悪意 1
『姉さん、アキ兄とずいぶんと派手な登校したんだって?』
心ここにあらずでも、身体は自然と目的地へと向かっていたようだ。保健室とカウンセラールームがあるだけの中央棟の一階の廊下を、わたしはクラスの教室のある方向へと歩いていた。
保健室とカウンセラールームと別棟の校舎へとつながる渡り廊下の間はずっと窓のない壁が続いていて、それがよけいにわたしの距離感を狂わせる。どのくらい歩いたのか、時間の感覚すらもあやしくて。
そんなわたしを現実へと引き戻したのは、スカートのポケットに入れていたスマホだった。
腰に当たる振動が、無遠慮に着信を知らせてくる。
――貴晶?
いっけない。あれからいったい、どのくらい時間たってる?
昨日からやたらと面倒見のいい幼馴染の、能面と化した顔が思い浮かぶ。と同時に、じぶんがなぜ無意識ながらも教室をめざしていたのかを思い出した。
まずい! しびれを切らしてる?
あわてて取り出したスマホの画面。素早くアイコンをタップする。目に飛びこんできたそれらに、わたしは戦慄した。
おびただしい数のメールが届いている。
貴晶は、こんなマネしない。
一通残らず、差出人は……。
いや。なんとなく、予想はついてたけどね。
しかも。履歴に残る受信した時間からして、あいつ授業中にも送ってきてる。
二時限目の授業が始まる前に、わたしはスマホを鞄にしまって、放課後までずっとそのままにして放っていた。
だって。今日は休み時間になるたびに、貴晶がわたしの机のそばにやって来ていて。お昼休みは、『学食が混んでくる前にいこう』と事前にふたりで打ち合わせていたから、先生の姿が廊下に消えるやいなや貴晶のあとについて慌ただしく教室を飛び出した。昼食のあとは、ふたりで自習室に移動して仮眠をして。
それからは、そのわずかな時間にみた不可思議な夢のことで、頭がいっぱいで――。
六時限目の授業が終わって、例によってわたしのところへ寄ってきた貴晶に向かって、わたしは保健室で明石先生に会ってから帰ると伝えた。
暗にひとりで行くと意思表示をしたつもりだったのだけど、貴晶にそこはきれいにスルーされた。
風紀委員会から急な呼び出しを受けたという貴晶は、『俺がもどるまで教室で待っていろ』と言ってきたのだ。
貴晶ったら、どこまで過保護なの? あとは家に帰るだけだし、もうわたし大丈夫なのに。
ウチの両親に、お母さんに頼まれたからって、そこまでしてくれなくていいよ。
休み時間になる度わたしに張り付いていたから、片桐君たちとも今日はロクに話もできなかったでしょ。仮眠したおかげもあってか、身体も朝にくらべたら軽くなってるし。
どのくらいの時間、貴晶を待っていればいいのかはっきりしていないうえに、その間いたずらに明石先生を待たせてしまうことになるのも気がひける。なにかと理由をつけてしぶるわたしに、貴晶はようやく折れてくれたけれど、『必ず俺と一緒に下校する』ことを念押しして約束をさせられた。
――子どもじゃないんだから!
貴晶も委員会に呼ばれていて、時間の余裕がなかったのだろう。少々頭ごなしな彼の態度に、わたしはムッとしていた。
なにをそこまで神経質になっているのか? 昨日まで、わたしが倒れるまではお互い他人行儀に距離をおいていたのに、ここまであからさまにずっと張りついていられたら。さすがにじゅうぶんでしょう。お父さんも悠希も、誰も貴晶に文句なんて言ってきやしないわよ。むしろわたしのほうが、いち日α貴晶サマを独占していたんだもの。やっかまれてそうで、明日からの学校生活がコワイ。
そう。なにごとも、モノには限度というものがある。行き過ぎれば、ありがたいと思う気持ちも薄れるというものだ。
でないと……。
別れしなに貴晶の『終わったら連絡する。スマホを持っていけ』のダメ押しに、わたしは腹立ちまぎれにいささか乱暴に鞄からスマホをひっつかみ、ポケットにつっこんだ。その勢いで、わたしは優しい幼馴染のほうを振り返ることなく、急ぎ足に教室を後にした。
ひとりで廊下をずんずん進んでいって、渡り廊下に出て外の風にあたる頃には、感情的になっていた頭もだいぶ冷えてきていて。それで落ち込んでいるなんて、わたしってバカだ。
……まさか、悠希がこんなにひっきりなしに、メールを送りつけてきていたとは――。
昼休みには、電話までかけてきてるし。
「授業中くらいまじめに勉強しろ」と、じぶんよりはるかに優秀な弟に、ここぞとばかり姉貴風を吹かせてツッコみをいれる。わたしだって、特に午後の授業なんて、さっぱり身がはいっていなかったくせしてね。
駆け足に字面を追っていく。
そこで、冒頭の内容のところで、指がとまった。
…………なんで?
『その話、詳しく聞かせて』
――なんで?
もう、悠希が知っているのーーーーっ!!
