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次回からまた視点が変わります。
くれははわたくしが迷い込んだ暗闇に射した一条の光だった。
くれはが生きてきた世界の様々な記憶や知識はわたくしの追い込まれていた心を紐解いた。
わたくしは結局小さな枠の中で必死に藻掻いただけ。
この世界もこの国だけで成り立っているわけではない。
多くの国に多くの人々が住まうこの世界のたった一人でしかないわたくし。
例えこの国で王太子の婚約者であろうと、公爵令嬢であろうとその大きさに変わりはない。
そのちっぽけなわたくしが間違いを犯しても何も変わることなく世界は回っていくのだから。
何を恐れていたのだろう。
何に囚われていたのだろう。
結局はわたくしが厭っていた貴族の常識に振り回されていただけ。
わたくし自身の大切だと想うものすら忘れかけていた。
わたくしはわたくしでしかない。
わたくしに出来ることをするしかないのに。
ルールは何処にでもある。
そこに生きる以上、そのルールに従って生きねばならない。
そのルールが間違いだと思い受け入れられないのならそこを去るか……そのルールを変えるかだ。
ただそれだけのこと。
何かを変えるのは容易な事ではない。
特にそこに利害があれば尚更だ。
だけど間違いだと思う事に染まり苦痛を感じながら心を擦り減らし生きるよりよっぽどいい。
わたくしがわたくしの大切なものの為にする事はきっと、今までよりどれほど大変でも幸せだろう。
それでも駄目なら去ればいい。
目の前の暗闇が一気に晴れた。
それと同時にわたくしが見失いかけていた大切なものを思い出した。
それはわたくしがわたくしである事を形作る大切な想い。
くれはがわたくしにもたらしたものはくれはが思うものよりずっと大きかった。
殿下とわたくしとの感情の違いも理解出来た。
殿下がわたくしに向けるのは男女間に生まれる『愛』。
だがわたくしが殿下に抱いていたのは家族やソフィアに向ける『親愛』に近かった。
厳密に言えばそこに憧れや敬愛なども含むが男女間にある恋情はほぼ無かった。
だからこそ殿下がわたくしにしてくれる事が理解出来ず、殿下の怒りもわからなかったのだ。
だけど……。
殿下はわたくしとの感情の違いに気付いていた。
それでも我慢強くわたくしとの間にある違いを埋めようと努力してくれていたのだ。
『恋』や『愛』を知らないわたくしを怖がらせない様に少しずつ殿下の心を見せてくれていた。
そうしてわたくしとの間に愛を育もうとしてくれていた。
鈍感にも程がある。
わたくし達は紛れもない政略結婚だ。
王家とフォレスター公爵家の婚姻はこの国の治世に必要なもの。
だから愛がなくても成さねばならぬものだと思っていたし、それは高位貴族の令嬢に産まれた者の義務だと思っていた。
でも逆を返せば愛があっても良いのだ。
わたくしの両親の様に政略結婚でも愛を育む事は出来るのだから。
そして殿下はわたくしに愛情を抱いてくれた。
それを前提に今までを思い返せば殿下の言葉や行動の意味が全然違ってくる。
どれほど殿下がわたくしに愛情をもって接してくれていたか。
頭が沸騰しそうな位、大切に扱ってくれていた。
感情の起伏が乏しく無表情なわたくしを無下にした事など一度も無かった。
騒がしいのが苦手なわたくしに合わせてくれていたのだろう二人のお茶会はいつだって静かで穏やかな時間だったし、人前で装うのとは違い素朴なものを好むわたくしへの贈り物は今でもお気に入りの物ばかりだ。
わたくしの日常になくてはならないお気に入りの茶葉も在庫をつくことなく殿下から贈られてくる。
それはある日王宮でのお茶会で出された時からずっとだ。
きっと一口飲んで気に入ったわたくしに気付いてくれたのだ。
わたくしはどれだけ周りが見えていなかったのか。
殿下がどれだけわたくしを大切にしてくれていたのか、今はよくわかる。
そうして殿下の言葉や行動を振り返っていけば、わたくしの胸に小さな蕾が生まれた。
その蕾は温かく、くすぐったい。
きっとこの蕾は……。
ああ、わたくしは何て愚かだったのだろう。
家族にソフィア、そして殿下。
何にも変える事の出来ない素晴らしい宝物を手にしていたのに。
下らない価値観から出される評価に左右され大切なものを見失っていた。
今ならわかる。
わたくしが目指すべき道が。
わたくしが心を注ぐべき相手が。
全てくれはがわたくしに教えてくれたもの。
だから、くれはの記憶にある『恋金』の結末に絶望した。
全てわかったのに、やっと殿下の気持ちに追い付きそうだったのに。
わたくしの心に生まれた蕾は咲くことなく散るのだ。
だがそんな絶望を吹き飛ばすようにくれはは宣言する。
わたくしだけを愛する相手を見つけ幸せにすると。
彼女の過去をわたくしは知っている。
彼女の頑なに抑え込んできた蕾も。
そうして幕を閉じた彼女なのに、わたくしの為に必死になって。
彼女に何の利益もないのに。
強く脆い優しいくれは。
ならば。
この先わたくしとくれはがどうなるのかわからないけれど、くれはの思う通りにさせてあげたい。
結果がどうなろうとわたくしが何とかしてみせる。
もし、フォレスター公爵家の傷となるならわたくしが被ればいい。
そしてわたくしが去ればいいだけのこと。
わたくしはくれはを守りたい。
くれはの今にも壊れそうな心を守りたいと思う。
それはわたくしの大切な一人であるソフィアも同じだった様だ。
彼女は劣悪な環境から救ったとわたくしに無二の忠誠を誓った。
それを強要するつもりも無かったし、彼女に大切な人が増えるのは喜ばしい事だと常々言っていたのだがソフィアは頑なに拒んできた。
そのソフィアが誓いを違えてまで助けたいと思う相手がわたくしと同じだなんて。
くれはは不思議な人だ。
わたくしが知る誰よりも自由で真っ直ぐで輝いている。
誰かを無償で助け、その為の苦労を厭わない。
その意志は強く眩しいくらいだ。
だが。
くれは自身の心は大きな傷を持ち、今にも砕けそうな程弱っている。
それを誰かを助けたいと思う気持ちだけで支えている。
酷く危ういこの硝子細工のようなくれはにわたくしは惹かれてしまった。
愛しいとすら思う。
同じ年の少女だというのに小さな震える雛のようなくれは。
この強烈な庇護欲にわたくしは抗えない。
多分ソフィアも同じ気持ちなのだろう。
先の見えないわたくしとくれは。
だけどわたくしは彼女を守ろう。
わたくしが培ってきた全てを駆使して。
だからくれは、お願い。
壊れてしまわないで。
次回の投稿は12/8(火)です。