悪意 2
貴晶や悠希みたく平然と――なんて、わたしにはどだい無理な話だった。居丈高なα女子に対し、いささか強張った返事になってしまった。
それと同時に、スマホを握っていた右手をポケットに突っ込もうとしたところで、後ろから伸びてきた手に手首を掴まれる。
――いきなり! それも後ろからっ。
そのまま後ろ手に捻りあげられそうになる。が、咄嗟にわたしの身体は、相手の動きに合わせて動いていた。右腕と同じ方向に身をよじることで、背後から不意打ちをしてきた女子と、向き合うかたちになる。かろうじて、こちらに不利な体勢で拘束されることだけは回避した。
左手に持っていた封筒をどうしようか、一瞬迷って中途半端な動きになってしまった。仕掛けてきたのが、悠希とは程遠いαであったことにホッとする。
わたしより図体がデカくなってもなお、気まぐれにじゃれついてくる弟をあしらおうと足掻いてきた日々はムダではなかった。いつの間にか身についてしまったものだったけど、それがよもや、こんなところで役にたつとは。
「――っ!」
けれども、わたしの右手を掴む手をはずすまでには至らなかった。わたしの手を離そうとしない女子の視線を間近に感じながら、右腕に力をこめるもびくとも動かない。指が、わたしの手首に食い込んでくる。女子とはいえαの力だ。まだ本気ではないのかもしれないが、痛いものは痛い。
苦痛にゆがむわたしの顔に、先ほどまでわたしの前方に立っていたボブの女子が溜飲をさげた表情を浮かべて、さらに間合いをつめてくる。
「なんのつもり?」
恐れより、苛立ちが先にたつ。
三人とも、ブラウスのボタンを一番上まで留めるなど制服の着こなしはきちんとしているのに、ネクタイははずしている。その不自然さが、彼女たちのこの行為が計画的なものであることを物語っていた。
もっとも詰めが甘いのか。わたしに掴みかかってきた女子は二年だ。左胸のポケットの中に、小さく折りたたんだ橙色のネクタイが見えた。
わたしの問いに対する答えは、言葉ではなく行動で返ってきた。
わたしを捕まえている二年生が左手を伸ばして、わたしの手からスマホを取り上げようとしてくる。
わたしの左手はA4サイズの封筒でふさがっているから、思うように抵抗できない。
相手もせっかく掴んだわたしの手を離す気はないようで、そのうえでわたしを押さえこもうとしてくる。
身長はわたしと同じくらい。体格はボリューム面からいっても向こうのほうが立派だし、躊躇なく、それも搦め手から仕掛けてくるほど好戦的な性格をしているくせに、こうした荒事は慣れていないらしい。お互いに精彩を欠いた動きで、しばらくもみあっていた。
目の前のこの女子を振り払えたとしても、まだ二人残っている。
今のところは逃げられないように前後に立って、わたし達の成り行きを見守っている感じだけど。
――どうしたらいいのか。
焦るあまり、目の前に迫る女子と視線がかち合いそうになって――。
その瞬間、ヒュッと息がつまる。直後わたしは、彼女から目を逸らした。反射的にそうしていた。
こちらの集中力が途切れた隙をつかれて、均衡が崩れる。わたしは一息に、部屋側の壁際まで追い込まれてしまった。
「少しお話したいことがあって、わたし達にお付き合いいただこうと思っていたのだけど、橘さんがつまらないマネをしようとなさるから?」
形勢が完全にじぶん達に有利に傾いたのを見届けて、仲間の後ろで窺っていたボブの女子が小馬鹿にした調子で語りかけてくる。
「わたし待ち合わせしているので、また今度にしてもらえますか?」
腹が立つ。腹が立つけど――。
さっきから、漠然とした不安が脳内の片隅を駆けめぐっている。
彼女たちに?
理屈の通じない相手にからまれて何をされるかわからない、不安?
そんなの当たり前だ。正直こわい。でも、それだけ?
