15・一番目の姉やっぱり聖女
ミアはアウレールに連れられてドロテアの執務室へやって来た。ドレスは土まみれで血がついたままだったが、つまみ出されることはなかった。
「……そうですか、アンネリーゼが」
ミアの話を聞いたドロテアは、深く息をついた。いつものように怒った顔ではなく、疲れた表情だった。
「なんなんですかあの人は。わたしを殺す気ですか。下賤の子は殺してもいいんですか」
ミアは怒り冷めやらぬ口調だった。
「ミア様、アンネリーゼ様が犬をけしかけたとはまだ決まっていませんよ」
アウレールがとりなすように言う。
「アンネリーゼに決まってんじゃないですか! 『あなた明日には、ここにいないもの』って言いましたもん! わたし追い出されると思ったんですけど、あれ殺害予告じゃないですか。そう思われるほどのことやったのアンネリーゼですよ。侍女の手のひらブッシャーッ!て。靴のとんがった踵で。やば! やばすぎる! 聖女の力で治せるからって痛めつけ放題。あんなの有りですか!?」
「マリーのところへは今、家令を向かわせています。当主もじき王城から戻って、アンネリーゼと話してくださるでしょう」
「当てになるんですか、お父様って」
「ミア、口を慎みなさい」
「大体あの風魔法の使い手は誰なんですか? この屋敷のメイドに魔法使いがいるんですか?」
「いませんよ。由々しき事態なので騎士団が調査に当たります」
「うわあ」
ドロテアが「うわあ、ではありません」と叱ってくるかと思ったが、それはなかった。無言はめずらしいと思いミアが見上げたら、ドロテアの表情はいつものきつくて固いものではなく、なんとも言えない不安そうな表情だった。
「ミア……あなたにおそろしい思いをさせてしまいました」
「はい?」
「さぞ怖かろうと思います」
「怖くないです。ムカついてます」
「……怖くないのですか?」
「怖いより怒ってます。あんの女ぁ……」
ぷ、と誰かか吹きだす音がした。アウレールだ。
「おっと失礼。ミア様は気丈だ」
「魔物狩って暮らしてたんだから犬なんかどうってことないです」
「頼もしい」
「あの弱っちい犬どもじゃないんだから、このまま尻尾巻いて逃げるなんてわたしは嫌です。絶対アンネリーゼに謝らせてやるう!」
「はははは。本当に頼もしい」
「アウレール様、調子に乗らせないでください。――ミア、あなた今夜はわたくしの部屋でお休みなさい」
「え? え? ドロテアお姉様のお部屋でですか? なんで?」
「心配だからです」
本当に心配そうな顔で言われたので、ミアは一瞬固まってしまった。ドロテアがそんな表情をするなんて意外だったのだ。
「……あ、はい」
「エルザ、ミアをわたくしの部屋へ。わたくしが行くまでミアについていて。ミアの着替えと湯の準備を命じておいてちょうだい」
「かしこまりました。ミア様、どうぞこちらへ」
ミアはドロテアの侍女に促され、ドアに足を向けた。廊下へ出る前にちらりと振り返る。
自分を見送るドロテアが思いやり深く見え、そういえば長女も聖女だったっけと思い出した。
*****
執務室を出て行くミアを見送ると、アウレールはあらためて婚約者の顔を見た。
ドロテアは疲れた顔をしていた。
「どうしてこう……。アンネリーゼには困ったものです」
「ドロテア、座ろう」
アウレールが視線で長椅子を指し示すと、ドロテアは静かに腰を下ろした。一人ぶんの間を開けて、アウレールも座る。
肩を抱いて労わってやりたい気持ちだったが、結婚前なのでためらいがある。それがなんとももどかしかった。
まだ二十歳にも届かない身で、ドロテアはカレンベルク公爵家を切り回している。当主ローレンツもああ見えて宮廷では公務を頑張っているのだが、恥ずべき出奔の過去があるのと、カレンベルク家の持つ「聖女の家系」の印象から、周囲の期待は自然とドロテアに集まっていた。
