家庭教師 1
「亜希。明日は、学校行くの?」
不意に、耳元で囁かれた貴晶の低い声。微かにかかる生温かい吐息が、羽毛のように耳朶をくすぐる。
「――ひぇ?」
声の近さに驚いて、何を言われたのかなんて頭に入ってこなかった。
「学校、明日どうする?」
沈黙するわたしに早くも焦れたのか、貴晶は重ねて訊いてきた。こういうところ、昔と変わっていない。
しかし、だ。
――わざわざこんな近くに寄ってきてまで尋ねる話か?
相変わらずの、幼馴染の非常識な距離感に憤る。
傍若無人な幼馴染に唐突に現実に引き戻されたわたしは、自身の置かれている状況を把握してまた固まった。
右耳には息がかかるくらいのところまで唇を寄せられ、その下の首筋には貴晶の指がそっと触れていて。おまけにわたしの上半身はしっかり貴晶の左腕で囲われている。これでは身体をひくこともかなわない。
……。
なぜ。いつの間にわたしはこんな至近距離まで貴晶に接近されている? ……まずそっちの方で思考が一時停止してしまい……
下手に身じろぎをすると、さらに貴晶に接触してしまう不安で、身体は硬直し……
いっそのこと思いっきり突き放せば逃れられる?
……う~ん、こんなことを考えてる時点で、貴晶に見透かされて防がれる気がする。
「……休むの?」
探るような声。こいつ、さっきからわざと声のトーンを落としてるな。
「……行くわよ。期末、近いんだし」
かすめるように貴晶の親指の腹が顎の下をなぞる。
このっ、触りかたがっ……。変な声が出そうになって、息をつめた。
「……亜希。さっきからすげー深刻な顔して。もしかして今度の期末、やばい?」
「そこまでじゃない」
貴晶に解放してもらえる打開策が見いだせないままの苦し紛れの一言。即答してしまったので、かえって切羽詰まっているのがモロにばれていそうだ、
貴晶の両眼がわずかに細められ、見定めるかのようにわたしの眼を見つめてくる。
「ふぅん」
信じてないな。
今日はもう、色々あって油断していた。
貴晶が近くにいて、わたしがこいつの存在を忘れて何かに気をとられ、うっかり考え事なんかに没頭していると、いつの間にかこんなふうにホールドされていて……。
これ、なにも今に始まったことではなくて。こうなったら正直どうしていいかわからなくて。
普通なら、近づいてくる貴晶の匂いとか体温とかすごく気になってしかたないのに。こんな状態になるまでなんで気がつかないのかと、自身のおかれている今のこの現状が自分でもつくづく謎でしかたがない。
「心配なら、俺がまた亜希と一緒にテスト勉強やろうか?」
たしかにこのままではヤバいかもしれない。……が。
その表情、「図星だろ」……って書いてあるわよ、癪にさわる!
悔しいけど、貴晶の推測は当たっている。
テストはもう来週明けに迫っていて、これしきのことでのんびりと休めてしまえるほどの余裕はわたしにはない。
ただねー。どのくらいいるかなんてことまでは知らなけれど、αもいるうちの高校でβで上の下から中のあたりをウロウロしているくらいの成績なら、まあまあいいのではないかなと。個人的には「けっこう頑張ってるよね、わたし」なんて思っていたりする。
ところが、わたしの周囲にいるのが、両親α、弟α、おまけに幼馴染とその家族までα……ときては……
これが世間で圧倒的に多数を占めているはずの一般的なβのご家庭であれば、そこまで悲観することもないようなものなのに、αに囲まれている環境は一見恵まれているようでいて、βのわたしには案外と苦労が多い。
考えてもみてほしい。
彼らがごく普通にできて当たり前の問題に、――たとえば学力テストでわたしがつまづいた問題に、なぜこれができないのかと彼らは不思議そうなのだ。で、復習しながら教わっていくうちに、彼らはわたしがどこで引っかかっていたかを理解して、また……戸惑っている。口にこそ出さないけど、その瞬間の表情と態度とが雄弁に物語っている。
それはね、親なりに隠そうとしてくれているのは伝わってくるんだけど、わかるものはわかる。お仕事で部下のいるお父さんはそのフォローもうまいけど、お母さんときたらスッパリ傷口を抉ってくることもあって……
そんなわけで、彼らが学業面でわたしに求めてくるハードルが、とにかく高すぎる。
「女の子だから」という部分は尊重されても、「βだから」という甘えは許してもらえなかった。
それに。……貴晶のようなαには高校程度の学習内容なら万遍なく苦も無くできてしまって苦手な教科なんて存在しないかに見えるけど、わたしはもちろんそんな器用なタイプではない。苦手な科目は相当がんばらないと、かなりヤバい。
でもって、うっかり平均点並の点数でも取ろうものなら、あとが大変なのだ。得意な科目でカバーして総合的な順位がさほど変わらなかったとしても、そこは認めてもらえない。
ボーダーラインがどの辺なのかいまいち定かではないのだけど、来年には大学受験が控えている。平均あたりで安穏としていたのでは、またぞろ家庭教師という名の見合い相手の話が浮上してきかねない。
それだけは、イヤだ!