彼女たちの身勝手な感情に――わたしが引きずられてはいけない。
なにを知らせるシグナルなのか。まだ微かなものなのに、それでも無視できない響きを持って煩わしく鳴り続けるそれに、わたしは苛立っていた。
「それほど時間はとらせないわ。橘さんがおとなしくわたし達についてきてくれさえすれば」
ついていけるわけないでしょ! 移動して、そうしたらそこにはもっと多くのお仲間が待ち構えてたり――とか。ありそうで、おっかなすぎる。
「では、手短にここで話してください」
思い通りにならないわたしに業を煮やしたのか、ボブの女子の表情がいっそう忌々し気なものに変わる。
「αのわたし達が、せいいっぱい譲歩してβのあなたにお願いしてあげてるのよ。和泉君が優しいからって、あなた勘違いしているみたいだけど、幼馴染だからって思いあがらないでくれる?」
………………。
やっぱりかーーーー。
想像していたとおりだった。むしろそんな軽薄な事実を、ご本人たちの口から臆面もなく告げられたことに、拍子抜けさえしている。
αでも高校生にもなって、こんな幼稚な脅しかけてくるんだ。
たしかに、『貴晶サマ』にご執心のあなた達にとって、幼馴染であるわたしの存在じたいが面白くない、というのはわかる。ましてや今日みたいに、わたしが幼馴染の役得を思いっきり享受している姿を見せつけられたら――もっともアレは貴晶のほうからわたしの傍にひっついて来ていたんだけど、そもそもそうなった原因はわたしにあるわけで――彼女たちにはたまったものではなかったんだろうってことも。
でもね、それを言うなら、αであることを鼻にかけてるあなた達の態度はどうなの?
こんな状況だというのに、わたしの思考は、彼女たちへのツッコみで溢れてしまっていた。
今朝の騒動に、もしかしたら昨日のタクシー同伴帰宅もかんでるのかな? いずれにしろ、今日の放課後にはもう接触してきた。わたしがひとりになるのを待っていたのだとしら、その前からこのひと達、すでにアクション起こしてたってこと?
そうだとしたら、いろいろ早過ぎでしょ。短絡的すぎて、後先ちゃんと考えているのかと不安になる。
当の貴晶が動機はどうあれ、あれだけハッキリと庇護する意思を示している対象に向かって。
わたしがただの幼馴染で、Ωの恋人じゃないから大丈夫だろうって考えなら、こいつら貴晶のこと、なんにもわかっていない。
いくら嫉妬で、頭に血が上っているからと言っても……。
だいいちαとして――ヤバすぎる。
「どさくさにまぎれて、あんた和泉君に抱きつこうとしてたわよね?」
「鞄も片桐君と和泉君に持たせて。いったい何様のつもり?」
他のふたりもそうとう鬱憤がたまっていたのか、嵩にかかって参戦してきて、もう冷静に『お話』どころではなくなってきた。
三人とも平静さを欠いていて、だんだんコワくなってくる。
たとえば、ここでわたしが泣いて許しを請えば彼女たちの気がすむのか? そんな段階、彼女たちはもうとっくに超えてしまっている気がするし、彼女たちの様子からしてますます調子にのるだけで終わりそう。なので、その選択はない。
なにより、わたしが絶対、イヤだ!
かといって、じゃあわたしが他に何を言ったとしても、たぶんこのひと達を刺激するだけ。端からわたしの言い分なんて、聞く耳持ってないだろうし。
小学生のときは、集団での悪意に満ちた誹謗中傷にどうしたらいいのかわからなくて、萎縮してじっと我慢して、やり過ごすことしかできなかった。当時のことを思い出すと、辛くて、悲しくて、悔しくて――。
そうして悩んでいた時間は、わたしのなかでなにを、どう変えていったのか。今またはからずも、似たような場面にでくわして、途方にくれるじぶんとは別に、冷めた目で彼女たちのことを観察しているもうひとりのじぶんがいる。
ただ……一対一ならまだしも、三人、それもαを相手にそんな余裕続くわけもなく、ただ唇を引き結んで、この苦境から抜けだす幸運がどこかで降ってこないものかとチャンスをうかがうしかない。
そんなわたしの鼻っ柱の強い態度が、彼女たちのプライドに障ったのか。高校生くらいになると、αである彼女たちに真っ向から対峙してくるβなんてまず、……まぁなかなかいないから。
感情が昂ってきているせいなんだろうけど、彼女たちの、αの圧が徐々に強まってきている。
良くも悪くもα慣れしているわたしだから、なんとか持っているけど。これがごくふつうのβの女の子だったら、とっくに腰が砕けてるからね。
ほんとにじぶん達が何やっているのか、わかってるの? この連中。
――にしても。
ずっと締めあげられている右腕が痺れてきている。ここまで力がほとんど弱まってないって、この二年、なんて馬鹿力!
