17・三番目の姉は聖女の力を覚醒させなかった
目の前で、良い香りのお茶がカップに注がれる。
やわらかな湯気が立ちのぼる澄んだ琥珀色の液体を、ミアはじっと見つめた。
「飲まないのかしら?」
(飲めるか!)
アンネリーゼの部屋で出されたお茶など、何が入ってるかわかったもんじゃない。
「侍女に毒見でも命じたら?」
「ヘッダは部屋つきのメイドで侍女じゃないです」
「なら余計に好都合じゃない。身分のない平民でしょ」
「平民だと毒見に好都合なんですか?」
「反抗的なこの子の代わりにあなたこのお茶飲みなさい」
アンネリーゼがヘッダに命じる。
未来の王妃となる令嬢の命令を、ただのメイドが拒否できるわけがない。アンネリーゼのメイドが引いた椅子に腰かけ、ヘッダはカップに手を伸ばした。
「ヘッダだめっ……!」
ミアの禁止も間に合わず、ヘッダは静かに紅茶を口に含んだ。
ガシャン!
「あら効きがはやいわね」
「ちょっとおおおおお! ぎゃー! ヘッダ! 返事してヘッダ!」
こくんと紅茶を飲み込んだ途端、ヘッダはカップを取り落とし、テーブルに伏せてしまった。あっという間に顔が土気色になる。目が半開きで、意識があるのかないのかわからない。
「ちょ、おま、ちょ、ちょ、ちょっといくらなんでも」
あまりにもあからさまに毒で、ミアはまともに言葉すら出てこない。悪夢のようだ。
「ただの眠り薬よ」
「こ、こ、これのどこが眠り薬……!」
「わたくしにかかればなんだって眠り薬だけれど。死にさえしなければ、ね。死なないように分量は調節してあるから安心なさいな」
「安心? 安心って? 無理なんだけど! 医者ぁぁぁぁぁ」
「お医者様なんかよりわたくしのほうが確実よ。いいからお座りなさい。大人しくわたくしの話を聞けば、メイドはすぐに元通りにしてあげるわ。反抗したらわかっているわね? この眠り薬ね、長く眠ったままでいると後遺症が出るんですって。失明とか四肢の麻痺とか」
立ち上がってしまったミアは椅子にもう一度腰を下ろした。
もう一分一秒だってこの魔女と一緒にいたくないが、ヘッダを人質にとられてしまった。
「ふうん。あなた、自分よりまわりが痛めつけられるのに弱いようね。嫌いじゃないわ、そういう子。――扱いやすいもの」
アンネリーゼの言葉に、ミアは凶悪な顔で相手をにらみつけた。
「うふふ、いい顔。もっともっとそんな顔させてあげるわ」
アンネリーゼが艶然と微笑む。
「わたくしね、こう見えてけっこう顔が広いの。お屋敷と聖堂の行き来しかしないお姉様なんかより、ずっと世間を知っているわ。あなたがびっくりするような方ともお友達よ。そうね、例えば――ヴァッサー伯爵」
ミアは目を見張った。
どうしてここで、ミアを捕えようとしたクソ領主の名前が出る?
「あなたも良くご存知でしょう? 生まれ故郷の領主ですもの。彼って聖女が大好きなのね。でも残念ながら、大して豊かでもない地方領主のところにまで聖女は行き渡らないわ。聖女は貴重なの。国の宝なの。野暮ったい田舎貴族が聖女を妻に望んだって……ねぇ? 身の程を知らないのかしら?」
友達と言うわりには野暮ったいだの身の程を知らないだの、言うことが酷い。しかしそんなことより、クソ領主絡みで聖女の話だなんて、アンネリーゼは何が言いたいのだろう。
――アンネリーゼは封印・解除の聖女の存在を知っているのだろうか。
「そのヴァッサー伯爵がね、面白いお話をしてくださったの。遠い昔の聖女のお話。古代には癒しの聖女だけではなく、魔力の封印や魔法の解除に優れた異端の聖女もいたのですって……あらどうしたのかしら? 顔が青くってよ」
アンネリーゼは何もかも知っているような顔で、美しく微笑んでいる。ミアの顎を指先で上向かせようとしたので、ミアは頭を振って逃れた。
「ヴァッサー伯爵ったら、正統な癒しの聖女が手に入らないからって、異端の聖女を欲しがっているの。みじめね。みじめだけれど、お友達だから、わたくし協力してさしあげてもいいと思ったの」
「……協力って」
「異端の聖女の血を引く娘がいるの。その娘を彼にあげるの」
「あげるって。物みたいに言うね」
「怒ったかしら?」
「……」
まだ封印・解除の聖女の末裔がミアだとバレているとは限らない。余計なことを言わないように、ミアは黙った。
「でも気が変わったわ。魔力の封印ができるなんて凄い能力だもの。誰かにあげたくないわ。わたくしのものにするわ」
また顎に手をかけられそうになったので、ミアは後ろに逃れようとした。
その途端、両手でガシッと頭を掴まれた。
動かせなくなった顔の真ん前に、アンネリーゼの美しい顔が迫った。氷の張った湖面のような冷たい瞳が、間近でミアを見据える。恐ろしかった。
「わたくしのものになりなさい」
「わたしは聖女じゃない」
「力を発現したらすぐに言うのよ」
「しない。聖女じゃないから」
「あなたの母親について調べはついているの。お父様はああ見えてとても魔力が強いのよ。魔力が強い父親を持つと、聖女の力は受け継がれやすくなるわ。お姉様も、わたくしも、聖女の力を発現したわ。きっとフローラだって……」
フローラの名を口にした途端、アンネリーゼが微笑を歪めた。
アンネリーゼにフローラの話をすると逆上することがあるとドロテアが言っていたことを思い出す。マリーが手のひらをヒールで貫かれたときも、フローラの名が出ていた。
「魔力を封じることができるなら、聖女の力も封じることができるのでしょう?」
「知らない」
「できるはずよ。魔力も聖なる力も組成は変わらないもの」
「知らないってば」
「フローラの力を封じなさい」
ミアは息を呑んだ。
何を言ったのだ、この女は?
