パンドラの匣
周りを山に囲まれた私の生まれ育った小さな国は、豊かとは言い難いですが民たちに支えられながら成り立っていました。笑い声や子供たちの声が絶えず聞こえて来る小さな国です。私は王族ではありますが、彼らに混ざって畑仕事をしていました。といっても、冬に備えるための穀物の品種改良の研究なのですが。
しかし、いつからでしょうか。段々と穀物の実りが悪くなり始め、気付けば国中どこも痩せた土地ばかりになっていました。目まぐるしい研究成果も出せないまま、雨が降らず、いくつもの川が枯れていきました。そこから父は変わったのです。
優しかったはずの父は、愚かな王へと成り下がってしまったのです。
父は何かを妄信するようになり、やがては『大地が穢れてしまったせいで、痩せたのだ』と言うようになりました。いいえ、そんなことはありません。ただ雨が降らないから大地は痩せたのです。いくら周りを山に囲まれた小国とはいえ、元々の水源が心許ないものでしたから。
一体、何が父をそんな風にさせたのでしょうか。私には分かりませんでした。そして間もなく、次期国王であった兄すらも父と同じことを言うようになりました。
大地を豊かにするためには世界樹が必要なのだと口々に言うようになり、知らないところで戦争の準備をしていたのです。相手取ったのは、世界樹を要する山向こうにある大帝国でした。そんなものただの負け戦です。勝てる筈のない無謀な戦争です。王妃の言葉も聞かず。結婚が決まっていた姉は、嫁入り先に迷惑を掛けられないと結婚を破棄しました。姉も相手の方も、ひどく悲しんでいたのを知っています。想い合っていたからこそ。
父と兄はそんな私たちのことなど素知らぬ顔で、農業しかしたことがない民たちを徴兵して戦争の火蓋をきりました。けれど所詮は小国です。偶然生き残れていたような小国が、大国相手に勝てるはずがなかったのです。農業しかやって来なかった民たちが、剣を握ったってどうにもならないのです。
戦況は悪化する一方で、国中のあちこちで火が煙が立ち上がっていました。大帝国の騎士たちが城に攻め入ってきたと知った父と兄は、先祖より伝わる禁書を開いてしまったのです。
城中に響いたのは、母や姉、幼い妹たちの悲鳴。そして不気味な呪文を読み上げる声。私は城に残った侍女たちを外に出している間の出来事でした。
この城の地下には小さな箱があります。
――それがあるから、この国は古い時代より生き残ることが出来たのです。危険性を感じた先祖が禁書と対にして封じ、使わないようにしたのです。けれど愚かにもソレを使う為に父と兄は、母や姉、幼い妹たちを殺しました。贄として。箱を開封する代償として。
地下に駆けつけた頃には、母と姉が守るように幼い妹たちに覆いかぶさって亡くなっていました。幼い妹たちもまた、亡くなっていたのです。悲しむ間もなく、その箱は開きました。眩い閃光が地下を、地上を焼きました。
たくさんの民が死んでいく声がします。たくさんの騎士たちが死んでいく声がします。外に出した侍女たちの声も。閃光を浴びながら、私は鋭くなっていく感覚に耳を塞ぎ目を塞いでしゃがみ込みました。母様、姉様、私もすぐそちらへ参ります。
しかし、いつまでたっても己の死が来ません。生きているという感覚に眩暈がしました。気付いたことは、箱の側は唯一の安全圏だったということだけで。故に私や父、兄は無事だったのです。なんて愚かなことをしたのでしょうか。私は、父と兄が目を離した隙に小さな箱に触れると、その箱は瞬く間にするりと体の中へ入って行きました。吸収した、させられたというのが正しいのでしょうか。しかし、内臓が焼けるような熱さを伴いながら蓋が閉じられるのを感じました。もう、箱の脅威はどこにもありません。