脂汗が滲んできている状態で、精いっぱい虚勢をはるのもきつくなってきた。
三人もの醜い形相をしたαの敵意のこもった圧に、この距離でさらされ続けるのは――。
じくじくと頭に古傷がうずくような痛みが走る。それがおそろしくゆっくりと、けれど確実にじわじわと広がっていく。
じわりと額に汗が吹き出してきて……耳の奥深くで耳鳴りがしてきた。ずっと遠く消え入りそうな音ながら、金属の衝突音が長く尾をひいて幽くなっていっては、また共鳴してを繰りかえしている。咄嗟にとじた瞼の裏で、星のように小さな光が明滅する。
――ズキン。
痛い。
痛い痛い痛いコワイ!
どこまでも深い漆黒が支配する重苦しい奥底で、なにかが頭をもたげようとしているような……。
ダメだダメだダメだ。
なにが?
……なにが?
とにかく! ダメだってのに!!
――――貴晶!!
逃れるように後ずさったわたしの薄い背中に当たるのは、冷たく固い壁の感触しかなくて。
ヒヤリ。と、さながら背中を這いまわるなにかに体温を吸い取られるかのような得体のしれない感覚に、ゾッとして身を震わせる。
貴晶、ごめん!
こんなことになって、こんなときになって、傍にいてほしい! なんて……。
――貴晶!
彼の――背後からわたしの身体をその胸に抱きとめてくれる逞しい腕。わたしを包む温かな体温、ほっとする優しい匂いが……。
「ちょっと! 聞いてるの?」
思いだそうと……。思い描いて――鎮めようと、必死になっているのに!
口々に喚きたてる彼女たちのヒステリックな騒音が、わたしの神経を逆撫でしてくる。
うるさいうるさい!
口数ばっかり多くて、同じような内容の話ばっかり繰り返して!
うるさい。
ぎゅっと、さらに固く目を閉じた瞼の裏に……。
――貴晶……。
『――落ち着け』
ぶわりと空気が逆巻くような感覚がした。
耳朶にかかる彼の吐息と、言葉にこもる熱とで、耳だけがやけに熱くなっていく。
――もっと……。
ここにはない温もりを追い求めて足掻くわたしの知覚が、貴晶を捜し求めて感度を最高に研ぎ澄ましていく。
不意に、異変を拾ったわたしの脳内のマップがクローズアップされた。
αが――こちらへものすごい勢いで走ってくる。ひとり、ふたり……もう渡り廊下まで来た。あれは――。
「ほんっとカンジ悪いったら。こっちちゃんと向きなさいよ!」
「――ねえ、橘さん。わたしずっと気になっていたんだけど。あなたさぁ、さっきから何を後生大事に持っているの?」
先ほどまでの剣幕とは打って変わって、気味が悪いくらいの柔らかな口調。舌なめずりでもしていそうなボブの女子の声に、ハッと目を開ける。わたしが守るように左手で抱きしめていた封筒に、左前方から伸びてくる細く白い手が見えた。
……どくん!
この封筒は――。
血が逆流する。
呑みこまれる。
じぶんのことなのに……。頼りないほど遠くで、追いやられた意識の果ての片隅で、わたしはそれを見つめていた。
視界が白く染まっていく。わたしがギリギリ持ちこたえていたものを手放そうと、――まさにその寸前。
右手に握りしめたスマホが振動した。
わたしを押さえつけていた女子の注意が、束の間スマホへと逸れる。と同時に、わずかながらわたしの手首を掴む力が緩んだ。
一瞬の隙をついて、掴んでいた女子の手を、わたしは渾身の力をこめて振りほどいた。
αが来る! その前に――。
大きく傾いだ女子の身体の脇をすり抜けて、わたしは保健室のほうへと廊下を駆けだそうとした。
しかし。突然のわたしの抵抗に驚いていた彼女たちだったけれど、これで諦めてはくれなかった。
「――このッ!」
「待ちなさいよッ!」
逃げるわたしの結んだ長い髪の毛の先を、捕まえられる。
「――ッ!!」
ボブの女子が、ひとの髪を容赦なく引っ張ってくる。ブチブチっと鼓膜に響く不快な音とともに、針で刺したような痛みが後頭部にいくつも走った。それどころかもう一方の手で、後ろへのけぞるわたしのブラウスの端を乱暴に引っ掴んできた。
「バカッ! 離して!」
――倒れる!
