第二章 その3 買い物メモとトラブルの種
ジェンは屋敷内をクヨリを探しながら歩いていた。ヌローワと話し込んでいる間に庭からいなくなっていたのである。
そうして一通り屋敷内を探索すると浴場の近くでクヨリが見つかった。すぐに彼女を呼び止める為に背後から声をかける。
「クヨリさん、ちょっといいか?」
仕事中に突然声をかけられたクヨリは少しビクリと跳ねて動きを止めると、ゆっくりと振り向いた。
支給されたメイド服を身に纏ったクヨリはこの屋敷にやって来た時とは見違えるような印象だ。
二児の母とは思えない若々しい肌艶をした彼女はジェンの姿をみて少し意外そうな表情になった。
「あー、えっと、なんだい……ですか?」
ジェンが歩み寄っていくと、何故か妙にぎこちない口調で向こうから語りかけてきた。
「別にかしこまらなくて良いって言ったろ」
「ああ、そうだったね。それで何か用かい?」
気を張らなくても良いと告げると、すぐにいつものクヨリに戻った。
その方が気楽に接せるジェンも態度を変えずにそのまま用件を彼女に伝える。
「ヌローワの買い物メモを受け取りに来たんだ」
「メモ? あーあれね。部屋に置いてあるよ」
「そうか、じゃあ悪いけど一緒に取りに行けるか?」
「アンタなら勝手に入って持って行って良いよ」
「いや、そういう訳にもいかないだろ」
「どうせ取られる物なんて何もないし、別に全然かまわないんだけどねえ」
「そこらへんはケジメをつけないと」
両手で持っていた大きめの洗濯籠を浴場の傍に置くと、クヨリは自分の部屋に向かって歩き始めた。
ジェンはすぐさま彼女の後を追いかける。
クヨリは階段を上がると子供たちと一緒に暮らしている部屋の前までやってきた。
扉はキッチリと閉められており、クヨリはその前に立つとゆっくりとノックする。
三度のノックの音が鳴ると、部屋の中に何者かの気配がした。
しばらく扉の前で待っていると中から返事が返ってくる。
『誰ですか?』
返事の主はクヨリの息子ドミだった。
彼はすぐに扉を開ける様な事はせずに確認をしてきたのである。
「お母さんだよ」
『誰のお母さんですか?』
「あんたのお母さんに決まってるだろ」
『あんただけじゃわかりません』
「ドミのお母さんだよ」
『ドミだけじゃダメです』
「……ドミとリミのお母さんだよ」
『……本当に?』
そこでようやく扉の鍵が開く音がした。
少しだけ隙間が空くとそこから可愛らしい眼差しがこちらを覗き、勢いよく扉が開く。
「わあ! 本物のお母さんだ!」
歓喜の声を上げたドミが扉の向こうから飛び出すとそのままクヨリに抱きついた。
「ほんっとうに、よく訓練されてるよな……」
相変わらずキッチリと躾けられているドミの行動を見てジェンは苦笑するのだった。
◇◇◇
「これで良いかい?」
ジェンはクヨリが室内から持ってきたメモを受け取る。
内容に目を通すと、なかなか個性的な字で必要な日用品が書いてあった。
「あまりジロジロ見ないどくれよ」
「ん? 何で?」
「いや、その……ちゃんと読めるかい?」
「大丈夫、読めるよ」
気恥ずかしそうにしているクヨリに対しジェンは普通に返した。
「色々と物を知らないからね」
「俺も昔はそうだったよ。学なんて全くない」
幼い頃はスラムで孤児として生活し、混血の能力の暴走で野垂れ死に寸前だった時に拾われた。
その経験が三日前のリミと重なったからこそ彼女たちを連れてきてしまったのだと、今になってそう思う。
「だから気にしなくて良い。俺は未だに字が汚い」
「ハッキリ言うねえ……」
「それよりもリミの様子はどうだ?」
「少しずつ良くなってる。それについても感謝してるよ」
入り口から中を覗くと室内のベッドで静かに寝息を立てているリミの姿が見えた。
もう何日かすれば完全に良くなるだろうとは彼女を診察した医者の談である。
「そうか、元気になるのを祈ってる」
「ありがとうよ。そろそろ仕事に戻らないと。給金が貰えないね」
「別にこれは仕事だし、心配しなくてもちゃんと払うぞ?」