思えば高校受験を前にして、わたしの押しかけ家庭教師を務めてくれたのは、貴晶だった。
――一体どうしてまた、そんなことになったのか?
そもそも最初にわたしに家庭教師を世話したいと打診してきたのは、天河の叔父さん、――お母さんの弟にあたる人物だった。
お母さんの実家は、連綿と続くαの家系の家だ。傍流の家からはこの国の政財界のトップに名を連ねる人物を輩出したりもしていた。そうした一族の宗家の跡取り娘という境遇は、お母さんにはずいぶんと居心地が悪かったらしい。
当主夫妻の第一子だったお母さんは、時代の流れで、女性ながら初めての天河の当主となるべく育てられてきた。高校在学中に、既に婚約者も決まっていた。
わたしが生まれる以前のことだし詳しい話をちゃんと聞いたわけではないので、これはあくまで推測だけれど。
――お母さんはすったもんだの末に、全て投げ出して家を飛び出し、それからお父さんと出会って結ばれた……。ので、同じ親戚でも、橘と天河とではわたし達家族に対する対応にすごい温度差がある。
もっとも旧家を相手にそんな真似をしておいて、それでも途切れず細々とだか親戚付き合いが続いているなんてきっととんでもないことで、それをわたし達が不満に感じるほうがどうかしているって話なんだろうけど。
さずがに一族が一堂に会するような席には呼ばれないものの、年に数回、盆や正月くらいにはひっそりと天河のお屋敷に顔を出し、祖父母と叔父の家族、たまたま居合わせた親戚に挨拶をする程度は許されている、といった雰囲気のお付き合い。お屋敷にはたいてい一泊だけして、早々に引き上げてくる。
それがどうして、疎遠なはずの天河家から家庭教師を紹介したいと言ってきたのか?
それはわたしが宗家にこれだけ近い血筋でありながら、あの一族においては非常に稀な、第二次性が鬼子の子供だから――。「鬼子」という別称を用いるほど、天河の当主の孫でβなど、……わたしのような存在は過去に例をみないのだそうだ。
十六歳の誕生日を迎えた月の休日に、珍しくわたしとお母さんだけが招かれた天河のお屋敷で、祖父母からそう明かされた。
『……記録では、天河の血をひくβは情が濃やかで幼少期にはもう決まった許婚者がいたようだが、おまえはどうだね? 第二次性が共学の高校でも、自然とαとβで別れてしまい双方の間に距離がある場合が多いと聞くが。今のままでは良いαと知り合う機会すら、なかなかないのではないかな?』――という言葉と共に。
なんの話をされているのか、すぐにはちっともわからなかった。……遠回しすぎて。
――許婚者がどうのって。鬼子は手厚く庇護すべしって。そんな記録をいちいち残しているくらい、天河ではそこまでβがレアなんですか?