そう悟った瞬間、わたしは叫んでいた。
αが近づいてきているのに。それともこの連中、αのくせに気づいてないの?
見開かれたわたしの眼に、スローモーションのように周りの景色が回転していく。
比較的最近に建て直された中央棟の天井と壁と床が、さながらアイボリーホワイトの仮想空間にいるかのような不確かさで視界を滑っていく。
どくん。
瞳の奥で、なにかが不気味に動く感触があった。
ボブの女子の身体が前のめりに傾いていく。なにが起こっているのか理解していない無様な顔が、目の端に映る。
脳髄の奥の奥――チリッと灼ける痛みがして、わたしの精神が一気に恐慌状態に陥る。次に襲いくる衝撃に、わたしが身構えようとしたとき。
右手の中のスマホが再び振動を始めた。
――悠希?
次の瞬間には、わたしの身体は背中から強かに床に打ちつけられていた。
狼狽した声が頭上から降ってくる。
「仙石さんっ」
「大丈夫ですか? ――こいつッ」
「ちょッ。よしなって! β相手にこれ以上はヤバイって!」
これ以上? もう手遅れでしょ。
後から遅れてやってくる痛みに耐えながら、衝撃で朦朧とした頭で悪態をつく。
バース性混在の高校に通うα達の間には、校則に明記されていない暗黙のルールが存在する。
他のバース性より優位であるとされるαが、校内でβやΩに対しトラブルを起こしてはならない――という建前上のルールが。
だから、こちらから積極的に関わっていかなければ、こんな事態になることはない。
『普通は……だけど』
皮肉めいた微笑を浮かべてわたしに告げる、まだ中学生だった頃の弟の顔が思い浮かぶ。
わたしも、そう思っていた。
痛む身体をごろりと横向きにして、肘をついてなんとか上体を起こそうとする。
彼女たちはボブの女子にしきりに声をかけている。
身体を動かしたことで完全に彼女たちに背を向けるかっこうになってしまったので、わたしからは彼女たちの様子はうかがい知ることができない。
気配が、そこまで近づいてきている。
足音が聞こえるくらいまでになって、そこでようやく彼女たちが慌てだした。
遅いよ……。向こうは、あんた達より早くからこっちの存在に気がついてる。
すかさず飛んでくる圧が、彼女たちを足止めする。
「――ごッ……」
こちらをはっきりと視認できる位置まで走ってきた彼らから、いっせいに怒号があがった。
「なんてことをッ!」
「おまえらぁ!!」
駆け込んできた一族の男子生徒たち三人が、わたしと闖入者にひるんだ女生徒たちの前に立ちはだかる。
同じαでも天河の彼らの圧は、女生徒たちの比ではなくて……。
蠢きだす痛みに小さく呻きながら、スマホの真っ黒な画面へと視線を落とす。
……こんなときでも、握りしめて離さないって――。
我ながら半ば呆れ、感心しつつ覗いた画面に表示されたメッセージは、貴晶からの着信を知らせるものだった。
たまらず親指でタップする。右手の甲が引き攣れたように痛んだ。
手以外にも、身体のあちこちがじくじくと痛みを訴えてくる。
『――亜希?』
コールしてすぐに聞こえた声に、心の底から安堵する。
耳もとに貴晶の低い声が、求めていた声がある。それだけで嬉しくて、わたしがギリギリ保っていたものが氷解していくのがわかった。
「――ぅうっ……」
緊張が溶けていくにつれて、透明な膜がゆっくりと視界を覆っていく。
すっかり目の前が滲んでおぼろげにしか見えないわたしの前に、誰かが駆け寄り膝をついた気配がして、
「ここで争うな! 外でやれ!」
仲間へ向けて張り上げる男子の声が聞こえた。
『亜希。なにがあった?』
「…………ぁ……」
ぞくぞくと、甘美にわたしを縛る声。
それだけでわたしが焦がれていたものが、わたしの五感に刺激となってよみがえっていくようで――。
声にならない。
この場を支配していたα同士の緊迫した空気が遠ざかっていく。
そのことにほっとしながらも、でも今はそんなことなどわたしには些細なことで、どうでもよくて。
わたしはスマホを耳に押しあてて、ただひたすら、貴晶の存在を感じていたかった。