「そう言ってもらえるとありがたいよ」
母親にくっついたままのドミを含め三人で並びながら階段を下りて一階へと移動する。
そのままジェンは買い物に出かける為に屋敷の玄関へと向かう事にした。
「それじゃあ俺は行くよ」
「気を付けて」
「いってらっしゃーい」
ジェンはクヨリとドミの親子と互いに挨拶を交わしながら別れたのであった。
◇◇◇
「参ったな、物価の上昇をちょっと甘く見てた」
メモにあった日用品を買いに商店の立ち並ぶ区画にやってきたジェンは思わず小声で愚痴ってしまう。
しばらく町を離れている間に物価が概ね二倍以上、物によっては三倍になっており流石に辟易するしかない。
出張帰りのジェンではあるが、その間の給金が支給されるのはまだ先であり、しかもクヨリに対しての賃金の支給も必要なのだ。
仕事がないからとのんびり過ごしている場合ではないと改めて自覚したのである。
近頃は低ランクの魔獣の動きが活発化していて民間の魔獣狩りの仕事は盛況だ。
魔獣狩りは危険な仕事ではあるがキッチリと依頼をこなせば実入りが良く、職業を自由に選べない地下人でもなれる数少ない仕事の一つである。
実力があれば成り上がる事ができるので腕に覚えのある地下人には人気のある職業だった。
もっともジェンは混血で能力者の為、その実力を買われ国営の魔獣狩りに所属している。なので民間の様に大金を得るという事はまずない。
何故なら国営の魔獣狩りの場合、毎月一定の給料は保障されるがそれは他の国営の仕事に比べると平均賃金が半分ほど。実力次第でいくらでも稼げる民間の魔獣狩りのトップクラスとは収入に雲泥の差があるのだ。
尤も、国営は賃金以外に食事と住居が保障されているのでまず食い詰めるという事がない。それに黙って魔獣狩りの仕事をしていれば、国は個人に対し必要以上の詮索も介入もしてこないので、裏で復讐代行をする分には実は都合が良いのである。
閑話休題。
現在、ジェンはメモに書かれた品物を少しでも安く手に入れる為に様々な店の値段をリサーチしている最中だった。
足を使って一店舗ずつ売値をチェックしていくと物によっては値段に多少の幅があり、安い物を探すのが何だか少し楽しくなってきたのだ。
食べ物屋の露店が立ち並び、周囲一帯に美味しそうな匂いが漂う場所をのんびりと歩く。
なるべく安い物を記憶しながら、人で賑わう商店街を進んでいたその時である。
前方からジェンのいる方に向かって一人の女性が走ってきたのだ。
商店街を歩く他の人とぶつからない様にしながら、その女性は器用に人の間をすり抜ける様にして走り去っていった。
そしてジェンに対しても肩が当たらない様にスレスレを駆け抜けていったのである。
その女性の動きを間近で見たジェンは思わず感心する。
何故なら女性はジェンが少し重心を動かして避けようとした方向と逆の方へと瞬時に動いて自分と他人の間ギリギリをすり抜けていったのだ。
場合によっては正面からぶつかる可能性があったはずなのに全くスピードを落とさずに去っていく女性の背中をジェンは振り返って見送る。
すると今度は何やら賑やかに騒ぎ立てながら近づいてくる声が聞こえてきた。その声はさっき女性が走ってきた方向からしている。
ジェンは今度はそちらの方へと意識を向けた。
「どけっ!」
「邪魔だっ!」
黒い服を着ているがたいのいい男が二人、周囲を威嚇しながら駆け足でやってきていた。
徐々に近づく男たちは周辺を見回すとジェンを無視してそのままさっきの女性が去っていった方へと走っていく。
「うーん。これはどう動くのが正解なんだ?」
つい先日もトラブルに首を突っ込んでしまい、その結果苦労する事になってしまった。
まだその苦労の熱も冷めやらぬうちに、またしても首を突っ込むなど愚か者の極みではないだろうか。
「さっきの女と今の男たちに関係があるか分からないし、独断専行は程々にしとかないと本当にマズいよなあ」
首を突っ込んでしまうと、その後に隊長やアオイに説教される未来が見えたジェンは今回はスルーを選択したのであった。