にげた おうさま
失われた神話の錠を、ここに解き放たん。
私が思うに、王とは非常に難しいものだ。自身の国に関すること以外にも、他国と良好な関係を築いていくためのこともしなければならない。そして何よりも、自身を信じて民でいてくれている者たちの規範となる立ち振る舞いを常にしなければならない。こうして王という立場にいる私がこれを言うのもどうかと思うが、やはりこれは並大抵の人間にできるものではない、と思っている。
私はこれまで王の立場に恥じない立ち振る舞いをしてきたし、他国とも良好な関係を築けていたと自負している。故に、今回のこの件は完全に私の思考が至る領域の外側からのものだった。領土拡大のために侵略遠征を行う大国、というものを完全に知らなかったわけではないし、他人事のように思っていたわけではなかった。しかし私は心のどこかで慢心していたのかもしれない。いかに低い確率であろうとも、民の為、国の為に油断など許されはしないのに、である。
それはよくある夜の日に、平穏の帳を破ってやってきた。息を切らせ報告にやってくる伝令の言葉を、私はすぐに受け入れることができなかった。そんな私を現実に引き戻したのは、居城の外から聞こえてくる悲鳴だった。大国は、抵抗できない民を無慈悲に虐殺していたのだ。その場にいた臣下の1人が、逃げるようにと進言してきた。そんなこと、私にはできようはずもない。民の上に立つ者として、民を見捨てることなどあってはならないからである。そうして城下に出ようとした私を、兵士たちが止めた。そして私の両腕を掴むと、無理やり引きずって地下へと運んで行った。抵抗をした、王としての覚悟も叫んだ。民の危機に、王が立ち向かわずしてどうするのかと。しかし彼らは私を地下のある一室に閉じ込めると、そのまま鍵を閉めて行ってしまった。残されたのは、私と年老いた側近の一人だった。
側近は何を言うでもなく、不自然に飾られていた天使の絵画を外す。そこにあったのは、暗く先が見えない通路だった。かつて父から聞いた、秘密の抜け道。実際に見たことはなかったが、これがそうだというのか。呆けている私に、側近はここを通って出るように促す。当然、私は譲れない。しかし側近は私を通路へ蹴り飛ばすと、入り口を絵画でふさいでしまった。隔てられた絵画の向こうから声が聞こえた。貴方を守る。頃合いを見て、自分も向かうと。そこにあった覚悟を、無下にはできない。私は意を決して暗い通路を進んだ。
どれほど進んだだろうか。暗く、狭い通路は未だに果てが見えない。最初のうちは聞こえていた悲鳴などの音も、何も聞こえない。聞こえるとすれば、私自身の呼吸の音だけだ。もう惨劇は終わったのだろうか。民や臣下は無事だろうか。まとわりつく疑念を私は打ち払う。悪い想像は、何もいいことがない。今できることは私を逃がしてくれた彼らの想いに応えるべく、前に進み続けることだ。そんな風に思いながら進んでいくうちに、目の前が薄明るくなってきた。出口は、もうすぐそこだ。
通路を抜けると、そこは王都にほど近い森だった。何度も来たことがある場所だ。それゆえに、ここから王都への戻り方は熟知している。街の様子が、民の様子が、臣下の様子が気になった私は、居ても立ってもいられずに走り出した。街に戻れば、民たちがいる。何故戻ってきたんだと言う臣下たちもいる。……私の愛したすべてが、そこにあるはずなのだ。時刻は朝だ。そして街は静かだ。私は、希望があることを願いながら街の大門を通る。
嘘だ。ありえない。これはなんだ。どういうことだ。どうしてなんだ。こんなこと、果たして現実なのか。理解ができない。……いや、本当は前から理解していたのかもしれない。ただそれを押し殺し、必死に逃げていたのだ。……無様が過ぎる。自身が掲げていた王としての矜持にも背を向け、託された逃亡の果てに戻ってきてしまった。全部が壊れ、全部が滅び、全部が死に絶えた。そんな現実を、とてもではないが認めることはできない。認めたくないのだ。しかし前を見れば、あまりにも酷な現実が私を出迎えた。……もう自分自身が何もわからない。私の足は、自然とある場所に向かっていた。
再び森に戻り、しばらく奥へと歩みを進める。森は恐ろしいほどに静かだ。あの頃いたはずの動物たちの気配すら感じ取れない。……私の愛したすべてが、本当になくなってしまったのだ。虚しい。虚しい。……何もかもが、ひどく虚しい。そのままに、私は目的の場所に辿り着いた。清く美しい森の湖。かつて私が森での狩りをする際に、必ず訪れていた場所だ。……唯一残っていた、愛すべき場所だ。これだけが、私の救いだ。せめて最後は、ここに身を委ねてしまおう。私の意思は、即座に決まった。気付けば私は湖の淵に立っていた。決断の速さは自分でも驚くほどだった。そして、私は意を決して飛び込んだ。
……私の腕を掴んだ者がいる。その力は強く、気付いた時には私は引っ張り上げられて、地面に仰向けに倒れていた。一体誰なのか。まさか、生き残りがいたというのか。私を見下ろすその顔が、目に飛び込んだ。
「……何してるの。君、大丈夫?」
話しかける誰か。声から察するに女性のものだが、私には聞き覚えのないものだった。私は大抵の国民たちのことを覚えている。しかしその声も、目に飛び込んできたその顔も、私は見たことが無かった。
「貴女は、何者だ?」
目の前に立つ女性。白い衣に身を包む、異質な雰囲気の彼女は微笑んで、答える。
「何者、ね。それはまだ秘密だけど、まあ『天使』みたいなものだと思っておいてよ」
目の前の『天使』は、見定めるような目で私を見ていた。
心機一転、新たな物語です。とはいってもこれは長くはないので、軽い気持ちで読んでいってください。それでは、次回。