ドロテアはアンネリーゼほど聖女の力は強くない。だが、歴史あるカレンベルク家を背負って立つ気概があった。周りにも厳しいが自分にはもっと厳しい。
真面目な努力家であり――そして、優しい。
「大聖女が生きていたら」。その思いは誰よりも強かろうに、ドロテアは決してそれを口にしない。その言葉が、大聖女である母の死と引き換えに生まれてきたフローラをどれほど痛めつけるか、よくわかっているから。
(でも正直、大聖女には生きていてほしかったな。次世代を躾けるためにも)
我欲まみれの次女、アンネリーゼ。母を凌ぐとも言われる天性の力の強さ。聖女の力が覚醒するのは通常十歳から十五歳だが、彼女はそれ以前に強い兆候を示した。すぐに聖女精察の儀式が行われ、十歳にはもう第一王子との婚約が調い、王家に嫁ぐことが確定した。
加えてあの美貌だ。誰も彼もが彼女にかしずく。
それが彼女にとって良かったかどうかと言えば――。
(蝶よ花よとちやほやされたまま一生過ごせれば、平穏だったのかもな)
残念ながらそうはいかなかった。
肝心要の第一王子が、アンネリーゼを嫌った。
アウレールとしては、「わかる」としか言いようがない。自分もアンネリーゼが苦手だったから。第一王子には申し訳ないが、定められた婚約者がドロテアで本当に良かった。
使用人たちも我儘なアンネリーゼを嫌った。
ドロテアの侍女はずっとエルザだし、フローラの侍女はずっとクララだが、アンネリーゼの侍女だけは次々と変わる。半年保てばいいほうだ。
使用人に対して激しい虐待があるようだ。普通の令嬢でも問題なのに、アンネリーゼはこのままいけば次期王妃だ――。
ドロテアが隣で、静かで重い息をしている。憂鬱なため息にならないよう気をつけているのだ。
かわいそうに。
アウレールは婚約者が痛ましくてならなかった。
「なんでしょうか? アウレール様」
視線に気づき、ドロテアがこちらを向く。
「うん。はやく結婚したいなと思って」
アウレールは率直な気持ちを言った。
「……なぜですか?」
「君を支えたいなと思って」
「じゅうぶん支えていただいております」
「とは言っても僕はまだ他家の人間だからね。君と同じ立場で、君と同じ苦労を背負いたいよ」
「アウレール様……」
「なんだい?」
「うれしいです」
ドロテアが澄んだ目で、まっすぐアウレールの目を見て言う。こういうとき、彼女は照れないのだ。
聖女はまっすぐな性質の者が多いという。ドロテアと接して、本当に素直だなとアウレールはいつも感じる。
(こっちが照れる……)
かわいいったらありゃしない。一刻でもはやく結婚したいとアウレールは思った。
屋敷に不審な魔法使いが入り込んだのならば、直ちに調査しなければならない。
アウレールは騎士団の調査に協力するため、今夜は公爵家に泊まることにした。以前は客室を準備してもらっていたが、あることがあって以来、絶対に騎士団詰所の仮眠室に泊まることにしている。
ベッドが固いのではと心配するドロテアには、騎士団と親交を深めるいい機会だからと言っている。それも嘘ではない。しかし一番の理由は別のことだ。
あれは一年ほど前、嵐で家に帰れなくなった日のことだった。
アウレールは上等の客室を整えてもらい、風の音を聞きつつ就寝前のひとときを読書して過ごしていた。
コンコン、とノックの音がしたのは深夜近くになってからだ。こんな時間に使用人がやってくるはずがないと思ったアウレールは、「もしやドロテアでは?」と一瞬胸を高鳴らせた。
そして期待を胸にドアを開け――すぐにバタンと閉めた。
ドアの向こうではアンネリーゼが、「どうして入れてくださらないの」とゴネている。
入れるわけがなかろう。胸元の開いた夜着姿の女など。
アウレールがおびえていると、やがてカチャリと鍵を開ける音がした。アンネリーゼは部屋の合鍵を持っている!
