第一章 その7 対決キメラマイマイ
舞台上へと落ちたタイミングが悪かった。
キメラマイマイがさっきの餌を食べ終え、次を要求しようとした矢先にジェンは舞台へと落下してきたのである。
この魔獣は自分が要求した時に与えられた餌を食べる事を学習しているのだ。当然、新しく舞台へと落ちてきたジェンに対してもそう判断するだろう。
無機質で感情の籠っていないカタツムリ独特の目が、ジェンの姿を捉えている。
この場所から脱出する事自体は容易だ。ジェンは自力で十メートル以上跳躍できるのだから、跳び上がって舞台の外へと逃げてしまえばいい。
だけどジェンにそれは選択できなかった。
何故なら、ここからジェンが逃げた場合、その次に狙われるのは間違いなく子供たちだからである。キメラマイマイは食事の際に先に捕らえた獲物を優先する習性があり、その習性は目の前にいる怪物も同様だろう。
それはつまりジェンがここから一旦脱出して新たな餌を投げ入れてもその前に子供たちの誰かが捕まれば、そちらが先に食われてしまうという事である。
故に、ジェンは逃走という手段を封じられ、残された選択肢は戦闘しかなくなってしまったのだ。
確かにこの怪物はターゲットではあるが、元々はパーティーの終了後に屋敷に忍び込みアオイの氷結の能力を使って倒す予定だった。それは単純な相性の問題で、こういった冬眠するタイプの魔獣は温度の低下に弱いからである。
だから今回、最初の作戦ではジェンの仕事の役目は補佐役という事になっていたのだ。
もう一人のターゲットであるパーティーの主催者の男が逃げられない様にするのがジェンの本来の任務であり、それを自らの勝手な感情で全て白紙にしてしまったと彼は考えている。
だからこそ私情で仲間を余計な危険にさらす事になってしまった責任を自分で何とかしたいという気持ちでいっぱいなのだ。
せめて目の前にいる異形の怪物である魔獣キメラマイマイ位は自らの手で倒さねばならないと。そもそもこの程度の魔獣退治はいつもこなしている事だ。本来の職業が魔獣狩りであるジェンにとっては大した事ではないのである。
普通の人間に飼いならせる程度の魔獣などジェンにとっては全く脅威にならない。
亜人と人間の混血である彼が本気で戦うのだから、それは当然のことだ。故にジェンは何一つ焦ることもなく、泰然自若のまま魔獣に向き合いながら告げる。
「お前は餌を食ってただけかもしれない。けれども、それを許せない人達がいる」
ジェンの身に纏っている空気の質が変化した。
それを感じ取ったのかキメラマイマイが僅かに動きを止める。魔獣の些細な機微など気にも留めず、ジェンはそのまま言葉を紡いだ。
「これより復讐を遂げる。お前はここで朽ち果てろ」
その台詞を言い終わったと同時だった。
キメラマイマイから生えている複数の触手が蠢き、一斉にジェンに向けて放たれたのである。
その攻撃を最小限の動きで躱す。
さらに意識を自分に向けさせながら、少しずつ子供たちから距離を取る。
ジェンが本気を出せばこの魔獣キメラマイマイを屠るのに一分もかからないだろう。だがそれだと別の意味で子供たちに被害が及ぶ可能性が高い。
この子たちを助けると決めたのだから、無事に救い出すための戦い方をするのは当然の話。
そう考え戦っていたジェンを蟹の鋏が襲った。
凶悪な威力を伴った一撃をジェンは華麗に避ける。
「オォォ、オォォォォー」
苛立ったキメラマイマイが一際大きな咆哮を上げた。
触手と鋏の攻撃に蛇とライオンの噛みつき、山羊の角による頭突きが加わり波状攻撃が展開される。
唯一鈍いのは歩みだけ、それ以外の放たれる攻撃全てがカタツムリの繰り出すものとは思えない速度で襲いかかってきた。
激しい攻撃を紙一重で躱し、キメラマイマイの側面へと取り付くジェン。
直後、彼の右腕に異変が起こった。
基本首筋からのみ生えていた触手が突然胴体から生え、それがジェンの右腕に絡みついたのだ。
しかも触手の先が蛇の頭になっており、鋭く尖った牙が彼の手首付近に噛みついていた。
さらに複数の触手が胴体から飛び出しジェンの身体へと伸びると彼の動きを封じそのまま身体を持ち上げたのである。
「オォォ、オォォォォー」
キメラマイマイが再び咆哮を上げる。まるでそれは自身の勝利を確信した様な、獲物をついに捕らえたと高々に宣言するような咆哮だった。
だがそれは魔獣の勝手な勘違いでしかない。実際は逆なのだ。
「せっかく勝ち誇ってるところ悪いが、この勝負は俺の勝ちだ……〈熱波〉」
魔獣に向けてジェンが呟いた。
その瞬間、ジェンに触れていたキメラマイマイの触手の色が黒く変色し始める。
触手に起こった変色はどんどんと侵食の範囲を広げると、あっという間に本体へと到達した。
ジェンの使用した〈熱波〉という能力は彼の送り込んだ波動により生物の持つ体熱の温度を急激に上昇させる効果がある。
その波動と熱が体内で際限なく膨れ上がりやがて身体の大きな魔獣は内部を自らの熱で焼き尽くす事になるのだ。
「オォ、オォ、オ、オォォォォー」
流石に反応の鈍いカタツムリの魔獣といえども、自分の身を蝕む異常には早々に気が付いたらしい。
だが異常に気が付いたところで、何が起こったかなどカタツムリ風情に理解出来る筈もなかった。
〈熱波〉から逃れるためなのか身体を何度も変化させるキメラマイマイだったが、そんな努力も空しくやがて全身が完全に黒く染まるとボロボロになって崩れていった。
「はい終了っと。あーそれにしても会場にはまだ半分くらい残ってるんだよなあ。せっかくコイツに全部始末してもらおうと思ったのに……って、いやいやそれどころじゃなかった!」
ジェンは自分が何者かにここに落とされた事を失念していた。
それはつまり残った連中の逃げる隙を与えてしまったという事であり、その中には本命のターゲットも存在している。
「ヤバい、早く上に行かないと――」
慌ててしゃがみ込んだジェンはそこで自分の方を見ている子供たちの姿が目に入った。全員がこちらに対し縋るような目つきで見ているのだが……
「……ごめん、もうちょっと待ってて」
仮面の前で手を合わせたジェンはそのまま、パーティー会場まで跳び上がり……そこで想像だにしなかった凄惨な光景を目の当たりにしたのである。
◇◇◇
死屍累々。
それが現在のパーティー会場の様相だった。
生きている人間の姿はどこにも、誰一人ありはしない。五体満足な者はどこにも存在せず、皆一様に身体のどこかを切り落とされている。
恐らくこれをやったのはジェンを襲った給仕だろう。
しかし肝心の給仕の姿はどこにもなく、少し離れた場所にあるパーティー会場から外に出るための扉が破壊されていた。
(扉の先にはアオイがいる。この惨状を起こした相手が彼女の元に?)
ジェンは慌てて出口へと向かう。
アオイはそう簡単にやられるような実力ではないが、それでも相手の得体が知れなさ過ぎた。
そうして壊れた扉の傍まで移動したジェンの視界に映ったのは――
「あら? ターゲットの魔獣退治終わったの?」
謎の人物を氷結の能力によって壁に貼りつけにし、さらに氷で作った椅子の上に腰掛けるアオイの姿だった。