努めて穏やかに振る舞う祖父母たちをぼんやりと見やりながら、わたしは彼らが意図していた趣旨とは見当違いのことを考えていた。
「わたしのことがあったからねー。あれで父さん達なりに亜希のことを心配しているのよ。重いし、しち面倒だし、なぜかこちらが望まない方向に暴走していくし……。よかれと思ってのことなんだろうけれど、こちらにとっては有難迷惑。あれからもう二十年近くも経つっていうのに……昔とぜんぜん変わっていないわ」
わたし達の泊まる部屋――昔お母さんが暮らしていたという老舗の旅館並に重厚で、そこよりずっと一つ一つの調度がおそらく立派な部屋で、お母さんは大袈裟に顔を顰めてみせた。
気まずい空気が濃くなるいっぽうの、お祖父さん達との気詰まりな対面をようやく終えた後だった。
こんな場所でもお母さんはお母さんで……そんな姿にちょっとだけ安堵する。
たぶんこの後、わたしは年齢の近い年上の一族のαの誰かと引き合わされる。
お屋敷に来るとわたしはいつも、大人達とは別に、同じ年頃の子供達――わたしと弟の悠希と知らない子供達二人――の四人でアフタヌーンティーの時間を過ごした。
三段のケーキスタンドに載ったお皿には、小ぶりのサンドイッチやスコーン、可愛いお菓子が並んでいて、わくわくと楽しかったのは最初のうちだけ。
わたしがすぐに食べるのに夢中になるお子様で、ひととおり食べたいものをゆっくりと味わって、お話しするならそれからがいいという我儘な性格のせいもある。これはいくつになってもなかなか変わらない。お母さんにも幾度となく注意されてきてもいる。
でもなぁ、話の内容が……
同席した子供達から話しかけてきてくれるのだけど。お互い初対面だしまずは話のいとぐちとして、好きなものとか興味のある事柄についてが多いかな。
「……その本、読んだことないです。どんなお話? 面白い?」
子供同士の美味しい軽食を頂きながらのお喋りである。なのに、なんでそこまで真面目な解説? ――わたしにはそう聞こえる――
元々関心のあることならともかく、わたしそこまで真剣に聞いてないから。聞いていたとしても半分もわからないから。……で、わたしがなかなか返せないでいると、見かねたらしい三歳下の悠希が代わって答えてくれる。そのうちテーブルでは、縮こまっているわたしを除いた子供達の間で会話がはずんでいて……
このお屋敷でのアフタヌーンティーは、毎回メンバーが代われども、だいたいこのパターンがお決まりになってしまった。
悠希に言わせると、『あいつらそれとなく自分がαで優秀だってことをアピールしたいだけだから。姉さんがあいつらに気をつかって、連中のくだらないお喋りに話を合わせてやる必要なんてない』
「我ながらいい仕事したぜ」とちょっと得意げな表情を浮かべて彼らαをバッサリと切り捨てる弟に、毎度毎度たすけられているわたしは……
一応わたしのほうが姉なんだが、となんとも複雑な心境だった。
あれ、お見合いだったのかー。
悠希、気づいてたんだろうなー。
……
でもってそのお見合い相手のうち、中三のGWに同席した男子達との会話から、わたしの進学志望先の学校名がお祖父さん達の耳に伝わったらしい。αの皆さんからしたらその耳を疑う校名に、「これは捨て置けない」とわたしに家庭教師をすすめてきた、と。
あれ、滑り止めの高校だったんだけど。
自分でも、そこに進学するとは思ってなかったって。
――それまでわたしがついていけない高尚な持論をひけらかしていた同学年のαが、『同じ学校だったらいいな』なんて心にもないことを言って訊いてくるから、つい。
αの子達もひいていたけど、悠希まで、「やっちゃったね、姉さん」って表情をしていた。
そんな馬鹿げた話を真実と受け止められるほど、わたしできない子だって思われてた?