呆然としている父や兄から逃れるように、私は必死に足を前に動かしました。いずれこの城は崩壊します。そして、恐らくではありますが箱となってしまった私が死ねば、もう一度アレが、災厄が降り注ぐでしょう。無情にも、箱となってしまった私は生きねばならないのです。
地上へ上がった時に何もなくなった、消失してしまった大地を見た時の悲しみも憎しみも忘れられません。眩い光に気付いた大帝国から援軍がやってくるのが、とてもよく見えました。障害物がない荒野となってしまった我が母国。
後ろで唯一残っていた城が倒壊する音が聞こえました。父や兄の姿が外にないということは、崩落する建物の下敷きとなったのでしょう。なんて呆気ない死なのでしょうか。たくさんの人を殺した父と兄の呆気ない死。なんと言うやるせなさでしょうか。無念でなりません。
こうして、この国で唯一生き残った私はそんな父と兄の罪を背負った咎人となり、援軍としてやってきた騎士団に捕らえられました。酷い言葉を投げかけられながら、私はそれを受け入れたのです。
無謀な戦に臨んで敗戦した日は、母や結婚間近であった姉、幼ない妹たちの死んだ日でもあり、それは父と兄が禁忌を犯した日です。国で生き残ったのが私だけになった日は、私が咎人となった日となり、それは、私の生まれた日でした。
地獄のような1日でした。誰の亡骸も弔うことが出来ず、無へと消失した大地に私の慟哭が響き渡ります。寮の手に嵌められた手枷を胸に抱え、泣き叫ぶ私を誰も止めることはありませんでした。
√
陽の射さない薄暗い牢屋が、今では私の居場所になりました。両手足の鎖は重く、少し動くだけでもかなりの体力を消費します。普通の鎖ではなく、大罪人のために誂えられた呪いが掛かった鎖なので重くても仕方ありません。
小国の姫だった私が敗戦国であり亡国の姫となってから、何日経ったことでしょう。姫、といってももう咎人です。あれから、何度目の夜を過ごしているのでしょうか。それを私が知る由もなく、ただ薄暗い牢屋のなかで静かに呼吸を繰り返すだけでした。
今やこの体には、不気味な刻印が刻まれています。ぎりぎりとこの身を締め付ける不思議な刻印は、私があの箱を取り込んだ証であり、私があの箱になったも同然の証左でした。
「お嬢ちゃん、いつも湿気てんね」
「…あぁ、副団長様。いつもお暇そうですね」
ギィと錆びた鉄の扉が開く音がして、私は顔を上げました。薄暗い牢屋のなかでキラキラとした茶金髪が揺れました。あの時、私の両手に鎖を巻いたのがこの副団長でした。名前は知りません。けれど、知っていてもどうにもなりませんから、聞くこともありません。
世界を滅ぼしかねない力を宿してしまった私を恐れ、此処にはこの方以外に訪れることはありません。此処に訪れるこの副団長が、周りから行かないように引き止められているのを私は知っています。
食事を持ってくるのもこの方でした。副団長という肩書を持っていながら、まるで下っ端のようなことをしています。濡れた布を持ってくるのも、変え服を持ってくるのもこの人です。何故、ここまでしてくださるのでしょう。言ってしまえば、私はただの大罪人ですのに。
「今日、君の方針が決まったよ」
「方針」
「うん。陛下から、君を神殿に連れて行けとお達しが出た」
「…神殿に?」
こんな大罪人を神殿に連れて行ってどうしようというのでしょうか。一度だけ見た皇帝陛下を思い出します。夜空を切り取ったような不思議な青い目をしていました。その場で殺せという周りを抑え、私を牢屋に放り込んだ人でもあります。
「なんでまた神殿に?」
「我らが陛下は慈悲深いからねえ。君がその身体に持っているモノは、どれだけ調べても分からなかった。君の言うことが本当なら、僕らは君を殺すことも出来ない。けれど生かすことも出来ない」
「まあ、そう仰るのは当然ですよね」
「…受け入れれるの?」