スマホを握りしめ、わたしはひとつ盛大に深呼吸をした。あざとく、わたしに詰問してくるであろうやっかいな弟の顔が思い浮かぶ。
誰から聞いた? 他県にいて、しかも、昼にはもう伝わってるって!
そして思い至る。
わたしと違って、弟の交友関係がやたらと広範囲に及ぶことを。
なかにははたから見ていて、ただの知り合いと友達の境目がどこらへんににあるんだろうと、首をかしげる関係の子達もいたりするのだけど。
――あいつのネットワークを、甘く見ていた。
悠希は、中学では生徒会で目立ってたっていうしなぁ。
とはいえ、それは、わたしと貴晶が卒業してから。
わたしと悠希が中学で一緒に過ごした期間は一年だけ。その間も出来のいい弟はけっこう人目をひく存在ではあったけれど、出来のイマイチな姉が卒業していなくなってからは、生徒会に入って水を得た魚のようにたいそうなご活躍だった。
――なんかもうその話を何度も耳にするうちに、しだいに笑顔がひきつるようになってしまいましたよ。ちょっとだけだけどね。
で、そのときの人脈?
うちの高校にも、悠希の友達が進学してきていても、なんらおかしくはない。そこからの情報とみて、まず間違いないだろう。
……『詳しく』って、お友達からもう詳細に聞き出しているんじゃないの?
あんな――恥ずかしいこと、思い出して……。
ひとつひとつ、ちょっと脳裏によみがえるごとに、顔に熱が集まる。握りしめるスマホが湿り気を帯びてきて。
それを、弟に――。
一気に頭どころか全身がカァッと熱くなって、鳥肌までたってきた。
っそんなの、当事者だったわたしに聞くより、あんたが情報源にするくらいのお友達なら、よっぽど正確に客観的に伝えているでしょうに。
……なんで、そっとしておいてくれないかな?
その文面から、音沙汰のない姉に、あの弟がだんだんキレていったのが手に取るようにわかる。スマホを握る手のひらに、イヤな汗がにじむ。
『姉さーん。もしもしー』
『姉さん、生きてる?』
『おーーーい』
最後のメールは、
『もういい。わかった』
…………。
コレにたどり着くまで、休みなく動かしていた親指が、悲鳴をあげている。
――な、なにが『もういい』のかな?
唐突な終止符に、指どころかスマホを握る手ごと硬直してしまっている。
『わかった』――って、……ナニを?
……不穏すぎる。
弟の気性の一端に潜む過激な顔を知る姉には、この一連の内容は不安しかない。
結果的にわたしが悠希からのメールをスルーしてしまったせいとはいえ、あんまりにも性急な弟の言葉の数々に、わたしは気をとられすぎていた。
中央棟の一階は、ふだんから人けのない静かな場所だ。わたしはその廊下を、教室へ向かう側の渡り廊下のほうへ、三分の二ほど行ったところで立ちつくしていた。
わたしの後ろから、女生徒が足早にわたしの右横を通り過ぎ、追い越していった。鼻をつく残り香に、目だけを上げて追った後ろ姿が、一メートルほど先の廊下でぴたりと歩みを止める。ボブの髪がさらりと揺れ、おもむろにふりむいた整った顔が、わたしを真っ直ぐに睨みすえてきた。
その動きに呼応するかのように、わたしの背後で立ち止まった人物の気配もまた穏やかではなくて、わたしはびくりと小さく身を震わせた。
――あ。このシチュエーションは……。
前方の女子に視線を固定したまま、神経を集中して周囲の様子をうかがう。
――αだ。
わたしの前にひとり、その先の渡り廊下の前にβがふたり。土屋さんの取り巻きのあのふたりだ。
わたしが背中を見せている後方にはふたりいて、すこし離れて保健室のあたりにもひとりいる。
全員女子で、クラスメイト以外の四人はα。わたしの後ろの右側に立っている女子は、今朝がた校門付近で感知した十人あまりのうちのひとりで。
あとは、わたしの知らないαだった。
瞬く間に脳内に展開されていく情報に、驚きと同時にわたしは呆れてもいた。今朝のあれから、――ううん、敵意を剥き出しにしてくるαを前にすると、わたしはこうなるんだった。
もうずっと忘れていた感覚。こみあげてくる悪寒に、生唾をのみこんで耐える。
――落ち着け。男子いないだけ、まだマシ。
「――橘亜希さん?」
正面に立ちはだかる生徒から、声がかかる。たった一言なのに硬く高飛車なその口調から、彼女たちの用向きが友好的なものではない、とわたしは再認識していた。
優美に弧を描く眉も艶めいたほんのり紅い唇も人工的なニオイがして、私服ならともかく制服にそぐわない。険のある目つきも相まって、いくら美人でもこれはない。
このひと、わたしとは初対面のはずなのに。
それで、すでにこうまで嫌われてるって。
こういうのは、関わらないのが一番。
……なのだけど。無視してやり過ごすどころか、逃げ出すこともできない状況に陥ってしまっている。彼女たちから向けられる抑えのきかない稚拙な圧からして、このあと起こるであろうことがなんとなくわかってしまって、心底イヤだった。
それでも。このまま黙っていても、きっとロクなことにならない。
「なにかご用でしょうか?」