき? 大好きになられることなど、何ひとつフローラにしていない。


 頭を殴られたような思いだった。足元から震えが立ち上ってきた。

「嫌い」と言ってやった相手がたじろぎもせず、笑顔で「好き」と返すなんて。



 今まで生きて来た世界が揺らぐような気がした。



 澄んだ瞳で自分を見るフローラが、怖かった。

 その瞳に取り込まれそうで、心底怖かった。

 この子はきっと、自分の中の何かを崩してくる。

 その「何か」とはなんなのか、まるでわからなかったけれど。


 アンネリーゼは乱暴に席を立った。もうこの場にいたくなかった。


 そしてさっさと自分の部屋に戻るつもりだったアンネリーゼは、メイドのこんなささやきで足を止めた。



「――聖女だわ」

「フローラ様はきっと聖女よ」



 聖女。

 聖女ですって?

 女の中で一番えらい、聖女?

 このうっとうしい妹が?


(ふざけないで。なにもわからない幼児じゃないの!)


 アンネリーゼは衝動的に、ティーポットを掴んで床に叩きつけた。


 ポットは大きな音を立てて割れ、余っていた紅茶が部屋中に飛び散った。


 今度こそフローラは、驚いて泣いた。


「なにをするのだアンネリーゼ! かわいそうじゃないか!」

 父親が大きな声を出し、大股で近づいてアンネリーゼの肩をきつく掴んだ。


 かわいそうですって?

 誰が?

 かわいそうなのはわたくしだったはずでしょ?

 かわいそうですべてが許されたのは、わたくしだったはずでしょ?


 母も父もいないという「かわいそう」の切り札は、もう使えなくなった。

 父は戻ってきてしまったし、母がいないのはフローラも同じだ。


 母がいないのはフローラも同じ……だけれど。


 アンネリーゼは「いいこと」に気が付いた。フローラに勝てる「かわいそう」の切り札は、まだあったのだ。


「かわいそうなのはわたくしでしょ!」

「何を――」



「その子のせいでお母様が死んだのに!」



 場の空気がまた変わったのを感じた。

 父の手がビクリとして、肩から離れる。


 さっきまでフローラを聖女だなんだと言っていたメイドたちが、アンネリーゼを見る。


 その目は言っていた。

 おかわいそうなアンネリーゼ様。お母様を亡くされた心の傷が、まだ癒えてらっしゃらないのだわ――。


 そうなの、わたし、かわいそうなの。だからおこらないでね。かわいそうなんだもの。


 アンネリーゼは笑いたくなるのをこらえて、泣きじゃくるふりをしながら食堂から走り去った。



 ほらごらんなさい、わたくしの勝ちよ。




 アンネリーゼが「聖女」をとりわけ意識し始めたのは、あの食卓での出来事からだった。


 もちろん聖女の家系の生まれであることから「自分もいつかは聖女になる」という思いはあった。けれどそれは遠い未来のことで、七歳のアンネリーゼにとって実感を伴うものではなかった。



「――聖女だわ」

「フローラ様はきっと聖女よ」



 あの日のメイドたちのささやきが、アンネリーゼの耳にこびりついて離れなかった。


 国で最も貴重な女性である聖女。

 崇められ、讃えられ、大切に扱われるべき存在である聖女。


 「大聖女」と呼ばれた母コルドゥアの名は、死んでからも忘れ去られる気配はなく、聖堂でコルドゥアに祈りを捧げる者が後を絶たないそうだ。


 自分たち三姉妹は、そのコルドゥアの娘なのだ。

 次世代の大聖女となる可能性の最も高い娘たち。


(負けたくない。お姉様にも妹にも)



 ――自分こそが、この国最高の栄華を誇る聖女になりたい。



 フローラなんかではなく、自分こそが。




 大地の精霊はそんなアンネリーゼの願いを叶えてくれた。

 ドロテアが覚醒の兆候を示し十二歳で聖女精察の儀を受けた翌年、アンネリーゼも強い兆候を示し、ドロテアより三歳早い九歳で儀式を受けることとなった。


 十歳より前の覚醒は大変めずらしく、早期覚醒は強い力を伴う例が多い。



 前例にたがわず、アンネリーゼの聖杯は誰よりも鮮やかな強い青色で染まった。大僧正は直ちに王城へ報告の早馬を飛ばしたという。




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