「受け入れるしかないんです、私に選択肢はありませんから」
「そうだけどさ、もう少し生きたいとかないの?」
「そんな烏滸がましい願いなんか出来ないですよ。例えアレを使ったのが父と兄だったとしても、唯一生き残ったの肉親の私が、罪を背負って当然でしょうのことです」
「…君、いくつだっけ」
「18歳です」
「随分と可愛げのない18歳だねぇ」
「可愛げなんて、今はもう必要ないですから」
私は見据えて来る副団長から目を逸らすように、目を閉じました。この国の神殿ってどんなところでしょうか。生かすも殺すも出来ない私を神殿に連れて行って、どうするんでしょう。災厄も同然の私を連れて行って何が出来ると言うのでしょう。少し、疲れましたね…。
「また後で来るよ」
「…後で?」
「神殿に行くのは今日だからね」
「随分と尚早ですね、分かりました。お待ちしておりますわ」
副団長はそっと牢屋から出て行きます。私は息を吐いて、少しだけ眠るために冷たい石畳に身体を横たわらせました。冷たさは私を現実に引き戻します。硬さは私を現実に押しとどめます。
生きることも死ぬことも許されない。これ以上の罰はないと、思っていたのですが。
√
「さて、用意が出来たから神殿に行こうか」
どれぐらい時間が経ったのか分かりませんが、牢屋に入って来た副団長は陽気に笑って、牢屋の鍵を開け私の手を取りました。鎖の所為で擦れて赤くなった部分に触れながら、私は足に力を込めました。呪いの掛かった手枷と狭い牢屋で、動くことが減ったせいで足の筋力は酷く落ちていました。
プルプルと震える足を前に動かすこともままならず、私は鎖の音が響くのもかまわず顔を覆いました。情けないです。こんなに、すぐに歩けなくなるとは。副団長が動く気配を感じ、手を離して見ました。私に背を向けてしゃがみ込んでいる副団長。
「な、何をなさっているんですか?」
「え?おんぶ」
「…この鎖で、首を絞められるとは思わないですか?」
「こっわ、え、なにそんなこと考えてたの?」
「え、普通に考えませんか?逃げるために、って」
「じゃあその歩けないのも演技かい?」
「…そういうわけではないですけど、」
「あっ、レディにおんぶなんてはしたないか。じゃあ、こっちね」
副団長は、鎖が鳴る私の腕をとって軽々しく私を抱きあげました。これが、巷で噂のお姫さま抱っこですか…。一瞬、関心してしまいましたが、いえそうではありません。
「な、んで」
「ん?」
「なんで、こんなことするんですか」
「えっ。嫌だった?」
「怖くないんですか、気持ち悪くないんですか、こんな、」
「あー…うーんっと、まあ、あれだよ。いちいち怯えてちゃ、副団長みたいなもんやってられねぇよ」
「国を亡ぼす、災厄ですよ」
「どういう仕組みか分かんないけど、あれっしょ。そんなこと、しないでしょ君は」
抱えられたまま、私は牢屋の外に出でました。風が優しく頬を撫でるように吹いていきます。久しぶりの外に、まばゆいほどの日差しに目が眩むと同時に、副団長の温かさに眩暈がしました。最後に触れる人の優しさに、縋りたくなる手を抱え込みんで、私は澄み切った青空を見上げます。
――忘れてしまおう、このひと時を。忘れてしまわなければ、この刹那を。
――すべては我が身の為に、この人の為に。そして、あの人の為に。
「紫雨!」
副団長に抱えられたままやって来た神殿のなかはろうそくで照らされていましたが、どこか薄暗い印象がありました。けれど、温かい日差しの下にある矛盾した空間は、神殿ならではの雰囲気だと私は頭の隅っこで考えます。私の国にはこんな立派な神殿ありませんでした。貧しかったですからね、手直しを重ねてきた小さな聖堂で、神に祈りを捧げていました。
「陛下」
