第七五話「幕間:シャムシエルの孤独な戦い 前編」
※ここから四話の幕間は三人称視点です。
ヴァールブルクへ到着した翌朝、能天使シャムシエルは一人南の山、ネーベルベルクへと飛び立った。
彼女の目的は勿論、ベリアルが鬼人に振り撒いた誤解を解くこと、そして囚われの令嬢を救い出すことである。
「……私も変わったものだな。昔は悪魔として一方的に斬り捨てていた亜人と対話など。どれもこれもアンナのお陰ではあるのだが」
シャムシエルはそう独り言ち、ネーベルブルクへ急ぐ。秋の空気が混じる空だがまだまだ湿度が高く、軽快に飛ぶには季節が悪い。
「む、あれか?」
一時間ほど飛び続けていたシャムシエルの視界に、木立の隙間から家々が覗く山が見えてきた。しかし霧が深く、中の様子は彼女の高い視力でも窺えない。
「ここからは徒歩で向かうか。空から向かうと威圧的と取られてしまいかねん」
ふわりと着地し、天使は木立の間に続く道を睨んだ。霧でよくは見えないものの、誰かしら見張りが立っている筈だと思い、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「ネーベルベルクの鬼人たちよ! 私はヴァールブルクより使者として参った天使、シャムシエルと申す! こちらには対話の意思しか無い!」
シャムシエルは己の武器である魔剣を鞘ごと地面に捨て、大声でそう張り上げた。まず相手の領域に踏み込んでしまっては、昨日の兵士たちのようにいきなり攻撃される可能性があるためだ。
「………………」
辺りを沈黙が支配していたのは僅か一〇秒程であった。木々や霧の合間からシャムシエルより遙かに大柄の、額に一本、或いは二本の角を持つ青い肌の屈強な野人が姿を現した。各々手には斧や弓を携え、警戒の意思を隠そうともしていない。
「天使が対話だと? 遙か昔に我ら青族を虐げていた者たちがか? 何の冗談だ」
集団のリーダー格である鬼人の青年が、口端を上げて皮肉交じりにそう応えた。
「……過去、我ら天使族が貴方たちを虐げていたことについては、謝って済む問題では無いと思ってはいるが、謝罪する」
「ほう、殊勝な心掛けの天使様だ」
全く心の籠もっていない声で鬼人の青年は返す。その態度から、シャムシエルは全く自分が信用されていないことを痛感していた。
「……申し訳ないと思っていることは事実だ。しかし、今回はその話ではない。王国の役人が貴方たちに税を納めるよう要請し、有事には兵として運用すると通告したと聞いている」
「その通りだな。全くもって一方的な条件で、話にならん」
シャムシエルは緊張を収めるため、ふぅ、と一息吐いた。
「その役人は、偽物だ」
「……なに?」
ここに至り、初めて鬼人の青年の顔色が焦りに変わった。それもその筈である。自分たちが偽の役人に踊らされた上に侯爵令嬢を誘拐したとあらば、非は鬼人側にしか無くなるためだ。
「それは本当か、天使」
「私の名前はシャムシエルだ。……その役人に扮していたのは恐らく大悪魔ベリアル。姿を変え、人を欺く虚飾の存在。その事実は町の人間も知らない」
混乱を招かぬよう、今のところベリアルの存在については王国軍など一部しか知り得ていない情報である。当然、鬼人側も初耳の情報であった。
「……しかし、鵜呑みにする訳にもいかんな。何せ貴様等天使は我等を虐げた存在だ。陥れるためにそんな嘘を――」
「神に誓って、私は嘘を言っていない」
「むっ……」
流石に天使が神に誓っているとなれば信じない訳にもいかないのか、鬼人の青年は斧を下ろした。シャムシエルを取り囲んでいた者たちも武器を下ろす。
しかしそんな中、弓を引き絞る音が響き、シャムシエルは咄嗟にそちらの方向を振り向いた。
時すでに遅く、憤怒を浮かべた一人の鬼人の少女が放った矢は彼女の左の翼を貫く。シャムシエルは強烈な痛みに思わず片膝をついてしまった。
「ぐっ!」
「おい! 誰が撃っていいと言った!」
リーダーの青年が叫び、慌ててシャムシエルへと駆け寄った。周りの鬼人たちはなおも矢を番えようとする少女を取り押さえる。
「なんだよ! みんなこの天使が憎くないのか! こいつらの所為で大昔に私たち青族はこの山に隠れ住まないといけなくなったんだぞ!」
喚き散らす少女の声が、痛みに脂汗を流すシャムシエルの耳朶を打つ。彼らの恨みは世代を越えてなおも残っているのだと、遠くなる彼女の意識の中にもはっきりと響いていた。
「しっかりしろ。今矢を折って抜いてしまう。即効性の毒が効いているだろうから、すぐに運ぶぞ。おい、誰か手を貸せ!」
そう鬼人の青年の言葉が聞こえたところで、シャムシエルの意識は海の中へと落ちてしまった。
◆ひとこと
シャムシエルはアンナやリリという身近な魔族、ハーフエルフが居てくれたお陰で、魔族や亜人に対する差別意識がほぼ無くなっています。
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