まぁ。今回のことであの場での状況がお祖父さん達にも伝わっているのがわかったし、長年積み重ねてきたαを前にしてのわたしの不甲斐なさ、がもれなくバレてしまっていたら、そう思われても無理もないか。
そうしたら帰宅して一週間と経たずに、天河の叔父さんからの家庭教師のお話。
この当時のわたしはアフタヌーンティーが簡易なお見合いの場だってこともわかっていなかったから、いろいろあって疎遠になっているとはいえ、旧家ってこういうところはきっちり詰めてくるのかーと、ただただびっくり。
両親は苦笑い。
悠希は、『……あのヤロー』と、たぶんあの時の受験生に向かって悪態をついていた。
いずれの候補者も天河の家の遠縁にあたる大学生と院生で、もちろんα。わたしが見てもなんだかすごそうな御自身のプロフィールのみならず、天河本家とどういうつながりがあるかの家系図まで添えられていて、お父さんがため息まじりに、「これではまるで身上書だね」と漏らしていた。
まず大学生のほうから、わたしは強硬に断った。
見ず知らずの成人α男性なんて! その人がどうとかという問題じゃなくて。――とにかく絶対ムリ!
頭ではわかっていても、こればっかりはどうしようもなくて。ちょっと顔を合わせただけも生理的に嫌悪感を覚えることすらあるのに、家庭教師だなんて論外! 何が何でも絶対嫌だ! と頑なに突っぱねた。
それでますます、うちと天河の家との関係がこじれたら……? ちらりとよぎった懸念はねじ伏せた。
わたしの剣幕に、両親はあっさり理解を示してくれた。元々生家への不満が積もり積もって、お母さんはあの家を飛び出した。鬼子の行く末を心配しての口出しとわかってはいても、おいそれと聞き入れるつもりは無かったらしい。
もう一通、院生のαの方は女性で、こちらはお母さんが嫌だったらしい。わたしが最後まで目を通す間もなく、『――見なくていい』の一言と共にさっさと書類を片付けてしまっていた。
ただし断るにしても無策でというわけにもいかず、お母さんは仲良しの貴晶のお母さんに相談した。
当初お母さんは、貴俊さんにわたしの家庭教師をお願いするつもりだった。貴俊さんならわたしと幼馴染だし、わたしが過去のトラウマに悩まされることもなく勉強に集中できるだろうと。
しかしただ勉強をみるだけではなく志望校に合格させなくてはならない。しかもその対象は、βのわたし。
αにはさほどではなくても、βが目指すには難関校。
果たしてちゃんと務まるかどうか――難色を示すおばさんから、お母さんはとりあえずお試しで一学期の間だけ、と何とか強引に約束を取り付けた。
そして、家庭教師一日目。
急遽予定が入り外出することになったお母さんに、くれぐれも粗相のないようにと念押しをされ、リビングのテーブルの椅子に腰かけ、ひとり神妙に先生を待つわたしの前に現れたのは。
お母さんが依頼していた貴俊さんではなく、貴晶――だった。
「……貴俊さん、今日は都合悪くなったの? どうして、貴晶が?」
面食らうわたしに、まるでこうなることが必然だと言わんばかりに、貴晶は昂然とこう宣った。
「俺が亜希の勉強みてやるよ。兄さんよりよっぽど適任だと思うぜ。亜希、兄さんの前だと緊張するだろ?」
「……へ?」
いきなり痛いところを突かれて、わたしは口ごもった。たしかにどうせ教わるなら、貴俊さんより貴晶のほうが……
いやいや。根本的におかしいでしょう。
予想もしていなかった衝撃で機能不全をおこしていた理性がかろうじて起き上がり、この異常事態にどうにか追い付いてくる。
――だって。
「……あんたも、受験生でしょうに」
「心配してくれてありがとう。でもな、亜希。おまえの面倒をみるくらいで、俺の受験の妨げになるとか、無いから。俺が無理だと思ったら、たとえ兄さんに頼まれたとしても、わざわざ引き受けたりなどしていない」
わたしの前に立った貴晶が前かがみになって、身長差のあるわたしに目線を合わせてくる。
端整な貴晶の顔が近づいて、わたしの顔を覗き込んでくる。
……こんなの、珍しくもないのに。
さっきの不意打ちからまだ完全に立ち直っていないわたしは、こんなことにも狼狽えてしまう。
貴晶はこうする時、いつもわたしの様子をうかがうように見つめてくるのに。
この時は正面から、貴晶に見据えられた。
束の間、貴晶の眼に過った強い光。
――有無を言わせない、非情な意志を宿した眼光に。
ぞくりとして……
――この眼……
挑みかかってくる、……ずきりと。