ぼんやりと過去を思い出していると、この帝国の皇帝陛下が神殿の奥の闇から姿を見せました。ろうそくで照らされる肩口に触れるか触れないかの白銀の髪。この世界で唯一の蒼い瞳の王。どれも、世界から愛される色を持った私とは真逆の人は、私を見て目を見張りました。零れ落ちそうな青。
「お連れしました」
「あぁ、忙しいのに悪かったな。彼女は、歩けなかったのか」
「はい。どうも鎖に術が仕込まれてた様で」
「…余計なことを」
怒っているらしいその人は、この副団長の言うとおり慈悲深いのかもしれません。こんな、大罪人の心配なんかして。私なんかの前に、姿まで見せてくれたのですから。目を閉じて、私はチクリと痛む胸を抑えて自嘲の笑みが零れそうになる唇を噛み締めます。
「行くぞ、神官共が待ってる」
「はい」
その人は眉を潜めたまま、私を一瞥して足早に奥へと入って行きました。嗚呼、漸く私は今に終止符を打てるのだ。不安はひとつもありませんでした。生きることも死ぬことも許されないのだから、恐らく私は眠らされるのでしょう。今更、永遠の眠りにつくことを恐れはしません。今更です。
寧ろ、それが私に出来る最後の償いなのですから。父と兄の無謀さのせいで、背負ってしまった罪。父と兄はきっと、すべてを知らないまま死んでいったことでしょう。地獄の業火にでも焼かれてしまえばいい、と願いながら私は揺らめく明かりを見ていました。そうすれば、穢れてしまった魂はこの世に肉体を持って現われないのですから。
「お嬢ちゃんさ、いつ18歳になったの?最近?」
「あの日です」
「え?」
「私が大罪人になったあの日です」
「…不運だったね、それは」
「一番不運なのは、本来結婚するはずだった姉やこの先を生きていくはずだった妹たちです」
「…自分のことは、そう思わないの?」
「さぁ…どうでしょうか。父や兄を止めれたかもしれない私が、そう思うのは烏滸がましいでしょう」
「そっかぁ…。じゃあ、僕が死ぬまで君の誕生日を祝ってあげる」
「え?」
「きっと、あの日を疎む人ばかりだけど、僕だけは君が生まれた日を祝うよ」
「ーーそれは、とても嬉しいことですね」
副団長の顔を見ることは叶わなかったけど、私の気持ちはとても穏やかでした。父や兄の地獄行を願っていたのに。そうですか、そうですか。私の生まれた日を、この人が。
そうしてゆっくりと辿り着いた神殿の奥で、神官たちは忌々しそうに私を見て来ました。嬉しかった、あたたかな気持ちが冷めていきますが、本来ならこの目を向けられなければならないのです。やっぱり、副団長が変わった人だったのでしょう。
厳かな雰囲気の中、最高位の神官だと思しき人が一歩前に出て私と副団長の正面に立ちました。鋭い眼光に、私の心臓が少し早鐘を打ちました。
「明日、お前は未来永劫醒めることのない眠りにつく」
「…明日、」
「陽が沈み次第、早急に行う」
「明日も、晴れると良いですね」
明日。その言葉を聞いて、猶予を作られたのだと思いました。そうですか、明日。晴れると良いですねえ。真っ青な空を見ることは叶いそうにありませんが――
「最後の願いは」
「…え?」
最後の、願い。そう声を掛けてきた人を見る。本当に慈悲深いのではないだろうか。こんな私に、そんなことを訊くなんて。ほら、後ろの神官を見て下さいな。とんでもないと言わんばかりに目を見開いて固まってるではないですか。予想外だと表情が物語っていますね。
「…では、お許しがいただけるなら」
√
『故郷に花を捧げに行かせてください』
華が小さく綻んだように笑う。
そう微笑みながら告げたのは、俺と真逆の色を持った黒髪に真紅の瞳をした少女。初めて見た時、コイツはまだ背中まで伸びた茶髪に紅茶を彷彿とさせる澄んだ茶色の目だった。そして、何年振りかの再会を果たした時。コイツの茶髪は黒に、茶目は真紅になっていた。その細い身に、複雑な文字の羅列を刻んで。
「陛下?」
「かまわない。夜が明け次第行くぞ」