「フローラが聖女になったら、力を封じなさい。嫌だとは言わないわよね?」
「……どうして」
「拒んだり、余計な詮索をしたりすれば、このメイドは一生ベッドで暮らすことになるかもしれないわ」
アンネリーゼは伏したまま動かないヘッダに視線をやった。
「フローラが覚醒して、あなたも覚醒したら、やることはわかって? わたくしの言うとおりにするなら、ヴァッサー伯爵に何も教えないし、メイドも元気に目を覚ますわ。どう? フローラの力を封じる約束をする?」
「する」
ミアはうなずきながら言った。
「いい子」
「ヘッダを戻して」
アンネリーゼはヘッダの首筋と背中を軽く撫でさすった。
ものの数秒で頬に血色が戻り、ヘッダが目を開く。
「え……私……」
「ヘッダ! 逃げよう!」
ヘッダが意識を取り戻したのがわかってすぐに、ミアはヘッダの手を引いて椅子から立ち上がらせた。そのままドアへ向かって走る。
アンネリーゼの言うことなどミアは全く聞く気がなかった。ドロテアでも公爵でもいい、すぐに全てを話して助けを求めるつもりだった。
ミアたちの背中をアンネリーゼの声が追いかける。
「ヴァッサー伯爵がわたくしのお友達だってこと、忘れないでね。あなたの生まれ育った村、領主の彼ならどうとでもできるわよ」
ミアは足を止めた。
アンネリーゼを見るのが恐ろしくて、振り返ることができなかった。
「ヴァッサー伯爵はわたくしのことが大好きなの。聖女が大好きなのですもの」
きっと、アンネリーゼは勝ち誇った顔をしている。
この世のすべてが自分のものであるかのような。
「目の前のことしか見えていないなんて、やっぱり子供ね。どうぞ、お姉様でもお父様でも、好きに告げ口したら? 田舎の村がどうなってもかまわないのなら」
――田舎の村がどうなってもかまわないのなら。
鈴を転がすような金属質の声が、ミアの胸に重く響く。
ミアはヘッダの手を引いて、逃げるようにアンネリーゼの部屋を出た。
ガウの言う通りだった。
猛犬をやっつける腕があったって、自分の身は守れたって、何も知らない子供は舐められて、腹黒い貴族のいいようにされる。大切なものを質に取られる。
ミアは廊下に立ち止まり、ボロボロと涙を流した。
キュプカ村の人々の顔が次々と心に浮かぶ。
ガウ、エリンとクリンとその家族のみんな、にぎやかなおばちゃんおねえさん、気のいい男衆、優しいじいちゃんばあちゃん、元気なちびっこたち……。
傷つけられたくない。失いたくない。ミアが帰る場所。
「ミア様、私は気を失っていたのですか? アンネリーゼ様はミア様に一体何を……」
「なんでもない。怖かったの。怖かっただけ……」
「お顔が真っ青です。ドロテア様のところへ行きましょう」
ヘッダの提案に、ミアは激しく首を振った。
今ドロテアに会ったら、全部話してしまう。
それがアンネリーゼに知られたら、キュプカ村がどうなってしまうのか――。
(キュプカ村に帰りたい)
涙があふれて止まらなかった。この家はこわい。
アンネリーゼも、彼女を止められない人々もこわい。
聖女だから? 王家に嫁ぐから? 公爵家の繁栄に彼女が必要だから? だからあの女をのさばらせておけるのだろうか。他人なんて殺しさえしなければいくら痛めつけてもいいと思っている女を。
(アンネリーゼはなんでフローラの覚醒を邪魔したいんだろう)
国一番の聖女でいたいから?
王家に嫁げるほどの聖女は二人もいらないから?
第二王子にはまだ婚約者がいないのだ――。
(わたしが、聖女の力を覚醒させなければいいんだ。古代の聖女になんかならなければいいんだ)
ミアが封印・解除の力を得さえしなければ、フローラが聖女になっても封じなくていいし、キュプカ村に手を出されることもない。
幸い、覚醒の予兆が訪れることはなく、月日は流れた。
悪徳商人ヤン・アルホフの屋敷で感じたのを最後に、ミアの身体に聖女の力の気配はなくなっていた。
このまま覚醒期限の十六歳になれればいいとミアは思った。
十六歳を過ぎれば、聖なる力の目覚めは訪れない。
そうすれば面倒ごとから解放されて、晴れてキュプカ村に戻れるのだ。
そうしてミアが十四歳になった年。
フローラが十六歳になった。
周囲の大きな期待をよそに、フローラは覚醒の予兆のないまま聖女精察の日を迎えた。
聖女であれば青く染まるはずの聖杯の水は、澄んだ無色のままだったという。
フローラは聖女として覚醒しなかったのだ。
第二章終了、ミアの子供時代はここまでです。お読みいただきありがとうございました。
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