てんし の みちびき
神話の幕が開ける。その旅路の最果ては、未知。
目の前に現れたそれを、易々と信じることは難しいことだったはずだ。しかしどういうわけか、私はそれを信じることに抵抗が無かった。目の前のそれには、『信頼してもいい』と思わせる何かがあったのだ。私がそんなことを考えている間にも、天使を名乗る彼女は私を見定めるように私を見続けている。
「君、もしかしてあの街の人?」
不意に投げかけられたその問い。あの街、が指すものは紛れもなく私の愛したあの街のことだろう。その言葉で、私が無意識に意識外に置こうとしていた現実が蘇ってきた。急に、足腰に力が入らなくなって膝から崩れ落ちる。息苦しい。違う。私は、私は……! 自然と、冷たい涙がこぼれている。泣くのなんて、いつぶりだろうか。父上の弔いの時以来か。しかしそれを思い出しても、現実にそれはもうどこにもない。そして、それを思い起こさせるものさえも、すべて無くなってしまった。私の過去は、あったはずの今は、一体どこに行ってしまったのだろうか。今はすべてが虚しくて、すべてが憎らしくて、すべてが欲しくて。……そしてすべてが愛おしかった。
「私は……、大馬鹿者だ……」
「だからって、身を投げるの?」
心に、何かが刺さる。
「私は、生きている価値も無いのだ……」
「それで、こうして生きていることを放棄するの?」
心が、抉られる。
「私など……、私、など……!」
「はあ……。ちょっと、いい加減にしなよ」
私の頬に痛みが走る。それが彼女の平手によるものであることは、すぐにわかった。そして彼女は私の肩を掴む。
「君をこうして生かしたのは誰? 君がこうして生きていられる理由は? ……そうして君の命を繋いだ人たちの想いを、全部無駄にするつもり!?」
その言葉は、私の情けなさに対するものだ。それが今の私にとっては、何よりも響く言葉となる。
「私は、生きていていいのか……?」
「そうでもなきゃ、こうしてここにはいないでしょ?」
涙は、いつの間にか止まっていた。こぼれ残る涙を、彼女は優しく拭い取る。
「だから、悲観しないで。貴方は生きていていい。決してここで死んじゃいけないんだ」
どういうわけか、再び涙があふれてくる。しかしこの涙は、どこか暖かいものだった。
どれほど経っただろうか。日はすっかり高くなっている。その間にも、彼女は私を待っていたようだった。
「落ち着いた?」
「ああ……。お陰様でな」
私たちは今、食事をとっている。彼女が、いつの間にかいくつかの果実を集めていたようだった。それを2人で食べながら、会話を続けていた。
「これから、どうするの?」
「さあな……。どうやって生きていこうか……」
「ねえ。1つ、提案があるんだけど」
「ん? どうした?」
その次に続く言葉。それは、私にとっての幕開けのきっかけとなる。
「旅に出てみない?」
「旅、だと……?」
旅に出る。それは、この愛たちの墓標との別れを意味していた。迷っている私を見かねてか、彼女が口を開く。
「君がこの街を愛していたことはよくわかるよ。でも、君をこうして生かした人たちは、いつまでもここにいることを望んでいるのかな? 皆の想いと一緒に、新天地を目指すっていうのはどう?」
「……新天地、か」
ここではない、どこでもないところ。そこに至るまでは、数多の過酷な運命が待ち受けているのだろう。だが、ここにいては何も変わることはない。彼らも、私に変わることを望んでいるのか。……迷っても、仕方がないのかもしれない。
「……決めたよ」
「……どうするの?」
口にする言葉は、既に決まっている。意を決して、口を開く。
「私は旅に出る。そして、皆の魂が安らげる新天地に至ってみせる。……それが、私にできる唯一のことだ」
「……いい答えだね。その言葉を、待っていたよ」
彼女は笑う。まるで私の言葉を予知していたかのように、その表情は期待通りに進んだとでも言わんばかりのものだった。
「よし! こうなったら早速出発だよ!」
「いや、待て待て。随分急じゃないか? それで、貴女はどうするんだ?」
「物事は思い立った時にやるのが一番だよ? ああそれと、私はこうするよ」
突如、彼女の全身が淡い光に包まれる。やわらかいその光はやがて強くなっていくと、見ていられないほどに眩しくなっていく。私は思わず目を塞ぐ。彼女は、本当に天使だとでもいうのか。そして光が収まると、目の前に彼女の姿はなかった。彼女は何処にいるのだろうか。辺りを見回しても誰もいない。
“私は、遠くから貴方を見守ってるよ。行くべき場所も、大まかだけど導いてあげる。……これは辛い旅になる。それを最後まで見届けて、導くのが私の役目。だから、これからもよろしくね”
何処からともなく聞こえてくる彼女の声。遥か遠くから聞こえるような、私の脳裏に響くようなその声とともに、私は一歩を踏み出すのだった。
“あっ。そっち、逆だよ”
「……いや。まずは、これだ」
私には、旅に出る前にやるべきことがある。それを済ませなければ、とてもではないが旅には出られない。そして私は、街へと戻るのだった。
地面を掘り、亡骸を埋め、墓標を立てる。それを延々と繰り返し、気付けばもう深夜だ。いや、むしろ深夜に済んだことが妙だ。明らかに遺体が少なすぎる。だが、それを気にしている場合ではない。目の前に広がる墓標の数々。それらの下に眠るのは、私の愛する民たちだ。さて。これで、もうすることも無くなった。だが……。
“ねえ。早く出発しようよ”
「……せめて、最後に一晩だけ……。私も、まだ未練が……」
立てた墓標の1つ。その傍らに腰掛けて、寄りかかる。よっぽど疲れていたのだろうか。瞼が重くなり、意識も次第に遠のいていく。明日から、長い旅が始まる。不安だが、私は1人ではない。彼らが共にいる。これからもずっと、私は1人になることは無いのだ。そんなことを思いながら、私は眠りに沈んでいくのだった。
第二話完了です。すべてを失った王の旅が、始まります。




