第八二話「それはまさに悪魔の所業だった」
フィヒターの町で一泊した後、サマエルさんを加えて三人、私たちは徒歩で王都へと向かうことにした。一応馬車か馬を借りられないか町長にお願いしてみたのだけれども、橋の修理で出払っているらしく無理だった。まぁ仕方あるまい。
「徒歩で州の端から端はきついなぁ」
「そやなぁ。途中も野宿があるやろうし、厳しい旅になりそうや」
「ま、こっから先はアタシが護衛してあげるし、時間がかかるだけだから安心しなよ」
うん、サマエルさんが護衛なのは頼もしい。正直人間の兵士一〇〇人より強いだろうしね、このお姉さん。
この先はアップダウンもそれほど無いし、大部分が平原の街道をひたすら歩いて行くだけだ。
「リーファちゃん、ベリアルは今どっちの方角に居る?」
「ちょっと待ってくださいサマエルさん、えーと…………東ですね。もしかしたら王都に入っちゃったかも知れません」
「うん、それは知ってる。大教会に居たからね。そっか、なら動いてないか」
「え、大教会に居たんですか!?」
初耳だよ! ということはサマエルさんとベリアルは同じ屋根の下に居たということだ。よく再戦にならなかったなぁ……。
「そういや、サマエルさんと戦う前はブルーメの町におったんやし、そこでも何かありそうやな……」
「……そうだね」
王都のすぐ北西にあるツェッテル川沿いのブルーメの町は、王都に麦などの食料を供給する重要な役割を担っている生産拠点だ。何もしていなきゃいいんだけど……。
私たちは途中の『獣』討伐地点で犠牲者に祈りを捧げたりしながら進み、ブルーメの町に到着したのは四日後の夕方であった。
「何ですか、これは…………」
ブルーメの惨状を見た私の口からは、そんな言葉しか紡げなかった。シャラどころか、サマエルさんまでもが目の前の光景に絶句している。
もうすぐ春小麦が収穫出来る筈だった畑のあった場所は、すべてが黒く焼け焦げていた。今の時期だとこの辺りは一面黄金色に染まった見事な景色が見られるのだけれど……眼前には見るも無惨な光景が広がっている。
「一体、何が……すみません、そちらの方!」
私は話を伺うべく、畑の前に座り、途方に暮れていた農家の方に呼びかけた。まさかとは思うけれども、ベリアルが火をつけたのか?
「ああ、何ですか、旅のお方」
私の方を振り向いた農家のお兄さんの表情は、疲れ切っていた。収穫目前で自分の大事な畑に火をつけられたのだから、こんな表情にもなるだろう。
「あの、お辛いとは思いますが、何が起きたのかをお教え願えますか。ブルーメの小麦畑は、誰かに火をつけられてしまったのですか?」
私の質問に、しかしお兄さんは否定をするようにかぶりを振った。え? 明らかに火がつけられたようなのだけれど?
「これは、自分で火をつけたのです」
「なっ――」
意外すぎる言葉に、私までも絶句する他無かった。自分でつけた? 何のために?
呆然と次の言葉を待っている私たちに、お兄さんは深い溜息を吐いた。
「……先日、王都より命令が下りましてな。過去一度でも麦角が見られた畑は一旦焼却処分にするように、と。今年は目を光らせて居たため大丈夫かと思っていたら、この仕打ちですよ……」
麦角、か。
麦の穂が黒ずんでしまう、麦を育てている方々には頭の痛い病気である。この黒ずんだ穂から採れたものを食べると、手足が壊死したり流産したりする恐ろしい症状を引き起こしてしまうことは私でも知っている。麦角を利用する薬もあるので、村の人から分けて貰うこともあるからね。
しかし、一度でも麦角が出たら焼却処分だなんて、そんな馬鹿げた命令を城が出す筈が無い。あの大悪魔はこの町に致命的な嘘をばら撒いて行ったのだ。
「なんやそら……あの悪魔、許せんわ……」
シャラは怒りを隠そうともせず、拳を震わせている。豊穣の女神である彼女にとって、作物を蔑ろにされることは一番許せないことなんだろう。サマエルさんですら「これは……ちょっとアタシでもドン引きだねぇ」と顔を顰めていた。
私たちがお兄さんに詳しい事情を伺ったところ、この辺りを管理している役人が王からの勅命ということでそんな指示を出したらしい。魔道具はベリアルがブルーメ近辺に滞在していることを示していたし、恐らくその役人に化けていたのだろう。
「あの、その命令は――むぐっ!?」
その命令は偽の役人が持ってきた嘘だ、と説明しようとしたところで、私の口がサマエルさんに塞がれた。
「駄目だよ、リーファちゃん。ここで真実を言ってしまったら、この人の心が耐えられなくなる。嘘に踊らされて自分で収穫前の畑に火をつけたなんて知ったら、リーファちゃんが自分の立場だったらどう思う?」
「………………」
サマエルさんは真剣な表情を私に近づけ、小声でそう諭した。そんな、それじゃ、ただ陛下が恨まれてしまうだけじゃないか!
「……納得……できません……」
サマエルさんの手を両手でそっと剥がし、私は俯いて強く唇を噛んだ。こんな理不尽が許されていいのか? いい筈が無い。
「うちもや……何もしてへんのに、陛下が恨まれてしまうやなんて、理不尽やないか……」
「リーファちゃん、シャラちゃん、今は我慢だよ。普段村のみんなが収穫してくれたものの恩恵に与ってるアタシだって腸が煮えくり返る想いだけどね。ここは後で王様に何とかして貰うしか無いよ」
シャラも辛そうにしているけれど、サマエルさんも静かに憤っている。天使から堕ちた悪魔ではあるけれども、本当は優しい性格の彼女だってベリアルは許せないのだろう。
お兄さんと別れた後、夕飯のために酒場へ行ったけれども、周りは皆一様に暗い表情を浮かべていた。
明日はやっとベリアルの居る王都へ辿り着く。あの悪魔、許してはおけないな。
◆ひとこと
麦角というのはイネ科の植物のうち麦、多くはライ麦に発生するカビの一種で、麦角菌というのが正体です。
リーファちゃんの言う通り昔から麦を作っている方々には頭の痛い病気で、食べた人に起こるその症状たるや凄惨なものです。
この麦角の治療を行っていた聖アントニウスというの名前を取って、ヨーロッパでは麦角中毒を「聖アントニウスの火」と呼んでいました。
現在では麦角に抵抗のある品種が栽培されていますが、それでも発生がゼロという訳ではないようです(製粉段階で除去されているようなので安心しましょう)。
ちなみに麦角菌からは違法薬物であるLSDが偶然作られました。リーファちゃんは何の薬を作ってるんでしょうね?(笑)
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次回は明日21時半頃に更新予定です!