「陛下!?何を申しておるのですか!!」
「黙れ。俺が許可したんだ、お前らが否を唱えても却下しない」
否を唱える神官共を黙らせ、俺は少女に視線を向ける。コイツは忘れているんだろう。昔、会ったことがあることも。俺を見てゆるりと目を伏せた少女は、力が入らないのか副団長――紫雨にもたれかかるように抱えられていた。
「・・・本当によろしいのですか?」
「俺が良いと言ったら良いんだ」
「・・・ありがとうございます」
少女は抱えられたまま頭を下げた。間を置かず、紫雨はあっと声を上げる。そして俺の顔を見るや否やにっこりと笑った。
「じゃあ、僕も一緒に行きますね」
「紫雨、お前は会議だろう。俺が連れて行く」
「「・・・は?」」
紫雨とうざったらしく文句を言っていた神官の声が重なる。そして、‘何言ってんだこの馬鹿は’と紫雨の口が動いた。読唇術使えるのを忘れているんだろうか、この馬鹿は。
「陛下!?それこそ、何を仰るのですか!!」
「貴方はこの国の王ですぞ!!軽率な行動は憚れよ!」
「黙れ。お前らに指図される覚えはない」
「我等は、貴方のことを思って言ってるのですぞ!!」
「黙れと言ったら黙れ。お前らの耳は飾り物か?俺は夜が明け次第コイツを連れて行く。お前らは自分の仕事をしろ」
目を見開いている少女の頭を手荒く撫で、俺はそのまま仕事を片す為に執務室に足を運ばせた。かつての、初恋の少女に思いを馳せて。
紫から赤と青を織り交ぜた夜明けの空を眺めていると、少女は紫雨に抱えられ俺の前に現れた。やっぱり来たか。溜め息を吐いて、紫雨のもとい騎士団の予定を思い出す。間違いなく、お前は会議の筈だったが。
「紫雨、何故ついて来るんだ?お前、会議があると言っただろう」
「事情を話せば早いものさ。陛下が変なことをなさらない様にとご意見番に命をいただいたからね!それにこの子を迎えに行くのは僕の仕事だろ?」
「ちっ、余計なことを」
帰って来たら、ジジイ共の説教が始まるな。怒られながら、書類を捌いていく自分の姿が脳裏に浮かぶ。こんな時に限ってこの予感は当たるのだ。面倒臭いことに。
「・・・お忙しいのに、申し訳ございません」
「いや・・・お前の願いだ。叶えてやらんわけにはいかん」
「そうだよ、それに故郷に花を添えるなんて偉いねぇ」
申し訳なさそうな、か細い声で謝罪を口にする少女を見やる。昨日より顔色が悪いことになけなしの良心が痛む。きっとこの先、この子にしか良心が痛むことはないんだろう。
「ひゃぁっ」
「あ゛!!」
会話に割り込んできた紫雨に殺意を抱きながら、俺は紫雨の腕から少女を奪い取って、馬に跨った。随分と軽くなってしまった体を支える。
「酷いですよ、王!」
「煩い。割り込んできたお前が悪い」
俺に文句を大声で言いながら、紫雨も馬に跨った。幼馴染だからって軽いのもいかがなものだな。ドキドキと鼓動が伝わってくる少女のつむじを見下ろしながら、俺たちは国を発った。
休憩を挟みながら馬を走らせる。決して近いとも遠いとも言い切れない距離は、思いのほか他愛もない話で盛り上がった。時折、花を摘むために馬を止め、幾度かソレを繰り返した後、何もない野原になった少女の故郷に辿りついた。
紫雨が簡易で作った十字架に花を手向け、両手を合わせた少女の黒髪が流れるその背は寂しい。見慣れてしまえば、その黒髪も似合っているけれど少しばかりあの茶色の髪が恋しさが残る。
「陛下、あの子18歳だそーですよ」
「18歳にか?」
「あの日が誕生日だったそうで」
「…不運だな」
「ほんとに、僕もそう思います」
そうか、もう18になったのか。あんなに小さかった少女が。記憶の中の笑っている少女を思い出す。仲が良かったように見えた父と兄は、母や姉たちを生け贄にして禁忌の術を開いた。愚かにも、無謀にも、開いてはいけないモノを開いた。
