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29・大聖女の肖像画


 カレンベルク公爵家正面玄関を入ってすぐ、ホール正面上部に大聖女コルドゥアの肖像画が飾られている。

 公爵家を訪れた者は、最初にまず等身大のコルドゥアに見下ろされることになるのだ。


 表情に乏しかったというコルドゥアそのままに、肖像画の大聖女もまた、真意の読めない薄い微笑を浮かべていた。


「気持ち悪い絵。見たくないわ」


 聖堂から戻ったアンネリーゼは、母の肖像画に向かって何度目かわからない悪態をついた。


 画家の腕が確かなのはわかる。腕が良すぎて、モデルの薄気味悪さをそのまま写し取ってしまったのだろう。生前の母を知る者が皆、良く似ていると言っているから。


 母親のことなどほとんど覚えていなかった。

 アンネリーゼが三歳のときに死んだのだから当然だ。


 アンネリーゼの心にわずかに残る母の面影は、疲れた顔で長椅子の背にもたれかかっている、魅力のないしなびた中年女性だった。



 母が死んですぐに、父親が失踪した。聖女の家系を繋ぐ道具に過ぎない入り婿の男は、己の存在意義がもうなくなったことに気付いたのかもしれない。


 父母をなくした幼いアンネリーゼを皆が憐れんだ。アンネリーゼがわがままを言っても癇癪を起こしても、誰もしからない。


 なんてかわいそうなアンネリーゼ。


 そうなの、わたし、かわいそうなの。だからおこらないでね。かわいそうなんだもの。


 豊かな公爵家で、父母がいなくて困ることなどなにもなかった。父母がいないから許されることのほうが多かった。

 

 おとうさまなんてかえってこなくていいのに。わたし、かわいそうなままでいたいのに。


 けれど父は帰ってきてしまった。ごめんと泣きながら謝られた。

 涙を流す父がうっとうしくて、どっかにいっちゃえと言ったら愕然としていた。


 おとうさまなんていらないもの。どっかにいっちゃっていいのよ。


 ただの本音を言っただけなのに、父はどこにも行かずアンネリーゼの機嫌をとりはじめた。


 ドレス、お菓子、お人形。ほしがればなんでも思いのまま。

 不機嫌になってみせればみせるほど、父は甘くなる。

 大嫌いだとののしれば、うちひしがれたように涙ぐむ。


 おもしろかった。

 乳母が読んでくれる絵本なんかより、ずっとおもしろかった。




「アンネリーゼ様、今夜のご予定は?」

 アンネリーゼが戻るのを待っていた新しい侍女に、辛気臭い聖堂用のマントを放る。


「バルチュ夫人のお針の会に行くわ」

「かしこまりました」


 夜にお針の会なんてやっているわけがない。孤児院に寄付する服を寄り集まってちまちま縫う、善人ぶった貴婦人の自己満足な催しは、普通は日の高いうちにしか行われない。

 けれどすぐわかる嘘でも、言い繕っておかないと周りがうるさい。


 アンネリーゼはもう「かわいそうな子」ではなくなってしまった。あふれるほどの力を持つ聖女になってしまったから、周囲がうるさいことうるさいこと。

 父も、姉も義兄も、王も王妃も大僧正も宰相も。みんなみんなうるさくなった。


 中でも婚約者の王子は一番うるさい。聖女なら民を救えだのなんだのと。

 取るに足らない民草までいちいち救っていたら、あのしなびた母のようになってしまうではないか。


 第一王子なんてどっかにいっちゃえばいいのに。

 心の底からそう思った。


 そう思っていたら、十五のとき本当にどこかに行ってくれた。不作法でうるさい第一王子がいなくなっても、お城には第二王子がいた。


 とてもとても綺麗な王子様。

 結婚するなら平民みたいにがさつな第一王子より、上品で綺麗な第二王子のほうがいい。


 そう思ってうきうきしていたのに、第一王子は騎士に連れ戻されてしまった。


(フェリクス殿下……)


 綺麗な第二王子はアンネリーゼを見てくれない。

 アンネリーゼが第一王子のものだからだ。

 あの綺麗な王子様を誰にも渡したくない。

 妹にはとくに、渡したくない。

 

 うるさい王子と婚約したままでは、綺麗な王子が手に入らない。


 どっかにいっちゃえばいいのに。



「……どっかにいっちゃえばいいのに」

「なにかおっしゃいましたか?」

 新入りの侍女が怯えたようにふりかえる。


「どっかにいっちゃえばいいのにって言ったのよ」

「も、申し訳ございません」

 新入りの侍女は慌てたように一礼し、早足で去った。


 あの子に言ってないのに。

 召使いっておもしろいわね。

 不機嫌をふりまくほど、言うことをきくようになるのだから。


 不機嫌で言うことをきかなくなったときは、別のやり方がある。


 アンネリーゼは扇を取り出し、時に召使いを打つその扇で、美しい顔を煽いだ。




 アンネリーゼを乗せた馬車は夜の王都を走った。


 バルチュ伯爵の館の前で、アンネリーゼは護衛の騎士とともに馬車を降りた。護衛の騎士を色香で手懐けることはもうしなくなった。執着してきて面倒だからだ。


 色ごとを覚えたばかりの十四、五のころは、家の騎士団に見目好い騎士がいると遊び相手にした。体に触れさせれば簡単にアンネリーゼの言うことだけを聞くようになる。内緒であやしげな場所にも連れていけて便利だった。


