第一一六話「幕間:ナビール王城にて」
※三人称視点です。
ナビール王国の王都カウィーの中心に位置する王城、その一室。
賓客である力天使マスティマは、左手の親指の爪を囓りながら、ぶつぶつと聖女への恨み言を綴っていた。右腕の傷口を焼いたために出血こそ止まっているものの、化膿による耐えがたい痛みが彼女を襲っており、シスターであった頃の穏やかな表情を知る者が見ても本人だと気づかないほどに憔悴した表情を浮かべていた。片腕を失っているため、髪も三つ編みに出来ずに放置されて荒れ放題になっている。
「……力天使マスティマよ、聞こえておらんのか?」
「……ああ、国王陛下。国王とは言え、ノックも無しに淑女の部屋へ入るのは失礼ですよ」
「……何度もしたが、気づかなかったのであろうが……」
ナビール王国国王、アーダム・ナジーブ・バタル・ナビールその人は、隈の出来た顔をこちらにも向けず爪を囓り続ける目の前の天使と同じくらいに憔悴した表情でそう呟いた。とは言え、目の前の天使に逆らうことなど出来はしないのであくまでも聞こえないようにしていたが。
「……貴様の望み通り、エーデルブルート王国へ宣戦布告を行った。そこに至るまでかなり議会も紛糾したがな」
それを聞いたマスティマは、相変わらずアーダム国王の方を見ることも無かったものの、にんまりとその顔に下劣な笑みを浮かべた。
「そうですかそうですか、良い仕事です。きっと貴方には楽園に行く権利が保証されるでしょう」
「……それは結構なことだな」
アーダムはそう返したものの、内心では「余に呪いを掛けた本人がよく言う」と悪態を吐いていた。
アザゼルに右腕を半ばから切り落とされ、ナビール王国へ逃れたマスティマがまず取った行動とは、予てよりエーデルブルート王国への侵攻を目論んでいたこの国への干渉であった。
もっとも、彼女には神国よりの使者であることを証明する天使の白い翼は無いため、少々強引な手段に出た。夜間のうちに空より城へと侵入し、護衛の兵士たちを薙ぎ倒し、国王に対してアザゼルとシェムハザに掛けていたものと同じ従属の呪いを施したのである。
「それで、侵攻開始は何日後になりますか?」
「三日後を予定している。貴女も従軍するのか」
「ええ、勿論。あの悪魔と聖女に神罰を与える為ですもの。それに、貴方がたがしっかりと働いていらっしゃるかこの目で確かめなければ」
ククク、と含み笑いをして、マスティマは自分に重傷を与えた者たちが蹂躙される姿を思い浮かべていた。
(……それまでに傷が悪化し、倒れてくれれば幸いなのだがな)
マスティマの傷は深く、化膿した部分から敗血症になる可能性もあるのだが、彼女はしぶとく〈治癒〉を掛け続けることで生き長らえていた。
しかしもう長くないことも本人は分かっている。その為彼女は、アーダム国王に対してエーデルブルート王国への侵攻を急がせ、宣戦布告理由として聖女の名を使わせて、前線へ出て来ざるを得ない状況を作り出したのだった。
「我が国の主力は翼竜に騎乗した竜騎士だったが、諸事情によりエーデルブルートに対して翼竜は使えない。基本は一人での馬騎乗となるため、従軍するとなれば貴女も馬に乗って貰う必要があるのだが、その身体で大丈夫なのか?」
アーダム国王としては純粋な心配の一言なのだったが、それまで明後日の方向を見つめて爪を囓っていたマスティマが、急に彼の方へと向き直った。
「……知っているのですよ?」
「な、何がだ?」
思わず狼狽が声に出てしまったアーダム国王に対し、マスティマは目を細めて見せた。
「貴方がたが飼っていらっしゃるのは、翼竜や馬だけでは御座いませんわよね?」
「………………」
マスティマの問いへ、アーダム国王は頬に一筋の汗を流して沈黙したが、それが逆に肯定を物語っていた。
「なので、わたくしはそちらに乗せて頂ければ結構です。ああ、くれぐれもわたくしを振り落とすような気性の荒い子を寄越さないでくださいまし? その拍子でうっかり呪いが発動してしまうかも知れません」
「……個体の選定については、善処しよう」
その瞳に狂気を映すマスティマに対し、腫れ物に触れるようにアーダム国王は頷いた。何処まで行ってもこの女が本気なのだろうということは、先日「こうなります」と見せしめというだけで兵士を呪い殺したことから彼も分かっているのだ。
「アザゼル、シェムハザ、そして聖女リーファ、待っていなさい。貴方がたに同じ傷を与え、そこに呪いを擦り込んで差し上げますわ」
マスティマはその唇の端を吊り上げ、命を賭して殺す相手のことだけを考えていた。
◆ひとこと
やっぱりこの天使でした。早くもネタバレ。
完全に私怨で動く存在になってしまっていますね~。
そりゃ腕を切り落とされればそうなりますけれども。
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次回は明日21時半頃に更新予定です!