幸い部屋は一階だった。アウレールは窓から外に出て、嵐の中を這う這うの体で騎士団の詰所へ逃げたのである。
以前からアンネリーゼにねっとりした視線を送られていたが、まさかここまで強引とは思わなかった。
アンネリーゼが自分を恋い慕っているなどとはつゆほども考えていない。
彼女があちこちの貴公子をその気にさせていることは、「うちの息子を惑わせないでください」「私の婚約者に近づかせないでください」と言った内密な手紙をもらうとドロテアに打ち明けられたので知っていた。
そのときアンネリーゼは十四歳、まだまだ不安定な年頃だ。婚約者の第一王子は王位の継承にも聖女との婚姻にも乗り気でないという噂だったし、将来の不安を持て余すこともあるだろう。婚約者がつれないならば、他の男を振り向かせて自身の魅力を確認してみたくなることもあるだろう。
そう考え、長い目で彼女を見守り、改心を促すつもりだった。
しかし。
(近頃のアンネリーゼの交友関係は、ちょっと見過ごせないな)
アンネリーゼがよく行くあやしげなサロンや夜会には、無軌道な若者や反乱分子が数多く参加していると聞く。
そんなところへ未来の王妃がのこのこ出掛けていいわけがない。
あやしげな魔法使いを雇ったとすれば、そのあたりの伝手だろう――。
(誰かがアンネリーゼにガツンと言ってやればいいんだろうけど、この家はみんな彼女に遠慮がちだからなぁ)
父親は幼い彼女を置いて行方をくらませた引け目がある。
ドロテアは聖女の力が強くない引け目がある。
フローラは自分の出生で姉から母を奪った引け目がある。
そう言うアウレールは他家の人間である引け目が……。
「もういっそミアにボコってもらうか」
アウレールの口から、そんなひとり言が洩れた。
*****
ドロテアの部屋付きメイドの手で風呂に入れられ、ミアはほかほかになってやわらかなローブに包まっていた。
温まったせいかまた鼻血が出て、あやうくローブを汚しそうになったが、すぐに気づいたドロテアが手巾でぬぐってくれて事なきを得た。
「横になりなさい、ミア。治しましょう」
長椅子に横たわったミアの顔を、ドロテアの白い手が覆う。
じんわりと鼻が温まり、じくじくした痛みが引いていく。気持ちがいい。
「わたし聖女の治療ってはじめてです~」
「そうですか。わたくしはあまり力が強くないので、少々時間がかかりますが」
「このじわ~っと治るかんじが気持ちいいです~」
「鼻血くらいならそうかもしれませんね」
鼻血くらいなら。ミアは穴の開いた手のひらがジュワッと一瞬で治る様を思い出し、思わず身震いした。あれは凄いというより禍々しかった。
「アンネリーゼお姉様を誰かなんとかしないんですか。あの人怖すぎるんですけど。あんな人が次のお妃様なんて、わたしは嫌です」
長椅子から身を起こし、ミアは遠慮なしに不満を言った。
「ええ。改めさせなければなりません」
「フローラお姉様がお妃になればいいのに」
「軽率にそのようなことを言ってはなりません。それにフローラは、まだ聖女の力を授かっていません。聖女でなければ王家には嫁げません」
「まだってだけでしょ? フローラお姉様が聖女じゃないはずがないです!」
「何とも言えません。それよりミア、アンネリーゼにフローラの話をしないでください」
「なんでですか?」
「逆上することがあるからです。アンネリーゼはもう何年もフローラと食卓を共にしていません」
「え? なんで? 家族なのに」
「アンネリーゼの心の中はわかりません。母のことがあるかもしれません。あの子はかわいそうな子です。最も母親を求める幼い日に母をなくしてしまった。まったく母を知らないフローラと、どちらが哀れかわかりません……」
「それ言ったらドロテアお姉様だって」
「わたくしは母の指導も思い出もたくさん得ることができましたから。力の乏しい不肖の娘ですが、幸せ者ですよ。だから皆の力にならなくてはね。ミア、あなたの力にも」
長女は淡く微笑んだ。
「わたしの?」
「あなたも母親を知らないのでしょう。若輩のわたくしでは代わりになりませんが、少しでも力になれれば」
「わたし、この家にいて邪魔じゃないんですか?」
「邪魔ではないですよ」
ドロテアはまっすぐミアを見て言った。嘘のある目ではなかった。
「邪魔だと思ってました。部屋も端っこだし」
「あなたの部屋は中央に変えます。こんなことがあって心配ですから。使用人の嫌がらせが不安ですが、身の危険よりましでしょう」
「使用人の嫌がらせっ?」
しんみりしたやりとりから一転、聞き捨てならない言葉だ。ミアは思わず訊き返した。
どういうことだ。使用人がいじめてくるのだろうか? なぜに?
「公爵家ですから、使用人の身分も低くはないのです。洗濯場や厨房などの表に出ない働き手は別として、部屋付きメイドや給仕係などは官吏の家の者が少なくありません。側近は下級貴族の家の者です。騎士も名のある家の者が多いですね。彼らにもプライドがありますから、上流社会の作法を知らない者に従うのは抵抗があるのです」
「……わたしの部屋が隅っこなのも、食事が小食堂なのも、プライドの高い使用人から隠すため?」
「そうですよ」
「マナー知らずは公爵家の恥だからだと思ってました!」
「それもあります」
正直なドロテアは容赦なかった。
しかし使用人についての心配は杞憂だったようだ。
ドロテアが席を外すと待っていたかのように若い部屋付きメイドがにじり寄ってきて、ミアにこう言った。
「窓から見ていたのですよ、犬やっつけるところ。ミア様とてもかっこよかったわ。私、もうすっかりミア様のファンです!」