 けれど皆、だんだん図に乗ってくる。アンネリーゼを独占しようとするのだ。

 国の宝である聖女を自分だけのものにしたがるなんて、どれだけ図々しいのだろう。王族でもないくせに。


 嫌気が差して「もうどこかへ消えて」と言ったら首を括った騎士もいた。別に死ねなんて言っていないのに。恨みがましい遺書を残していて迷惑だった。


 バルチュ伯爵家の執事に招き入れられ、館に入る。


「奥様がお待ちです」

 よく躾けられた執事は騎士に聞こえるように嘘を言う。


 何も知らない護衛の騎士は小部屋へ通され、「お針の会」が終わるまで待機する。

 アンネリーゼが別の馬車で館を抜け出して行くのも知らずに。




 エッカルト子爵の別邸は、アンネリーゼにとって第二の家のようなものだった。


 粋人が遊興のためだけに建てた館だ。小ぶりで洒落ていて居心地がいい。普段はエッカルト子爵が選び抜いた遊びのわかる貴族しか来ないが、時おり行われる無礼講の夜会は様々な階層の者が来て乱痴気騒ぎになる。


「よう、アンネリーゼ」


 長椅子に寄りかかるカイル・エッカルトはまるで優雅な獣のようだ。研いだナイフのような鋭利な美貌は、五年前よりさらに冴えている。


 彼の気を引きたがる貴族の娘は大勢いる。

 アンネリーゼはエッカルト子爵の気を引こうとなどと思ったことはない。エッカルト子爵のほうから近づいてきたのだから当然だ。


「飲む? ローヴァの十二年あるけど」

「ゲートルド産はないの?」

「あるよ。どうした? 荒れてる?」

 カイルが長椅子から立ち上がり、隣国産の重い酒を見合った肉厚のグラスに注ぐ。


「ディートハルト死ななかったわ」

「穏やかじゃないな。その話に巻き込まないでくれよ。俺は王都派でも地方派でもないから、どうでもいいし関わりたくない」

「わたくしの味方でしょう?」

「それはそう」

「どうにかならないかしら」

「君が助けなければいいだけだろ? さすがの聖女も、毒のまわりが早くて手に負えませんでしたって」

「毒じゃないのよ」

「無茶な狩りして魔物の毒にやられたんじゃないのか?」


「ディートハルトを蝕んでいるのは魔法なの。ペルーダよりもっと等級の高い魔物が出たのよ。特級の魔力持ちよ」

「特級? 王領の森って思ったより物騒だね。でも、毒も魔法も同じだろ?」

「わたくしだってそう思ってたわ。毒でも魔法でもディートハルトを死なせてくれるならなんでもよくってよ。でもだめなの。護衛の魔術師が邪魔するの。防御魔法のエリートですって。彼が魔法のめぐりを押しとどめてるのよ。こんなことなら――」


 続きは頭の中だけで言う。

 あのまま魔術師を死なせておけばよかった、と。


「こわいこわい」

 第一王子の暗殺が実行されたとは知らない子爵は、おどけるように肩をすくめた。


「王族なんて何があっても周りが生かそうとするんだから、あきらめたら?」

「死なないならまたどっかいっちゃえばいいのに」

「幼児みたいでかわいいな。駄々っ子のアンネリーゼも」


 カイルがアンネリーゼの横に腰を下ろした。

 片手でアンネリーゼの濃紺の髪をもてあそぶ。


「あきらめて仮面夫婦になればいいだけなのに、むきになるんだから。そんなにフェリクスのことが好き?」

 甘く蕩けた表情で、カイルがアンネリーゼの髪に口づけ、続いて頬と首筋に口づけた。


「『そんなに俺のことが好き?』って言わないところが好きよ、カイル」

「ほかの男を好きな女を抱くのが趣味なんだ」

「自分になびくと捨てるくせに」

「面倒だからね」

「第一王子の婚約者のほうが面倒だと思うわ」

「興奮するよ」


 カイルはアンネリーゼを優しく長椅子に横たえた。


 エッカルト子爵は容貌が美しく服や家具調度の趣味もよく、アンネリーゼを楽しませるだけで面倒は言わない。領地は小さいが栄えた市場と宿場町があり、領主に入る税収は多く金回りも良い。


 けれど身分は子爵だ。


 北領の領主、あの野暮ったいヴァッサーですら伯爵なのに。

 アンネリーゼにとってカイル・エッカルトは、痛めつけなくても楽しめる、めずらしくて綺麗なおもちゃに過ぎない。


「いくときフェリクスの名前呼べよ」

「悪趣味ね」


 アンネリーゼはくすくす笑いながら、エッカルト子爵と口づけを交わした。






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