青空の下で少女は手を合わせ続ける。風が柔らかく頬を撫ぜ、髪をなびかせて。まるで神聖なものを見ているような気持になる。
――この願いを届けておくれ
この地に彷徨う我の同胞を
あの広大な空へ送っておくれ
我が罪により残された同胞よ
この風に乗って空へお帰り――
「歌?」
「あの子、ですかね…」
いつの間にか、立ち上がっていた少女はは歌を奏でる。聞いたこともない不思議な旋律を奏で、言葉を紡いでいく。
――我が祈りは祈っても届かぬ
我が願いは願っても叶わぬ
されどこの祈りと願いは天に届く
母なる大地に別れを告げて
父なる天空に別れを告げて
再びこの世にまみえるために
長い旅をしよう
同胞と共に旅に出かけよう――
子守唄の様な歌を、澄み渡る歌声を、俺達は止める術を持たなかった。
√
声が尽きるまで、私は歌い続けました。荒野となってしまった大地に彷徨う魂を見て、私は過去の紐を解いていきます。穢れた大地を浄化し、彷徨う魂を送るために母から教わった歌を記憶をなぞりながら歌いあげました。今思えば、母は分かっていたのかもしれません。そう遠くない未来に父と兄が禁忌の書を紐解くことを。
「…声、出ないねぇ」
「歌い過ぎだな」
副団長と陛下に言われて、自分がやり過ぎたことを自覚しました。でも、気分は爽快です。声が出なくなったことに後悔はありませんでした。これは、民たちへの餞なのですから。夕日を背にして、私たちは帝国へ帰還しました。
この陽が沈んだ頃には、私はこの世界をもう二度と見ることが出来ません。私が救済されることはないのです。しかし、これが私の運命なのでしょう。仕方ありませんねぇ、父さんに兄さんがしたことなので娘で妹の私が尻拭いしてあげましょう。最初で最後です。
副団長に抱えられ戻ってきた神殿を、奥へと進んでいくと大きな扉がありました。両開きの大きな扉を顔を隠した神官たちが開けます。そこには、泉がありました。天上の窓から降り注ぐ光に反射して、青い光を放つ神々しいまでの泉が。言うなれば幻想的で、けれどどこか殺伐とした場所でした。
私は副団長に下ろされて、一人で立ちます。足が震えますが、気合で立ちました。振り返ればとんでもない転落した人生でしたが、それ以上に勝る最高の良い思い出が出来ました。
青い目が私を見据えます。終始、私を見て下さったこの人へ、口を開きました。
「この国に幸あれ。貴方に祝福あれ。この世に未来あれ。そして、最期に、貴方と副団長殿に会えてよかった。素敵な時間を、ありがとうございました」
よろけそうになる足に力を入れて、私は一歩一歩と歩みを進めました。私はあの泉の中で眠るのです。これから先、ずっと醒めない夢を見続けます。
「お前の見る夢が幸せであるように」
淋しそうな声音に気付かぬふりをして、私は泉に足を入れました。貴方に見かけた時、私の心は微かに傾いた。《生きたい》と思ってしまったのです。蒼を持つ人の世を《生きてみたい》と思ってしまったのです。一生、牢屋に繋がれたままであっても。あの人の治める世界を見て感じていたかった。それは叶わぬ願いです。
「おやすみ、凛」
嗚呼、やっぱり貴方の世界を《生きて》みたかった。冷えて行くカラダを動かして、私は祈るように手を組みました。せめて、此処から祈りましょう。泉が凍っていくのを感じながらの意識はゆっくりと薄れていきました。
――私はパンドラの匣、開けてはいけない禁忌の匣。
陛下だけは、少女を覚えていました。自身の生誕祭に訪れていた小さな少女のことを。彼女がくれた四つ葉のクローバーは大事に栞にして今も持っています。陛下の初恋の人は、泉の底でずっと眠り続けるのです。初恋の人の国の祝福を泉の底で祈り続ける少女は、これからも、これから先も、陛下や子々孫々が帝国を治めていく限りずっと祈ることでしょう。